第1章「拒食症のご主人さま」

(4)

 ご主人さまの長い髪が風に乱れ、月の光を浴びて銀色に光っていた。
 硬くざらついた舌が、指を包み込んでいる。ちゅっと音がして、吸われる感触。
 私の指、ご主人さまの口の中に入っているんだ。
 そう思っただけで、腰から脳天まで、ざわっと熱いものが駆け抜けた。
「あ、ああっ。ご主人さま。だめです。確かに唾液の中には細胞の再生をうながすヒスタチンが含まれていますが、かと言って、この世の中には血液を媒介する病気もあるわけでして――」
 興奮のあまり、わけのわからないことを口走るのは、私の悪いクセだ。キスのときにしゃべりまくって、今までの人生、何度デートをふいにしたことか。
 ミハイロフさまは、唐突に指を離した――まるで、汚らわしいものを突き放すように。
 指はまったく濡れていない。ご主人さまの口の中には、唾液などなかったかのようだ。おまけに、血もすっかり止まっていた。
「行くぞ」
 ご主人さまは背中を向け、歩き出す。その声の冷ややかさに、ぞっとした。
(やはり、怒っていらっしゃる)
 つぶさに感じ取った私は、穴の中に真っ逆さまに落とされたような、暗澹とした気持ちになった。

「どうしたら、赦していただけるでしょう」
 出勤してきた来栖さんを相手に、私は半べそで訴えた。
「だいたい、奥さまがいらしたこと、なんで教えてくれなかったんですか」
「うっかり失念していました。なにせ、わたしがお仕えする前のことでしたので」
 執事は、平然と答える。
「来栖さんがここへ勤め始めたのは、七年前ですよね」
 ご主人さまはどう見ても二十代だから、結婚したのは、もしや十代のとき?
 そんなに早く奥さまをめとり、そして亡くしてしまわれた。どんなにつらかっただろう。他人を寄せ付けなくなるのも、無理はない。
「今でも、きっと愛しておられるんだろうな。だから、あんなに」
 その大切な思い出の地を私は土足で踏みにじり、奥さまのお好きだったバラを摘み取ろうとまでしたのだ。ふくれあがる後悔に、体の奥のどこかが、じんじんと痛む。
「ああ、お休み前のお茶の時間だ」
 私は打ちひしがれた気持ちで、準備を始めた。しっかり傷口に絆創膏を巻き直し、ゴム手袋をはめる。
「どうしたんですか、その手は」
「バラのとげで引っかけたんです。血がちょっと出て」
「伯爵さまの目の前で?」
 来栖さんの声の調子が一段高くなり、私はびっくりして振り向いた。「はい」
「それを見たとき、どんなご様子でした?」
「え、あの、怪我した指をとっさに口に含んでくださって」
「ほう」
 来栖さんは、それを聞いて目を輝かせたように見えたが、それ以上は何も言わない。
「じゃあ、いってまいります」
 見苦しくないように、ゴム手袋の上に白い絹の手袋をはめて、私はお茶のお盆をご主人さまの寝室に運んだ。
 ノックをして中に入っても、ご主人さまは、私のほうを見もしない。
 お茶をカップに注いでいるあいだも、ひとことも口をきかず、お出ししたカップに手をつけることもなかった。
 それだけで、怒りの深さがわかるというものだ。
 私は深々と一礼して、部屋を辞した。
(ああ、もうダメなんだろうな)
 たぶん、明日にでもクビを宣告されるだろう。今までつちかってきた絆が、一瞬でこわれてしまったのだ。
 私の淹れたローズティーを飲んで喜んでくださったのは、きっと昔、奥さまとお飲みになっていたからだ。あのバラ園のあずまやでお茶を飲みながら、ふたりは笑ったり、語らったりしていらしたに違いない。
 夜がしらじらと明け初める窓をながめながら、私はあふれでる涙を、ごしごしと拭った。
 なんで、こんなに苦しいんだろう。ご主人さまに奥さまがいらっしゃると聞いたときから、私はどうかしている。
 昼間じゅう、私はずっと自室に引きこもり、泣いていた。来栖さんと顔を合わせる気にもなれず、買出しに行く気力もわかない。
 ふと気づくと、日は西に傾き、ご主人さまのお目覚めになる時刻が近づいていた。
 最後まで、せいいっぱいのお勤めをしよう。
 シャワーを浴びて、身支度を整え、一階へ降りる。私はふだんは使用人用の奥の階段を使っている。ご主人さまの居室や客室の前を通ることなく、裏の勝手口や厨房へ行けるのだ。だがそのとき、私はわざわざ遠回りをして、玄関からご主人さまのお部屋へ向かった。
 あとから考えれば、なぜそんな行動を取ったのか、わからない。
 中から、異様な物音がする。
 ガタンガタンと椅子を鳴らすような。苦しそうな、うめくような声が時折り、混じる。
「ご主人さま!」
 私はノックした。返事がない。それどころか、ますますうめき声は高くなる。
「入ります!」
 私は、矢も盾もたまらず、せかされるようにドアを開けた。
 真っ暗な部屋を、扉から漏れ入る夕暮れの光が照らし出した。
 それは、私が昨日まで見知っていた部屋の様子とは、全然違っていた。
 カーテンは引きちぎられ、円テーブルは倒れ、天板が割れている。
 空っぽの寝台のシーツは、これ以上細かくならないと言うまでに、びりびりに引き裂かれていた。
 そして、部屋の隅の倒れた家具の陰に、黒い人影がうずくまっていた。
「ご主人さま?」
 私は、おそるおそる中に入った。
「近づくな」
 黒い影は言った。いや、それは言ったというより、あえぎ声そのものだった。やはりミハイロフさまだ。
「いったい、どうしたんです」
 一歩踏み出そうとした私に、ご主人さまは少しだけ顔を持ち上げた。
 乱れた髪の隙間からギロと私をにらんだのは、真赤に染まったふたつの目だった。まるで、バラのような深紅。
 なぜ?
 ご主人さまは、漆黒の髪と瞳の持ち主であるはずだ。髪の毛だって――こんな色じゃない。
 私は我に返って、主を助け起こそうとした。
「来る……な」
「だって、こんなに苦しそうなのに。肩につかまってください。私、すぐにお医者さまを」
 手を差し伸べようとしたとき、銀色の獣のように、ご主人さまが私に飛びつき、おおいかぶさった。
 喉元に、鋭い痛みが走った。
 いや、痛みそのものは小さかった。ただ、私の奥深くまでえぐられたような、異物が侵入してくるような、そんな感覚がして、一瞬気が遠くなった。
 気がつくと、私はものすごい力で、扉のところまで吹っ飛ばされていた。
 ご主人さまの姿は、ふたたびどこかへ隠れてしまったのか、見えない。
 私はふらふらと立ち上がると、部屋から逃げ出した。
 厨房にいた執事は、私の姿を見ると、驚いて立ち上がった。
「どうしたんです、茅原さん」
 ぎくしゃくと、あやつり人形のように座ると、私は口の中でつぶやいた。「いえ、別に」
 彼は私の顔をかがんで覗き込み、思わず声を上げた。「喉から血が!」
「あ、ええと、たいしたことないですよ、全然」
 私は、えへらと笑って、手の甲であわてて首をぬぐった。見ると、二筋の細い血の線がついている。
「どうしたんです。お言いなさい!」
 珍しく鋭く詰問されて、私はぼんやりと目を上げた。
「ご主人さまに……」
「ご主人さまに?」
「噛まれちゃいました」
 来栖さんは、ぐいと身を反らしたように見えた。
「ふ……ふはは」
 その顔にはっきりと笑みが浮かんでいる。「とうとう……とうとう見つけた!」
「え?」
 次の瞬間、私は乱暴に抱きかかえられた。
 有無を言わせず、私はさっき逃げ出したご主人さまの寝室に引きずられていった。
「伯爵さま」
 来栖さんは私を床に放り出すと、膝をついて、深々と頭を下げた。
「とうとう、あなたの食指を動かす獲物を見つけました」
 そう言いながら、ぐいぐいと容赦なしに私の頭を床に押しつける。
「どうぞ、ご存分にお召し上がりください。死体の始末はおまかせを。祖父や父にやり方を教わっていますので」
 ご主人さまは、部屋の奥から音もなく現れた。
 銀色の髪。深紅の瞳。そして、半開きの口から覗く、獣のような鋭い牙。
 私は夢の中にいる心地で、その悪鬼のような姿を床から見上げていた。
「……出てゆけ」
 ご主人さまは、地の底から這うような声で命じた。「用はない」
「なぜでございます」
 来栖さんは、それでも食らいついていく。「この五年、どんな美味そうな若者を連れてきても、見向きもなさらなかった。あなたが興味をもたれたのは、唯一この女だけです。しかも、二度も血の味見をされた。気に入らぬとは言わせませんぞ」
 ミハイロフさまの目が、床に組み伏せられている私の視線とかち合った。
 こんな色の瞳を見たのは、はじめてだ。火山からあふれだしたマグマが、うねりながら森の木々を押し倒し、すべてを燃やしてしまう、そんな激しさ。
 私はなんとか体を起こそうと試みた。けれど、ぴくりとだって動かない。まるで力を全部吸い取られてしまったかのようだ。
「何度も言ったはず――俺は、誰の血も吸うつもりはないと」
「は! 部屋をこれほどめちゃくちゃにしておいて、ですか」
 執事は笑うふりをしたが、それはどこか切羽つまった響きがした。
「ご一族の記録をいくら調べても、百年血を吸わずにいられた方など、一人もおられはしません。そんな飢えに耐えられるはずがないからです。あなただってそうでしょう」
 ときおり、かすれて裏返った音が混じる。ああ、来栖さんは泣いているんだ。
「死にかけておられるのに死ねない苦しみに、あとどれだけ、のた打ち回るおつもりですか!」
 私はその叫びを、ゆっくりと底なしの淵に沈みこむような気持ちで聞いていた。
「あなたがこの女を救おうとしても、どのみち、わたしが殺しますよ」
(ああ、来栖さんたら、とんでもないことを言ってる。まるでドラマの中の悪役の台詞みたい)
 自分の命が風前の灯だというのに、私はぼんやりと、そんな暢気なことを考えていた。床から見上げる光景は、ふわふわと現実感がない。
「そんな必要はない。捨て置け」
「一族の秘密を知られてしまったのですよ。言いふらされたら、どうするおつもりです!」
「……殺すことは、許さぬ」
 言い捨てるとご主人さまは、まるで羽が生えているような勢いで部屋を出て行かれた。もう外は夜になっているはずだ。
 その背中を追おうと目玉を動かしたとたんに、私はたちまち意識を失ってしまった。

 次に意識を取り戻したとき、見慣れた天井が見えた。私の部屋だ。
 からだが強ばって、ぴくりとも動かせない。
 「ううん」とうめき声を上げると、来栖さんがぬっと顔を出して、私を見下ろした。
「きゃあっ」
 私は力ない悲鳴をあげた。そりゃ「わたしが殺します」なんて問題発言をした男が、いきなりそばに現われたら、誰だってそうなると思う。
「殺すつもりはありませんよ」
 来栖さんはあわてて、私をなだめた。「伯爵さまのお言いつけです。あなたに手出しはできません」
 予想もしないほど優しく悲しげな声だった。彼も私を殺さずにすむことに、ほっとしているのかもしれない。
 しんと静まり返った部屋に、窓の外から虫の音が聞こえてくる。
「体がうまく動かせません」
「それはそうです。血を吸われるとは、生命力そのものを奪われることですから」
 それでも長い時間をかけて、仰向けの体をそろそろと横にした。
 来栖さんは私と話がしやすいように、そばの椅子に腰をおろした。もしかしてこの人が二階まで、私をだっこして運んでくれたのかな。
「ひとつ、うかがっていいですか」
「どうぞ」
「ご主人さまって、吸血鬼なんですか」
 来栖さんは、くすくすと笑い出した。
「あなたって、本当に面白い人ですね」
「真面目に訊いてます。答えてください」
「その呼び方は、わたしはまったく好きではありませんね」
 つまり、『吸血鬼』という呼び方はタブーだということだろう。
「伯爵さまは、名前は申せませんが、古くはルーマニアのハンガリー国境近くに城を構えた、高貴な不死の一族のおひとりであらせられます」
「じゃあ、ミハイロフというのは?」
「ロシアを経由して日本に渡るときに用いた、偽名にすぎません」
 白系ロシア人の中には、東欧から亡命してきた人も多い。ご主人さまも、やはりそのひとりだったのだ。しかも、ルーマニアのハンガリー国境近くと言えば、トランシルバニア――ドラキュラのモデルと言われるワラキア公ヴラド3世の生地だ。
 私は、喉元に指で触れた。今は痛くもなんともない。傷跡らしきものすらない。
 けれど、ご主人さまの歯が食い込んだとき、瞬きするほどわずかの間に、全身の力を根こそぎ持っていかれるような気がした。
 あれが、もし数分でも続いたら、私は命をなくしていただろう。けれど、現に私はこうして生きている。
「あの、ご主人さまはどこに?」
「先ほど部屋に戻られました」
「そうですか」
 そのとき突然、気を失う前のことが頭によみがえった。
「来栖さん、さっき言ってたことは、本当ですか」
「なんです」
「ご主人さまは、百年血を吸っていないって」
「本当です」
 かろうじて聞き取れるほど低い声で、執事は言った。「日本へお渡りになってまもなくして、血を召し上がらなくなりました」
「どうして」
 私はあえいだ。「吸血鬼……じゃなくて、ご主人さまの一族の人にとって、血を吸うことは死活問題なのでしょう。なぜ、そんなことを?」
 来栖さんは、長い間口をつぐんだままだった。別の質問をしようと思ったとき、ぽつりと答えがあった。
「百年前、奥さまが亡くなられてからです」
「え?」
 自分の体が、すとんと深い穴に落ち込んだような錯覚がした。
「奥さまは普通の人間だったのですか?」
「いえ、ローゼマリーさまも一族のおひとりでした。ですが、他の命を犠牲にしてまで生きたくはないと――自らの命を絶たれたと、祖父から聞いています」
「……自分で?」
「伯爵さまの目の前で、銀のナイフを心臓に突き立てられたと」
「そんな……」
「それ以来、伯爵さまは一滴の血もお飲みになることができません。何年おきかに眠りと覚醒を繰り返しながら、飢えの苦しみの中で永劫の時を過ごしておられます」
「じゃあ、拒食症って言うのは……」
 『血を吸うことができない吸血鬼』という意味だったのか。
「ふ……ふふ」
 衝撃から立ち直ると、なんだか無性に笑えてきた。それとも知らず、私は懸命になってご主人のお口に合う料理を作り続けていた。素材を吟味し、細心の注意をはらって調理し、一口でも食べてくださったら、天にも昇る心地だった。
「私って、バカみたい」
 これまでの苦労はなんだったんだろう。求められていたのは、私の料理なんかじゃなかった。私の血だったなんて。
「あなたには、申し訳ないことをしたと思っています」
 来栖さんは目を伏せた。「若い料理人ばかり募集したのは、簡単にクビにする口実があるからです。『主はあなたの料理がお気に召さない』とだけ告げればいいのですから」
 「でも」と、来栖さんは顔を上げた。闇の中で目がきらめいて見えるのは、涙を浮かべているからだろう。
「伯爵さまは、あなたの作った料理を口になさった。あなたを気に入っておられる。今度こそ、わたしは見つけたと思ったのです。百年間動くことのなかった主の食指を動かす獲物が現れたと――でも、やはり、だめでした。あなたの血も、結局は拒絶されてしまった」
 「ヒーン」とトラツグミの悲しい鳴き声がした。もうすぐ長い夜が明けようとしている。
「あ、お休み前のお茶の時間」
 なんとか起き上がろうとする私を、来栖さんはとどめた。
「今日から、わたしがします。あなたは荷物をまとめて、出る準備をなさい」
「出る?」
「お給金は、規定の二倍お支払いします。ご命令どおり命の保証もします。気に入ったレストランを選びなさい。どこでも通用する紹介状を書きます。ですが、もしあなたが、一族の秘密を誰かに漏らそうとすれば……」
 執事は、意味ありげに声を落とした。「たとえ世界の果てへ行っても、シェフとして働ける場はないと思ってください」
「わたし……」
 ぼんやりと問い返した。「クビですか?」
 その問いに、来栖さんはびっくりしたようだった。
「まだ、ここで働くと言うのですか」
「だって」
「殺されかけたのですよ。怖くないのですか」
「だって、私は」
 私は、固く決意したんだ。ご主人さまが私の料理を食べて、心からの笑顔になってくださる日までがんばるんだって。
「それだけじゃない、あなたの料理人としての腕は、ここでは全く無意味です。伯爵さまは、どんな美味なものを召し上がっても、人間の食物では決して満たされない――人間の血でなければ」
 それを聞いたとき、私は弾けるようにベッドから立ち上がった。そして、ものすごい勢いで階段を駆け下りた。



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