セフィロトの樹の下で番外編 クリフォト


第4章 「ネツァク(勝利)」               BACK | TOP | HOME





 【すずかけの家】に出勤したセフィロトは、玄関ホールに人だかりがしているのに気づいた。
「おう、セフィ」
「あ、アラタくん!」
 当園の出身者、木暮アラタが、むしゃぶりつくように彼の腕の中に飛び込んできた。
「四ヶ月見ないうちにずいぶん大きくなりましたね。体重が2.2キロ、身長は1.6センチ伸びていますよ」
「相変わらず、身体測定がうまいな、セフィ」
 木暮アラタは、IQ200を越える超天才児だ。
 この3月まで【すずかけの家】で暮らしていたが、「最先端数学の様子を見てくる」と言って、さっさとひとりでアメリカのマサチューセッツに留学してしまった。
 【すずかけの家】の保育教師の間でも、そのことの是非が議論になったが、アラタくんの好きなようにさせてあげることに決まった。
「クレイ数学研究所のほうは、どうなりました」
「ああ、もう飽きた」
「飽きた?」
「今度はインド工科大学へ行こうと思ってるんだ」
「まったく」
 セフィロトは腕組みをして、憤慨したポーズを取った。「すぐにものごとを投げ出すのは、アラタくんの悪い癖ですよ。罰として、少し【すずかけの家】で再教育を受けなさい」
「ああ、言われなくても、夏の間はのんびりするさ」
「でも、帰ってきてくれて、うれしいです」
 セフィロトはもう一度、小さな天才少年を思い切り抱きしめる。
 知的な面ばかりに目を注いで彼を扱ってはならない。そこにいるのは、やはり7歳の寂しがりやの子どもなのだから。
 古洞樹の孤独な少年時代を記憶するセフィロトには、そのことがよくわかっている。
「それはそうと、アラタくんの留守中に、7歳児クラスにロボットの新入生が入ったんですよ」
「ああ、今聞いたところだ」
「びっくりしますよ。アラタくん顔負けなほど、口が悪いですから」
 その日の7歳児クラスの社会は、アラタくんをみんなが取り囲んで口々にしゃべるので、授業にならなかった。もちろん担任の胡桃はにこにこしながら、その様子を見ている。
 ようやく輪の中から抜け出したアラタは、隅でひとり離れて座っているクリフォトに近づいた。
「おまえとセフィと同じ型式のロボットなんだって?」
 と手を差し出す。もちろんクリフォトは顔をそむけて返事もしない。
「ふうん、ばかばかしくて答えられないのか。じゃ、初歩的なところで、M理論における6次元のカラビ・ヤウ多様体について、話し合おうじゃないか」
 彼はわずかに黒い眼球を動かして、アラタを見た。
「どうせ俺と話さなくても、自分で完璧な証明ができるんだろう。時間の無駄だ」
「へー。なるほど」
 アラタくんは膝を打って大笑いした。
「すげえじゃないか。セフィ。こいつ、おまえを同じAR8型のくせに、言語プログラムを自分で改変してやがるぜ」
「え?」
「だって、人間に対して丁寧語を全然使ってない。おまえはいくら俺と特訓しても、できなかっただろう」
「そ、そう言えば」
 セフィロトは、呆然としゃがみこんだ。「全然、気づきませんでした」
「こいつ、おまえより、よっぽど優秀なロボットだぜ。なんなら、弟子になったらどうだ」


「今日は、みんな楽しそうだったわね」
 授業が終わり、教員室への廊下を歩きながら胡桃が言った。「4歳のときから三年間、寝食をともにした仲間たちだもの。強い絆があるのね」
「はあ……」
「どうしたの、セフィ」
 ふたりは本館への渡り廊下で立ち止まった。
「アラタくんの言ったことを考えていました」
 セフィロトは、正直に認めた。
「わたしにはできなかった言語プログラムの改変を、クリフォトは易々とやっている。なんだか、わたしより彼のほうが、【自律改革型】の名にふさわしい柔軟性を持っているような気がしてきました」
「気になるの?」
 胡桃がぐいぐいと詰め寄ってきたので、セフィロトはアーチの柱に押しつけられた。
「そ、それはやはり、気になります」
 口ごもりながら、答える。「同じ設計のロボット同士なのですから。少しでも違いがあれば、自分の成長過程に何か欠陥があったのかと考えてしまいます」
「つまり、ライバル意識?」
「まあ、有体に言えば、そうなります」
 週末に古洞家に来たときにクリフォトが言い放った言葉にも、セフィロトは引っかかっている。
『今のおまえはロボットが本来持っていた能力を捨てて、人間をかたどった人形になっているだけだ』
 もしそうだとしたら、自分は古洞博士や犬槙博士の望んだようなロボットではなくなってしまったのだろうか。人間のパートナーであり人間を助ける高度な能力を持つ存在として創られたはずなのに、自分のプログラムさえ満足に変えることができない不自由な存在。
 やはりクリフォトに指摘されたとおり、人間を真似ることに夢中になりすぎたのだろうか。
 ライバル意識などという小ぎれいな言葉では足りないほどの劣等感が、じわじわとこみあげてくる。人工知能が錆びてしまいそうなほど、醜い気持。
「セフィ」
 胡桃はいたずらっぽく微笑みながら、じっと彼を見上げている。
「わかりやすいなあ、あなたって。こんな汚い気持は捨てなきゃと思っても捨てられなくて、今自分を責めてるんでしょう?」
「ええっ? また顔に書いてありますか」
 思わず、自分の頬をぺたぺた触る。「もう少し表情を隠すことを学ばなくては」
「そうよ。そんなだと、浮気してることがすぐにバレるわよ」
「冗談じゃない、わたしは浮気なんかしてません!」
「ほんとかな? 証拠を見せて」
 子どもたちが覗いていないのを赤外線透視で確かめてから、夫婦は長く熱烈なキスを交わした。


 その夜、ホームコンピュータ【エリイ】を通して、犬槙博士からの通信が入った。
「やあ、すまないね。仕事がひと段落ついたところで、きみと話したくなったんだよ」
 博士はコーヒーカップ片手に、いつもの茶化したような笑みを浮かべていた。「ふたりだけの夜に、お邪魔だったかな」
「いいえ」
 早番をこなした胡桃は、もうとっくに眠りについている。博士がこんな非常識な時刻を選んだのは、彼女に聞かせたくない話のためだなとセフィロトは悟った。
「ちょっと気になってね。クリフォトはどうしてる」
「【すずかけの家】での生活にすっかり慣れたようです。でも、相変わらず食事の時間にはそっぽを向き、授業でもひとこともしゃべらず、人間らしい表情や仕草をまったくしようとはしませんが」
「頑固な奴だなあ」
「あの……犬槙博士」
 セフィロトは、照明を落とした部屋の中で、しぼり出すような声を上げた。
「なんだ」
「クリフォトを創ったリウ博士という方は、どんな方だったのですか」
 【エリイ】の画面の向こうの笑顔が、瞬時に険しくなった。
「リウ博士は、世界でもトップクラスのロボット工学博士だった。最高のロボット研究者に与えられる【アシモフ賞】を、樹と僕が受けた前年に受けている。年は、40歳前後だったと思う。直接会ったことはないが、僕たちは、彼の人工知能理論には絶えず刺激を受けていた」
「四ヶ月前に亡くなったのは、なぜですか」
「自殺だ」
「自殺……」
「AR8型ロボットのコピーが杭州にあることをようやく突き止めた中国当局が、リウ博士の研究所を家宅捜索した直後だった。取調べの隙をついて、首を吊ったらしい。機密を盗んだことを恥じたのだろうな。ずっと何年にもわたって、ユエ・コンツェルンから莫大な資金援助を受けていたと聞いた。そのせいで、組織の命令には、逆らいたくとも逆らえなかったのだろう」
「クリフォトは、そのときどこに――」
「隣の部屋に立っていたらしい。博士の死んだ部屋へ通じる扉をじっと見つめながら」
 セフィロトは、ぎゅっと目を閉じた。
 彼を創った罪ゆえにマスターが死を選ぶことを、生まれたばかりのクリフォトは理解しただろうか。だとしたら、どんな思いで。
 【暴力禁忌プログラム】は作動したはずだ。死のうとする博士を最後まで止めようとしただろうか。それとも、絶対に手を出すなと命令され、従うしかなかったのだろうか。
 だとしたら、彼の人工知能を、どれほどの葛藤が揺さぶっただろう。
 クリフォトはそのとき、自分はマスターから捨てられたのだと思っただろうか。
「セフィ」
 犬槙博士がか細い声で呼びかけた。
「きみは、まだクリフォトの初期化には反対なのか」
「……はい」
「僕もわからないんだ。だが正直言って、彼の背負っている荷は、あまりに重すぎる。僕はずっときみを見てきたから、どうしても比べてしまうんだろうな。きみは生まれたときから、いや生まれる前から、深い愛情に囲まれていた。樹や僕や胡桃ちゃん。そして【すずかけの家】の人々。みなに愛され、自然にみなを愛することを学んできた。だけどクリフォトは、そういうものが与えられる環境には、はじめからいなかった」
 縁なしの眼鏡の奥から、一筋の涙が流れ落ちた。
「AR8型を設計した者のひとりとして、僕は彼を見るのが耐えられないんだ。今からでも遅くない。すべてを取り戻してやりたいんだよ」
 セフィロトは、唇をきゅっと噛んだ。長い沈黙があった。
「もう少しだけ、考えさせていただけますか。時間をください」


 7歳児クラスの騒動は、次の日に頂点に達した。
 算数の小松先生が、授業時間の最中に、血相を変えて教員室に飛び込んできたのだ。
「なんとかしてください、皆が騒いで授業になりません!」
 と唾を飛ばして栂野園長に詰め寄る姿は、いつも冷静な小松先生にしては異常なほどの激昂ぶりだ。
「この園に十年勤めていますが、こんな屈辱ははじめてです」
「でも、相手が木暮アラタじゃ、しょうがないですよ」
 憤慨する小松先生を、園長がなんとかなだめようとする。
「アラタくんは、留学先で高等数学を専攻してきたわけですし、小学校の算数はものたりないのでしょう。だから生徒たちも彼に同調して、算数をバカにしたい気分なのですよ」
「そうじゃありません。木暮アラタはクラスでたったひとり、授業を真面目に聞いています」
「え?」
「それ以外の八人、今までは男児ばかりだったのが、いまや女児まで一致団結して、僕の授業をボイコットしているのです。クリフォトのほうが教師になるべきだと言って」
「ええっ」
 栂野、小松、胡桃、セフィロトの四人が教室に走っていくと、教室の外の廊下でアラタがうずくまっていた。
「俺も締め出されちまった」
 アラタは、ひどく憔悴した笑みを浮かべた。
「悪いな、俺の不用意なひとことのせいで、こんな大騒ぎになっちまった」
「どういうことですか。わかるように説明なさい」
 と園長が詰問した。
「きのう俺が、セフィよりもクリフォトのほうが優秀なロボットだと言ったんだ。まったくの冗談のつもりだったのに、今朝になって男子どもが騒ぎ出した。セフィが先生で、クリフォトが生徒なのはおかしいって。優秀なほうが教師になるべきだって。女子まで、その騒ぎに巻き込まれちまった」
「まったく、何があったかと思えば」
 栂野先生は、呆れたように叫んだ。「バカげています。教師の資格はただひとつ。生徒のことを思いやれる心です。それがなければ、どんなに優秀でも教師にはなれないんです」
「バカげたことかもしれないけど、けっこう深刻な話なんだぜ」
 アラタは髪の毛を、わしゃわしゃと掻いた。「猿山と同じだ。群れはいつだって強いボスにつきたがる。誰が強いかっていうのは、俺たち子どもにとって一番大切なことなんだ」
「【ギャングエイジ】と呼ばれる、この年齢特有の集団意識や反抗心が働いてるのね」
 と胡桃がつぶやいた。
「それだけじゃなくて、今回のボイコットは、どうもクリフォトが裏で糸を引いてるような気がするんだがな」
 アラタが悲しげに言った。「あいにく、オレは留守してるあいだに部外者になっちまったらしい。いくら説得しても無駄なんだ」
「ほっときなさい。無視していれば、そのうち飽きて、騒ぎは静まります」
「でも、そういう及び腰の対応は、逆に教師への不信感をあおることにならないでしょうか」
 胡桃が言った。「生徒たちは、自分の意見を大人がどれだけ真剣に聞いてくれるか、試しているのだと思います」
「わかりました」
 セフィロトが静かに言った。「それじゃ、猿山のボス猿同士の戦いをしましょう」
「ええ?」
 居合わせた者たちは、唖然とした。
「わたしとクリフォトが、力比べをします」
「ち、力比べだなんて、暴力はいけません」
「いえ、暴力ではありません。人工知能勝負です」
 と、余裕すら見える表情で言う。「たぶん数学がいいでしょう。わたしがクリフォトに勝てば、子どもたちはとりあえずは納得して落ち着くはずです」
「な、なにを言う。勝負なら僕がやるよ。もともとこれは、僕の授業の問題なんだから」
 と雄々しく啖呵を切ったあと、居並ぶ先生たちの疑わしげな視線を浴びて、小松先生はたちまちしょぼくれた。「人間が計算でロボットに勝てるわけ……ないよな」
「小松先生、いいんです」
 セフィロトはにっこり笑う。「これはAR8型の性能に関する競争でもあるのですから。先生には、勝敗の判定をお願いします」
「でも、セフィ。勝てるの?」
 心配げな妻の目を見つめ返しながら、セフィロトは決然と言った。
「勝ちます」


「ふたりには、格子QCD数値計算をやってもらう。もちろんクエンチ近似を使わないフェルミオン積分で」
 7歳の木暮アラタが厳かに宣言する。
「な、なんのこと?」
「前世紀には最新のコンピュータでさえ数年かかると言われた、超難解な計算のことだよ」
 ひそひそと囁き合う教師たちを尻目に、ふたりのロボットは巨大な電磁ボードの前に隣り合って立ち、指をすべらせ始めた。
 面倒なことは拒否するかに思われたクリフォトだったが、意外とあっさり、この【兄弟】対決を受け入れた。
 セフィロトに負けたくないという敵対心が、彼の中に生まれているのかもしれない。
(わたしだって絶対に負けるわけにいかないんだ。この【すずかけの家】の教師としての名誉のために)
 人工知能の中で、十六面体に計算式を構築して並列処理し、電磁ボードに次々と答えを記していく。その演算処理のために、ふたりの瞳は肉眼では見えないほどの速さで、チカチカと金色に瞬いている。
(絶対に勝てる。造られてまだ半年のクリフォトに比べて、わたしの人工知能はニューロン結合がずっと進んでいる。処理能力はわたしのほうが速いはずだ)
 セフィロトの指が一瞬止まった。
(でも、もしわたしが勝ったら?)
 7歳児クラスの子どもたちは、負けたクリフォトに、がっかりした視線を向けるだろう。せっかくクリフォトと彼らの間に仲間意識が芽ばえかけているのに。
 また思い直す。
(いや、全員で授業をボイコットするなんて、どんな理由があろうと赦していいはずがない。そのことを教えるためにも、この勝負に勝たなければ)
 だが、こうも思う。
(最初の仲間をクリフォトから奪うことになるかもしれないのに、そこまで教師としてのプライドにこだわるべきなのか)
 いや、教師としてではない。何よりも、AR8型ロボットとしてのプライド、オリジナルとしてのプライドだ。
 わたしは、心のどこかでクリフォトを見下していた。かわいそうな境遇を憐れむことで、自分が上に立とうとしていた。
 憐れまれた側は、誰よりもそのことを敏感に感じ取り、傷ついていたに違いない。
(わたしは間違っていた。わたしは――今、勝ってはいけない)
「できた」
 クリフォトが電磁ボードから指を離した。
 「ええっ」と、観衆から驚きの声が上がる。始まってから30分と経っていない。
 勝ち誇ったとも見える落ち着いた仕草で、クリフォトは彼らに向かって振り返り、そして最後に、セフィロトに向き直った。
「負けたよ」
 セフィロトは恥ずかしそうに微笑み、頭を下げた。
「きみは、わたしよりも早く正解を導き出している。完敗だ」
「どうなんだ、小松先生」
「あ、合ってます……」
 【すずかけの家】のコンピュータで、前もって答えを計算していた小松先生は、おろおろと答えた。
「セフィ先生が負けた。クリフが勝った!」
 7歳の生徒たちは歓声を上げ、クリフォトのもとに走り寄った。「これで、クリフが僕たちの先生だ」
 そのとき、教室の隅から甲高い笑い声が聞こえた。
「バーカ、どこに目をつけてるんだ、おまえたち」
 木暮アラタだった。
「セフィ先生が、ときどき心配そうに、ちらちらとクリフォトのほうを見ていたのに気づいてなかったのか。クリフォトは計算だけに没頭して、一度も回りを見なかった。あれじゃ、勝てっこねえよ」
「そのとおりですよ」
 栂野園長が、巨体を揺すって進み出た。
「生徒の様子に絶えず目を配るのが、教師の仕事です。セフィ先生は、あの熾烈な勝負の最中にも、そのことを忘れなかった。そのうえで、潔く自分の負けを認めました。計算勝負に勝ったのはクリフですが、本当の勝利を得たのはセフィ先生だと思いますね」
「おまけにさ、なぜセフィ先生は、クリフォトの答えが正解だと言えたと思う?」
「え?」
 一同が静まりかえる中、アラタはつかつかと教室の真正面へ向かい、電磁ボードの端のレバーをスライドさせた。
 たちまち、ボードの右半分に、計算式がオーロラのようにキラキラと浮かび上がった――セフィロトがぎりぎりの瞬間に、わざと表示させなかった部分が。
 そこに現われた解答は、クリフォトの出した解答とまったく同じだった。





使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。
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