Merry
奏津夢音
 休日の朝などに、カーテン越しの光が瞼の裏でほのかに輝くのを頭の片隅で認識しながら、決して目は開けず、意識をはっきりさせようなどという気も起こさないで、とろとろとまどろむのは大変、心地がいいものである。その日は日曜日だったから、私はその幸せなひとときを満喫していた。両手で抱きこむようにした毛布が、頬にふわふわと温かい。外界をまったく認識していない訳ではない。その証拠に光だって感じているし、触感も正常、インプットは働いている。ただそれを認知した後の情報処理と、アウトプットがないだけ。つまり、半覚醒ということか。勿論、当時の私はそういう思考をするほど暇ではなかった。今と違って、生きること自体に大いに忙しかった。平日は毎日、朝も早くから小学校に行かねばならないし、帰りには必ず誰か友人と約束があったものだ。心にうつりゆくよしなしごとを、つらつらと考えるほど屈折した人間でもなかった。歳を重ねてきて思うのだが結局、今の私の特性は一体どこで獲得してきたものだろう。何に対しても理屈というものをつけなくては生きてゆけない。くだらないことだ、と思いつつも、無意識なのだから仕方がない。

 とにかく、幸せいっぱいの小学生の私は気持ちよく、ベッドの中でまどろんでいた。そして、何気なく気付く。うーん。何だか重い気がする。というか、何だかくすぐったい。それに毛布が勝手に動いたような…。寝ぼけているのかもしれない。ゆっくりと、目を開ける。部屋はうっすらと明るい。カーテンの隙間から、光の筋が床に落ちている。そして、目の前…自分の上に「それ」がのっているのに初めて気付いた。

 真っ白い。長く、つやのあるふわっふわの白い毛は、毛布よりも柔らかそうだ。瞳は深い蒼。サファイアみたいに綺麗だった。あー、これが重さの原因か!…でも、咄嗟にこれが何という物体なのか、定義できなかった。あまりに驚いたから。どうやらそれは、相手も同じだったらしい。長い、でもきっとコンマ1秒の静止。真ん丸に見開かれた目が印象的だ。心底、驚いたという表情。先に動いたのは彼女の方だった。ばたん、ばたばた、という、鮮やかな身のこなしに似つかわしくない音をたてながら、彼女は私の上から飛び降りて走る。ベッドから三歩では近付けないだけの距離をおいて、私をひたと見つめている。

 そこでやっと、私は彼女が「猫」だということを認識した。私は猫が嫌いだった。もっと小さな頃にひっかかれた思い出がトラウマとなってしまったらしい。ちなみに追いかけられた、という理由で犬も嫌いだ。猿も同様に被害をこうむったことがあるから嫌いだったし、結局そうやって挙げていくと、好きな生物というのは植物くらいのものだ。もっと言えば、植物の中でもとげの鋭い薔薇だの、セーターにくっついては毛糸にからみ、それをとるときに不快な音をたてるひっつきむしだの、損害をうけたことのあるものは軒並み嫌いである。なかなか我侭な子供である。そんな生物嫌いの私が猫の分類など知るべくもないが、多分この猫はペルシャ猫、というような種類に属するのではなかろうか。少なくとも三毛でもなければシャムでもない。それはともかく、私は彼女を知っている。

「メリー?」

白い令嬢は、呼びかけても返答しなかった。あらいたてのシャツみたいに鮮やかな白い毛と宝石みたいな蒼い瞳で、私をじっと見つめている。とても綺麗な猫である。彼女は、一言で言えば高貴。優雅でしとやかで、愛くるしい。どこを見たってこれ以上を望むべくもないと私には思えた。どうしてこんなに完璧な生き物が存在しているんだろう。まるでそういう風に作られた、ぬいぐるみみたいだ。彼女が生きていて、動いているのは奇跡みたいに思えてくる。生物嫌いの私だけれど、メリーは嫌いではなかった。彼女は隣家の一人暮らしのおじいさんが大切にしている「箱入り娘」だった。人見知りで、今まで私は彼女に三歩以上の距離に近づかせてもらったことがない。あのやわらかそうな毛を、一度なでてみたいと思っていたが、いつだって彼女は逃げてしまうのだ。そして怖がって滅多に屋外にすら出たりはしない。その彼女が、何故隣家の、しかも私の部屋にいる?

「メリー」

もう一度、呼んだ。彼女は微動だにしない。猫ってまばたきしないのだろうか。しばらくにらめっこしていたらそのうち、触ってみたいな、という思いが脳裏をよぎる。私はベッドの上に上半身を起こした。途端、メリーは怯えたようにすごい勢いで、何故かこちらに近づいてきた。え?と思ったときには、彼女はベッドの下に駆け込んでいる。あらら。覗き込むと奥の方で、瞳だけが輝いていた。手を出したら、ひっかかれそうだ。うーん、さすが箱入り娘。ガードが高い。

 しばらくして母がやってきて、こんなところにいたの、と笑った。私はそれまで知らなかったのだが、どうやらメリー、うちの母にはなついているらしい。今朝は何を思ったか珍しく庭を散歩していたメリーは、フェンスの間をするりと抜けて、洗濯物を干していた母の方までやってきたのだという。

「上がりたそうだったから、物干し竿を拭く雑巾で足をぬぐって、中に入れてあげたのよ。」

ベッドの下で篭城してしまったメリーを、母が回収していった。後にも先にも、メリーが我が家に来たのは、この一度きりだ。以後、私は隣のおじいさんの家でメリーに出会うたびに、私の上でお互いに目が合った瞬間の、あの驚いた真ん丸の目が思い出されて、ひどく彼女に親近感のようなものを感じたものだ。抱き締めたいくらい、可愛いと思うのだ。ぬいぐるみなんかじゃなく、ちゃんと感情をもったひとつの生命体だと、気付かされた刹那だった。メリーの方も、ようやく私に慣れたのか、それともあのときの照れ隠しなのか、首輪の下をなでてやっても逃げなくなった。彼女の白い毛はやわらかく、その下の身体はいつも、温かかった。


白い令嬢メリーは、私が中学に上がる前の、その冬二度目の雪が降った朝に、天に還った。ホワイトクリスマスだった。


 隣のおじいさんは、もう猫は飼わない、と悲しそうに言っていたが、しばらくしてメリーによく似た可愛い子猫をもらってきた。遠くに住んでいる娘夫婦が、独りになった父を心配して調達してきたものらしい。彼女はミミという。可愛い名前だが、おじいさんはいつも「耳、耳」と呼んでいるように見えた。聞く所によると、ミミは耳のところが綺麗な桃色をしているからミミと名づけたそうだ。だから耳なのか。ミミはメリーに外見こそよく似ていたが、大変なおてんば娘だった。外を走り回る彼女は可愛い。おじいさんはいつも彼女に手を焼かされていて、淋しいとか悲しいとか感じている暇もないほど忙しそうになった。娘夫婦の策略は、成功したのだろう。

 私はミミも勿論、好きだ。生き生きと、躍動的な彼女。くるくるとよく回る、青緑色の瞳。奔放に生きる彼女はいつだって自分の意思に忠実で、人間などよりもずっと精神的に自由なのではないか、と思ったものだ。ミミがまたおじいさんに面倒をかけているのを横目で見ている夕方などに、ふと灯りのまだ灯っていない隣家の薄暗い縁側を見ると、メリーがそこにちょこんと座っているように感じることが度々あった。あの陽がよく当たる南向きの縁側に、メリーはいつも、座っていた。ミミのように駆け回っていなくとも、メリーも確かにひとつの生命として、温かい体温と、感情を持って生きていた。てのひらに、ぽっと彼女のぬくもりが蘇った気がして、思わず目をやる。窓に映った清楚な彼女の影は、いつの間にか夕闇の中に消えていた。


おじいさんは、私が高校に上がってから入院し、ミミは娘夫婦に引き取られていった。半年して、おじいさんは病院から娘夫婦に連れられて、無言で、帰宅した。ミミは二度と戻ってこなかった。


 今の自分を考えるとき、隣家のことを思い出さずにはいられない。生物嫌いが高じて大学でも物理学を専攻した私が、よりにもよって生物物理学を研究する道を選ぶとは、思いもよらない運命のいたずらだ、と思う。生命が失われるのは、とても不思議なことだ。失われていく生命を、なんとかつなぎとめたい、というのが、この道を選んだひとつの理由だとは思う。偶然にも研究分野を決定する前の半年で、私は3人の親しい人を亡くした。この人々を失った私は確かに、医学につながる基礎生物学研究を、と決意したのだと思う。けれど…今でもそうなのだろうか?と問われると、イエス、とは即答できない。

 生命が失われるのはとても不思議なことだ。だけど、ちょっと待って。それよりももっと不思議なことがあるではないか。そう、生きていることの方が、もっともっと不思議なのだ。私は生きている。おじいさんも生きていた。駆け回っていたミミも生きている。とりすまして座っていた、メリーだって生きていたのだ。実際、どんな不思議が働いて私達は生きているのだろう。

 湯川秀樹は「生物は積み木細工ですね。」と言ったという。すべての生命現象は、現代物理学で記述が出来る「物理現象」なのだ、と信じていた物理学者は多い。猫で有名なシュレーディンガーだって、物理学生必読書として読み継がれていくであろう名著を記したファインマンだってそう考えていた。それを実践する学問が生物物理学だ。それまでの博物学的視点の生物学とはまったく異なる、新しい学問である。有名なのは1900年代半ばの、DNAの2重らせん構造のX線構造解析だろう。あれは生物の不思議が、種明かしされて提出された事件だった。

 よく「生物物理学とは何をする学問か分からない」と言われる。結局物理なのか、生物なのか?と。これは愚問である。何故なら、学問に元々境界などないのだから。物理学は手法であり、生物学は目的である。だからこの2つの学問は両立する。生物を物理学的に理解し、記述するのだ。よくある冗談に「私が彼を好きだという気持ちも、波動方程式で記述されてしまうのですか?」というものがあるが、極端な話、そこまでいくのが生物物理学者達の理想なのだろう。それは宇宙物理学の研究者が宇宙創生の瞬間を目指し、何年前、何秒前、何ミリ秒前…と近づいていくのと何ら変わらない、心の底からの科学教崇拝者である私は思う。

 近年、多くの生物で全ゲノム配列が解読されてきた。日本のかずさDNA研究所でも多くの生物種のコンプリートを達成し、サイト上で無料ですべてを公開している。ゲノムプロジェクトが始まったとき、多くの人がゲノムコンプリートされればその生物のすべてが分かる、と考えていた。けれど実際はどうだろう?結局、DNA、mRNA、tRNA、アミノ酸…などの役者は揃い、それらがどのように組み合わされているかも明らかになってきた。これは化学の周期表が完成し、それぞれの物質の化学構造がようやく分かってきた状態と同じようなレベルに過ぎないのではないだろうか?ゲノムが分かっても、まだ私達は、彼が今晩の夕飯を何にするか?を予想することは出来ないし、白い令嬢メリーとまったく同じもの、同じ精神をもつものを蘇らせることも出来ない。いつか出来るのだろうか…?

 顕微鏡をのぞいていると、目も脳もないバクテリアが、気まぐれとしか思えないタイミングで進行方向を変えたりしているのに出会うことがある。わずか数ミクロンのバクテリアだって生きているのだ、と思う瞬間だ。それは、私を驚きで真ん丸に見開いた目で見上げる、あのふわふわの生き物が強く思い出されるときでもある。彼女の生きたことを、本当に私達は記述出来る様になるのだろうか?…頭のどこかでそれは不可能だ、とは思いつつ、それでも私はこの学問の塔に、ひとつの小さな石を置く。先人たちがひとつずつ、石を置いて積みあがってきたこの塔に、足元を揺るがすことのない、これからやってくる人々が安心して足場に出来る結果を残していく。そうして、何年、何百年、何千年が過ぎれば、いつかはこの塔の頂上は、私達生命に少しずつでも近づいていくのだと信じて。生命理学に関わる探求は、メリーにもう一度、会いにいくことと同義なのだ。

 もしかしたら私はあの夢見心地の朝に、白い令嬢の瞳の魔法に落ちてしまったのかもしれない…。

2004年冬 Yune Kanatu