2012年9月 6日

暁の真ん中で

 部屋に入ったとたん、なつかしい匂いに包まれた。
 甘やかな、琴音さんの匂い。俺はようやく、自分の居場所に帰ってきたんだ。
「疲れたー。もう飛行機なんか、二度と乗らねえ」
「はいはい。とりあえず、ご飯にしようか。受賞祝いのご馳走よ」
 台所に立とうとする彼女を、俺は引き戻して、背中から抱きしめた。
「ただいま」
 記憶にあるより細くて小さな体に愕然とする。琴音さんは、この一カ月でこれだけ痩せたんだ。
 電話の向こうの泣きそうな声を思い出す。俺はちゃんとその声を聞いたはずなのに、頭の隅に追いやった。絵に夢中になって、大事なことを忘れていた。
 一生離れないって約束したのに、俺は約束をやぶった。琴音さんがいなければ生きていけないのは、俺のほうなのに。
「ごめん」
「彩音。泣いてるの?」
「ひとりぼっちにして、ごめん」
 彼女の良い香りのする髪にキスした。存在を確かめるように、うなじを幾度もたどった。
「いいの、ちゃんと帰ってきてくれたから。それに」
 琴音さんは背中をのけぞらせ、両手を伸ばして、俺の髪をくしゃくしゃに乱した。
「ふたりでいるときは、全然回りを見ようとしていなかったのだと思う。面倒なことは全部うやむやにして放っておいて、そのツケが、いっぺんに押し寄せてきた感じの一ヶ月だった。でも、ひとりで問題に立ち向かうために、私には必要な時間だったの」
 彼女は魚みたいに体をするりとひるがえし、俺をまっすぐに見上げて毅然と、女王のようにほほえんだ。
「彩音。おかえりなさい」

 俺たちはそのまま体を重ね、琴音さんの用意したご馳走を腹いっぱい食べて、それでも満たされない飢えを満たすために、もう一度体を重ねた。
 琴音さんの寝物語は、何度も俺を崖の底へと突き落とした。
 たとえば、智哉に電車の中で偶然会って、昔話がはずんだこととか。ご両親と和解して、久しぶりに実家に帰った席で、結婚は当分しないと宣言したこととか。
 俺はまだまだ、智哉の幻影に勝てない。結婚にふさわしい男じゃない。暗黙のうちに、そう宣言されているようだった。
 琴音さんの心と体を完璧に自分のものにするまで、俺はあとどれだけ崖をよじのぼり続けることになるんだろう。

 夜が明けるころ、旅の荷物を開けた。
「ニューヨークって、何もないところなんだ。踏切もないし、飛行船がビルのてっぺんに引っかかって、ときどき落ちてくるし」
 俺は持ち帰った版画を取り出し、体を椅子がわりにして、彼女を座らせた。
「でも、この朝焼けを見たとき、これだけは絶対に琴音さんに見せたいと思った」
「きれい」
 と琴音さんは、うっとりとため息をつきながら丹念に見てくれる。「自分で見るよりも、彩音の目を通して見たほうが、きっと何倍もすてきよ」
 ああ。俺のこの絵は、やっと今ここで完成した。
「いつか、本物のセントラルパークを、いっしょに見に行きたいな」
「さあ、いつのことかしら」
「いつだっていい。俺たちは一生いっしょなんだから」
 琴音さんは、俺の腕の中にゆったりと身を預けた。「うん、一生いっしょだね」

 俺は彼女の手の甲に口づけてから、版画にサインするように、指文字を書いた。


            『Zion/K   1/1』


 「CLOSE TO YOU 第4章」
 お題使用。「瓢箪堂のお題倉庫」http://maruta.be/keren/3164

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2012年9月 4日

増殖する愛

『琴音さん、今ニューヨークの空港に着いたところ。愛してる』
『今、成田に着いた。すぐ電車に乗るから、あと一時間。愛してる』
『機内食、ゲロまずかった。琴音さんの作ったご飯が死ぬほど食べたい。愛してる』
「愛してるの大安売りだね。版画だって、印刷枚数が多いと、それだけ値打ちが下がるんでしょう?」
『限定枚数一枚、絶対にそれ以外は刷らないから』
「あ、そうそう。新作の版画を全部向こうの工房に譲ったって聞いて、若林さん悲鳴あげてたわよ。工房には、別刷りを渡す契約になってるんだって」
『あー。そういえば、P.P.(プリンターズプルーフ)っていうのにサインした』
「すぐにニューヨークに飛んで、取り戻してくるって。彩音、そういうの、もっと慎重にならなきゃダメだよ」
『どうでもいい。琴音さんさえ、そばにいてくれれば』
「調子いいんだから」
『愛してる、愛してる、琴音さん、愛してるーっ!』
「ちょっと待って……そこ、どこ?」
『東京駅のど真ん中』


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2012年9月 2日

最後の楽団

 工房へ入ると、アンジーとドルーが製図台にもたれ、抱き合ってキスしていた。
 ああ、そうなんだと思った。そう言えば、最初にドルーが言ってたっけ。
『サイオン。僕たちの女神、アンジーを紹介するよ』
 彼女は、ここにいるみんなの女神だったんだな。
「俺、今夜の飛行機で東京に帰ることにした」
 彼女は俺を見て、困ったような顔をした。
「まだ絵の引き渡しはできないよ。乾くのに、しばらくかかるから」
「一枚だけ、持って帰れればいい。あとは全部、きみにあげる」
 俺は、ナンバー1と書き入れた版画を見つけ出して、慎重に梱包して、バッグにしまいこんだ。
「世話になった」
「さよなら」
「元気でな。サイオン」
 彼らの声は、ひどくよそよそしく、他人めいていた。俺はもう彼らの仲間じゃない。
 あれほど笑い合い議論し合い、活気に満ちて輝いていた工房の中は、朝の光の中で妙に白っぽく色あせて見えた。
 ミューズたちのかけた魔法は、解けたのだ。もうこの街に、俺を引き留めるものは何もない。
「じゃあ」
 オーケストラの最後のひとりがステージから降りるように、俺は静かにドアを閉めた。

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2012年8月31日

音符の行進

 彩音にメールを送ったあと、すぐに実家の番号をダイアルした。
 留守録に切り替わる。両親は私からだとわかると、絶対に受話器を取ってくれない。
「お父さん。お母さん。琴音です。ご無沙汰しています」
 くじけそうになるのを堪える。今ここではっきりと自分の気持ちを伝えなければ、私は前に進めない。
「このあいだ、電車の中で智哉さんに会いました。有紀さんと結婚したことも知りました。あらためて、私はまだ彼から赦されていないとわかった。でも、それでいいと思っています。もし彼のそばに居続けたら、私は私でいられなかった。自分を殺し続けて、からっぽになってしまった。だから、自分の選択を後悔していません」
 さっきまで、あれほど泣いてばかりいた同じ喉とは思えないほど、晴れやかな声が出てくる。
「私は、彩音のそばで一番私らしくなれる。……ごめんなさい。お父さん。お母さん。私のせいで苦しい思いをさせてしまいました。私のことはもう忘れて。でも、どうしても、ありがとうって伝えたかった。それじゃ――」
『琴音。切るな、琴音!』
 唐突に、受話器の向こうから父の叫びが聞こえてきた。
「お父さん……」
『この三年間、智哉くんと彼のご両親と接していて、あの人たちがどういう人たちか、ようやくわかった。じわじわと他人をおとしめ、縛りつけ、意のままに操ろうとする。もし、あの家に嫁いでいたら、おまえは大変な目に会っていた』
「お……父さん」
『僕たちは、おまえの心をわかろうとしていなかった。智哉くんのうわべしか見ていなかった。赦してくれ』
 泣きじゃくる私の耳に、かすれた小さな声が届いた。
『母さんが、毎日会いたいと言って泣いている。一度、顔を見せてくれないか』

 握りしめた携帯の画面には、いつのまに押さえたのか、シャープの記号がたくさん並んでいた。
 ――半音上へ。少しだけ上へ。


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2012年8月30日

可憐な罠

 弁解すれば、俺にとってアンジーとのキスは、動物の子どもが互いの毛を舐めるような、ごく自然な行為だった。
 二週間、ひとつの完全な世界を創り上げるために、ともに苦闘した戦友同士。感謝と尊敬と。高揚と解放感と。
 ほんの少しの征服欲もあった。
 夜更けの工房の中、俺たちは丸太みたいにゴロゴロころがって、ふざけあった。
 いっときの興奮がおさまって起き上がろうとする俺の首に、彼女は腕を回した。
「サイオン。次の絵も一緒にやろう。その次も。あたしたち、ずっと一緒にタグを組もうよ」
 それは、魅力的な誘惑だった。
 彼女の刷師としての腕があれば、俺はさらに素晴らしい作品を生み出せる。この街から世界中に俺の絵を発信することができる。
 眼鏡をはずしたアンジーの碧い瞳がうるんだように、見上げている。俺はもう少しで、その中に堕ちそうになった。
「ダメ」
 大きく息を吸い込んで、全身の毛穴から拒絶のことばを吐き出した。
「この一作だけでおしまいだ」
「なぜ」
「俺は、日本に帰る。大切な人がいるから」
「あたしと絵を創るよりも、大切なの?」
「うん」
 アンジーは埃をはらって立ち上がった。「なあんだ、がっかり」
 工房を出たとたん、イーストリバーから冷たい風が吹きつけ、俺の体によどんでいた熱の塊を、ひとつ残らず剥がしていった。
 携帯を開くと、昨日の日付でメールが入っていた。
『ええ、彩音。あなたを愛してる。あなたがどこにいても、何をしていても』
 ああ、琴音さん。
 なんて周到で狡猾な罠なんだ。素敵すぎる。これじゃ、男は絶対に逃げられないよ。
 夜明けを迎えようとする藍空を仰ぎ、俺は両腕を伸ばした。背中から翼が生えて、今すぐにだって日本へ飛んで帰れそうな気がした。

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2012年8月29日

暗夜回路

 泣き明かした夜が終わろうとするころ、私は立ち上がり、明かりをつけて、アトリエの床に散らばった花を拾い集めた。花は無残に折れ、しおれていた。
「ごめんなさい、あなたたちに八つ当たりして」
 自分だけが不幸だと思いこむ人は、まわりをどんどん不幸にしてしまう。
 花粉だらけの床をモップで拭き終えてから目を上げると、壁に、彩音が絵の具でつけた手形を見つけた。
 こんなもの、以前はなかった。アメリカに行く直前に書いたのだろうか。おそるおそる近づくと、指の長い大きな手のそばに、小さな鉛筆のラクガキ。

『琴音さん。愛してる。俺がどこにいても、何をしても、俺を愛して』

 思わず笑ってしまった。笑いながら泣き、最後は大声で泣いた。
 なんて身勝手な言い草。子どもじみて、ひとりよがりな言い草。こんなセリフでついてくる女がいたら、お目にかかりたい。
 そんなバカな女、私以外には絶対にいない。
 自分の部屋に戻って、熱いシャワーを浴び、炊きたてのご飯と熱い味噌汁を胃に詰め込んだ。
 ばかばかしい。泣くのは、もうやめた。
 私は彩音の帰りを待つ。彼がどこにいても、何をしていても、私は彼の帰りをここで待っている。
 私の中には、智哉と付き合っていたときに徹底的に刷り込まれた、自分ばかりを責める堂々巡りの思考が住みついていた。
 私が悪いから。私がいたらないから。魅力がないから。
 十歳も年上だから。
 そんなものに囚われ続けるのは、もうきっぱりとやめよう。
 どこへも通じていない暗い夜を後ろに置き去りにして、前に進む。彩音が描いている、あの暖かな光の中にいっしょに飛び込むために。

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2012年8月27日

オレンジ色の人

 アンジーはまず、俺の原画を下敷きにし、同じ色の部分だけトレースしていった。色調ごとに何枚もの版に分けるためだ。
 できた版ごとに色を調合する。俺がアクリル彩色で塗った朝焼けを忠実に再現するために、ありとあらゆるオレンジ色を調合した瓶が棚に並んだ。
 感光乳剤、紫外線、洗浄という工程を次々と手際よく行うさまは、化学者というよりは魔女みたいだ。ウォルマートで買ったTシャツに、はちきれそうな胸を包んだ、現代の魔女。
 彼女は、俺の絵の猛烈な崇拝者だった。ときには、猛烈な告発者にもなった。
 早朝のダイナーで、人目もはばからず怒鳴り合ったこともある。俺の手の甲にはいつのまにか、ひっかき傷ができていた。俺も彼女を一発ぐらい叩いたかもしれない。
 版を重ねるにつれて、暁が絶妙のグラデーションを造り出す。
 その様子を眺めるたびに、みぞおちがたぎった。行き場のない熱が体の奥から湧き上がり、皮膚の下を駆け巡った。
 とても甘美で、おそろしい二週間が過ぎた。自分の生命を削った火花が見えるようだった。
 153版目を刷り終わったとき、アンジーは「終わったよ」と俺にほほえんだ。
 一枚一枚に「Zion / K」の署名を入れ、鉛筆で余白にエディションナンバーを入れていく作業が終わると、俺は精根尽き果てて床に寝ころがった。その隣にアンジーがぴたりと体を寄せてきた。
「おめでとう」
 髪を結んでいたゴムがはずれ、長い金髪がオレンジのインクだらけの床に広がる。「あんたの絵をこの手で刷れて、幸せだよ」
 俺は深海の水圧に抗うように体を起こした。そして、アンジーの上に身をかがめ、唇を重ねた。


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2012年8月26日

空中花

 前触れなく、着信音が鳴った。
「彩音。今どこなの」
「ニューヨーク」
 眠そうで素っ気ない返事に対抗するように、私は低い一本調子の声で問いかける。
「いつ帰ってくるの」
「当分は、ムリかな」
 眼の奥がけいれんして、世界が揺らいだ。
「どうして……、そんな予定じゃなかったでしょ。個展の準備があるからって、一日でも早く帰らなきゃって―ー」
「琴音さん」
 私の訴えなんかまったく聞いていないかのように、彼はことばを遮った。
「毎日が、新しいことばかりなんだ。一番いい色の組み合わせを決めるのに、何時間もかかってテストする――まるで混沌から星をひとつ創造するみたいな緻密さで。俺の絵のために、工房にいるみんなが真剣に議論してくれる。俺、今最高に幸せなんだよ」
 じゃあ私は、どうなるの? 私は今、最高に不幸よ。
「……そういうの、よくわからないわ」
「たぶん理解できないよ。だって琴音さんは絵描きじゃないし」
 タブン、理解デキナイヨ。
 深い、底のないひび割れが、私と彩音のあいだに音を立てて走ったような気がした。
「気のすむまで……好きなようにすればいい!」
 オフキーを押し、私は扉を押して、夜の街に飛び出した。
 駅前のフラワーショップでは、店長さんが、バケツを店内に運びこんでいるところだった。
「あら、こんな時間にどうしたの」
「吉永さん、お願い」
 どんなのでもいい。売れ残った花を全部ゆずってちょうだい。
 私は抱えられるだけの花束を、家に持ち帰った。
 壁の穴をくぐり、彩音のアトリエに入って、しばらく荒い呼吸をしてから、腕の中の花を全部、空中に放り投げた。
 さまざまな色と香りで創造された混沌。私はその中に座りこんで、泣いた。

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2012年8月24日

沈殿都市

「これを、刷ってほしい」
 勝負とばかりに、俺は描きあげたばかりの水彩画を、アンジーの前に置いた。
 三日間ほとんどホテルに閉じこもって、ひたすら描いていた。この前、眠れずに街を歩き回ったときに目に焼きついた夜明けのセントラルパーク。
 黒々とうずくまる森を足下に置き、空に向かって伸び上がる摩天楼の頂は、朝焼けの雲を映し、まるで海の底に沈んだ尖塔の群れのように見えた。
 はるか昔に失われた古代の光の神殿だ。
「で、何枚刷る?」
 素っ気ない声が返ってきた。天井の青白い蛍光灯を反射した眼鏡のせいで、彼女がどんな表情をしているのかわからない。
「さあ。だいたい何枚刷るもん?」
「資金によるわ。基本は三十枚」
「じゃ、それでいい。カネの話は全部、スズキ美術の若林にしてくれよ」
「わかった。明日からとりかかる」
 違う。
 俺の聞きたいのは、そんな返事じゃない。
「アンジー。ほんとに、この絵を刷りたいと思ってるのか?」
 彼女は、金色のポニーテールを揺らして振り返り、にやっと笑って拳を突き出した。
「早くスキージ(ゴムべら)を握りたいって、こいつが言ってるわよ」
 俺は隣にいたドルーと、右手のひらを打ち合わせた。
 彼が世界最高の刷師だと絶賛するアンジーは、まだ25歳の女だ。彼女の握るスキージは正確で繊細で、0.1ミリ単位だって絵の具を塗り分けられる。俺は彼女の仕事の現場を見て、衝撃を受けた。
 俺の絵を、彼女の手にゆだねたい。ばらばらに分解され、彼女の目を、指を、脳をとおして、組みなおされて新しい形になって生まれ変わる絵を見たい。
 はじめての体験に、俺は興奮していた。摩天楼のてっぺんに登ったくらい有頂天になっていた。――琴音さんのことを忘れてしまうほどに。

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2012年8月23日

ゆらりゆらら

 昼休みに、若林さんから来たメールを開けてみて驚いた。彩音を残して一足先に帰国したという。
「どういうことなんですか」
 なじるような調子になっている自分が止められない。
『版画の技法を学ぶために、もう少し滞在を延ばしたいのだそうです』
「版画?」
『今は、版下にする原画にかかりっきりらしくて、現地の工房に入りびたっています』
 いったん創作に入った彩音は、何を聞かれても、ろくに返事もしなくなる。若林さんは次の仕事を控えて、さぞ弱ったことだろう。
「ありがとうございました。後はこちらで、なんとかしますから」
 とってつけたようなお礼を言って電話を切り、茫然とする。
 つい数日前まで、あれほど日本に帰りたがっていたのに、いったい何が起きたのだろう。
 彩音の携帯にかけてみるが、すぐに録音に切り替わる。何度やっても同じ。
 ニューヨークは今、夜の十時過ぎだよ。まだ絵を描いているの。どこで寝るの。ごはんは、ちゃんと食べてるの。
 帰れないことを、どうして一番最初に私に連絡しようとは思わなかったの。
 涙があふれて、携帯の待ち受け画面にした彩音の絵が、ゆらりゆららと細波を立てる。
 彼にとって、絵を描くことが何よりも大事で、私は二の次だ。最初からわかってはいるけれど。
 わかっては、いるのだけど。
 彩音。今だけは、私のそばにいてほしかった。


 「CLOSE TO YOU 第4章」
 お題使用。「瓢箪堂のお題倉庫」http://maruta.be/keren/3164

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