第3章「日光とビタミンDは欠かせません」

(2)



「どうだった?」
 明け方のお茶の後、私の部屋に来たマユに、様子を訊ねた。
 晩餐の後、子爵さまとマユは、さりげなく何回かふたりきりになる時間があった。一族の誓いがあるので危険はないと思うけれど、念のためしっかりと来栖さんの見張りつきだ。
「イアニスさま、とってもやさしいの」
 マユは頬をほんのり桜色に染めて、話してくれた。座るときは椅子を引いてくれたこと、散歩するときも、手を取ってくれたこと。
 本当に、変われば変わるもんだ。ちょっと前までは、髪の毛を引きずり倒して、無理やり血を吸うドメステ男だったのに。
 吸血鬼も、恋をするんだ。彼らは冷血の化け物なんかじゃない。ちゃんと人間と同じ、人を想う心を持っている。
 ――もちろん、そんなこと、とっくにわかっていた。だって、レオンさまはあれほど強くローゼマリーさまのことを想っておられるんだもの。
「ルカさん、ねえ、ルカさん」
 マユの声に、私は感傷から引き戻された。
「私、ルカさんになにかお礼がしたくて。だからプレゼントを持ってきました」
 彼女は、袋から薄紙の包みを取り出して、渡してくれた。
「ありがとう。何かな」
 中を開けて、私は驚愕した。紺色ミニ丈の広襟ワンピース。レースのペチコート。レースのエプロン。レースのカチューシャ。
「こ、これは、あの有名なメイド服!」
「アキハバラで買ってきたの」
 マユは得意げに、肩をそびやかした。
「こ、これを私に着ろと?」
 私は後ずさって、壁に張りついた。
「こんなひらひらふりふりのメイド服。二十歳すぎの私がこんなの着たら、犯罪だよ、石打ちの刑だよ」
「だいじょうぶ、ルカさん、十分にセクかわですよ」
「む、むり無理。第一、コックは、こんなチャラチャラしたレースやスカートは着られない」
 長袖のコックコートに長ズボン、黒いタイを首に巻き、髪の毛はまとめて、しっかりとコック帽の中に押し込める。清潔第一、安全第一。それが、コックの正装だ。
「ルカさん、伯爵さまにアタックするなら、もっとおしゃれしないとダメ」
 マユは口を尖らせて、むくれたように私を見る。「私には色のきれいなワンピを着ろって勧めてくれたのに、自分は白黒ばっかりじゃない」
「だって」
 そもそも、コックは男社会。おしゃれとは無縁の世界だ。
 元カレにも、言われたよ、『女を捨ててる』って。でも、それが私の選んだ道だから、後悔はしていない。
 血を吸うことを拒否しておられるレオンさまに、少しでも栄養があって心が満たされるものをお作りするのが、私にできるただひとつのこと。
 私を女として見てもらえるなんて、ましてやアタックするなんて、そんな無謀なこと考えてやしない。
「それでいいの?」
 マユは上目づかいに、私を真剣に見た。「私に、あきらめないでがんばれって言ったのは、うそ?」
「うそじゃ……ないけど」
 本当は、女として見られたい。だけど、亡くなられた奥さまのことしか眼中にないご主人さま相手に、がんばったって自分がみじめになるだけだよ。
「私は、ご主人さまのそばにいられれば、それで満足なの。それ以上は望まない」
「ああ、もう、じれったい! 忍耐の限度!」
 マユは、突然大声で叫ぶと、私に飛びかかってきた。
「ぎゃやわああっ!」

 ***十八禁シーンにつき、しばらくお待ちください***

 ……ひ、ひどい目に会った。
 マユったら、いきなり私の着ているものにつかみかかり、下着までひとつ残らずはぎ取ったのだ。
 しかも、タンスの中の洗い替えのコックの服まで、ごっそり全部奪い取っていった。
 代わりに置かれていたのは、黒いレースのインナーと、ひらひらメイド服。
 さすがに超ミニのスカートだけは勘弁してと拝み倒して、ミディ丈のスカートにしてもらったが、交換条件はフェイスメイクもまかせること。髪にはホットカーラーまで巻かれて、縦ロールにされてしまった。
「ほら。きれいになった」
 差し出された鏡を覗くと、乾いた笑いが口から洩れる。そこに立っていたのは、私が一度も見たこともない別人だった。
 これじゃ、産みの母だって娘だとわからないに違いないよ。

 お目覚めのお茶の支度をする時間になったので、そうっと階下に降りると、いきなり執事にばったり会ってしまった。
「……ルカさん?」
「ひいっ。ごめんなさい。ほんの遊びなんです。出来心です。『ぷっ』とか笑わないでください」
 頭を抱えて顔を隠そうとする私のうなじに、息がかかった。
「可愛いですよ」
 耳元に、来栖さんの甘くささやく声。
 信じられないことが起こった驚きに、私はおそるおそる顔を上げた。
「からかってるんですか?」
「いいえ、本心ですよ」
 いつも皮肉の塊みたいな来栖さんが、こんなにやさしい笑顔を浮かべているのは初めてだった。
 あ、そうか。マユに協力してと頼まれているのかも。
 なあんだ。委縮して損した。それなら、こっちも堂々としてればいいんだ。
「今日は私が子爵さまにお目覚めのお茶をお持ちしますので、ご主人さまのほうは来栖さんにお願いしますね」
「よいのですか。あなたはヴァラス子爵が苦手だと思っていましたが」
「たまには、気分を変えてみるのもいいでしょう」
 厨房で、ポットをふたつ用意し、とっておきのマスカットティーを入れる。
 イアニスさまの部屋に向かう私の後に、マユが不服そうについてくる。
「なんで、伯爵さまの部屋に行かないの? せっかく綺麗に、おめかししたのに」
 だって、レオンさまにこんな姿を見られて笑われでもしたら、それこそ一生立ち直れないよ。
 客室を、静かにリズミカルにノックする。ミハイロフ伯爵家に伝わる特別なノックだ。これを聞けば、伯爵家の使用人だということがわかる、暗号のようなものらしい。
 マユは私のわきをすりぬけて、タタッと寝台に走っていき、天蓋から垂れ下がるカーテンを開けた。
「イアニスさま、おはようございます!」
 ぺこりと、夕方の挨拶。
 それ以上は近寄らないところを見ると、来栖さんにかたく戒められているのだろう。
 一族の約束とは言え、寝起きの男に、必ずしも理性が働くとは限らない。
「おはようございます。お茶をお持ちしました」
「……なんだ、今日はおまえか」
 寝台の上で片膝を立てて、髪の毛をかきむしっているイアニスさまは、やはり不機嫌そうだ。
「どうぞ」
「あ」
 サイドテーブルに、香り立ち上る紅茶のカップを置いたとき、子爵は驚いた声を出した。
「誰だ、おまえ」
「ルカさんですよ。すてきでしょう?」
 マユが得意げに、答えた。「私が、この服を見たてて、お化粧してあげたんです」
 ――さあ、笑われるぞ。
 この男なら、転げまわって笑うくらいのことはしかねない。覚悟して待ち構えていたが、どうしたことか、イアニスさまはしげしげと私の顔を見つめるばかりだった。
「変われば変わるもんだな」
 感嘆のため息らしきものが聞こえた。「きれいだ」
 何よ、それ。
 いったい、みんな今日はどうしたと言うの。来栖さんと言い、イアニスさまと言い。
 わが生涯、最大のモテ期到来か。そうなのか。
 マユは、「ね、やっぱり」と、隣で有頂天だ。
「子爵さま、お戯れは、およしになってくださいまし」
 動転した私は、知らず知らず、19世紀のメイド風の言葉づかいになっている。
「あなたに褒められると、かえって気持ち悪いです。罵倒されたほうが、何倍もマシってもんです」
「嘘じゃねえ。見違えたよ。なんなら、俺の新しいククラにしてやろうか」
「な……」
 ついこないだまで、彼のククラだったマユの前で、なんてことを。
「あははっ」
 彼は、さも可笑しそうに笑った。くっそう。やっぱり、からかわれていたんだ。
「いいかげんに、してください!」
 ひとりでカッカしている私に、
「ルカさん。怒ったらダメ。せっかくキレイなのに」
 と、マユは口をとがらせる。
 彼の心ない言葉もあまり気にしていないようだった。もっとも、いちいち気にしていたら吸血鬼の恋人なんか、やってられないのかもしれないけど。
「ね、イアニスさま。これだったら、ローゼマリーさまにだって勝てると思いませんか」
「ローゼマリー?」
「伯爵さまの亡くなられた奥方さまのローゼマリーさまです。イアニスさまは昔、お会いになったことがあるんでしょう。どんな方だったんですか?」
 子爵は、じっと考え込むそぶりで私を見た。藍色の目に金色の斑がきらめく。
 や――やめて。『比べ物になんかならない』なんて言われたら、本気で立ち直れなくなる。
「比べられるもんじゃないな」
 ほら、やっぱり。決定的なセリフを言われちゃったよ。
「あの女は確かに美人かもしれねえが、極めつけの性悪女だった。優しさのかけらもなく、頭の中は他人を陥れることばかり考え、いつも冷たい醜悪な笑みを浮かべていた。そういう意味では、ルカのほうがよほど綺麗だ」
 え。
 ……えーっ。
「ち、ちょっと、待って」
 今は、ローゼマリーさまのことを話してるんだよ。
 ご主人さまが、今でも一途に想い続けている奥さまが、ひどい人であるわけがない。何かの間違いだ。子爵さまは勘違いをしている。
 だってもし、仮にそれが本当なら――レオンさまは、酷薄で人を顧みることのない奥さまを愛し続けていたってことになる。そんなの、まるで拷問じゃない。
「そこまでだ。イアニス」
 入り口に、ご主人さまが立っておられた。来栖さんもいっしょだ。
「それ以上、おしゃべりが過ぎるようなら、今度は腕といっしょに舌も切り取ってやるが」
「遠慮する」
 イアニスさまは憮然とした表情で立ち上がり、奥のクロゼットルームに荒々しく歩み去った。
 残された私に、ご主人さまはチラと視線を注いだ。
 でも、ほんの一瞬。すぐに不機嫌そうに目をそらしてしまわれた。笑われはしなかったけど、呆れたという表情だった。
 やっぱり。
 マユはふたりを見比べて、おろおろしている。
 私は唇を噛んだ。はげしく後悔していた。
 コックがご主人さまに綺麗だと思ってもらいたいと、ほんの少しでも望むなんて。ローゼマリーさまと比べて見てもらおうだなんて。
 私は、道化だ。

 その日の真夜中の晩餐は、それはそれは豪華だった。
 新鮮な素材を心をこめて丁寧に料理し、飾り切りにも、いつもの何倍も時間をかけ、キャンバスに見立てた皿には、精巧なソースの絵画を描いた。まるで、私のコックとしての修行の集大成だった。
 メイド服は、さっぱりと脱ぎ捨てた。洗濯して乾いたばかりのコック服を元通りに身につけた。
「ごめんね。せっかく買ってもらったけど、これじゃ仕事にならないから」
 私の謝罪のことばにも、マユは黙って首を振っただけだった。
 コックはおいしい料理を作るのが仕事。料理を美しく盛りつけるのが仕事。
 自分を飾り立てるような真似は、金輪際もうしない。
 その決意をこめた渾身の料理が並ぶ食卓で、ご主人さまはもちろん、イアニスさまもマユも、いつも料理の感想を述べてくれる来栖さんでさえも、ほとんど口をきかなかった。
 美味すぎて声も出なかったのならうれしいけれど、どちらかと言えば、落ち込んでいる私に気をつかっているのが半分だろうな。
 けれど、ご主人さまと子爵さまの無言には、もうひとつの意味があったことを、あとで知る。
 デザートのリキュールとチョコレートをお出しするときになって、無言をとおしていたイアニスさまがようやく口を開いた。
「ルイに会ってもらいたい」
 そのとたん、部屋の空気に雷が走ったような緊張が生まれた。
 レオンさまは膝のナプキンをつまみあげ、卓上に落とした。何でもない仕草なのに、ご主人さまがやると、めちゃくちゃ怖い。古代の執政官なら、それだけで死刑を宣告できそうだ。
「なぜ、俺がやつに会わねばならぬ」
「ことは、もう俺の国だけじゃすまねえんだよ。欧州全土――いや、世界をも巻き込みつつある」
「俺には関係ない」
「関係ないは、ないだろう。本来ならば、これはあんたが先頭に立って解決すべき問題だ」
「……それを、おまえが言うのか」
「あ、いや」
「そうできなくさせたのは、貴様たちだろう!」
 ご主人さまの開いた口から、白く鋭い牙が覗いた。瞳は紅に色を変え、髪は月の光をはじいたように、銀にきらめいた。
 う――うわあ。スーパーサイヤ人並みの戦闘モードになってますよ、ご主人さま。
 犬や猫クラスの小動物は、この殺気だけで軽く死にそうだ。マユもすっかりおびえて、顔色をなくしている。
「伯爵さま」
 おろおろする私を後ろに押しやり、来栖さんが一歩前に進み出た。
「侯爵さまとの交渉役、まずは、わたしが務めます。あとは、その結果次第ということで」
 さすがに来栖さん。巌のように沈着冷静に、この修羅場をおさめようとしている。
 ご主人さまは、荒い息をつくと、テーブルに片手をついた。髪や目は、元の闇の色を取り戻し始めた。
「おまえにまかせる。クルス」
「かしこまりました」
 ご主人さまは、グラスの赤い液体を干すと、ゆらりと立ちあがった。
「部屋に戻る。今宵はもう誰にも会わぬ」
 疲れきった背中を見せて、部屋を出て行かれた。
 それを見送ってから、私はヴァラス子爵に向き直った。
「あの、今のはいったい――」
「俺も帰る」
 低い声で吐き出すように言い捨てると、革ジャンの鋲をじゃらりと鳴らして、イアニスさまは大股で玄関へと歩み去った。
 頭に血が昇って、マユのことも忘れているようだ。
 残されたマユと私は、不安に曇った顔を見合わせた。
「さんざんな夜になっちゃったね」
「……はい」
 涙ぐみながら、彼女は答えた。「これで、伯爵さまとイアニスさまの仲が悪くなったらどうしよう」
「だいじょうぶ、今度の週末までには、仲直りさせておくよ」
 マユも、あくる日から学校が始まる。真夜中なので、来栖さんが車で家まで送っていったあと、しーんと静まりかえった食堂には、ぽつりと私ひとりが残された。
 いったい、あれは何の話だったのだろう。また世界の運命にかかわる、壮大な借金の話なのかな。
 それに、ルイって誰のこと? この日本には、まだ一族の方がいるということになる。
 ああ、来栖さんに聞きたいことが山ほどあるよ。



web拍手 by FC2