第6章 「ふたりだけの誓い」(1)             BACK | TOP | HOME




 新羽田からニュージーランド南島のクライスト・チャーチ空港まで、超音速旅客機で二時間。
 さらに西の山岳地帯へと、二人乗りのジャイロモビルで移動する。
 上空から見ると、円形に刈られた農耕地が、まるでパッチワークの模様のように色鮮やかだ。
 やがて、砂漠のような黄色に染まった牧草地帯に、くっきりと鮮やかなコバルトブルーの川が見え始める。
 ここが、私が育った土地。五年ぶりだ。
 遠くには、氷河を頂いたサザンアルプスが、まぶしいほど白く輝いて見える。
 盆地の縁に沿ってゆっくりと降下し、牧場の門のそばの空き地にジャイロを着陸させると、セフィロトといっしょに、ゆっくりと丘を登った。
 なだらかな傾斜地に、柔らかな牧草が生い茂り、その中でグレーの羊が、まるでかくれんぼをしているように草を食んでいる。そのうしろには、護衛のように並ぶ高い木々。カラカラと回る高い風車。
 ここからの風景を、私はよく夢に見る。わが家と言ったら真っ先に思い浮かべる景色。
「すばらしいところです。空気の味が東京とこれほど違うなんて」
 セフィロトが牧場の柵に両手をかけ、空に伸び上がるようにして言った。
「この柵の中で、めちゃくちゃに走れたら、どんなに気持がいいでしょう」
「うん、子どもの頃よくやったわ。臆病な羊を驚かせて、父にうんと怒られた」
「馬もいるんですね」
「あれはたぶん、私が世話をしていたドリーの子どもだと思う。紹介するわ。あとで厩舎に行こうね」
「胡桃は、ここで十年間暮らしたのですか」
「ええ、そうよ。8歳から18までの十年間」
 彼はそれを聞いて、なんとも言えぬ切ない表情を浮かべて振り向いた。
「わたしの知らない、思春期の胡桃がここで暮らしていたのですね。……もっと早く、そのときに出会いたかった」
「会わなくてよかったわよ。英語が下手で引っ込み思案で、ただ黙々と牧場の手伝いばかりしてて、真っ黒に日焼けして、ボーイフレンドなんかひとりもいなかったんだから」
「いいえ」
 セフィロトは確信ありげに首を振った。
「どんな胡桃でも、わたしは真っ先に見つけて、きっと好きになったと思います」
 しばらく歩いて、ようやく丸太作りのコテージが見えたとき、母が扉を開け放って、駆け下りてきた。
「胡桃!」
 私に飛びつくように抱きついた母は、その余勢でセフィロトにも抱きついた。
「ようこそ、セフィさん」
「はじめまして。桐生夫人」
「楓(かえで)と呼んでくださいな。来てくださってうれしいわ。ずっと会いたかったの」
 母は、セフィロトとしっかり腕を組むと、家の中へと急きたてた。「ちょうどお昼に間に合って、よかったわ」
 コテージの中は、なつかしい匂いの洪水だった。
 オーブンは、じゅうじゅう焼ける肉汁の匂いをふりまき、木の節穴の目立つ手作りのテーブルの上には、コーンブレッドが甘い香りの湯気を立てていた。まだほんのり暖かい、しぼりたてのミルクも準備されている。
 母の呼び声に、すぐに父が裏の勝手口から入ってきた。
「桐生さん、お久しぶりです」
「セフィくん、よく来てくれたね」
 父は握手をし、目を細めながらセフィロトを見た。
「会ってから一年半ぶりか。さすがに、グンと大人びたね」
「え、そんなはずは……」
「そうよ、お父さん。セフィはこの一年半で、見違えるほど成長したのよ」
 私はそう答えて、セフィロトに片目をつぶって見せた。
 昼食は、牧場の手伝いに来てくれるティムさん一家も加わって、にぎやかなものになった。
 話題は、【すずかけの家】でのことが中心だった。セフィロトが大学には行かずに、教師として私といっしょに働いていることを話すと、両親は驚きもしたようだが、とても喜んでくれた。
 水木園長の退職について、二ヶ国語授業について、日本の教育について、話は果てしなく続いた。
 ティムさんたちが午後の仕事に向かったあと、私たちはコーヒーカップを手に、家族室に移った。
 広い居間の一角が玄関から見えないように仕切られていて、私は子どもの頃から、隠れ家のようなこの場所でくつろぐのが大好きだった。
「実はね。お父さん、お母さん」
 母手作りのキルティングカバーで覆われたソファに落ち着くと、自分でも意外なほど、すんなりと切り出した。
「私たち、結婚しようと思うの」
「そうじゃないかと思ってたよ」
 父も母も待ち構えていたように、破顔した。今回の訪問の目的がそれであることを、とっくに見抜いていたようだ。
「僕の答えは、もう一年半前に言っておいただろう。セフィくんなら歓迎するよ、と」
「セフィさん、我がままな子だけど、胡桃をよろしくお願いしますね」
 母も彼のことが一目で気に入ったらしく、すっかりそのつもりになっている。
「式は、いつごろ? 東京で?」
「できたら、羊の出産時期ははずしてもらいたいな」
 あまりにもとんとん拍子に話が進むもので、実はこっそり「胡桃さんを、わたしにください」と古めかしい土下座の練習までしてきたセフィロトは、唖然としている。
「ちょっと待って。その前に、重大な話があるの」
「なにっ。さては、『できちゃった結婚』か?」
「急ぐの? 教会の予約をすぐした方がいい?」
 ……わが親ながら、気が早すぎる。
「そうじゃなくて、セフィのことなの」
「セフィくんが、どうかしたのか?」
 どう話したらよいのだろう。私はことばに窮した。
 ロボット化社会を選択した日本から逃げ出すほどに、人間の尊厳を頑なに信じてきた父が、ひとり娘とロボットの結婚を許すはずがない。
 どうすれば、セフィロトをありのままの存在として認めてもらえるだろうか。
「セフィさんに、何か結婚できない理由でもあるの?」
 母が痺れを切らして、続きを促した。
「そうではないんだけど、ひとつだけ問題が……」
 また口ごもる私に、父は不安げな表情を浮かべて、セフィロトを見た。「まさか……」
 父はその瞬間、なにか不治の病にセフィロトが侵されているのではないかと危惧したのだ。
 樹の早すぎる死に心を痛めてきた両親だけに、ひとり娘を今度こそ、健康な男性と結婚させてやりたいと願う切実な気持が、ひしひしと伝わってくる。
 私は涙ぐみそうになりながら、首を大きく振った。
「違うわ。セフィは健康よ。健康そのもの」
「それを聞いて、安心した」
「ずっと……未来永劫にわたって、死んだりしない」
「未来永劫とは、ちょっと大げさだな」
 父はいかにも愉快そうに笑った。
「大げさじゃないの」
 セフィロトは緊張した面持ちになって、私を見た。
 私は顔を上げて、きっぱりと言った。
「セフィは……樹が作ったロボットなの」


 私の自室に引き取ったあと、こっそりと居間の様子を偵察に戻ったセフィロトは、蒼白になって帰ってきた。
「胡桃。桐生さんご夫妻が、あれからずっとソファの上で口を開けたまま動きません。まるでバッテリーの切れたロボットみたいです」
「ああ、やっぱり」
 私は頭を抱えた。
「いきなりだったからショックが大きかったかな。もう少し、小出しにして話せばよかった」
「どうしたら、いいでしょう」
「今はどうしようもないわ。なるようになるだけよ」
 もう完全に、開き直る。
「セフィも覚悟して。説得には時間がかかるかもしれない」
「はい。もちろん、覚悟はしています」
「そう言えば、樹のときも、最初はこんな感じだったわ」
「そうでしたね」
 まるで自分で体験したかのような彼の口調に、私たちは顔を見合わせてクスッと笑った。


 樹と私が婚約の報告にこの家を訪れたとき、彼がロボット工学者であり、しかも短命の第12ロット世代であることを告げたとたん、父の顔色が変わったのだ。
 母は本音では大反対だったろうけど、私の苦衷を察して賛成に回ってくれた。
 だが父は、それ以来まともに私たちの話を聞こうとしなかった。烈火のごとく怒るということはなかったけれど、樹に対して徹底した拒絶の態度を貫いたのだ。
 もちろん樹もあの無愛想な性格だから、三日以上も、しらじらとした沈黙がこの家を覆った。
 いったい、何がきっかけだったのだろう。
 ある日散歩に出た樹は、牧場で牛の世話をしていた父と、短くことばを交わしたらしい。
 家に帰ってきた父はひとこと、「結婚を許す」と言い捨てて自室にこもってしまった。
「あのとき、お父さんと樹はどんな話をしたのかなあ。あとで樹に聞いても、話をはぐらかすだけだったっけ」
 私が記憶をたどっている間、横にいたセフィロトは、じっと考え込んでいる。
 夕方になり、チーズとパンとコールドミートの簡単な食事を、四人でぎくしゃくと済ませたあと、セフィロトはコテージの外に出た。
 牧場のある盆地全体が、赤く燃え上がるような夕焼けに包まれていた。そして父は、ウッドデッキに出した揺り椅子に、マグカップを手に座っていた。
「桐生さん」
 おずおずと話しかけた彼をちらりと見ると、父はまた視線を遠くに向けた。東の空の山際は、天使の刷毛で藍色に塗られ、一番星がまたたき始める。
「長いあいだ、本当のことを言わなくてすみませんでした」
 返事はない。
「胡桃がロボットであるわたしと結婚することが、どういうことか。わたしが桐生さんご夫妻をどれだけ悲しませているか、わかっているつもりです」
「セフィくん」
「でも、わたしは……」
「もういい。何も言わないでくれ」
 父はゆっくりと、夕闇をさらに深めるような吐息をついた。
「わかっているんだよ。自分が何を言うべきなのか。答えはとっくに出ている。でも、それを言う気力が今はない」
「……」
「どうして胡桃は、いつも辛い選択ばかりしてしまうんだろうね。なにも多くを求めてるわけじゃない。女としての、人並みの幸せでいいのに。親というのは、ついそういうことを娘の人生に願ってしまうものなんだよ」
「はい」
「きみが悪いんじゃない。きみはすばらしい人格を持った存在だ。僕はきみが大好きだ」
 それからしばらく、父は迷っているように口をつぐんだ。
「だが――それでも、きみはロボットなんだ。きみと結婚した胡桃は、後ろ指を指されながら生きていくことになる。それを考えれば、僕は敢えて鬼になって、きみを否定することも辞さない」
 激しい言葉を口にした父は、強ばった姿勢でうなだれているセフィロトを見て、すぐに和らいだ表情になった。
「だが、それでは胡桃は不幸になるだけなんだろうな」
「桐生さん」
 セフィロトは、父の揺り椅子の正面に回って、デッキの上に膝をついた。
「おっしゃるとおりです。わたしは、胡桃を不幸にするのだと思います。ですが、どんな険しい道もふたりで寄り添って歩けば、つらくはありません」
 まっすぐに、祈るように、父の顔を見上げる。
「わたしは胡桃とともに、生きている限りその道を歩きたいのです。どうか、わたしたちの結婚を許してください」
「不思議だな。きみは、樹くんとそっくりなことを言うのだね」
 父は目をしばたいて、微笑んだ。
「彼も確か、この牧場の柵のところで、そっぽを向いている僕に、こう言ったのだよ。
『俺が生きているあいだだけでいい、あんたのお嬢さんと不幸を分け合わせてくれ』、と」
 父は涙をこらえるように片手を眉間に当てると、笑った。
「あんな自分勝手なセリフを言う男と、僕は対等に張り合うことはできなかった」
「……ごめんなさい」
 セフィロトは、背中を丸めている父を腕に抱いた。「ごめんなさい、桐生さん」
「セフィ。胡桃を……よろしく頼むよ」
「ありがとうございます」


 扉の陰に立って、私はひそやかに泣いた。
 母がうしろから近づいてきて、私の肩をそっと包んだ。






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