西暦2504年 13日の金曜日


「おめでとう、これで君は晴れて地球の主だ」
 チャドクガの幼虫を5000匹ばかり噛み潰したような顔で、老いた男は言った。対峙する黒髪の女は一瞬困ったように眉根を寄せたが、即座に打ち消して満面の笑みを浮かべる。
「グラツィエ、パパ」
「やめてくれ。君にそう呼ばれても虚しいだけだ」
 キリスト教徒ですらない君に、『教皇(パパ)』などと。
 吐き捨てて彼は背を向けた。その後姿にまぎれもない拒絶を読み取って、女は軽く肩をすくめる。
「と申されましても、ここはイタリアで、貴方はローマ教皇で。一番自然な呼称だろうと思ったのですけれど」
「私の母国語はイタリア語ではない、日本語だ。君も然り。それなのにわざわざ別の言語で話すなど滑稽だろう?」
「まあ、そうですね」
 棘だらけの男の言葉に傷ついたそぶりも見せない。飄々とした顔で、女は大聖堂を見回した。
「ドナート・ブラマンテ、ラファエロ・サンティ、ミケランジェロ・ブオナローティ……ルネサンスの粋の極み。ふむ、悪くはない」
「大聖堂と美術品はヴァティカンのものだ! いや、神のものだ! 君のものではない!」
 彼の怒声は反響して『怒りの日』を奏でる。木霊が消えるのを待って、女は息を荒くした男に言い放った。
「でもこの土地は私のもの。私が買い取ったものです、地上における神の代理人よ」
「ああ、そうだとも。何と、何と罰当たりなことを……」
「罰当たり? ――お認めになられないのですか、教皇猊下。神などおりません。おわしましたとしても、信仰はすでにローマから離れている。キリスト生誕より2500年、7日で世界が作られただの、処女から子供が生まれるだの、信じるには科学が進歩しすぎた。真実を求める者は信仰より科学にすがりつき、救いを求める者は神よりも目先の危機をはらう現実の人間にすがります。そしてそれは貴方ではない」
「それが君だと? 救世主にでもなったつもりか! ヴァティカンの土地を買い占め教会を愚弄しただけでなく、君はさらにメシアの、キリストの御名まで汚すつもりか!」
「そうですとも! それが必要とあらば私はやります!」
 突然、女が声を荒らげた。老いた男は怒りも忘れて一瞬瞠目する。女と初めてまみえたのは50年前、その半世紀で一度も彼女が怒鳴るのを聞いたことはなかった。
「……アキ?」
「教皇猊下――ペテロ2世。ねえ、覚えておいでですか? 50年前私は経済学部の学生で、貴方は神学部の教員でいらした。ファーザー・タカハシとお呼びしておりました。私は今も昔もキリスト教徒ではないけれど、昔はカトリックに興味があったから聖書研究会に籍を置いていました」
 そう、そして自分はその顧問だった。クリスチャンではない彼女の質問はいつだって鋭く容赦なかった。イエスが真に神とマリアの子ならば、新約聖書の出だしの系譜はなぜ父系なのか? ヨセフの実子ではないのにヨセフの先祖を記して何の意味がある? 汝の父と母を敬えと神は言った。ではなぜイエスは両親も兄弟も捨てて省みることがなかったのか? その質疑応答を繰り返すうち、知らず知らずのうちに彼も聖書の教理に通じていった。それが彼を枢機卿の座に、ひいては教皇の座に導いた一因であることは否定できない。
「一度研究会のメンバーで宇宙旅行をいたしましたね。学生の集まりでしたから地球の周りを一周するだけの可愛らしいものでした。あの日、私は初めて自分の目で地球を見たのです。並ぶものとてない至高の宝玉。儚げでありながら凛とした美しさを讃えたガイアの碧玉を」
 欲しい、と思いました。
 大学を卒業して、彼女は親戚から千を超える企業の権益を受け継いだ。彼女の才能を見込んだ大伯母から、人生を20回ほど遊んで暮らせるだけの遺産も相続した。彼女はおよそあらゆる方面のあらゆる企業の大株主となり、社長を直々に指名した。人を見る目はあったようで、彼女の行った人事は莫大な利益をもたらした。
 その利益を彼女は何に使ったか? 土地である。都市も田園も砂漠も関係なく土地を購入した。公有地すら、各国政府に破格の条件で融資を行い、その担保としてせしめていった。30年もすると、地上の9割は彼女の私有地になっていた。それでも、ほとんどの人間は気づかなかった。彼女は名義を有するだけで満足し、一国を買い占めても格安の借地料で、時には無償で土地を貸し出し、特に国政に口を挟むでもなかったから。土地の所有者の変更は、誰の実生活になんら影響を与えるものではなかった。そもそも各国とも宇宙進出政策を推進しており、環境破壊の著しい地球本土など売り払って火星あたりに国を移転しようとする考えさえあったのだ。
 だが、残りの一割はたとえ火星なり月なりに代替地を用意されようと、地価以上の金額を提示されようと、おいそれと売り払ってしまえるような性質の場所ではなかった。具体的に言うなら宗教的な聖地である。エルサレム、メッカ、コンスタンティノープル、そして何よりもここローマ。
「身を焼かんばかりの渇望をご存じですか? 私は地球が欲しくなった。半世紀の間ずっと欲していた。どれほどの困難に遭おうと、己の命を危険にさらそうと、諦められるものではなかった」
 ここは、最後の砦でした。彼女はそう呟いた。
「嫌いですよ、貴方がた聖職者というものは」
 キッと睨みつける眼光に思わず気圧されそうになる。
「貴方は私を罰当たりだと仰る。ですが御覧なさい、ペテロ2世。貴方が教皇の御位にお就きになって30年。東洋人初の栄誉でございましたね。ですけれども、神も貴方も地球のために何をなさいました? それまでの20年の間に私は大伯母の会社が推し進めていた宇宙開発をさらに促進させ、火星を開発して人類の半分を移住させました。小惑星や土星の輪を幾つか内部太陽系に運び、人が住むための新しい惑星も作りました。その傍ら地球では植林を推し進め、地上をやっと西暦2000年の状態に戻しました。  貴方が教皇におなりになって30年の間に、アイルランドは『エメラルドの島』という古称にふさわしい緑を取り戻しました。アマゾンの熱帯雨林は蜘蛛の巣の如き幹線道路を飲み込みました。ゲルマンの森も林程度には回復しております。海に沈んだヴェネツィアの聖マルコ大聖堂を取り戻して差し上げたのはいったい誰です?
 神も貴方も、何もなさらなかったではありませんか! 貴方がただ破門をちらつかせるだけで良かったのに。そうすれば、長江はまだ悠然と流れていたかもしれないのに!」
 30年前、中華は壊滅した。長江の中流域に水爆が落とされたのだ。落としたのは建国100年にも満たない東欧の新興国家ガルヴァニア。今時珍しいキリスト教国だった。科学の発達により宗教はじりじりと廃れていく。それを憂えた『敬虔な信徒たち』が寄り集まって建国したのだ。時のローマ教皇が自ら大統領に戴冠した。しかしガルヴァニアは神の教えに従い貞節と純潔を重んじたので、子供の出生率が悲惨なほどに低かった。どこの国も少子化対策に追われ、強姦罪が刑法から姿を消そうとしているようなご時世に、貞操観念など持ち出しては無理もない。先細りが目に見えていたガルヴァニアは、移民を歓迎した。しかし宗教国を移民先に選ぶような難民は多くなかった。結果、集まったのは亡命者たちである。母国に戻れば死刑しか待っていない彼らは、喜んで洗礼を受けた。
 政治犯の逃亡先となったガルヴァニアは、必然的に過激化していった。子供が生まれないのを、『神の怒り』だと言い出す輩まで現れる。そこまでなら良かったが、問題はその後に「神は不信心者どもが地上にはびこっているのを憂えていらっしゃる。人口爆発は由々しき社会問題でもある。神を信じぬものは滅ぶべきだ、人類の未来のためにも間引きが行われねばならない」と続いたことだ。まともなキリスト教徒は激昂したし、さすがに国内からも批判が出た。
 だが結局は、30年前のコンクラーベでペテロ2世の教皇就任が決定した直後、「祝い」あるいは「ソドムとゴモラの雷(いかづち)」と称してガルヴァニアが長江に水爆を落とすことになってしまった。この一件でキリスト教は大幅なイメージダウンをくらい、その結果一人の女に土地を買収されるほど弱体化してしまった。
「公権力や宗教の力をあてにすべきではないと、あの時学びました。一個人が私財を投じて地球を救ってはならぬとは、神も仰せにはならないでしょうよ」
「……人は無力だ。私も無力だった」
「そうですね、貴方は正しい」
 冷たく、彼女はかつての師を見やる。八十に手が届く男の頭は白く、顔には深い皺が刻まれている。しかし六十をとうに過ぎたはずの彼女の髪はつややかに黒く、笑いも怒りもせず今のように表情を消せばその肌に一本の皺もない。
「私も無力でした。しかしそれからの30年、私は地球の主となるだけの力を得て、貴方は伝統ある教皇庁の権威を地に落とす」
 言うが早いか、彼女は男の手を取って歩き出した。驚いて制止する枢機卿らの声を振り切って、彫刻に囲まれた広場に出る。
 空は青く日は照り、鳥のさえずりひとつ聞こえなかった。
「ペテロより始まった教皇庁です。同じペテロの貴方で終わらせるもよろしいでしょう。
 どうなさいます? 恥辱に耐えながら私の土地の上で神に仕えますか? それとも新惑星にでもおいでになって布教活動をなさいますか? 今なら新惑星にここよりも立派な教会を差し上げますよ」
 新惑星の自転の速度はちょうど公転の速度と一致しておりますから、住める場所はごくわずかですが。昼も夜もなく太陽は同じ場所にあり続ける星で、いかにして「神は昼と夜を分けた」と仰るのか見ものですわ。
 彼は答えなかった。女はさらに言葉を続ける。
「私の地球、私の碧玉。緑を取り戻してみせますわ。妖精やユニコーンが棲み処とするような美しい森。セイレーンが歌うにふさわしい青く澄んだ海。エデンの園を貴方に差し上げましょうか? 私はやってみせます。貴方はどうなさいます?」
 太陽の光を浴びて眩しいほどに輝く焦げ茶色の両眼。その視線を受け止めることが出来なかった。
「……君が買い占めた世界など、そう長くは持つまいよ」
 その言葉はいかにも老人らしく弱々しかった。
「むろん、地球が永遠に存続するなどとは思いませんとも。ですが今滅びてしまうにはあまりに惜しい。これほど美しい星だというのに。過去の美しい姿を取り戻したいというのは、確かに私のエゴですわ。けれども――」
 その次に続いた言葉は、教皇を戦慄させた。「貴方のもとにあるよりは、長続きするでしょう」
 打ちのめされる。ラテン語の祈りを心中で唱えても、文句が頭の中を空回りするだけだ。
「貴方はどうなさいます?」
 三度目の質問のあとに、沈黙が流れた。10分ほども硬く引き結ばれていた口がやっとつむいだ言葉はひどくかすれていた。
「……ここに、残るよ」
「残る? カトリックは終わりますよ?
 新惑星や火星にて新たに布教活動を行い、信者を増やせばまだ生き残る可能性は強いのに。申し上げておきますが、人類は地球から去るばかりですよ。地球のために、私がそうさせますもの。教えと心中なさるおつもり?」
「それもよかろう。私の役目は神にお仕えすること、微力ながら我が全力を尽くして迷える子羊を導くことだ。サン・ピエトロ大聖堂は聖ペテロに捧げられたもの。同じ名をいただく私が逃げ出すわけにはいかない」
 不可解だ、というように女は首を振った。
「環境も新惑星のほうがよほどよろしかろうに。信仰を深めるのなら、新天地こそふさわしいでしょうに」
「アキ」
 教皇は女の名を呼んだ。今初めて、何か光明を見出した気がした。それを逃さないようにと慌てて言葉を紡ぐ。
「君はキリスト教が滅びると言った。神などいないと言った。私としては神も教えも永遠だと言いたいが、それを証明するすべを持ち合わせていない。だが、いずれ時が示してくれようさ。真の信仰なら教皇庁の土地が、聖堂が買い占められたとてけして滅ぶものではあるまい。
 いずれにせよ、それは後世の人々の問題で、残念ながら我々が手を出せるものではない。私は私のつとめを果たすくらいしか出来ない。それも時々見失ってしまいそうになるがね」
 いや、もしかしたらずっと見失っていたのかもしれない。彼女が彼女の碧玉をしっかりと見据えて生きてきた間、自分は神のおわしもせぬ空をただいたずらに見上げていただけなのかもしれない。
 けれども神はここにある。したがって自分のつとめもここにある。
「渡さぬよ。この大聖堂は、我が命ある限り何人の私物にも堕ちない。君に買収された土地も、いずれ取り戻してみせる」
 それは無意識に教皇の口から出てきた言葉だった。彼が彼自身に言い聞かせる言葉であった。女は一瞬瞠目し、それからふっと笑む。
「ピエトロ・エ・ラ・ピエトラ――『ペテロは岩である』か。なるほど岩のように頑固なお方だ。よろしいでしょう、貴方が貴方の望む生き方をなさるのを止める権利は私にはない。私とて誰に邪魔されようと己の望むことを為してきた」
 教皇も笑った。皺だらけの顔にさらに皺を刻んで。
「医学の進歩のおかげで、貴方もあと四半世紀は生きるでしょう。ひとつ約束しますよ、パパ。貴方に必ず――」
 その言葉を聞いて、教皇は十字を切り、右手の指を二本立てて祝福のサインを示した。女は困ったように、けれど面白そうにふたたび笑って踵を返す。しばらくその後姿を見ていたが、教皇もやがて大聖堂の中へと戻っていった。地を強く踏みしめて。

 ――貴方に必ず、エデンの園を見せて差し上げます。


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