第3章 「柔らかな迷路」(2)                  BACK | TOP | HOME




 地球温暖化のため、日本の海岸線は百年前とはすっかり面代わりしてしまった。
 景勝地と言われているところはほとんどがその姿を消し、さらに島々が没したために、島国である日本はかなりの国土と広い領海を失った。22世紀の日本の海岸は、ほとんどが護岸工事による人工的な風景だ。
 それに比べれば、山々の稜線や山あいの景色は、まだ昔の姿をとどめていると言われる。
 週末を利用して、私たちは【すずかけの家恒例・新緑ハイキングコース】の下見に、栃木県の龍王峡に来ていた。
 鮮やかな若葉の色に染まった雄大な自然の中で思い切り空気を吸い込むと、今までの仕事の疲れが全部吹き飛んでしまうような心地がする。眼下の白っぽい奇岩のそばで、セフィロトが歓声を上げながら川の水をすくっては、シーダに飛沫をかけている。
 よほど川遊びがうれしいのだろう。少し前なら絶対にできなかったこと。
 ジョアン・ローレル博士を迎えて始まった日米共同研究プロジェクトの最初の成果が、この防水機能だった。
 直径0.04ミクロンという非常に薄い人工蛋白の微粒子を皮膚にコーティングすることで、セフィロトは今までのように湿気や水を怖がらなくてよくなったのだ。


 SR12型シーダをいっしょに連れて行こうと最初に提案したのは、セフィロトだ。
「日本の四季の移り変わりの美しさをシーダに見せてあげたいんです。ピッツバーグにいたときは、研究所との往復ばかりで、あまり自然の中を歩いたことがないらしいんですよね」
 セフィロトとシーダと私の三人というメンツでは、どう考えても、あぶれるのは私。そこでシーダのマスターのジョアン・ローレル博士も無理やりに誘う形になった。
 とは言え、ハイキングに行くと言っているのにタイトスカートで現れた彼女には、唖然としてしまったが。聞けば、生まれてから一度も山を歩いた経験がないらしい。
 樹もそうだったが、天才科学者というのは、どうしてこうも自分の体を動かすことを厭う人たちが多いのだろう。
 美しい金髪を汗でぼとぼとにして、ジョアンは木にもたれながら喘いで言った。
「クルミが今日私を誘ってくれたのは、さしずめカイトの陰謀かしら」
「あ、あら。どうしてそんなことを?」
 とぼけて答えたものの、ジョアンの勘は半分は当たっていた。
『あいつがいると、ちっとも仕事が進みやしない』
 以前からずっと、犬槙さんに電話で泣きつかれていたのだ。
『胡桃ちゃん。お願いだから助けると思って、一日だけでもあいつを僕から引き離してくれないか』
 応用科学研究所でのジョアンとの激論の毎日のせいで、仕事はおろか、あまたの女性たちとデートする気力もないとか。
 共同研究プロジェクトチームが立ち上がって数週間。犬槙さんとジョアンのあいだには何の研究も行われていないどころか、険悪な空気だけが漂っているようだ。
 そんな中で、以前から完成一歩手前だった防水機能をさっさと実用化させてみせるところが、策士の犬槙さんらしいところだ。これでお偉方も、プロジェクトに一応の成果は上げられたとご満悦だろう。
「犬槙さんと仲が悪いのは、いつからなの?」
 と私が飲料水を差し出すと、ジョアンはそれを受け取りながら、いつものからかうような微笑を見せた。
「クルミって、けっこう聞きにくいことを、ずばりと聞くのね」
「気に障ったらごめんなさい。でも、犬槙さんの話を聞いていると、決してジョアンのことを嫌っているわけではないと思うの。ロボットについての考え方で少し行き違っているのは確かだけど、なにかの誤解が解けないまま、意地を張って障壁を築き合っているようにも感じる。もしそうだとしたら、それはお互い不幸なことでしょう?」
 私と父が、長い間そんな関係だった。幸いにして、去年父が日本を訪れたとき、セフィロトがふたりの間の障壁を壊してくれたのだけれど。
「私とカイトのことは、誤解ではなく真実が障壁なのよ」
「真実が?」
「14年前、ピッツバーグの夏季プログラムで出会ったとき、カイトと私はすぐに付き合い始めたの。男女の仲にもなったわ」
 ジョアンは遠くの紫の山々に視線をそらしながら、さらに爆弾発言をした。
「でも、そのとき私が魅かれていたのは、本当はイツキだったの」
「ええっ?」
「もちろん」
 ジョアンは私を安心させるように、ふっとやわらいだ横顔を見せた。
「イツキは私に見向きもしてくれなかったわ。関心があるのはロボットのことだけ。もし彼が生きていて再会したとしても、私の顔なんて覚えてないわね。せいぜい、昔どこかでロボットについて議論したことのある女、程度の認識かしら」
 さりげなく平坦な調子で話すジョアンだったが、それでも樹の妻だった私にとっては、心臓がフル稼働するような事実だ。
「悔しくて、わざとカイトと付き合ったのよ。少しでもイツキにヤキモチを焼かせたかったの」
 顔色をなくした私をちらりと見て、彼女は目を曇らせた。
「軽蔑した? 私のこと」
「い、いいえ」
 あわてて首を振った。「犬槙さんはそのこと……」
「途中から気づいていたみたい。そのうちに夏季プログラムは終わり、彼は何も言わずに日本に帰ったわ。――だから、当然なのよ、カイトが私を憎んでいるとしても。だって私は彼を利用したんだもの。こういう場合、日本語では何と言うのかしら」
 “stalking−horse”……『当て馬』、だ。
 犬槙さんは、さぞプライドを傷つけられたことだろう。樹との最初の出会いについて私に何も教えてくれなかったのも、無理もない。
「でも、私たちが犬猿の仲なのは、それだけじゃない。互いのロボット理論の隔たりという理由も、本当にあるの。私は若い頃は、カイトやイツキと同じ考え方をしていた。ロボットが人間の一番身近な友人となれたら、どんなにすばらしいか――そんな甘すぎる夢を見ていたわ」
「今は違うのね。どうして?」
「ただの錯覚だったわ、そんなもの。ロボットは所詮――」
 ジョアンは吐き出すように言うと、いきなりくすくすと笑い出した。
「クルミ。あなた警察の尋問担当に就職したら、いい線いくかもしれない」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ」
「責めてるんじゃないの。むしろ反対。あなたが相手だと、不思議となんでもしゃべりたくなってくるのよ。それともこれが、大自然の恵み効果、っていうやつかしら」
 ジョアンは気持良さそうに体をそらして欠伸したあと、まだ川遊びに興じているセフィロトとシーダを見やった。
 岩陰に潜んでいる虫を観察しているらしいセフィロトの髪を、乾いた初夏の風がさらさらと揺らしている。川面にきらきらと反射した午後の太陽の光が、彼のそばに立っているシーダの白銀の体をまぶしく輝かせている。
「クルミ。もしセフィロトがシーダのような姿をしていたら、あなたは彼をどう思った?」
「え?」
 私は、ジョアンの射抜くようなまなざしに戸惑った。
「あなたを見ていると、なんとなくわかるの。あなたはセフィロトに対して、単なるロボット以上の好意を抱いているように見える。人間に対して抱くような好意を。でも、もし彼が明らかに機械とわかる外観をしていたら、はじめからその好意を持てた?」
「……」
「セフィロトはあまりにも人間的すぎるのよ。だから人を惑わせる。でも忘れてはいけない。所詮、彼はただの機械なの。人間ではない」
 喉の奥がからからになるのを感じて、私も飲料水を口に含んだ。
 そんなことは考えたこともなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。
 もし、セフィロトの目に瞳孔がなかったら。髪の毛が一本もなかったら、皮膚が固く冷たい金属だったら。
 私は彼を愛せたのだろうか。
「ごめんなさい。意地悪なことを言ったわ」
 ジョアンは、ちっとも謝っているふうでもなく、チャーミングな目配せをした。


 連休が明けると、またいつもの忙しい日々が戻ってきた。
 毎日、家に帰ると黙々とごはんを食べて、ベッドに倒れこむ。セフィロトも心なしか、いつもより口数が少ないまま充電装置に直行している。
 【すずかけの家】では、毎年これからの時期は、ハイキングや園外学習などの行事が目白押しにやってくる、教師にとっては激務の日々なのだ。しかし、これらをこなし終えると、いつのまにか子どもたちは落ち着き、生活のリズムが整い、クラス全体が和気藹々としてきて、ウソのようにすっと楽になる。
 1年の正念場、といえる季節だ。
 授業の入っていない貴重な空き時間に、私は園庭をゆっくりと散歩していた。
 セフィロトは、椎名先生の補助で四歳児のクラスの体育の授業に行っている。相変わらずユキナちゃんは泣き虫で、先生たちを手こずらせているが、不思議とセフィロトの言うことは素直に利くようになった。
 あのとき、泣いているユキナちゃんを抱きしめて肩を震わせていたセフィロトは、「わたしも同じです」と確かに言った。
 あれは、どうしても樹のことばとしか思えなかった。
 セフィロトは、人工知能の深層にある樹の記憶をリプレイして見ていたのだろうか。樹が四歳のときに、この【すずかけの家】で感じていたのと同じ孤独を感じていたのだろうか。
 セフィロトの中に生まれた樹としての意識は消えたはずなのに。私はときどき、彼のなにげない仕草やことばに、前よりも強く夫を感じる瞬間がある。
 このあいだの夢の話もそう。あのときのセフィロトが話していた人間の心の【多層構造メカニズム】は、樹が私を相手によく長々と話していたものとそっくりだったのだ。
 目を閉じてセフィロトのキスを受けていると、まるでふたりの男性に同時に抱擁されているような錯覚を覚えるときがある。
 疲労のせいで、私は感傷的になりすぎているのかもしれない。
 物思いから引き戻されると、ひとりの教師が園庭の隅にしゃがみこんでいるのに気づいた。
 副園長の栂野(つがの)先生だ。
 赴任から二ヶ月が経った今でも、彼はどこか教師たちの間で浮いている。要するに、煙たがられているのだ。
 新年度のカリキュラムにと次々と新しいアイディアを提案してくれるのだが、そのほとんどは保育教師たちの負担を増すものばかりだった。
 手作りの教材。準備に手間のかかる授業や生活プラン。そして自然農法の菜園。当然、今でさえも疲れきっている先生たちからは反発が起きる。
「理想ではそれがいいということはわかってるんです。でも、私たちの体はひとつしかありません。準備にそれだけの時間を割くくらいなら、子どもたちと少しでも触れ合ったほうがよくはないでしょうか」
 先日の教員会議でも、大激論が交わされた。水木先生が、「まあまあ」といつもの笑い皺の穏やかな顔で仲裁してくれて、事なきを得たのだけれど。
 他の教師の賛同を得られなかったからといって、あきらめる性格ではないらしい。さっさとひとりで、懸案のひとつである自然菜園に取り掛かってしまったのだ。
「副園長先生」
 と私は近づいていった。
 教育省派遣という立場でありながら、朝早くから晩遅くまで、ときには泊りがけで作業をこなしている栂野教諭は、孤高と言ってもいいほどだった。私は彼の姿に静かな感銘を受け始めていた。
 今も、彼は土を耕し、種芋を植えつけているのだ。誰の助けもなしに。
「私も、手伝わせてください」
 地面に横たわっていた鍬を手に取る。屈んでいた栂野先生はびっくりしたような顔で立ち上がり、私から農具を取り返そうとした。
「お手が汚れてしまいます」
「かまいません、これくらい。ニュージーランドでも、父母の農場を手伝っていましたから」
「いえ、お気持はうれしいのですが、お断りします。これはわたくしひとりで完成させたいのです」
 彼は、首に巻いたタオルでごしごしと汗を拭いた。
「水木園長も手伝うとおっしゃってくださいましたが、もし園長がそんなことをなさるのを見たら、他の教諭もイヤでも手伝わざるを得なくなってしまいます。わたくしは、皆さんの負担を増やしたくないのです」
「でも……」
「やがて、作物が芽吹き、花が咲いて収穫が始まれば、子どもたちも自然とここに集まってくるようになります。そうすれば、ここは子どもたちに任せましょう」
 栂野先生は穏やかな、しかしどこか寂しげな横顔を見せた。
「わたくしの理想とすることが、甘っちょろい精神論だということはわかっています。子どもたちが自分たちの食べるものを自分たちで作り、自分たちの住むところは自分たちで掃除するなど、とうてい現代の世の中で受け入れられることではありません。今の日本の子どもたちは、手の汚れる雑用はしたがらない。……でも、それは間違っていると思いませんか。最初は失敗してもよいのです。せっかく育てた作物が枯れたり、掃除が行き届かず、汚い部屋で寝ることになってもいい。そこから人間は、何かを学ぶのだから」
 この人は、誠実な人だと思う。少々性急で、人の意見を聞かない欠点はあるけれど、子どもたちを心から慈しみ、子どもたちのことを真っ先に考えていることに間違いはない。
「ええ、私も同感です」
 ただの相槌ではなく、心をこめてそう答えた。
「あまりに美しい環境よりも、少し汚れた環境のほうが私は人間らしいと思います。あまりにも規格のそろった作物よりも、でこぼこで曲がった作物のほうがずっといい。今の世の中は、あまりに整いすぎている。まず不便を感じて、自分の手で不便を取り除こうとすることが、子どもたちの成長には必要だと思います」
「やはり、あなたは」
 彼は振り向くと、顔をほころばせた。真っ黒に日焼けした顔から白い歯が覗く。
「桐生直人博士のお嬢さんだ。お父上の信条をそっくり受け継いでおられる」
「え……」
 私はもともと父の考えと相容れずに家を飛び出したはずなのに。いつのまにか私の考え方の根底に父の持論が根づいていることに気づいて、今さらながらに驚く。
「社会を度を越して完璧にしすぎてしまったのが、機械やロボットなのです。人間はいまや、その無菌状態に慣れ切ってしまった。もし仮に明日ロボットがいなくなれば、日本人は文明を維持するどころか生命を保つことすらできない」
「……」
「桐生博士が【ロボット不要論】を唱えたころ恐れていた社会に、今の日本はなりつつあります。子どもたちが取り返しのつかない未来を選択する前に、わたくしたちが教育を変えなければ」
 栂野先生はおもむろに鍬をつかむと、地面に振り下ろした。
「ささやかですが、この【すずかけの家】で、桐生博士の理想とされた教育改革を実現したいと考えています。古洞先生。できましたら、あなたがわたくしの――支えになってほしい」
「あの……」
「あ、いや、これは単にわたくしの希望を述べているだけです。お返事は無用ですよ」
 彼は顔をやや赤らめると、ざくざくと地面を力強く掘り起こしていく。
 私は戸惑いながらも、自分の前にいる、父を感じさせる男性にぼんやりと目を注いでいた。




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