第1章 「新しい一歩」(4)                      BACK | TOP | HOME




 【すずかけの家】の園庭は静かだった。
 早番の保育教師たちに付き添われて、子どもたちは今朝食中なのだろう。
 2月も終わりの朝の空気が、寒々と澄み切っている。
「またここに、戻ってくることができたのですね」
 門から中に入るとき、セフィロトは感慨深げにつぶやいた。
「きっと大騒ぎになるわ。あなたが今日から出勤だってことは、子どもたちにはまだ言ってないから」
「40人がいっぺんにしゃべる、あの賑やかな声を聞けるのが待ち遠しいです」
「そうね、毎日聞いてると、うるさくて大変だけど」
 私たちは、すずかけの大木の下で立ち止まった。
「セフィ」
 そっと互いの手を握り、どちらともなく木の梢を見上げる。
「あなたがこの木の下で『なつかしい』と言っているのを見たとき、まるで樹みたい、樹が立っているみたいだと思ったの」
「そうかもしれません。あのときわたしの中で古洞博士の記憶が再生されていましたから」
「樹の深層プログラムは、今でもまだセフィの中にあるのね」
「はい」
「どんな感じなの? 樹がしゃべりかけてくるみたい?」
「いえ、ただそのときどきに専用のニューロンが働き始めるのです。
たとえば、コーヒーを淹れようとしたとき。古洞博士の感じておられた味がわたしの人工知能の知覚回路で再構成されます。博士の経験した感情や記憶が、わたしが似たような状況に遭遇したとき、階層間の共有化を開始し……」
 そして、困って眉をひそめる。
「すみません、人間である胡桃に説明するのは難しいのです」
「いいの。ありがとう」
 私が遠くを見るような表情をしているのを見たのだろう、彼はたずねた。
「胡桃は、また古洞博士のことを思い出しているのですね」
「ううん、そうだけど、そうじゃないの」
 つないでいた手に力をこめた。
「私がここで働き始めて最初に樹に会ったときも、彼はこの木の下にいた。なぜだかこの木を見てると、研究のヒントが浮かんでくるっていうのよ。なんで木とロボットが結びつくのかなあって思っていたの。
でも、やっとわかった。樹はあのときからセフィ、あなたのことを考えていたんだわ」
「わたしの……?」
「天国に生えているという生命の木【セフィロト】。広大な宇宙と、その雛形である人間のからだという小宇宙を象徴する木。樹はあの頃すでに、【人格移植プログラム】の構想をこの木から得ていたのだと思う。自分の命をあなたの一部として託すことを。
このすずかけの木を見上げながら、生命の木をはるかに見上げるつもりになって」
「そうだったんですか」
 私たちは、顔を見合わせて微笑んだ。
「だからこの木は、セフィロト、あなたの木なのよ」
「はい」
 そのとき、校舎からたくさんの子どもたちが飛び出して、歓声を上げながら園庭を走ってくるのが見えた。


「園長先生。長いあいだ休んですみませんでした」
 セフィロトが園長室に挨拶に行くと、水木園長は椅子から飛び上がって、思いきり相好を崩した。
「いいえ、よく戻って来てくれました。セフィ先生。もうからだはすっかり良くなりましたか」
「はい」
「胡桃先生は、あなたがいないあいだ、そりゃあひどい授業をなさっていたんですよ。教科書の同じところを何度も読ませたり」
「み、水木先生、そんなことバラさなくても」
 あわてる私に、園長はいたずらっぽくウィンクする。
「樹くんが亡くなったときでも、あんなにひどくはありませんでした。胡桃さんは本当にあなたを大切に思っているのだと感じましたよ」
 セフィロトは、少し赤くなってうつむいた。
「もう二度と、いなくなったりしないでくださいね」
「はい」
「本当なら、今日にでも全員で全快祝いをしてあげたいところなのですが、実は午後に新任の先生の到着がありましてね。準備でごたごたしているのです」
「あら、それじゃ教育省から派遣されることが決まった副園長先生って、もう着任されるのですか」
 私は驚いてたずねた。確か4月の新学期からと聞かされたはずだった。
「はい。とても優秀な人材でね。エリート官僚としての将来が決まっていたのに、教育現場にたずさわりたいとわざわざ志願なさったそうですよ」
「熱心な方で、うれしいですね」
「なので、その方の歓迎もかねて、明日盛大なパーティをするということでどうでしょう」
「あの、園長先生」
 セフィロトは顔を上げると、言った。
「実はお願いがあるのですが」


 その日の屋内朝礼で講壇に立った水木園長は、かたわらにセフィロトを呼んだ。
「長い間お休みしていたセフィ先生が、今日からまた皆さんを教えてくださることになりました」
 4歳から9歳までの40人の子どもたちと保育教師たちのこぼれるような笑みが、彼の上にそそがれる。
「ひとこと、セフィ先生からみなさんにご挨拶があります」
 壇上に登ると、セフィロトは、
「長い間、心配をかけてすみませんでした」
 一礼をする。それから緊張した面持ちで一同を見渡した。
 大切な話だと気づき始めた子どもたちは、次第に身じろぎをやめた。
「実は、今までずっとみなさんに隠していたことがあります。今日【すずかけの家】に戻ってくることになって、そのことをどうしても、みなさんに話さなければならないと思いました」
 どこかで息をのむ気配がした。多分、織江先生かさくら先生だろう。
「わたしは本当はロボットなのです。胡桃先生の亡くなったご主人、古洞博士に作られたAR8型セフィロトというロボットです」
 彼は私のほうを見た。勇気の補給が必要だと言わんばかりに頼りなげに。
 私は笑って、ただうなずく。
 彼がロボットであることを【すずかけの家】で打ち明けようと決めたのは、その前の日だった。
 確かにそれは賭けだった。
 今の日本では、ロボットと言えば単純労働に従事する能力しかない、人間より一段低い存在というあからさまな差別がまかりとおっている。セフィロトがロボットであることが知れれば、たとえ人間に負けないだけの知識を持ち、人一倍の努力をする彼であっても、教師になってほしくないという子どもや同僚教師が現われるかもしれない。
 それならばそれで仕方がない、と私たちは覚悟を決めた。
 ロボットであることを隠して生きるのではなく、誇りを持てるようになってほしい。それがセフィロトのために、そしてロボットの未来のために何より必要なことだと、私たちは話し合ったのだ。
「長い間このことを黙っていたのは、秘密にしておかなければならないと科学省に言われていたからです。でも理由はどうあれ、みなさんを騙して人間のふりをしていたことには変わりありません。ごめんなさい」
 子どもたち、そして教師たちのあいだにも、困惑が広がるのがわかる。きっと聞いたことが信じられない気持ちが大半だったのだろう。
 無理もない。これほど人間らしいロボットには、今まで誰も接したことがなかったのだから。
「わたしはこの【すずかけの家】が大好きだし、みなさんのことが大好きです。ここでずっと働けたらすばらしいと思っています。
でも、もし……、ロボットに教えてもらいたくないという人がこの中にひとりでもいたら、あとで園長先生に申し出てください。そのときは、わたしは補助教師を辞めます」
 そう言い終えると、セフィロトは唇をかみしめる。
 部屋は、しんと静まり返ってしまった。
 そのとき、子どもの甲高い大声が響いた。
「なんだよ、別にロボットだってかまわねえじゃん」
 木暮アラタくんだった。
 ちょっとひねた言葉づかいで、照れ隠しにどこかあさってのほうに顔を向けながら。
「ロボットだって人間だって、セフィはセフィなんだからさ!」
「アラタくん……」
 涙がにじみだした私の目に、「うん、そうだね」と互いの顔を見交わして口々に同意する子どもたちの姿が映る。
 結局、セフィロトを拒否する者は誰一人いなかった。それどころか彼を歓迎する満場の拍手で、部屋は割れんばかりだった。


「アラタくん、さっきは助けてくれて、ありがとうございました」
 朝礼のあと、セフィロトはアラタくんに丁寧に頭を下げた。
「ばっかだなあ。隠しときゃいいのに。不必要な苦労をしょいこんだみたいなもんだぜ」
 5歳なのにIQ200を越える知能を持つアラタくんは、大人びたしゃべりかたを身につけて、今や【すずかけの家】の子どもたち全員から一目置かれる存在になっていた。
「そうかもしれません」
 セフィロトはにっこり笑った。
「また困ったときは、今みたいに助けてくださいね」
「甘えるなって。オレだって世渡りのためには、そうそう一人の味方はしてられねえっつーの!」
 職員室に入ると、また大勢の教師が近寄ってきた。
「カッコよかったぜ。セフィ。惚れ直した」
 そう言いながら彼の髪をくしゃくしゃと乱したのは、すごい美人なのに男ことばを使う伊吹織江さん。理科の先生だ。
「セフィ。帰ってきてくれて、本当にうれしい」
 と涙をうかべて微笑むのは、国語教師の北見さくらちゃん。セフィロトに淡い思いを抱いているかわいい女の子だ。クリスマスイヴには、ふたりきりでデートしたこともある。
「ずっと心配していてくれたと、胡桃から聞きました。すみませんでした」
「セフィ……」
「わはは、いやあ、ほんとに無事でよかったよかった」
 さくらちゃんと向き合うセフィロトをうしろから羽交い絞めにしたのは、若手の男性体育教師、椎名先生。すっごくご機嫌だ。
「おまえがよかったのは、セフィ先生がロボットだったことだろ。これで自分も、さくら先生に振り向いてもらえるかもしれねえって」
「あ、伊吹先輩、ひどいなあ。小躍りしてたのは、小松先生のほうですよ」
 椎名先生は、同僚の数学教師、小松先生を巻き添えにした。
「な、何を言ってるんだ」
「こないだ数次方程式の計算競争で、セフィに負けたことをずっと根に持ってたんだろ? さっき廊下で、『ロボットじゃ仕方ない、だいたい相手が人間なら絶対に負けないはずなんだ』なんて、ひとりで鼻息荒くつぶやいてたくせに」
「出鱈目言うな、私は誰が相手だって負けないぞ」
 びしっとセフィロトに指をつきつける。
「いいか、今度は数学のプロのメンツにかけて、勝ってやるからな」
「はい」
 笑顔でセフィロトは答える。
 よかった。こんなに幸せそうな彼を見るのは久しぶり。ロボットであることをずっと隠していたことが、どれだけ彼の負い目になっていたのだろう。
 みんな、特別扱いしないで彼のことを受けいれてくれている。やっぱり本当のことを言って正解だった。
 と、私は思っていた。
 ――その日の昼休みが終わるまでは。


 午後になって、新任の副園長が到着した。




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