お知らせ

2012年8月23日

ゆらりゆらら

 昼休みに、若林さんから来たメールを開けてみて驚いた。彩音を残して一足先に帰国したという。
「どういうことなんですか」
 なじるような調子になっている自分が止められない。
『版画の技法を学ぶために、もう少し滞在を延ばしたいのだそうです』
「版画?」
『今は、版下にする原画にかかりっきりらしくて、現地の工房に入りびたっています』
 いったん創作に入った彩音は、何を聞かれても、ろくに返事もしなくなる。若林さんは次の仕事を控えて、さぞ弱ったことだろう。
「ありがとうございました。後はこちらで、なんとかしますから」
 とってつけたようなお礼を言って電話を切り、茫然とする。
 つい数日前まで、あれほど日本に帰りたがっていたのに、いったい何が起きたのだろう。
 彩音の携帯にかけてみるが、すぐに録音に切り替わる。何度やっても同じ。
 ニューヨークは今、夜の十時過ぎだよ。まだ絵を描いているの。どこで寝るの。ごはんは、ちゃんと食べてるの。
 帰れないことを、どうして一番最初に私に連絡しようとは思わなかったの。
 涙があふれて、携帯の待ち受け画面にした彩音の絵が、ゆらりゆららと細波を立てる。
 彼にとって、絵を描くことが何よりも大事で、私は二の次だ。最初からわかってはいるけれど。
 わかっては、いるのだけど。
 彩音。今だけは、私のそばにいてほしかった。


 「CLOSE TO YOU 第4章」
 お題使用。「瓢箪堂のお題倉庫」http://maruta.be/keren/3164

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2012年8月21日

不響輪音

「シルクスクリーンは、セリグラフとも呼ばれ、アメリカが発祥の地なんだ。アンディ・ウォーホールは知ってるだろう」
「知らない」
 高校で芸術コースとか通ったけど、行ってもほとんど寝てたもんな。親父の家にも、現代美術の本は置いてなかった。
 ドルーは、実に親切に、時間をかけて説明してくれた。
 世の中にはときどき、こういうやつがいる。苦労をいとわずに、教える立場に回ることを生きがいだと感じる人種だ。だから、俺みたいに何も知らないことは決して悪いことじゃない。いわば人助けをしているみたいなもんだ。
「原画を何枚も、ときには何十枚もの版に分けて、色を重ねていくんだ。ホクサイやウタマロと同じ。違うのは、写真製版であることかな」
 版画工房の中は、音が満ちていた。
 それほど広くない部屋の中には、いくつもの作業台や製図台や画材の棚がところせましと置いてあって、隙間をすり抜けるようにしなければ、奥に入れない。
 隅でひとりで黙々と作業しているやつ、何人かでパソコンを覗きこみながら大声で議論している連中。
 紙、布、ガラス、陶器、金属板など、あらゆる素材が山積みになっていた。巨大な機械がうなりをあげながら絵をスキャンしていた。
「版画にはいろんな手法があるけど、セリグラフはもっとも大きな可能性を秘めていると僕は思う。印刷される素材を選ばない。油絵の具やプリント用インクを混ぜることで、鮮やかな色も、淡いグラデュエーションも自在に作り出せる。塗り重ねることによって厚みを増し、平板にも立体的にも、思いのままに表現できる」
 キャンバスに絵を描くという静かで孤独な戦いとは全く異なる、にぎやかで活気のあるお菓子工場のような世界。頭の中でメリーゴーラウンドのように音がくるくる回って、俺は酔っぱらいそうな心地になった。
「油絵だけ、というのはもう古い。芸術は絶えず、新しいツールを求めている」
 彼は、新世界に降り立った宣教師が原住民に対するように、おごそかに確信をこめて言いつのった。
「ただ、そのために必要なのは、優秀なプリンター(刷師)と組むことだ。その幸運がここにはある」
 彼が伸ばした手の指し示す先では、小柄な眼鏡の女が一心不乱にゴムべらを動かしていた。
「サイオン。僕たちの女神、アンジーを紹介するよ」

 「CLOSE TO YOU 第4章」
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2012年8月20日

読書の残骸

 どうしても眠れないので、本を読むことにした。
 はらり。
 ページを繰る音が好き。一枚めくるたびに、違う世界へ行けるような気がする。過去あるいは未来へ。それとも、どこにもないステキな場所へ。
 けれど、今はその恩恵も受けられない。

 昨日、電車の中で偶然智哉と再会してからずっと、三年前のあの地獄のような日々のことが頭を離れない。
 彼を愛していた。同時に彼を恐れてもいた。だから、ああいう手段で逃げるしかなかった。
 けれど、挙式二週間前の突然の失踪という無責任きわまりない行動の結果、智哉と彼の両親、まして当事者である私の両親は、どれほど招待客に頭を下げて回っただろう。どれほど周囲の好奇と非難の目に耐えなければならなかっただろう。
 私のしたことは今でも、私の一番大切だった人たちを苦しめている。

 地図も道標もない迷路から抜け出すために、またページを繰る。
 この三年間、私の生活は彩音で満たされていた。彼がいれば何も怖いものはなかった。なのに、今の私はすっかり穴だらけになって、すきまからどんどん昔なじみの苦い思いが染み込んでくる。
 そのたびに、私の一部が雲母のように剥がれ落ちていく。
 はらり。
 はらり。


 「CLOSE TO YOU 第4章」
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2012年8月18日

飛行船群の襲来

 アメリカへ来て、もう二回も飛行船が空を飛んでいるのを見た。
 最初はたまげた。俺は子どものころ引きこもりだったから、生まれてから今まで一度もそんなものを見たことがなかったのだ。
 真っ青な空に目がつぶれるくらい鮮やかな赤の広告。灰色の都会じゃなく、緑の森の上を飛んでいたら、色のコントラストは、さらにすごいだろうな。
 この国は、マーケットで売っている果物も、ジュースもキャンディも色が派手だ。鮮やかで強烈で、すべてが巨大で、はなやかな芳香を放ち、熱帯のジャングルを歩いているみたいだ。

 トリエンナーレの出展作品を見て回っていると、一枚の絵に興味を引かれた。
 灼熱の砂漠の上に広がる、血がしたたるように赤い夕焼け。預言者エリヤの火の馬車が軍団をなしてやって来たって、これほどじゃない。
「大賞受賞者が、僕の絵に興味があるとは、光栄だね」
 振り向くと、薄い口ひげを生やした赤毛で碧眼の男が立っていた。絵のプレートには、アンドルー・M―、アメリカ人とある。
「どこが、気に入ってくれた?」
「色がすごい。普通の絵の具じゃ、この色は出せないな」
「シルクスクリーンだよ。版画の一種」
「版画?」
「この近くに、優秀な刷師のいる版画工房があるんだ。若手の版画家がたむろしてる」
 「行ってみる?」と、出来の悪い生徒に居残り授業を命じる教師みたいに、彼は鷹揚にほほえんだ。

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2012年8月17日

胡桃割り人形の錯乱

 山の手線の電車に乗り込んですぐに、彼を見つけた。神経質そうな横顔は、私のほうを向いたとたんに、こわばった。
 智哉は、私の元婚約者。直前になって結婚をとりやめた相手だ。
「……お久しぶり」
 紺のスーツの胸には、かつて私も勤めていた会社の社章。見覚えのあるネクタイ。少し太って、少し歳を取った以外は、何も変わっていない。
 あまりの気まずさに、次の駅で降りようかとも思ったが、取引先に向かう途中なのでそうもいかない。彼も同じだろう。
 午後イチの車内はガラガラに空いていたので、どちらともなく隣り合って座った。
「どうしてるの」
 ふたりのあいだに自然にできた二十センチの隙間が、三年の歳月と心の距離を表わしている。
「有紀と結婚したよ」
 私と智哉が別れる原因となった女性の名前。
「もうすぐ、子どもも生まれる」
「そう。おめでとう」
 智哉が幸せになったことを喜んでいるのに、心からの祝福を伝えたかったはずの言葉は、なぜかみっともなく声がかすれていた。
「めでたいはずないだろう。有紀はどこまで行っても、日陰の身だ。式も挙げていない。ことあるごとにおまえと比較され、今でもおまえの幻影におびえている」
「まさか、どうして」
「どうして? いい身分だな。人をさんざん不幸にしておいて、自分は新進気鋭の画家さまのそばにぴったりくっついて、アゲマン気取りか」
 押し殺すような声で言い終えた智哉は、私に視線をぶつけることもなく、ただひたすら真正面を向いていた。
「……ごめんなさい」
 その後はひとことも言葉を交わさずに、私は自分の降りる駅で降りた。
 喉がカラカラで、汗をびっしょりかいていた。道を歩く足取りも、営業用の笑顔も、カクカクと動く木彫りの人形みたいだった。
 そのくせ、体の深いところが、じんとうずいている。彩音に満たしてもらったはずの場所は、いつのまにか、ぽっかりと胡桃のような空洞ができていた。


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2012年8月16日

間違い街角

 なぜか毎朝五時になると目を覚ましてしまう。いわゆる時差ボケというものらしい。
 起き上がり、ヒゲも剃らずに、上着だけ引っ掛けて、ホテルを出た。
 セントパトリック寺院らしき尖塔を仰ぎ、ロックフェラーセンターらしき金色のオブジェを横目に眺め、無人のビジネス街をのし歩いて、さあ、ホテルに戻ろうと思うと帰り道がわからない。
 街角を曲がるたびに、どんどん正しい方向から反れていくっぽい。腹の突き出たプエルトリコ人の清掃員が「どうした」と話しかけてきた。
「家に戻りたいけど、道がわからないんだ」
「住所は?」
「トーキョー」
 彼はいたましげな顔つきになって首を振り、「グッドラック」と言い残して去っていった。
 それからずっと闇雲に歩いていると、セントラルパークに突き当たった。
 起き出す時刻を見はからって若林に電話し、迎えに来るまでの時間を、公園の遊具に腰かけて緑の森を見て過ごした。
 俺はたぶん、人生で幾度も曲がる角を間違えてきたんだろう。
 だからこそ、琴音さんに出会えた。そう考えれば、間違えるのも悪くない。

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2012年8月15日

来年咲く花

 ひらひらと、花びらが舞い落ちてきた。
 寒の戻りで長い間がんばっていた公園の桜も、そろそろ散り始めている。
 もう、何年目になるだろう。彩音と初めて出会ったのも、桜の季節だった。
「とうとう今年は、いっしょに花見ができなかった」
 と電話で愚痴を言うと、
「また、来年見ればいいじゃねえか」
 と暢気な声が、海の向こうから帰ってきた。「来年だって、再来年だって、一生死ぬまでいっしょに見られるって」
 「うん」と答えた。
 二十歳らしい真っ直ぐな答えはあまりに迷いがなさすぎて、三十歳の私はよけいに不安になる。
 本当に、来年あなたの隣に私は並んで立っているだろうか。
 ひらひらと、来年咲く桜の幻影が舞い落ちて、雨を待つ渇いた獣のように、私は空を仰ぎ見た。

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2012年8月14日

偽物の世界

 世界中から集まった入選者たちは、いろんな形、いろんな色、いろんなサイズでできていた。
 暇さえあれば、機知とユーモアに富んだ、いかにも文化人的な会話を楽しんでいる。
 自己主張と相手への好奇心がよじり合わされ、巨大な渦巻きとなって俺まで巻き込もうとする。
「きみの絵はすばらしい」
「陰影のつけかたは、グリザイユ技法だね」
「どこで、絵を学んだんだい?」
 俺は話しかけられるたびに、適当な英語とあいまいなフランス語で返していた。ときどき誰もわからないと思って、うんと卑猥な日本語も混ぜたら、隅のほうで若林が、思い切り顔をしかめた。
「有名なディーラーや美術館関係者に会える、めったにないチャンスなんです。ここで人脈を作っておくかどうかで、将来が全然違ってくるんですよ」
 ああ、小さい頃から父親の姿を見て、よくわかってるよ。絵描きがどんな才能を持っていても、絵を描くだけではやっていけないのは。
 営業努力と追従めいた笑顔が、絵の具の次に必要なんだってことは。
 四階ホールの奥の一番目立つところに、俺の絵が飾られている。
 大賞受賞作 「光」
 なんだかウソっぽくて、俺は自分の絵をめちゃくちゃに破りたくなった。


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2012年8月12日

海底の寝心地

 彩音がニューヨークに行ってしまってから、一週間が経った。受賞式が終わってからも、スポンサー主催のパーティや雑誌の取材など、いろいろ用事があるものらしい。
 スズキ美術の若林さんがついててくれるから大丈夫と思うけれど、突飛なふるまいはしていないか、心配。たとえば、地下鉄の車内が暑いと言って、上半身ハダカになってしまったり(一度、経験あり)。車道の真ん中で、スケッチしたいものを見つけて座り込んでしまったり(これは、未遂)。
 彩音がいないと、夜がとても長い。
 食事もスーパーの惣菜で簡単にすませるから、ますます暇をもてあます。
 壁の穴をくぐって、彩音のアトリエに入った。キャンバスや道具入れがぞんざいに隅に片付けてあり、部屋の中はがらんとしている。
 絵の具のしみだらけになったフローリングの上に、仰向けに大の字になって寝ころんでみる。パレットナイフを落とした床の傷が指の先に触わる。冷たくて、固くて、海の底に寝ているみたい。
 彩音の足音や、鼻歌や、笑い声が、ぼこぼこと泡になって、部屋の中に浮かんでいる。私は目を閉じて、その泡を追いかけて夢中で泳ぎ回る。

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2012年8月11日

踏切にて

 あるとウザいけれど、ないと寂しいものが、人生にはいろいろある。
 たとえば、踏切。マンハッタンには踏切が見当たらない。地下鉄や高架鉄道しか存在しないから、当然と言えば当然だ。

 琴音さんと近所のスーパーに買い物に行くときは、いつも踏切を渡っていた。
 ああ、しまった、また五分も待たなきゃなんないぞ、なんて愚痴りながら、バツ印の警報機を仰ぎ見る。
 かんかんという不協和音、点滅する赤い光。
 だめだ、だめだ、近づくなという警告が、ますます花の蜜みたいに人を引き寄せる。すぐ目の前を轟音を立てて走り抜けていく車両に、気を抜くと引きずり込まれてしまう。
 思わず強く握りしめる琴音さんの手のやわらかさと暖かさは、俺を確かな鎖で縛りつけた。

 イエローキャブがクラクションを鳴らしながら道路を猛スピードで駆け抜けていく。種々雑多な人間たちが横断歩道を早足で歩いていく。その流れの中に溶けてしまいそうになって、思わず琴音さんの手を捜している。

 けれど、隣には誰もいない。
 ああ。ここはニューヨークだった。

 「CLOSE TO YOU 第4章」
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