番外編(2)  「クリニコスの眠り」                 BACK | TOP | HOME




「ごめんね……。セフィ」
 熱に浮かされたような声で、胡桃がつぶやく。
「セフィだって、ずっと働きづめだったのに……。私のことはいいから……休んで」
「だいじょうぶです。ちゃんと必要な充電はしています」
 セフィロトは、胡桃の真っ赤な頬にかかった髪の毛をそっとはずした。「それに心配しなくても、わたしはインフルエンザにはかかりませんから」
 胡桃はそのことばに力なく笑い、すぐにウトウトとまどろみ始めた。薬が効いてきたのだろう。
 彼女の左の二の腕に巻かれたボックス型の医療キットから、時間ごとに適量の薬剤が血液に注入されることになっている。また彼女の脈拍や呼吸回数、血圧などのデータは、キットから絶えずメディカルセンターのコンピュータに送信され、異常があればすぐ医療スタッフが駆けつけるのだ。
 データを読まなくても、セフィロトには胡桃の今の状態がわかっていた。38度4分。帰宅したときよりは幾分ましになったが、それでも成人が立っていられない体温だ。


 【すずかけの家】では、2月の終わりから子どもや教師のあいだにインフルエンザが大流行した。
 22世紀になっても、まだインフルエンザは人類の征服地図に組み込まれる気配はない。それどころか医学が進歩すればするほど新手のウィルスが誕生していく。
 21世紀に東アジアを中心に猛威を振るい、90万人以上の死者を出した流行病の正体も、専門研究所のプレパラートの上にあった高度の薬剤耐性を持つ突然変異のインフルエンザウィルスが、所員を介してばらまかれたものだったのだ。
 今回のインフルエンザはそれに比べればごくごく弱いものではあったが、それでも低学年を中心に子どもたちの4割、教師も数人が高熱を出して寝込んだ。昼勤スタッフや夜勤スタッフの別なく、全員が泊り込んで子どもたちの看病にあたった。胡桃もセフィロトも、夜通し子どもたちのそばに付き添い、手を握ってやったり、パジャマを着替えさせたりした。
 そして、どうにか子どもたちも回復し、休んでいた教師も復帰して来て、ようやく通常の授業態勢に戻ろうとした矢先、胡桃が倒れたのだ。まるですべてが元に戻ったのを見届けて力尽きたように。


 【すずかけの家】から戻っても、セフィロトは胡桃のベッドのそばについて、かたときも離れなかった。
 いつも元気に笑っている彼女が、苦痛に顔をしかめている。ロボットである自分にはわかりたくともわかってあげられない「病気」という苦しみ。
 もしこのまま胡桃が死んでしまったら、どうすればいいのだろう。
 夜が更けてゆき、あたりはしんと静まり返り、初めての心細さという感情にセフィロトは途方に暮れていた。
 そっと、彼女の額に手のひらを乗せる。
「いい……気持ち」
 夢うつつに、胡桃が微笑んだ。
 セフィロトは「省電力モード」のため、たまたま体温を少し下げていた。それが胡桃には冷たくて心地よく感じられたのだろう。
 彼は意を決したように立ち上がり、上着を脱いだ。


 夜明けの小鳥のさえずりに目を覚ましたとき、薄闇の中で、胡桃は自分の体がセフィロトにすっぽりと抱きしめられているのに気づいた。
「や、やだ。セフィ!」
 まだふらふらする頭をあわてて持ち上げると、セフィロトも目を開けて、にっこり笑った。
「よかった。体温がすっかり平常に戻りましたね、胡桃」
「どうして、いっしょに寝てるの?」
「わたしの体温を25度まで下げて、胡桃の体を冷やしていたんです。そのほうが医療用の冷却パックを使うよりは気持ちがいいと思いましたので」
「あ……、そうだったの。ありがとう」
 そう答えてから、胡桃は一晩ベッドの上で彼に抱かれていたという事実に、急にどぎまぎしてしまう。
 もちろん、セフィロトにそんなつもりがないのはわかっている。だけど……。
 インフルエンザとはまた別の理由で、熱が出そうだった。


「ああ、コーヒーがおいしいって、健康な証拠よね」
 まだ少し鼻声ではあるものの、すっかりいつもの調子を取り戻し、胡桃はダイニングテーブルでマグカップを両手に、ほうっと吐息をついた。
「今日と明日【すずかけの家】はお休みをいただいたので、そのあいだにゆっくり休んでくださいね」
 セフィロトも数時間の充電を終えたあとなので、きびきびとした動作で家中の観葉植物に水をやっている。
「ありがとう。セフィがそばで看病してくれて、安心して眠れたわ」
「そうですか。よかったです」
「子どもたちにとっても、こうして看病されるという体験は貴重なのよ。目を覚ますたびにそばに誰かがいてくれるという満たされた感覚。ふだんは大勢の教師に接して暮らしている【すずかけ】の子どもたちだけど、こういうときはひとりずつの教師が、じっとそばにいてあげるのが一番いいの」
「はい。そういえば、病気にかかった子どもはみんな、苦しいはずなのにうれしそうでした」
「自分が特別に愛されている存在であることを確認することは、人間にはとても大切なことだと思う。
私も小さい頃、病気になると、母が決まってこう言ったことを覚えてるわ。
『病気のときの胡桃ちゃんは、可愛いね。いつもより可愛く見えるわよ』
どうしてかな。その言葉を聞くたびに、とても幸せな気分になれたのよ。自分が愛されているんだって。父や母にとってかけがえのない存在なんだって、気づかされたような気がするの」
 セフィロトは頬杖をつきながらそれを聞いていて、うっとりした表情をうかべた。
「いいですね、人間って。病気になれて」
「え? 何言ってるの。病気にならないセフィのほうがよっぽどいいわよ」
「そんなことありません。病気になったり、朝は低血圧で機嫌が悪かったり、疲れると眠くなったりする人間のほうがずっと素敵です。ロボットはいつも同じ調子だから、つまりません」
 彼はちょっとむくれたように付け加える。「わたしも明日から、朝は低電圧になるようにプログラムを変更してみようかなあ」
「やだあ、セフィったら」
 胡桃はすっかり冗談だと信じて、大笑いした。「さ、ごはんにしよう。熱が下がったらおなかすいちゃった」
「【すずかけの家】の調理師さんほどはうまくできませんでしたけど」
 と言いながらセフィロトが運んできたあつあつのお粥を食べたあと、胡桃は無理矢理ベッドに戻された。
「洗濯と片づけをしてしまいますから、そのあいだおとなしく寝ていてくださいね」
 クリンの排気音や、キッチンやリビングで忙しく立ち働いているセフィロトの気配を聞き、満ち足りた気持ちになりながら、いつのまにかまた眠りについてしまった。
 次にはっと目を覚ましたのは、もう午後の日がはやばやと西に傾き、窓越しの暖かさを失いかけていた頃だった。
 家の中が、しんと静まりかえっている。
「セフィ」
 呼んでみたが、返事がない。
「おかしいな。散歩に行っちゃったのかな」
 とつぶやきながら起き上がり、カーディガンを羽織ってリビングに入ると、たちまち胡桃は「きゃあっ」と悲鳴をあげた。
 床に苦しそうにうずくまったセフィロトが、ソファの腕に片手をかけて、なんとか体を起こそうと試みているのだ。
「どうしたの、セフィ!」
 駆け寄った彼女を、焦点の合わないうるんだ目が見つめる。
「身体に力が入りません……。震えがとまらなくて、寒い……」
「まさか……」
 胡桃は彼を助け起こそうとして、驚愕する。
「体がすごく熱い」


「まったく、胡桃ちゃんには驚かされたよ。開口一番、『セフィにインフルエンザが移っちゃったんです』、だもんなあ」
 画面の中の犬槙がからかうように言う。
「ちょっと動転してただけです」
 胡桃は、恥ずかしそうに口ごもりながら答える。
「で、セフィの高熱はいったい何が原因なんですか?」
 犬槙は送信されたセフィロトのデータをモニターでスクロールしながら、たずねた。
「ゆうべ、長時間体温が30度以下に下がっているね。これはどうして?」
「熱を出した私の体を冷やそうとして……、きのうは一晩中私を抱きしめてくれていたんです」
「ベッドの中で? もうきみたち、そういうことをしてるわけ?」
「あの、あの、そうは言っても、ふたりとも服は着てましたから! やましい意味は全然何も」
「へえ、全然ねえ」
 あわてて説明する胡桃の顔が熟した苺みたいなのを見て、犬槙は意地悪気に微笑んだ。
「でもそれで、原因がわかったよ。セフィロトの体内システムは37度前後で機能するように設定されている。わずか10度と言えども、微妙な狂いにつながるんだ。今回はとりわけ体温調節装置が無理を強いられて、一時的にコントロールを失ったんだろうな」
「治るんですか」
「ああ、充電装置でしばらく休止状態にしてやれば、自動的に再調整するよ。だが、それにしてもおかしい。この程度のトラブルで、行動不能に陥ることなんて、普通はないんだけどな」
「【すずかけの家】のインフルエンザ騒ぎと私の看病とで、ずっと充電もままならない日々が続いてましたから。きっとセフィの体には見えない負担がたまっていたんだと思います」
「ちょっと待って。【すずかけの家】のインフルエンザ騒ぎって?」
 胡桃はこの数日の状況を詳しく説明した。
「ははん、原因はそれだ」
「え?」
「セフィロトの不具合はね、仮病だよ」
「仮病?」
「と言ったら間違いか。彼自身は本当に具合が悪いと感じてるんだからね。これは人間で言えば心因性の病ってやつだよ。
僕の勝手な推測だけど、小さな子どもたちをずっと看病していて、セフィロトは多分うらやましいと思ったんだろうな。自分もこんなふうに世話をされたいし、かまってもらいたい。でも、もちろん自分はロボットだから病気になんかならない。マスターである胡桃ちゃんの世話をするのは当たり前でも、胡桃ちゃんから世話をされるなんて、ロボットとしても許されないことだ。
それで、セフィロトはニセの病気にかかっちゃったんだよ。体が震えて声がかすれて、本物のインフルエンザの症状をそっくり真似て、ね」
「そんな……まるで」
「人間みたい、だろう。セフィロトはそれだけ複雑な心の発達をしているんだろうな。だからね、この病気の唯一の治療法は」
 犬槙は愉快そうにウインクした。
「うるわしのお姫さまの手厚い看護だと思うよ」


 照明を落とした部屋で蒼く光る充電装置の中で、セフィロトは目を開けた。
「すみません、胡桃。こんな状態になってしまって」
 真っ赤な顔をして、弱々しく言う。
「人間のように病気になりたいなんて、思ったのが馬鹿でした。故障をしないで普通に働けることが、ロボットにとってどんなに幸せかわかりました」
「病気になってはじめて、健康でいられることが感謝できるものなのよ」
 胡桃は彼のかたわらに腰かけて、問いかけた。
「それより、お水飲む? お粥食べたい? 体を拭いてあげようか」
「水も食物もすぐに電解処理されるだけです。それに、汗もかきませんから」
「つまんない。セフィったらちっとも手がかからないんだもん。看病のし甲斐がないわ」
「わたしはもう大丈夫です。胡桃も病み上がりなのですから、どうぞ休んでください」
「ううん。ずっと一晩中ここにいる」
 横たわるセフィロトの髪を何度も撫でる。
「ねえ、ギリシャ神話にこんな話があるの。医者の神アスクレピオスの神殿には寝台が置いてあるんですって。その上で眠ると、枕元にアスクレピオスが現れて、心の不安を取り除いて病気を癒してくれるそうよ。
その寝台のことをギリシャ語でクリニコスと言って、英語の「クリニック」や日本語の「臨床」の語源になっているんだって」
「はい」
「だから、私もそうしたいの。うんと甘えて。わがまま言っていいのよ。そうしてくれるのが私にはうれしいんだから」
「はい」
 セフィロトはそれを聞いて、このうえなく幸福そうな笑みをうかべた。
「さあ、少し眠って」
 胡桃は目をつぶったセフィロトの頬にそっとキスする。そして、最高の秘密を打ち明けるときのように耳にささやいた。
「ねえ、知ってる? セフィは今、すごく可愛い」
 






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二周年キャラ投票第2位のセフィロトと第6位の胡桃の幸せストーリーです。