第4章 「追憶のリフレイン」  (4)               BACK | TOP |  HOME




 私たちはそれからしばしば、研究室で会った。
 樹のコーヒーと私のサンドイッチ。そのかわり犬槙さんと三人のデートになってしまったけれど。
 樹は相変わらず、私そっちのけで自分たちの研究に没頭している。
 ときどき気が向いたときは、試作中の人工知能を指差しながら、わかりやすいとは言いがたい説明をしてくれる。
「絶えずフィードバックループする並列分散処理装置としての脳についてはチャーチランドの認知哲学が原点になっている。人工的なニューラルネットワークの実現への可能性が、人工知能研究者のあいだで認識されたのは、彼らの功績だ」
 ロボットたちにそそぐ、その熱いまなざしの百分の一でも、私に向けてくれたらいいのに。
 心の隅でちょっぴり焼きもちを焼いてしまう。


 虫の音が遠くに聞こえる静かな夜、当時住んでいたワンルームのインターフォンが突然鳴った。
「胡桃ちゃん」
「犬槙さん! いったいどうしたんですか」
「実は……」
 彼は大きく息をつきながら、画面の中で苦痛に顔をゆがめた。
「中に入れてくれないか。樹が、……大変なんだ」
「いったい、何があったんですか」
 私はセキュリティロックをはずして、あわてて玄関からはだしで飛び出した。
 犬槙さんが樹を肩にかかえるようにして、息を荒げてやってくる。
「すまん。……そこで急に意識を失って」
「き、救急ヘリは、アラーム通報は?」
「悪いが、まず中に入れてくれ」
 玄関に入ると、犬槙さんは力尽きて、そこで樹のからだを下ろす。
「古洞さん、・・・古洞さん」
 私は半泣きになりながら、横たわる彼にとりすがった。
 犬槙さんは深い吐息をついた。
「あー疲れた、疲れた。ひでえ目に会ったぜ」
「え?」
 私は思わず顔を上げた。犬槙さんのいたずらっぽい表情に視線がかち合う。
「ひでえ目って、あの、あれ……?」
 どういうこと?
 そう言えば、なんだかふたりとも、酒臭い。
「もしかして、犬槙さん……」
「胡桃ちゃん、あとは頼んだ。とりあえずは毛布でもかけてやってくれ」
「犬槙さん!」
 脱兎のごとく駆け出す彼に、私はそこらへんにあったものを手当たり次第に投げつけるが当たらず、遠ざかる哄笑だけが廊下に響く。
 ――やられた。
 酔いつぶれた樹を私に押し付けて行っただけなのだ。
 このあいだから、どうも犬槙さんの態度がおかしいと思っていた。ちっとも恋人らしくない私と樹の仲を、暇さえあれば冗談の種にするし。
 いつもは隙のない樹がこれだけ正体不明になるまで飲むのも、陰謀のにおいがする。
「古洞さん、起きて」
 私は彼を思い切り揺すぶった。
 樹はようやくうつ伏していた顔を上げて、とろんとした目で私を見る。
「は……? られ?」
「誰、じゃありませんてば。ここに寝てると寒いから、起きてください」
「う……」
「起きられますか?」
「……気持ち、わるい」
「きゃああっっ。こんなところで吐かないで! がまんして!」


 樹は私のベッドに仰向けに体を投げ出すと、ようやく酩酊から覚めて来たようだった。
「胡桃さん?」
「気がついた?」
 私は、ベッドのきわに腰をおろす。
「気分はもう落ち着きました? コートを脱がせるから、腕を上げてください」
「なんで、あんたがここにいるの?」
「ここは私の家です! あなたがここにいるほうがおかしいの!」
「え?」
「まったく……、べろべろに酔っ払ったのを、犬槙さんがここまで運んで来たんですってば」
「……」
「いったい、どうしたんですか。お酒、全然飲めないって自分で言ってたでしょ?」
「……」
「私、もう少しで騙されるところだった。だって、ほんとうに古洞さんが……」
「胡桃」
 どきんとした。呼び捨てにされたのは、初めてだった。
「胡桃」
 うさぎみたいに真っ赤になった目をせつなげにうるませて、樹は私を見上げた。
 細い腕がすっと私のほうに伸びる。
 心臓がばくばく言っている。
「きゃっ」
 もうちょっとで手が私の首筋に触ろうとしたとき、私はあわてて飛びのいた。
 樹の手は目標を失って大きく泳ぎ、ベッドの縁からぶらんと垂れ下がった。
 そのまま、小さないびきが聞こえ始めた。
「なんだ、寝ちゃってる」
 私は、安堵したようにつぶやきながら、でも心の中では、「ばかばか! 私の馬鹿! なんであそこで飛びのいちゃうのよ〜!」と叫んでいる。
 もう一度そっとベッドに腰かけて、起こさないように彼にシーツを掛ける。
 規則的な胸の上下が、シーツを通して伝わってくる。
 おそるおそる、彼のもつれた髪をゆっくりと撫でた。
 ほんとうにもう少しで、犬槙さんの嘘を信じるところだった。
 樹が意識を失ったと聞いたとき、どんなに恐ろしかったことか。
「いやだ……」
 私の目から涙があふれた。
 この人は死んでしまう。もうすぐ、死んでしまうのだ。
「いやだ、古洞さん。死んじゃいやだ」
 どうしようもないほど、あなたのことを愛してる。
 私は、彼の寝顔にぽとぽと涙が落ちるのも気づかず、いつまでも泣き続けた。


 次の朝、目を覚ました樹は、すぐそばに私が寝ているのを見て、「うわっ」と悲鳴を上げてはねおきた。
 私も泣きはらしたひどい顔で起き上がり、ふたりは今の状況を把握するのにたっぷり数秒は固まっていた。
「なぜ俺はこんなところに」
 ありゃあ、またはじめから説明のし直しだ。
 ゆうべ、「胡桃」と私を呼び捨てにしたことも色っぽい目で見つめてくれたことも、これじゃ覚えてはいないんだろうな。
「魁人にはめられたな」
「今日会ったら、ふたりで八つ裂きにしてやりましょうね!」
「いずれにせよ、俺が悪い。胡桃さん、ごめん」
 彼はベッドの上に胡坐を掻いたまま、律儀に頭を下げた。
「まだ【すずかけの家】に行かなくて、いいのか?」
「今日は、もともと大学へ行く日なんです。卒論演習だけだから、午後から出ます」
「そうか」
「コーヒー淹れますね」
 私は、ベッドから立ち上がった。
「ついでに朝ごはんも作ります」
「いいよ、コーヒーだけで」
「なにか胃に入れなきゃだめです」
 彼が洗面所で顔を洗っているあいだに、私はコーヒーと、熱いオートミールとサラダを作った。
 ふたりで向かい合って、黙って食事を頬張る。
 なんだか、夢のようだ。
 私の家で、いっしょに朝食をとっているなんて。ちらっと互いを見て、あわてて視線をそらしてしまう。新婚夫婦にはほど遠いけど、それでもうれしい。
「胡桃さん」
「はい」
「まさかとは思うけど、ゆうべは何もなかったよな?」
 心配そうに私を見る樹に、ちょっぴりカチンと来た。いたずら心がむくむく湧いてくる。
 私も犬槙さんと性格が同じなのかもしれない。
「責任とってくださいね」
「え?」
「一応、私バージンでしたから」
「……」
「披露宴とか簡単でいいです。そういうの、こだわりませんから。あ、でも海のそばの教会っていうのにはあこがれていたんです」
 この世の終わりみたいな顔をしてうつむいてしまった彼を見て、私は「ぶーっ」と吹き出した。
「ごめんなさい。でたらめです」
「……あんた」
「本当にごめんなさい。でも、なんだか悔しくなっちゃって」
 私は意味もなく、コーヒーのスプーンをいじくった。
「私と何かあると、困りますか? 私ってそんなに魅力ないですか?」
 樹は険しい目を上げて、真直ぐに私を見た。
「……俺は誰かと結婚するつもりは、一生ない。その理由はわかっているだろう」
「結婚しなくても、いいです。いっしょにいるだけで、それだけでいいです」
「俺にはそういうことはできない」
「嘘です。私もできません。やっぱり結婚したいです。たとえ一日でもいいから、古洞さんと夫婦になりたいです」
「無茶なことを言うな!」
 樹は、めずらしく声をはりあげた。
「たった一日のために結婚するなんて、そんなことできるはずがないだろう」
「じゃあ、もっとたくさん生きてください。一週間だって、一ヶ月だって、一年だって、十年だって。古洞さん、もう24年生きてきたんだもの。ほかの第12ロット世代より、ずっとずっと長生きしてきたんだもの。きっと大丈夫」
「とんでもない楽観主義者だな」
「願ったらそのとおりになるって、信じちゃいけませんか」
 彼は何も言わず立ち上がると、掛けてあったコートをつかんで、玄関に向かった。
「待って、返事をしてください!」
「胡桃さん。もう二度とあんたには会わない。悪いがそのつもりでいてくれ」
 後ろ姿だけ。顔は見えない。
「なんで……」
「俺は、小さい頃から自分がいつ死ぬかわからないことを感じて生きてきたよ。今日はここにいても、明日はいないかもしれない。だから、明日のことは考えない。誰とも次の日に会う約束はしない。
ずっとそうしてきたから、別に辛くはなかった。死ぬことを怖いとも思わなかった。……あんたと会うまでは」
「私と……?」
「俺は今、死ぬことがこわい。あんたに明日会えなくなるかと思うと、気が狂いそうだ」
「……」
「俺をこれ以上、俺以外のものに変えないでくれ」
「古洞さん!」
 玄関に私を残して、彼は去っていった。長い廊下を一度も振り返ることなく。
     



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