第1章 「新しい一歩」(2)                      BACK | TOP | HOME




「すっかり元通りになりましたね」
 セフィロトのやんわりした皮肉に、犬槙博士は苦笑した。
 確かに【犬槙・古洞ロボット工学研究室】は、元通りになっていた。つまり、いろいろな部品が作業台に山積みにされ、今にも崩れ落ちそうになっていたのだった。
「AR9型の開発を再開したのですね」
「ああ、隠し場所から搬入してもらったんだよ。今度のごたごたで計画より大分遅れたから、ピッチを上げているところなんだ」
 腰をかけたセフィロトに、置いてあった自分のマグカップを少し持ち上げてみせる。
「きみも、飲む?」
「いいえ、さっき胡桃といっしょに飲んできたばかりですので」
「そういえば、胡桃ちゃんの様子はどう?」
 彼がコーヒーのおかわりを入れて戻って来るのを待って、セフィロトは答えた。
「元気になったようです。今朝はいつもどおりに、【すずかけの家】に出勤しました」
「今回のことでは、相当まいっていたようだったから、気をつけてあげてくれ」
「はい」
「で、きみのほうは?」
「わたし、ですか?」
 セフィロトは、きゅっと唇を結んだ。
「以前と変わりない、と思います。少しどこかが違っている気もしますが……、どこがと特定することはできません」
「そうか。気づいてないのなら、あえて教えることもないな」
「え?」
「まあ、胡桃ちゃんを独り占めにしているきみへの腹いせに、これくらいの意地悪は許されるだろう」
 犬槙はとぼけながらその会話を一方的に終了させてしまうと、足を組みなおした。
「今日呼び出したのはね、今から柏さんに会いに行ってほしいからなんだ」
「柏審議官に?」
「なんと今日付けで、この「国立・応用科学研究所」の所長になりやがった。いや失言、ご栄転あそばされた」
「そうだったのですか。では、犬槙博士の上司になられたのですね」
「ああ、不本意ながらね。もともと科学省の審議官という地位も、いろんな内偵を専門にやっているための方便だったわけで、本来はもっとトップに立つべき人材なんだよ、彼は」
 眉をひそめながらも、心の底ではどこか愉快がっているような顔をする。
「で、今日僕への最初の命令が、きみを連れて来いっていうんだ。なるほど、きみは一度柏さんのもとで働くという意思表示をしたわけだから、その件はどうなってるんだと言いたいんだろう。どうもまだ、きみにご執心みたいだ」
「はい……」
「まあ、自分の責任で釈明してきてくれ。所長室は、ここの最上階、ワンフロアのぶち抜きだ。これがきみ用にと渡された専用のセキュリティカード。くれぐれもひとりで来させるようにとの命令だからね」
「わかりました」
 カードを受け取って立ち上がるセフィロトを、犬槙博士は少し目を細めて見上げた。
「セフィロト」
「はい」
「ひとつだけ、聞きたい。……樹は、本当に僕を憎んでいたのか?」
 セフィロトは硬直したように、しばらく彼を見つめ返した。そして、もう一度椅子に座った。
「古洞博士は、あなたのことをただひとりの親友だと思っていました。そうではないのですか」
「そうだ、そして僕もそうだったよ」
 小さなため息とともに犬槙は椅子を半回転させて、苦しげな横顔を見せた。
「樹が死んだとき、僕は自分の半身が死んだみたいだと思った。研究のパートナーというだけではなく、こんないい加減な僕にとって、あいつは十年来のかけがえのない大切な友だった。だけど……」
 逡巡したあげく、一気にことばを吐き出す。
「同時に僕は、彼の妻である胡桃ちゃんに対する想いをずっと抑えていたんだ。樹はそれをすべて知っていたに違いない。だから、【人格移植プログラム】に託して、あんなことばを言わせたのだと思う」
「あんなことば?」
「覚えていないかな。きみはこう言ったんだよ」
 ――俺が死ねばいいと待っていたんだろう? 俺のことを憎んでいたんだろう、魁人。俺もそうだったよ。いつ胡桃を奪われるかと不安に駆られて、おまえのことを憎んだ――
「それは、半分当たっていたよ。
あいつが死んでから、僕はもう、自分が止められなくなっていた。悲しんでいる胡桃ちゃんをめちゃくちゃに抱きしめて、自分のものにしたい。
そして、心の片隅にいつのまにか、樹が死んだことを喜んでいる自分が住み着きはじめたんだ」
 彼はセフィロトを目の端に見て、悲しそうに微笑んだ。
「僕は、きみのことがずっと怖かったんだよ、セフィロト。きみの中の樹を恐れた。すべてを見抜かれているんじゃないかと。
胡桃ちゃんがきみに心を傾け始めたのを見て、実はほっとしていたんだ。僕がこれ以上、人間以下のものにならなくてすむことを。だからふたりを焚き付けるような真似もした。
今は心から安堵しているよ。胡桃ちゃんはきみを愛している。永久に僕のものにはならない。万歳だ。うれしいよ。少し疲れたけどね」
 彼は自虐的にくすくすと笑った。
「……ねえ、セフィロト。
人間は模範にするに値する存在じゃない。自分を見ているとそう思うよ。友の死だって喜べてしまう。人を憎んで妬んで、限りがない。機械のほうがどれだけ美しい生き方をしていることか。
きみには、決してそんな醜い人間を見習ってはほしくないんだ」
「犬槙博士」
 セフィロトは、静かに答えた。
「わたしには、古洞博士の本心がどこにあったのか、わかりません。ただ、わたしの深層プログラムにはこう書き込まれています」
 すっと瞼を閉じる。
「あなたが胡桃を愛しておられることを博士は知っていた。そして自分自身は、どんなに胡桃を愛してもやがてこの世から去ってしまうことも。
死を受け止めながらも死を恐れ、あなたをただひとりの親友と信じながらも、あなたに対するかすかな猜疑心と嫉妬に苦しんでいた。そしてそんな気持ちを抱く自分を、博士はたまらなく嫌悪しておられた」
「そうか……」
「そういう負の感情をあえてプログラムに書き込まないこともできたはずです。でも古洞博士はそうなさらなかった。何も隠そうとしなかった。それが博士が、人工知能理論の完成のために遺した答えだからです」
「樹の遺した答え?」
「『それゆえに、人は人を愛し、求めるのだ』と……」
 セフィロトがゆっくり目を開くと、その視覚回路に映ったのは、犬槙が涙を流している姿だった。
「犬槙博士」
「ありがとう、セフィ」
 そして眼鏡を外して、両手で顔をおおう。
「ありがとう……樹」




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