第5章「結局のところ、素材がいのちです」

(1)



 今、私は修羅場のまっただなかに飛び込んでいる。
 だけど、その状態を説明する前に、ひとつだけ、ここで確認しておかなければならない。
 調理師学校から仕事を紹介されたときに教わった「ミハイロフ伯爵」という名前は、そもそもは、目の前に立っているこの方の名だった。そして、レオニード大公のほうが、ご主人さまが正しく受け継がれた名前だった。
 けれど、今は違う。
 今は、この方がレオニード大公で、ご主人さまがミハイロフ伯爵。
 どこかで、何かの理由で、ふたりは完全に入れ替わってしまったのだ。そして、この方が一族の長として君臨し、ご主人さまはトランシルヴァニアを去り、シベリア経由で、百年前の日本へ渡っていらした。

 なぜ、こんなことを、くどくどと説明するかといえば、おふたりが本当に似ているからなのだ。
 顔が似ているわけではない。黒髪黒瞳と金髪金瞳から受ける印象からして、まず違う。体つきは似ているけれど、背丈はたぶん、この方のほうが高い。
 なのに、ふたりはまるで双子のように、共通するものを持っている。それは、レオニード大公として一族の運命すべてを背負い、何百年にもわたって世界を背後から操ってきたという矜持、そして、それゆえの存在感なのだろうか。
 そんなことをぼんやり考えていたら、私の後ろにおられたルイさまが、すっと前に進み出て、私をかばう位置に立つ。
『どこから入っていらしたの。あんまり礼に失するやり方じゃありません?』
 突然耳に飛び込んできた外国語に、まず驚いた。レオンさまもイアニスさまもルイさまも、いつも日本語でしゃべっておられたんだなと、今更ながらに気づいた。
 けれど、一度も聞いたこともない言語なのに、なぜか意味はわかるのだ。まるで超能力者にでもなったような不思議な気分。
 金髪の大公は、ふんと鼻を鳴らして笑った。『余は、すべての法と定めを超越する。大公への拝礼のしかたさえ忘れてしまった愚かな裏切り者に言ってもわからぬだろうがな』
 ルイさまとイアニスさまが、息を止める気配がした。
『ぬかずけ』
 数瞬ののち、おふたりは絨緞の上に膝をついた。まるで、膝が力を失ったようにカクンと折れた。その様子は、あたかも条件反射のよう。プログラムされたロボットのよう。
 一族の方は、徹底的に刷り込まれているのだ。上位と下位の圧倒的な身分の差を。
 これでは、逆らえるわけがない。反抗などできるはずはない。
 アレクサンドルさまは高みから睥睨するように部屋を見回し、立ち尽くしている人間たちに目を留めた。
  まず、視線の標的となったのは、来栖さんだった。
『来栖馬之助の孫だな』
 無表情な執事の仮面が、ぽろっと剥がれ落ちる。それでも来栖さんは蒼白になりながら、かろうじて平静を装った。
『なるほど、あの男によく似ている。サンクトペテルブルクの裏町に暗躍していた、あの密偵に』
 それから、貴柳司祭に顔を向けた。
『皮肉なことだな。カトリックの神父がわが一族の中に混じっているのを見ようとは。昔はもう少し、体面を取り繕っていたような気がするが』
 神父さまは眉根をきゅっと寄せて、何も答えなかった。
『その子どもは』
 ついで大公さまは、マユをそっけなく見つめた。『……ふ、ヴァラス子爵、そなたの玩具か。芬々と匂いがしておるわ』
 マユはその場に立ち尽くしたまま、小刻みに震えていた。
 最後に、彼の目が私に注がれたとき、何か見えない力で、グイと頭を押さえつけられたようだった。
 動けない。
 そう言えば、イアニスさまにククラにされそうになったときも、こうやって捕えられたのだっけ。
『そなたが、やつの弱点か』
 目さえ反らせない。大公さまの瞳が金色から紅へと変化したとき、私は指先までが縛られていた。

 思えば、すべては筒抜けだったのだ。
 来栖さんや貴柳神父のことはもちろん、私とマユのようなザコまで、一族に関わる人間のすべては、素性をこと細かく調べ上げられていた。
 私がコックとしてこのお屋敷に奉公に上がって二年たらずであること。最初はご主人さまが吸血鬼であることを知らず、必死になって、いろんな料理をお出ししたこと。そして、いつのまにか、ご主人さまを愛してしまったこと。
 亡くなった奥さまのことが忘れられないご主人さまを振り向かせようと、バカみたいに必死になってちょっかい出して、連敗記録更新中であること――。
 全部、全部、知られている。
 『弱点』なんかであるはずはないけれど、ご主人さまはお優しいから、来栖さんや私がピンチに陥ったら、きっと駆けつけて、守ろうとしてくださる。
 それを、この大公さまは狙っているんだ。
 だから、ご主人さまを呼んじゃいけない。心の中でだって、助けてと叫んじゃいけない。
『アレクサンドル、やめて』
 ルイさまが立ち上がって、もう一度私の前に立ちふさがろうとした。『わたしの屋敷で、人間を傷つけることは許しません。たとえ、あなたであっても』
『許しません、だと?』
 楽しげにさえ聞こえる声で、レオニード大公は問い返した。
『この子は、無関係よ』
 ルイさまは言葉を尽くして、必死で私をかばってくださる。
『レオンは空腹をまぎらわすため、この子を料理人として雇っただけ。あなたが考えていることは、見当違いだわ』
『空腹?』
『もう知っているのでしょう。レオンは、この百年間、血を吸っていない。力を失い、死んだも同然。あなたに刃向かう気持ちなんか、もうこれっぽちもないのよ』
 うなだれるルイさまは、まるで雨に濡れた大輪の花のようだった。『お願い、わたしたちをそっとしておいて。戦争はもういや。人間とともに静かに暮らしていたいの』
 クッと息を詰めるような音がした。なんとか視線だけを上げると、レオニード大公が声もなく笑っていた。
『戦争はイヤだと? 人間が戦争を望むのではないか。戦争こそが人間の文明を発達させ、すべての発明はそのために生み出されてきた。より速く、より大量に、より遠くにと。余は、彼らの望みをかなえてきたにすぎぬ』
『違う。人間は、誰もが平和を望んでいる』
『人間は、戦いがないと生きていけない生き物。その証拠に、戦争がなくても、人間は自分で自分の命を絶ち、仲間をいじめ、よこしまな欲望をたぎらせて、破滅に向かっているではないか』
 背筋がぞっとする。この人が言っていることは、一部分では真実を突いている。
『だから、われわれ不死の一族が、導いてやっているのではないか。この地にあふれて自滅する前に、人間を間引くために。
静かに暮らしたいなどと、よくもほざけたものだな。ロシア革命を陰からそそのかした日本に亡命し、工作の中心人物である天羽子爵の名を継ぎ、あまつさえバチカンと結託し、今も大量の資金をギリシャに投入して、余の計画を阻止しようとしているではないか』
『違う!』
 イアニスさまが立ち上がった拍子に、逆立てた藍の髪が勢いよく揺れた。『俺は、ただ俺の領地を守りたかっただけだ。あんたの計画なんか、知らない』
 レオニード大公は、興味なさそうに彼のことばを黙殺し、ゆっくりと移動して、暖炉の前に立った。しばらく無言で火の気のない暖炉の灰を見つめていたが、ふと思い出したように振り向いた。
『これだけ待ってやっても、まだ起きるつもりはないのか、レオン』
 瞳の紅の光が強くなったかと思うと、私は心臓をわしづかみにされたような痛みにもだえることになった。
「わ……うっ」
『早く来ぬと、そなたの女が死ぬぞ』
 だめ、だめ。
 助けを呼んじゃだめだ。
 私を助けようと戦うそぶりを見せれば、この方は反逆者として、ご主人さまを滅ぼす口実を得ることになる。
 私は殺されたって――ご主人さまを、そんな目に会わせるわけにいかない。
「ルカ!」
「だ、だいじょうぶ……です」
『あなたは、悲しい人だわ。アレクサンドル』
 ルイさまの瞳が、火のような怒りの色に染まる。『そんな卑怯な手しか使えないの?』
『卑怯だと?』
 くっくと喉の奥で笑う。『それは、自業自得というものではないのか。やつが最初に、余の妻ローゼマリーをかどわかしたのだ』

 余の妻? かどわかした?
 私は、真っ白になる頭の中で考えていた。
 そうか。略奪愛だったんだ。この人の奥さまだったローゼマリーさまを連れて、ご主人さまは日本に逃げのびてきた。
 やだ、ご主人さまって意外と情熱的。
 けれど、ローゼマリーさまは自分の命を絶ってしまわれた。ご主人さまに残されたものは、想い人を幸せにできなかった罪の意識と、いつまでも報われない愛情だけ。
 そりゃ、奥さまのことが忘れられないよね。どんなに苦しくても、忘れられないはずだよね。
 それって、永久に、私に勝ち目がないってことだよね。
「榴果さん!」
 へたへたと床に崩れ落ちそうになる私を、とっさに誰かの力強い手が背中から抱きとめた。
 振り向かなくても、わかる。この淡いオートドワレの匂いは来栖さんだ。
 私が落ち込むと、いつも助けてくれるのは来栖さんだった。
 ごめんね、いつも。
 ご主人さまじゃなくて、来栖さんを好きになれたら、どれだけ楽だったか。
 人間の気持ちって、ほんとにままならない。自分が愛してる人は、ほかの女性を見つめてるのに、愛することをやめられないなんて。
 自分のことを愛してくれる人の胸に飛び込めたらいいのに、それができないなんて。
 心配そうに私の頭に手を置いていたルイさまが、立ち上がった。「クルス。ルカとマユを連れて、この場を離れなさい」
 ルイさまは、ご自分の体を盾にして、私たちを逃がすつもりなんだ。
「マユ。おまえもだ」
 イアニスさまが、マユの肩をつかみ、ぽんと後ろに突き飛ばした。
「い……いや」
 マユはそうされまいと、イアニスさまの上着のすそにしがみつく。「私、逃げない。イアニスさまのそばにいるんだから」
「わかって、マユ。私たち一族の戦いに、人間を巻き込むわけにはいかないわ」
 ルイさまが、厳しい口調で促す。「さあ、クルス。行って」
「できません」
 来栖さんは、即座に否んだ。「来栖家の男は、伯爵さまに死ぬまで仕えると、契約を交わしているのですから」
「ルカとマユを救うためなのよ」
「それなら、そこにおられる神父さまが、より適任ではありませんか」
 貴柳神父はそれを聞いて、にっこりと笑った。「吸血鬼との戦いにおいては、神父のほうが執事よりは役に立つと思うけどね」
「執事を甘く見てもらっては困りますよ」
 来栖さんも、不敵に笑う。
 ふたりの対峙を見ているうちに、私の心にも火がついた。相変わらず、体は自由に動かないけれど。
「……コ、コック……だって」
「女、女子高生だって!」
 マユも負けていない。
 彼らは驚いて振り返り、あきれたようにため息を吐いた。「やっぱり無理ですか」
『三文芝居は終わったかな』
 レオニード大公の笑みの中に、苛立ちがにじみ出ている。
『終わったわ。そして私たちの結論も出た』
 ルイさまは、毅然と言い放たれた。
『あなたには従わない。もし、あなたがこの国の人に危害を加えようとするなら、あくまで抵抗するわ』
『よかろう』
 レオニードは満足げに白い歯を見せた。『ヴァラス子爵。そなたもか』
『お、俺は正直、人間なんかどうでもいい』
 口とは裏腹に、イアニスさまはマユを背中に隠すように立った。人間はどうでもいいけど、マユだけは別なんだよね。
『ただ、昔からあんたのやり方は気に食わなかった。へどが出る』
『なるほど』
 レオニード大公の目の紅い光が、ますます強くなる。
『それで結局、レオンはどちらを選ぶのだ』
『あの子には、刃向かう気はないと言っているでしょう』
『そうか。それではしかたがないな』
 その言葉が終わる前に、私は「ひい」という力ない悲鳴を上げた。
 息ができない。吸おうとしても肺がふくらまない。
「榴果!」
 来栖さんの叫びを聞きながら、身体を海老のように折り曲げる。
 苦しいと思ったのもつかのま、意識が薄れるにつれて、ふわりと体が浮き上がる。
 ああ、もうすぐお花畑が見えるかな、と頭の片隅で考えた。
 どうせなら、花畑は私が育てたハーブがいい。バラはやめてほしい。ダマスクローズが咲き乱れる花畑なんか見た日にゃ、回れ右して生き返っちゃう。
 いよいよ意識が薄れ、世界が白くなってきた。
 こんな死に方するんだったら、ご主人さまに私の血を召し上がってもらって死にたかったよ。
 ゴクゴクとおいしそうに喉が鳴る音を聞きながら、ご主人さまの腕の中に抱かれて。
 ああ、私の血がこんなにたくさん入っていって、ご主人さまの体と同化するんだって。
 震えるくらい、うれしくって。
 涙が出るくらい、幸せで。

『なんで? どうして愛してくれないの? こんなに尽くしているのに』

 なに? 誰の声?

『全部あげたじゃない。私の何もかも。あなたの行くところ、どこへでもついて来た。それなのに』

 悲しい叫び。心はからっぽで、何で満たそうとしても、満たされない。

『それならば、あなたを永遠に縛って、呪ってやる。私を絶対に忘れられなくなるように』

 やめて、ローゼマリーさま。
 死ぬことで、相手を縛りつけるの? 罪の鎖でがんじがらめにして?
 そうやって、レオンさまが死んだも同然の生を送ることが、あなたの望みなの?

 私は、ただの料理人。ご主人さまを愛する資格もない。
 でも、私はずっと願ってきた。ご主人さまが少しでも元気になってくださるように。
 私の料理を食べて、昔の楽しい想い出にほほえんでくださるように。
 それさえかなえられれば、もう他に何もいらない。おいしく食べてもらえることだけが、料理人のご褒美なのだから。

 でも、私たちの人生って、そういうふうにできているのじゃない?
 与えてほしい、愛してほしい、幸せにしてほしい。そう叫んでいる限り、底が抜けた鍋みたいなもの。いつまで経っても満たされない。
 与えたい。愛したい。幸せにしたい。そう言えるとき、はじめて自分の中がいっぱいに満ちて、外にあふれ出る。
 それが、私がご主人さまのために料理をし続ける理由。料理は、私がご主人さまを幸せにできる、たったひとつの方法だから。
 だから、お願い。ローゼマリーさま。
 私は、あなたの座を奪おうなんて思わない。ただ、ご主人さまを解放してあげて。

「ご……ほっ」
 肺の中にいっぺんに空気が入ってきた。私を押さえつけていた魔力が急にかき消えた。
 激しく咳き込み、涙と鼻水でよれよれになりながら、目を開くと、私の視界に白い光が射しこんできた。
 夜が明けている。開け放たれた両開きの扉から入ってくる朝の薄もやの中で、大きなシルエットがたたずんでいる。
「レオン……」
 ルイさまが、放心したようにつぶやく。レオニード大公は満足げに目を細めた。『待っていたぞ』
 ご主人さまは、まるで刻印を打つように、ゆっくりと強いまなざしで私たちひとりひとりの顔を見つめると、応接間に入っていらした。



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