第2章「鉄分をたくさん摂りましょう」

(5)

 私はありったけの力で顔をそむけながら、上ずった声で言った。「な……なんで、わた……し」
「マユが目覚めたのは、おまえのせいだ。俺からマユを奪った。その責任を取ってもらう」
「い……いや」
「おまえに、拒否権はない」
 復讐なんだ。
 平手打ちをし、暴言を浴びせ、あげくマユを目覚めさせた私への復讐。そして、彼のプライドをずたずたにしたご主人さまへの復讐。
 子爵は昏い笑い声を漏らすと、ゆっくりと私の手の甲に、肩口に、額に、爪の先で引っかき傷を作った。まるで儀式のように。
 いや、これは儀式だ。たくさんの傷口から毒を注ぎ込まれたみたいに、私は思考力を失っていく。
 人間をククラにする儀式。
「い……やあ」
「まだ抗う気か。さすがにしぶとい」
 彼の目は強い魔力をはらんで紅玉のような光を放っている。
 その光を受けた私は、完全に意志を失った。自分から彼の首に両腕を回し、「イ……ニスさ……ま」と媚びたような声を上げる。
「いい子だ」
 涙が頬を伝い落ちた。
 こんなことしたくないのに。
 レオンさま。
 私が愛しているのは、レオンさまだけなのに。
 立ったまま壁に押しつけられて、両腕と脚を彼の体にからめ、声にならない絶望の叫びをあげながらも、私は喉笛に噛みつかれる瞬間を心待ちにしていた。
 そのとき、リネン室の扉が大きく開け放たれた。
 いなずまのような閃光が暗闇に走ったかと思うと、ヴァラス子爵の悲鳴が聞こえた。
 正気に戻った私の目に映ったのは、とんでもない光景だった。
 入ってきたレオンさまによって、ヴァラス子爵の右腕は、肩からごっそり切り取られていた。
 コックという職業柄、魚を三枚におろしたり、鶏をさばいたり、牛を解体したりと、血なまぐさいことには慣れていると思っていたが、さすがに卒倒しそうになった。
 片腕を失って、妙に体のバランスが悪くなってしまったイアニスさまは、半分呆けたような表情でご主人さまを見た。
 ご主人さまが手に持っていたのは、あの最初の歓迎の儀式のときに使った、ぺらぺらの模造剣だ。
 厚紙だって切れるはずのない剣で、ご主人さまは、人間の腕を斬り落としたのだ。いったいどんな必殺技を使ったのだろう。
 その目の虹彩を燃やしているのは、マグマのように湧き上がる、途方もない憤怒だった。
「わが前から立ち去れと言ったはず。今すぐ失せろ」
 地の底から響くような低い声で、ご主人さまは言った。「これは、俺のものだ。譲るつもりはない」
 ぐいと、引き寄せるように肩をつかまれた。
 そのとたん、安堵と疲労で、私は何もかもわからなくなってしまった。
 次に気がついたときは、書斎のソファに寝かされていた。ギブスをはめた来栖さんが、にこにこ微笑みながら私のそばに座っている。
「子爵さまは」
「わたしが戻ったときは、もう姿がお見えではありませんでした」
「マユは」
「無事です」
 私はほうっとため息をついた。

 あくる日。
「ねえねえ、来栖さん。ちゃんと聞いてくださいよ」
「もう七回は聞きました」
「話すたびに、じーんと胸がしびれるんですもん。ご主人さまってば、『これは、俺のものだ』とおっしゃったんですよ」
「『これ』などと明らかにモノ呼ばわりされたのに、腹は立たないんですか」
「ぜーんぜん。だって『俺のもの』ですよ。私はご主人さまの、かけがえのない所有物なんですよ。恋人まで、あとほんの一歩の距離じゃないですか」
「一歩どころか、底なしの深淵が横たわっていると思いますがね」
「『俺のもの』。ああ、なんて甘美な響き。この言葉だけで、あと一ヶ月ごはん三杯は行けます」
 本を片手に入ってきたレオンさまは、私たちの会話を小耳にして、回れ右して出て行こうとした。よほど私が怖かったのだろう。
「あ、ご主人さま。すぐに晩餐ですので、部屋にお戻りにならないでくださいね」
 私は上機嫌の大声を上げると、支度をするために、羽根が生えたかのような足取りで厨房に向かった。
「失言でしたな。伯爵さま」
 面白がっているような執事のことばに、返事はなかった。きっとご主人さまは、思い切り渋面を作っておられるだろう。

 来栖さんの右腕は骨にひびが入っていて、ギブスが取れるまで二週間かかるそうだ。
 私の身代わりになって子爵の暴力を受けてくれたのだ。すごく責任を感じる。当分は、私ができるだけ執事の仕事を肩代わりするつもりだし、晩餐もいっしょに食べてくれるように頼んだ。
 子爵相手の仕事で夜中に出かけることも、もうないはずだ。
 ヴァラス子爵は、それから何日経っても、現れることはなかった。
 あたりまえだ。来栖さんの右腕の骨を折っただけじゃなく、自分自身は右腕をなくしてしまったのだから。
 いい気味だと思う反面、少し哀れな気もする。
 操られて抱きついていたとき、わずかな間だったが、肌を介して彼の内なる孤独が響いてくるようだった。
 領地経営が何もかもうまく行かず、誇りを傷つけられる日々。そばに従順なククラをはべらし、支配することで、欠けた心を満たそうとする。そんなことで、心は満たされるものじゃないのに。
 マユは数日の静養のあと、ショックから立ち直り、栄養もしっかり摂って、すっかり元気になった。
 あの青白い顔のゴスロリ少女が、私の買ってきた小花模様のワンピースを着て、ピンクの頬をして笑うようになった。
 そのあいだに、来栖さんが苦労して、マユの両親と連絡を取ってくれた。
『さる外国の大富豪に見初められ、大きなお屋敷で花嫁候補として軟禁同様の日々を送っていた。だが彼は別の女性と結婚して帰国し、マユは家に帰されることになった』
 ――というシナリオを、私とふたりで、さんざん頭をひねって作り上げたのだ。
 ちょっとマンガちっくだが、これならマユもひどく叱られずにすむ。破談の見舞金と称して、多額のお金も渡した。
「ご両親は、口では『生きていてよかった』と喜んでいましたが、果たして本心はどうなんでしょう」
 来栖さんは、首をかしげる。「家に戻っても、腫れ物に触れるような扱いを受けるのかもしれませんね」
「やはり、マユは家に帰らなければなりませんか」
「まだ義務教育中ですよ」
「ここで暮らしながら、中学に通うというのも、ありだと思います」
「無理です。伯爵さまは、人との無用なかかわりがお嫌いな方ですから」
「……ですよね」
 果たして、マユにとって一番幸せな道は何なのだろう。私たちが考えることじゃないのかもしれないけど。

 真夜中の正餐の時間になり、マユが二階から降りてきた。
 食堂に入り、この家の主、ミハイロフ伯爵にぺこりと頭を下げる。
 この数日でだいぶ慣れたけれど、やはりそれでも、イアニスさまと同じ一族であるご主人さまのことが怖いようだ。
 隅っこの席に、おずおずと座った。
 ご主人さまは、彼女にはちらりとも視線を向けずに、テーブルについてワインを召し上がっておられる。
 来栖さんは相変わらず、使用人が主といっしょのテーブルでは畏れ多いと、移動式ワゴンの食卓についた。
 ギブスの来栖さんのために、晩餐のメニューは、できるだけ左手だけでも食べられる形に調えてある。
 手でつまめるように、サーモンのカナッペ。レバーパテのパイ皮包み。ホワイトアスパラガスのオランデーズソース。ローストビーフのスライス。日本人のマユのためには、揚げたてのひじき入りがんもどき。造血メニューもばっちりだ。
 それからもちろん、ご主人さまの好物、フーシュレヴェシュは欠かせない。
「あ、これは食べにくいでしょうから、私が口に入れてあげます」
 向かいに座っている来栖さんに「あーん」とスプーンを差し出した。
「そこまでしなくても、ひとりで食べられます」
「まあまあ、遠慮せずに。近頃の私は世界じゅうに愛を配って歩きたい気分なんですから」
 マユはそれを聞いて、けたけた笑った。来栖さんは、顔を赤らめて素直に口を開けているし、ご主人さまは心なしか、いつもより五割増しでむっつりしておられる。
 不機嫌の理由が、来栖さんへのヤキモチだったらいいのになあ。
 デザートは、プルーンの赤ワイン煮に、胡桃のアイスクリームを添える。
 甘酸っぱい果実を頬張りながら、マユはぽつりと言った。
「おいしい。ご飯って、こんなにおいしいものだったなんて」
 それを聞いて、私はうれしかった。うれしくて、涙が出そうだった。
「おいしいのはね。四人で食べるからだよ」
 心をこめて、言った。「同じものでも、ひとりで食べるのと大勢で食べるのは、全然違う。食事をいっしょにすることで、他人同士の私たちでも家族になれるの」
 マユは目をぱちぱちと瞬いた。「四人って。ルカさんはいっしょに食べていないでしょう」
「ううん、私もいっしょに食べてるよ」
 もちろん、本当の意味では食べていない。調理のときは味見するし、食事が終われば、残ったものをいただくけれど。
「食卓についたみんなの顔を見ていると、その舌で感じている味を私も感じることができる。それが私の食事なの」
「ふうん、すごい」
 マユの賞賛のまなざしが、ちょっぴり照れくさい。かっこいいこと言い過ぎたかな?
「あ、そうだ」
 私は、相変わらず無言でお酒を召し上がっておられるご主人さまに向き直った。
「ヴァラス子爵さまが、マユに言ったことがあるそうです。一族の方々は、人間の食べ物を食べても、おいしいとは感じられないって。本当ですか?」
 私はコック帽を握りしめて、うなだれた。
「もし本当なら、私はご主人さまに、おいしくない食事を無理に勧めていたことになります。そうだったら、申し訳なくて」
 レオンさまは私を見上げ、「ふっ」と笑うように息を吐いた。
「そなたは食する者の顔を見れば、同じ味を感じることができるのではなかったのか」
「あんまり無表情すぎて、ご主人さまの感じておられることはわかりません!」
「所詮、人が感じていることなど、人それぞれだ。頭の中を比べて見てもいないのに、同じかどうか、どうしてわかる?」
 私はぐっと詰まった。反論できない。「それでも……」
「それでも」
 ご主人さまは私の言葉を引き取るように、続けた。
「そなたの作った料理を食べていると、いろいろなことを思い出すのだ。はるかな昔の景色。なつかしい人々。思い出したいことも思い出したくないことも。それは、どんな美味な料理よりも味わい深い」
 遠くの山々を見晴るかすかのように、レオンさまは黒い瞳を細めた。
 ああ、この方は。
 何百年生きておられるかわからないが、私のたかだか二十数年の人生などが遠く及ばない思い出を、いっぱい持っていらっしゃるのだ。
 私の作るレシピのひとつひとつに、その記憶を呼び覚まされておられたのだ。
 重く、切ない記憶。たくさんの苦しみと喜びを。

 そのとき、玄関のほうで物音がした。
 いつもなら、執事の来栖さんが即座に見に行くのだけれど、ギブスをしているためか動きが遅い。
「私が行きます」
 さっと食堂を出て玄関に急いだ。
 鍵がかかっていたはずの扉はすでに開かれている。月光に縁取られたシルエットを見て、息を飲んだ。金色の斑をちりばめた、闇に光る藍色の瞳。
「子爵さま!」
 イアニスさまは無言で私を押しのけるようにして、食堂に進む。
 ――マユを取り返しに来たんだ。止めなきゃ。
 とは思うものの、触れられない。いつも力にあふれていたはずの子爵の背中は、今はまるで疲れた老人のように勢いがなかった。
「あ、腕……」
 切り取られたはずの右腕が、元通りになっている。
「腕、生えたんですか」
 もやしや青ねぎじゃあるまいし、『生えた』はないだろう。でも、そうとしか言いようがない。
 不死の一族には何でもありなんだと、あらためて思い知る。
 食堂の扉を開けると、子爵はぎろりと部屋を見渡した。
 マユの姿はない。私の応対の声を聞いて、来栖さんがとっさに厨房に逃がしてくれたらしい。
 レオンさまは、膝上のナプキンをテーブルに置いた。いつでも立ち上がれるように準備していらっしゃる。
「何の用だ」
 それには答えず、イアニスさまはさっきまでマユが座っていた椅子に、崩れるように腰をおろした。
「クルス。酒だ」
 低くうめくような声にも、張りがない。そう言えば、入ってきたときも、プンとラムの匂いを漂わせていたっけ。
「いささか酒が過ぎているようだな」
 ご主人さまが皮肉めいた声で言った。
「説教ならごめんだ」
「新しいククラは連れておらぬのか」
「そんなものは、もう要らない」
 強がっているのに、その声は泣いているようにも聞こえた。
 まさか、イアニスさまは、マユが恋しいのだろうか?
 ククラが自分の意志で彼のもとを去っていった。そんなことは、きっと初めてだったはず。
 振り向くと、そばには誰もいない。呼んでも、誰も答えない。
 満たされているときには見えなかったものを、人は失くしたときにようやく気づくものだ。
 マユさえいれば、いつでも血が吸えたのに、もう吸えない。その『飢え』は、彼にとって強烈すぎる体験だったに違いない。
 眠れぬとき、マユの血の味を、マユの声を、マユの吐息を、ありありと思い出しただろう。
 ああ、きっとそう。
 恋と同じだ。思い出はどんどん美化されていく。
 だからイアニスさまは、もう新しいククラでは満足できない。
 私は厨房に飛び込んだ。
 冷蔵庫と野菜貯蔵庫を開け、次々と食材を取り出した、冷凍庫から作りおきのミートソースとベシャメルソースを取り出した。
 手を休みなく動かしながら、食器棚の陰でうずくまって震えているマユに笑いかけた。「だいじょうぶだよ」
「イアニスさまは?」
「あなたがいなくなって、すっかりしょげてる」
 それを聞いたマユは、口をへの字にきゅっと曲げた。
「イアニスさまに会いたい?」
 少女は少しだけ迷ってから、こっくりとうなずいた。
 三十分後、私は大きなキャセロール鍋をささげ持って、ふたたび大食堂に入った。
 子爵は、来栖さんが出した酒をあおるように飲んでいた。
「お待たせしました」
「なんだ、これは」
 とろりと酔いににごった目を向けられた。
「ナスとズッキーニ、じゃがいもなどの野菜をオリーブ油で炒め、ミートソースとベシャメルソースを上からかけて、オーブンで焼き上げました。代表的なギリシャ料理、ムサカでございます」
「そんなことは、見ればわかる。何のために持ってきたと言っている!」
「マユが、子爵さまのお国の料理をいっしょに食べたいと言ったので」
 イアニスさまは、ぽかんと口を開けた。
「マユだと?」
 厨房の扉が開き、中からマユが現われた。
「イアニスさま」
「――マユ」
 唇に紅を差し、髪をきれいに結い上げ、花のバレッタで留めてあげた。愛らしいフリルの水色のドレス。透き通るような肌。まさに天上から舞い降りた天使だ。
 恥ずかしそうに微笑んでから、向かいの席に座る。子爵は呆然とそれを見つめていた。
 私はその隙に、すばやくムサカを取り分け、小皿に載せてそれぞれの前に置いた。「どうぞ」
 マユは熱くジューシーな一切れを口に頬張り、「おいしい」と、涙ぐんだ。
 ナプキンで口と目を拭いて、マユは居住まいを正した。
「イアニスさま。今でもあなたのことが好きです。ずっとあなたのおそばにいたかった」
 それを聞いたとたん、子爵は我に返り、さも当然という顔で居丈高に言った。
「じゃあ、なぜ俺から逃げた?」
「だって、あなたは私のことを愛してくれないから。血を吸うだけのククラだと思っているから」
 一息に言うと、マユは最後のことばをしぼりだすように続けた。「だから、もういっしょにいることはできません」
「なぜなんだよ!」
 子爵は歯をむき出して、怒鳴った。「俺が好きなんだろ、じゃあ四の五の言わずに帰ってこい!」
「いやです」
「やさしくする。血を吸う回数も減らしてやるから」
「私はククラはいや。自分の心を失いたくない」
 そして、私を見た。「ルカさんみたいに自分の意志で、自分のできるせいいっぱいのことをして、好きな人を喜ばせてあげたい。もう人形はいやなの」
 そして、立ち上がった。「さようなら、イアニスさま」
 その会話を聞きながら、私は驚いていた。
 好きで好きでたまらない人を前に、さよならを言える強さ。なんて強いんだろう。
 私なんか、足元にも及ばないよ。
「認めない! 俺のもとから去るなんて、そんな勝手は認めねえからな!」
 罵声から逃げるように、マユは部屋を飛び出し、二階へと駆け上がった。
 後を追おうとする子爵に、レオンさまはただひとこと「やめろ」と命じる。動けなくなったイアニスさまは、拳を握り、肩を丸めた。
 悄然と元の席に腰をかけると、酒のグラスに手を伸ばそうとした。
「マユが、おいしいと言ってましたよ」
 私は、新しく取り分けたムサカの皿を子爵の前に置いた。
 彼はぼんやりと、視線を落とした。フォークを手に取り――そして皿をかかえこむようにして、かぶりついた。
 その勢いに、来栖さんもご主人さまも、目を奪われている。
 でも、かたわらにいた私には、きちんと見えていた。イアニスさまの目じりに涙がたまっているのを。
「やっぱり人間の食べ物なんか……まずくて食えねえ」
 と罵りながら、藍の髪の子爵は食べ続けた。

 また静かな日々がミハイロフ伯爵家に戻ってきた。
 マユは結局、自分の家に戻り、転校して別の中学に通っている。ここから電車で一時間ほどのS県だ。
「お父さんやお母さんとうまく行くようにがんばってみる。勉強も追いつく」
 電話でときどき連絡を取り合っている。
「ルカさんみたいに、自分のやりたいことを見つけるの。いつか、イアニスさまのお役に立てるように。そのためには、いろんなこと勉強しなきゃね」
「まだ、あの方のところに戻るつもり?」
「そうしたい……でも、私のこと怒っていらっしゃるだろうから、無理かな?」
 と涙声で付け加える。
「きっと、だいじょうぶだよ」
「イアニスさまに、ひとめでいいから会いたいよ……」
「そうだ。今度の週末、泊りがけで遊びに来ない? ご馳走するよ」
「うん。ムサカが食べたい!」
「オッケイ。他のギリシャ料理もいっぱい作るから」
 私の頭の中に、むくむくと計画ができあがりつつあった。
 本当は、イアニスさまのことはきれいさっぱり忘れろと、マユに言うべきなのかもしれない。
『つらい恋はさっさと捨てて、吸血鬼ではない普通の人間に恋をしなさい』と、忠告すべきなのかもしれない。
 でも、私はそう言えなかった。反対に、なんとかマユの気持ちをかなえてあげたいと願っている。
 考えたら、バカげてるよね。人間のことを食べ物としか見ていない一族に、人間が恋をするなんて。
 ウサギがライオンに恋するようなものだ。イワシがサメに恋するようなものだ。恋心が実る可能性なんか、これっぽちもない。
 でも、あきらめれば、そこで終わり。ゲームセット。
 私は、あきらめたくない。どんなに不可能でも、ご主人さまに対する気持ちを途中であきらめるなんてできないよ。
 だから私は、マユを応援したいと思った。
 捕食者と食物でもなく、主人と奴隷でもない。イアニスさまとマユに、そういう新しいつながりを持ってほしい。
 現にイアニスさまは、マユが去ったとき涙を浮かべていた。彼の心に大きな変化が起きた瞬間を、私は確かに見たのだ。
 同じことが、レオンさまにも起きてほしいと願っているから、私はふたりを応援するのかもしれない。
「ご主人さま。ヴァラス子爵をこの週末、食事にお招きしたいんですが」
 私の言葉を聞いて、ご主人さまはうさんくさげに、本から顔をあげた。執事の来栖さんは、くすくす笑っている。
「また何か、悪巧みしていますね」
「人聞きの悪い。なんたって食事は大勢で食べたほうが美味しいし、それに究極の美を追求するのは料理人の務めです」
「美?」
 レオンさまが、これ以上意外なことばを聞いたことがないという顔をなさる。
 私は腰に手を当て、胸を張って答えた。
「『仲良きことは、美しき哉』って言うじゃないですか!」






               第二章 終

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