第2章「鉄分をたくさん摂りましょう」

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「あれは一族の儀式。上位の者が下位の者に面会の許しを与える意味があり、いわば『よく来たな』のご挨拶です」
 まだ顔がクエスチョンマークだらけの私に、来栖さんは先んじてすらすらと解説してくれた。
「でも、ご主人さま、『よく来たな』って感じじゃないですよ」
「犬猿の仲ですからねえ、おふたりは昔から」
 犬猿と言うより、竜虎相搏つってやつだ。レオンさまが眠れる巨大なドラゴンで、ヴァラス子爵が今にも噛みつかんばかりの獰猛な肉食獣。そんな劇画チックなイラストがふたりに重なって浮かんでくる。
 ご主人さまが客の肩から剣をはずすと、来栖さんはさっと近づいて、さやごと丁重に押しいただいた。子爵は即座に立ち上がり、非難がましい目つきで執事を見た。
「なぜ、今日は来なかった?」
「申し訳ございません。主の晩餐の給仕をしておりました」
「晩餐?」
 彼は、隅に立っていた私に藍色の目を注いだ。それを受けたとたん、ぞわりと背筋が毛羽立つ。
「これは、珍しいペットを飼い始めたな」
 ペットお? わたしゃ犬ですかネコですかハムスターですか。
「初めてお目にかかります。このお屋敷でコックをしております茅原榴果と申します」
「コックだと」
 ヴァラス子爵は、大声で笑い始めた。爆笑ってやつだ。腰を折って笑い続け、とうとう玄関の間のソファにころげこんだ。
「なるほど。食を提供するモノには違いない。うまい名をつけたものだ」
「……ええと」
 この人、何か微妙に勘違いしてるんじゃないだろうか。
「恐れながら、茅原シェフは文字通りの意味でのコックでございます」
 来栖さんが、口ごもっている私を見かねて説明してくれた。「三ヶ月前から、伯爵さまの晩餐とお茶の時間を任せております」
「なんだと」
 それまでの笑顔は一瞬にして凍りつき、火の出るような憤怒に取って代わった。文字通り、藍色の怒髪が天を突いている。
 ご主人さまの無表情に慣れているせいか、この人の表情の変化は目まぐるしいくらいだ。
「何を考えている!」
 革のブーツをきゅっと鳴らしてソファから立ち上がると、ヴァラス子爵はすごんでみせた。「人間の食物を食っているだと? 血が足りずにとうとう狂ったか。人間にでも戻ったつもりか」
 ご主人さまは冷ややかに彼を眺めている。まるで、嵐の中で凪いでいる海だ。
「自分の立場をわきまえているのか、レオン。おまえは何があっても、死なせるわけにはいかないのだ」
 そばで聞いていて、ぞくりとする。
 そのなじるような口調は、決して古い友人の身体を心配することばではなかった。まるで、生きることが罰ででもあるかのようだ。
「子爵さま。そのへんで」
 執事が、落ち着きはらった声で頭を下げた。「お話は後ほどゆっくり、わたしが承ります。すぐにお部屋も用意いたしましょう」
 来栖さんは、この人の扱いには慣れているようだった。
「とりあえずはお茶で、おくつろぎくださいませ。ほら、茅原さん」
「え、は、はい。ただいま」
 いーやーだー。こんなおっかない人に下手なお茶なんか出したら、即座にブーツのかかとで踏みにじられそう。
「お茶か。お茶ねえ」
 子爵は再びソファに腰を下ろすと、ニヤリと小バカにしたような笑いを浮かべた。「そんなものより、もっと美味いものを知ってるぜ……マユ」
「はい、ご主人さま」
 彼の後ろに立っていた少女は、水の上をすべるように音もなく、彼の正面に立った。
「紹介しよう。俺の新しいククラのマユだ」
 子爵は大きく膝を割ると、マユを自分の腕の中に引き寄せた。美術品を鑑賞するときの、うっとりと熱っぽい目で彼女の顔を見つめ、長い指で真っ直ぐな黒髪を何度も梳く。やがてその指が、頬から顎にかけての線をゆっくり撫で下ろしたかと思うと――。
 いきなり、彼は少女の喉に噛みついた。
 ざくと、皮膚が裂ける音が聞こえたような気がした。マユは小さな顎をのけぞるように持ち上げただけで、じっとされるがままになっている。半開きの唇からは。静かな息が漏れているだけ。とても恐怖や苦痛を感じているようには見えない。
 漂ってくる鉄サビの匂いに、一瞬吐き気をもよおすが、顔をそむけようにも、目が離せないのだ。
 まるで男と女の営みを覗き見ているような気恥ずかしさで身体が熱くなる。吸血鬼が血を吸う現場をこの目で見たのは、生まれて初めてだった。
 ヴァラス子爵はゆっくりと名残を惜しむように、顔を離した。全部でわずか一分ほど。いや、もっと短かったかもしれない。
 口から覗く鋭い牙は血で染まり、髪は銀色にざわめき、藍色だったはずの瞳も真紅に塗り替えられている。
 ご主人さまも、吸血衝動が起きたときは髪や瞳の色が変わる。ということは、これが一族の本来の姿なのだろう。
「美味かった」
 満足げな子爵の声に我に返った私は、とっさにご主人さまの顔色をうかがった。
 眉根の皺に、あからさまな侮蔑が表われている。
「人の家の玄関の間で、よくもそのような下品な真似ができるな。イアニス」
「くくっ。吸血鬼が人間の食物を食うほうが、よほど下品だと思うがな」
 唇についた血をぺろりと舐めると、子爵はレオンさまと睨み合った。「まあ、いい。いずれにせよ、返事がもらえるまで、ここに滞在させてもらうぜ」
 彼はマユをソファに置き去りにして立ち上がり、両手を革ジャンのポケットに突っ込んで、来栖さんに向かって、くいと顎で合図した。
「で、俺の部屋は」
「こちらでございます」
 それきり私たちを振り向きもせずに、案内について廊下を歩き出す。
 なに、どういうこと。あの人がこの館にしばらく滞在するってことなの? 『返事がもらえるまで』って、何の返事?
 呆然としていると、背後でことりと音がした。
 振り向くと、あの少女がソファの足元に崩れ落ちていた。
「マユさん!」
 駆け寄って抱き起こす。手を触ると氷のようだった。紙のように白い肌は、まるで死人。かすかな息だけが、かろうじて生きている証しだ。
「放っておけ。寝ていれば治る」
「そんな」
 ご主人さまから投げかけられた冷ややかな言葉に、思わず声を荒げてしまう。「こんな状態になっているのに、放ってなんかおけません」
「どうせ、それはククラだ。何も感じてはおらん」
「ククラ?」
「『人形』という意味だ」
「だって……だって、この子は人間じゃないですか」
 答えにならない答えをつぶやきながら、私は彼女を抱え上げて、そっとソファに寝かせた。暖房の効いた部屋に連れて行きたいが、さすがに私ひとりでは力が足りない。
 廊下わきのクロゼットから、毛布を取ってきて掛けてやる。
 その間に、レオンさまは姿を消していた。鎧戸を固く閉じた寝室に戻られたのだ。
 同族が血を吸う姿を見て、ご主人さまは何を思われただろうか。飢えの苦痛を思い出したのでなければよいけれど。
 やがて、来栖さんが戻ってきた。
「手伝ってください。もう少し火の気のあるところに移したいんです」
 私たちは、マユを毛布に包んで、そっと大広間の暖炉の前に運んだ。
 急いで厨房で牛乳を温め、ブランデーとともにカップに注いで戻ってきた。
 紫色だった唇にようやく赤みがさした。長い睫毛が時折、かすかに震えている。『人形』と言われれば、本当に陶器の人形のように美しい。おとなになりかけた少女の危うい美しさだ。
「来栖さん。『ククラ』って何ですか」
 彼は言いにくそうに、しばらく暖炉の火を見つめていた。
「一族の方々は、お気に入りのしもべを、四六時中そばにはべらすのです」
「血を吸うためですか」
「そうです。好きなときにほんのわずかだけ、人間がお茶を楽しむように」
「お茶」
 この子は、そのためにいつも子爵のそばに付き従い、さっきみたいな主の気まぐれな求めに応じて、血を吸われているんだ。
「死んだりはしないんですか」
「どれだけ血を吸えば相手が死んでしまうか、一族の方はよく心得ておられます」
「それで、足りるんですか」
「足りるはずはありません」
 来栖さんは、さも当然という声で衝撃の発言をした。「もちろん、食事は別に摂っておられます。子爵さまの執事が、そのための人間を手に入れているはずですよ」
「……来栖さんが私を雇ったみたいに?」
「私たち執事は、元来それが主な務めです。死体の始末を含めて、ね」
 薄い唇が笑いの形にゆがむ。ああ、やっぱりこの人は怖い人だ。うっかり、気を許しちゃいけない。
 気がつくと、マユがぱっちりと目を開けて、私たちを見ていた。
 うわあ。死ぬとか、死体の始末とか、すごい会話を聞かせちゃったな。
「あ、あの。気分はどう? マユさん、貧血で気失ってたんだよ」
 彼女はむくりと毛布をはねのけて起き上がると、私を見た。「厨房はどこですか」
「え? ああ。おなかすいたよね。あったかいミルク作ってきたから、これ先に飲んで」
「いいから、厨房に案内してください」
「待って。すぐに何か作ってくるから」
 彼女は私の手をはねのけて、すたすたと歩き始めた。この折れそうな身体のどこに、こんな強い力が残っているんだろう。
 彼女は、厨房をひとわたり見渡すと、真っ直ぐに冷蔵庫へ向かった。
 止める暇もなく、中に入っていた食材を次々と取り出す。
 大理石の調理台の上に、牛肉、海老、キャベツ、長ネギが並べられると、その前のスツールに腰掛けたマユは、いきなり手づかみで、生の肉や野菜をばりばりと食べ始めた。
 ありえない光景に、私は思考停止したまま立ちつくした。
 黒いワンピースを着た華奢で可憐な少女が、キャベツや生肉を丸ごとバリバリとかじっているのだ。まるでシュールな映画を見ているような心地だ。
「これは――」
 私の後ろから入ってきた来栖さんも、呆気にとられている。
「やめて!」
 私はあわてて、彼女が手にしているものを取り上げた。口に入れるものがなくなった彼女は不思議そうに私を見上げた。
「何するの?」
「こんなもの生で食べたら、ダメ。加熱しない肉から大腸菌感染症にかかる可能性があるの。野菜だって、きちんと洗って食べないと……」
「別に気にしません」
 ふたたび、調理台の食材に伸ばそうとするマユの手を、私は取り押さえた。
「すぐに、料理してあげるから、ちょっと待って」
「そんな時間はないです」
 マユは抑揚のない声で答えた。「食べて、急いで血を作らないと。ご主人さまのお役に立てません」
「え……」
 黒い瞳の中には、頑ななまでの強い光がきらめき揺れている。一瞬、たじろぎそうになった。
「わかった。たくさん血を造れるようにしてあげる」
「どうやって?」
「私の出すものを食べて!」
 急いで、今夜の晩餐に使った食材の残りをかき集めて、ふたたび造血メニューを作る。
 心をこめて、作る。
 来栖さんは私の代わりに、ご主人さまのお休み前のお茶を整えて、持って行ってくれた。
 窓の外の闇がしだいに薄れ、白くなっていく。もうすぐ吸血鬼たちの眠る朝が来る。

 あさりの味噌汁。カツオのたたき。焼き鳥のレバーと砂肝。高野豆腐とえんどう豆の煮物。ほうれん草の胡麻和え。
 純和食のメニューを、マユは味わう暇もなく、次々と口につめこんでいく。私は調理台に頬杖をついて、じっと彼女の食べる様子を見つめた。
「おいしい?」
「……」
「おいしいと思いながら食事を摂るって、心と身体のためにとても大切なこと。栄養さえ摂れれば何を食べてもいいってわけじゃないんだよ。食べ物をゆっくり味わうときに出る唾液は消化を良くしてくれるし、身体にいい。何より、生で食べるより調理したほうが、ずっとたくさん食べられるし」
 黙ったまま、首をかしげる。私のことばを認めたくないから、こういう仕草になるのだろう。
「マユさんは小さい頃から、こういうものを食べていたでしょう。名前が日本人だもん。その名前をつけてくれたのは、お父さんとお母さんだよね?」
 「さあ」とそっけなく言って、ごはんをこくりと飲み込む。
 食べるとき、人は嘘がつけないと私は思う。食べているときの姿は、その人の真実を表わすものだと思っている。
 マユは、意志のない『人形』じゃない。人間だ。
 彼女の内部では、きっといろんな感情が閉じ込められたまま、息づいている。そうだと信じたい。
 食事をみごとに平らげたマユは、箸を置いた。
「ごちそうさま」
 小さな声で言うと、機械的に頭を下げる。
「そんなに一生懸命に食べて、血を造ろうとするなんて、ご主人さまのことを本当に大切に思ってるんだね」
 少し胡散臭いという目で、彼女は私を見た。
「あ、気を悪くしたら、ごめんなさい。からかってるんじゃないの。私も同じで、自分のご主人さまが大切だから」
「あなたはここで何をする人? あなたもククラ?」
「私は料理を作っているの。ご主人さまに、少しでも美味しいと思えるものを食べていただきたくて」
「うそ」
「うそじゃないよ」
「だって、イアニスさまは、吸血鬼にとって人間の食べ物はすごくまずいって。味がしなくて、食べられないって言ってる」
「え……」
「美味いのは人間の血だけだって。その中でも最高に美味いのは私の血だって言ってくれた。だから私、いくらでも血をあげたいの」
 勝ち誇ったまっすぐな眼差しを受けて、私はことばを失った。
「あなたもご主人さまが大切なら、自分の血をあげたらいいのに。なぜそうしないの」
 もやもやと胸の中がかき乱される。私……どう答えたらいいんだろう。
 血をあげられるものなら、とっくにあげている。ご主人さまが血を吸うことを拒否しておられるだけだ。
 だけど、本当にそうなんだろうか。私には、この子みたいな一途な思いが足りないだけなのかもしれない。
 あやつり人形のように自分の意志を失い、吸血鬼の奴隷になっているマユ。かわいそうだと思っていた。心の中であわれんでいた。
 けれど、彼女をあわれむなんて、私の思い上がりじゃない?

 なんだか悶々としているうちに、日が暮れ、夕方になった。
 身じたくを整えて部屋を出ると、ヴァラス子爵が階段の手すりに腕をかけて、私が降りてくるのを待ち構えていた。
 瞳が暗がりの中で、藍方石のように光っていた。ぞくっとするほど綺麗だ。
「来栖は?」
「さあ、昼過ぎに出かけると言ってましたけど」
 めずらしく、この時間になってもまだ帰っていないのだ。私が昨夜引き止めたことで、片付けなければならない仕事がたまっているらしい。
 おまけに、そのせいで目の前の子爵サマまで呼び寄せる結果になってしまったのだから、悔やむに悔やめない。
「レオンは」
「ご主人さまは、あと十五分でお目覚めになる時刻です。私は今からお茶の用意を」
「お茶?」
「ブルガリアのローズティーです。よければ、ご一緒に召し上がりますか」
「目覚めのお茶か、欲しいねえ」
 イアニスさまは、いつのまにか私の進路をふさぐ位置に立っていた。びっくりするほど素早い。
 この人、ご主人さまに比べて数倍、元気だ。身のこなしも、声の張りも、全身からにじみ出る若々しい活力も。
 やはり、血を吸っているといないとでは、これほど差がつくものなのだろうか。
 あっと思う間もなく、彼は私の顎を指でとらえた。それだけで、もう動けない。
 この世のものとは思えない秀でた美貌がゆっくりと近づく。瞳が赤く光り始める。
 しまった。この人にとっての『目覚めのお茶』って、こういうことなのか。
 私、今から血を吸われちゃうんだ。



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