2012年8月24日

沈殿都市

「これを、刷ってほしい」
 勝負とばかりに、俺は描きあげたばかりの水彩画を、アンジーの前に置いた。
 三日間ほとんどホテルに閉じこもって、ひたすら描いていた。この前、眠れずに街を歩き回ったときに目に焼きついた夜明けのセントラルパーク。
 黒々とうずくまる森を足下に置き、空に向かって伸び上がる摩天楼の頂は、朝焼けの雲を映し、まるで海の底に沈んだ尖塔の群れのように見えた。
 はるか昔に失われた古代の光の神殿だ。
「で、何枚刷る?」
 素っ気ない声が返ってきた。天井の青白い蛍光灯を反射した眼鏡のせいで、彼女がどんな表情をしているのかわからない。
「さあ。だいたい何枚刷るもん?」
「資金によるわ。基本は三十枚」
「じゃ、それでいい。カネの話は全部、スズキ美術の若林にしてくれよ」
「わかった。明日からとりかかる」
 違う。
 俺の聞きたいのは、そんな返事じゃない。
「アンジー。ほんとに、この絵を刷りたいと思ってるのか?」
 彼女は、金色のポニーテールを揺らして振り返り、にやっと笑って拳を突き出した。
「早くスキージ(ゴムべら)を握りたいって、こいつが言ってるわよ」
 俺は隣にいたドルーと、右手のひらを打ち合わせた。
 彼が世界最高の刷師だと絶賛するアンジーは、まだ25歳の女だ。彼女の握るスキージは正確で繊細で、0.1ミリ単位だって絵の具を塗り分けられる。俺は彼女の仕事の現場を見て、衝撃を受けた。
 俺の絵を、彼女の手にゆだねたい。ばらばらに分解され、彼女の目を、指を、脳をとおして、組みなおされて新しい形になって生まれ変わる絵を見たい。
 はじめての体験に、俺は興奮していた。摩天楼のてっぺんに登ったくらい有頂天になっていた。――琴音さんのことを忘れてしまうほどに。

 「CLOSE TO YOU 第4章」
 お題使用。「瓢箪堂のお題倉庫」http://maruta.be/keren/3164

web拍手