第7章 「憎しみの紋章」  (2)                 BACK | TOP |  HOME




「よっしゃあ。できた!」
 立体映像式の立ち鏡の前で、思わずしとやかな着物姿に似合わない大声を出してしまった。
 昔と違って、ICチップ内蔵の自動補正機能のついた和服は着つけも簡単なのだが、それでも普段着に比べたら面倒きわまりない。
 苦労してアップに結った髪に簪を差し終えたら、快哉を叫びたくなるというもの。
「うわあ」
 その声を聞きつけて、セフィロトが寝室に入ってきた。
「とてもきれいな着物です」
「うんうん、セフィ。古典的な誉め言葉をありがとうね」
「もちろん、胡桃がきれいだからこそ、着物も映えるのです」
 ひゃあ、もう。どこでそんなセリフを覚えてくるのだろう。下心がないことを知っているだけに、余計たまらない。
 もし彼が下心なんて覚えたら、犬槙さんに負けず劣らずプレイボーイになるんだろうな、なんて。
「準備OK。じゃ、出かけようか」


 元旦の天気は快晴。初詣に誘っているような澄み渡った青空だ。
 作られて初めて年末年始を迎えるセフィロトのために、今年はお重箱もお屠蘇もお雑煮も、普段以上にトラディショナルなお正月を心がけた。
 もともと父も母も、移住先のニュージーランドで可能な限り和風に過ごすのが好きな人たちだったから、私自身もこういう準備は苦にならない。それに、たぶんどれだけ時代が進み、日本の文化が変わっていっても、このお正月の伝統だけはいつまで経っても変わらないような気がする。
「神社の中はすごい人ごみだから、気をつけてね」
「だいじょうぶです。胡桃のことはちゃんと守りますから」
 いつのまにか、立場が逆転していることに苦笑する。これまでずっと私が彼の世話を焼いていたのに、今は彼がいつのまにか私を先導してくれて、私の身の回りに気を配ってくれる。
 セフィロトは大人になった。一年前、彼はまだ研究室の中でコードにがんじがらめになっていたのに。


 物思いに耽りながら、駅に向かって公園を歩いていると、突然私たちの目の前に3人の人影が立ちふさがった。
 ぎくりとする。
 科学省の柏審議官だ。このあいだ、うちに訪ねて来る途中にセフィロトが会ったと言っていた。あとのふたりは見覚えがないが、コートの襟にやはり科学省の徽章をつけている。
 セフィロトが険しい目をして一歩前に進み出すと、私を隠すように立った。
 柏さんは、そんな彼に向かっていやらしくニヤリと笑うと、私に向き直り、
「古洞胡桃さん、お久しぶりです。本年もよろしく」
 と慇懃な挨拶を寄こした。
「明けましておめでとうございます」
 私も、丁寧にお辞儀する。
「元旦から、お仕事のご用事でしょうか?」
「いえ、特に用と言うわけでは。年末年始はここらへんの商業スペースも人ごみが多いので、付近の特別警戒中でしてね」
「警察の方でもないのに、何の警戒ですか?」
「宮仕えの身は、いろいろあるのですよ。話せば長いことながらね」
 失礼します、ときびすを返した彼の背中に、私は呼びかけた。
「柏さん」
「はい」
「このあいだ、セフィロトがお聞きしたお話の件ですが、お断りさせてください」
 彼は片眉を不快気に吊り上げる。
「セフィロトはずっと私の手元に置きたいのです。それが彼を作った夫の望みでした。だから、科学省にお預けするつもりはありません」
「それは残念です」
 おおげさな吐息をついてみせる。
「とんでもない国家的損失ですよ、AR8型のようなロボットを科学の発展に寄与させることもなく、子どもの保育のまねごとなどに使うのは」
「子どもたちの教育が、国家の損失になるとでも言うのでしょうか」
「AR8型にしかできない貢献分野があるということです。少なくとも、あなたひとりの「おもちゃ」にしておくのはもったいない」
 私がこれ以上ないくらいの冷ややかな顔で見返すと、彼はくすくすと意味もなく笑った。
「これはまた、失礼なことを申し上げました。ご寛恕いただきたい。それでは」
 3人の後姿を見送るうちに、私はあることに気づいた。
 そのうちのひとり、一番若く背の高い男に見覚えがある。確か、2、3日前も、私たちの住まいのエレベーター付近に立っていた。
 もしかして、私たちのことをずっと見張っているのかもしれない。
 拳にじっとりと冷や汗を握りしめる。
「胡桃」
 セフィロトの心配そうな声に我に返った。
「だいじょうぶですか?」
「平気」
 私は憤慨した表情を隠さなかった。
「ほんっとに失礼なヤツら! 二度と顔も見たくない。もうこれで、来なくなるといいね」
「ありがとうございます」
 セフィロトははにかんだように言った。
「わたしとずっといっしょにいたいと言ってくれて。もしかすると、胡桃はもうわたしのことを嫌いになったかと思っていました」
「何言ってるの。こないだも言ったでしょ。あなたをそんな危険なところに行かせるつもりはないって」
 私は、彼の風にもつれた前髪をすっとなでた。
「私が死ぬまでいっしょにいてね、セフィ」
「はい、胡桃」
 極上の笑顔を浮かべる彼に、私も心から喜びを感じた。
 これでいい、と思う。
 私さえ自分の気持ちにバランスを取っていけば、今までのような楽しい日々が過ごせる。
 やがて彼も、私に『恋愛感情』を抱いたことなど忘れてしまうだろう。もともと、まだ精神の幼いセフィロトにはそんなつもりなどないのだから。
 彼と並んで歩きながら、私は着物で窮屈に締め付けられた胸で、大きく深呼吸した。


 原宿でモノレールを降りると、すぐ眼の前が明治神宮だ。白木の大鳥居を抜けると、緑青色の屋根が美しい本殿の回りは参拝客であふれかえっている。
 混雑の大嫌いな樹を引っぱっては、毎年元旦にお参りに来ていた。
 ――今年も1年、彼は死なずにすんだ。
 拝殿に手を合わせながら、いつも私はここで、しみじみとそう感謝していた。
 ――だから、来年もまたふたりで来れますように。
 去年まで、毎年。
 ぼんやりとそんなことを回想しながら、お参りを済ませた。


「神とは人間にとって、どんな存在なのですか?」
 比較的空いている西の参道を歩いていると、セフィロトはそんなことを訊いてきた。
「え? 人間を超越した存在って言うのかな」
「神は人間にとっての、マスターなのですか?」
「うーん、ちょっと違うような……」
 返事に詰まってしまう。よく樹と議論したことを思い出す。
『胡桃。願いがかなえられるためにお参りに行くのに、願いがかなえられなくても、さほど怒らない。それは何故なんだ? 本当に信じているなら、怒るべきじゃないのか?』
 結局、人間は神など本心から信じてはいないのだ。樹はそういう結論を出す人だった。
「私はね。セフィ。ここで手を合わせることで、自分の一番大切なものを再確認しているような気がするの」
「一番大切なもの?」
「人間の人生っていろんなものがまとわりついて、自分でも自分の気持ちがわからなくなって。
だから一年に一度、神の前で自分の一番大切な願いを祈ることで、自分の気持ちをはっきりとさせていく儀式、っていうのかな」
「胡桃の願いは、古洞博士が死なないことだったのでしょう?」
「うん、去年まではそうだった。でも……」
 私はうつむいた。「去年初詣に来たその数週間後に、樹は死んでしまったけどね」
「怒らないのですか? 願いをかなえてくれなかった神に対して」
 びっくりした。樹と同じことを言うなんて。
「怒ってもしょうがないよ。運命だもの。それが第12ロット世代の彼に与えられた寿命だったんだもの」
「もし、その運命が変えられるとしたら、願いが本当にかなえられるとしたら、古洞博士が生き返ることを願いますか?」
「セフィ」
 私たちは参道の真ん中で人の流れに当たりながら、立ち止まる。
「古洞博士に、生き返ってほしいですか?」
 彼の目に、冗談めかした光はなかった。
「そうね……。ううん、そんなこと絶対無理だもの。願っても無駄」
 また、歩き出す。
 何故セフィロトがそんなことを言い出したのか、私はずっと後になるまでその真意を知ることはなかった。


 帰宅したその夜、モノレールの改札口で柱に隠れるようにしてたたずむ男の姿があった。
 全然気づかないまま通り過ぎたものの、その胸にあるものが目に入り、はっとした。
 それは昼間も見た、科学省の徽章。
 悪い運命の歯車がかちりと回りだすような、そんな恐怖に私は身震いした。


 家に入ると、室内は真っ暗だった。
 私はそのままリビングを横切り、窓を開けた。冴え冴えとした黒い冬の海が、私の眼前に広がる。
 樹がこの夜景が好きで、私たちはよくこうして並んで、いつまでも海を見つめた。
 どれくらいそうしていただろうか。
 外から入り込む冷気で冷え切った私の身体を、セフィロトの暖かい腕が背中から包み込んだ。
「胡桃……」
「ん」
「今も、古洞博士のことを思い出していたのですね」
「……」
「もう思い出すのはやめてください。彼は死んだのです。思い出しても苦しいだけです」
「やめて。そんなこと聞きたくない」
「そうじゃないと、わたしは……、古洞博士を憎んでしまいそうなのです。わたしを作ってくださった方なのに。ロボットがそんな気持ちを持つなんてあってはならないことなのに。胡桃を苦しめている古洞博士が憎くてたまらないのです」
 セフィロトはまるですすり泣いているかのように、私の髪に震える額を押し付けた。
「お願いです、古洞博士のことを忘れてください!」
「セフィ……」
 彼は私を乱暴に振り向かせると、有無を言わさぬ口づけをした。
 抗おうとした。でも、できなかった。
 力という力が全身から抜けてしまったように、私は彼の腕の中に身を預けた。


 私は、セフィロトを愛している。男性として、愛している。


 そのことばが頭の中でぐるぐる回るのを感じながら、いつのまにか私は彼の唇をむさぼるように求めていた。
 



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