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      暁色ぎょうしょく








 お父さんに手紙を書くのははじめてですね。
 こんな照れくさいことを試みる気になったのは、きのう婚約者を紹介するという人生で最高に照れくさいセレモニーをやってのけた後で、気持ちが高揚しているからでしょう。
 本当はお父さんともっともっといろんなことを話したかった。でも私はただ、志木さんの隣で泣くばかりで何も言えませんでした。
 11年間の積もりに積もった話はコチコチの岩のように大きくなってしまって、時間をかけてひとかけらずつ削る作業を経て、やっと話すことができるものかもしれません。
 だからこうして手紙に、きのう言うことのできなかった自分の気持ちを書くことにしました。
 文字にすると、私の中にこりかたまった分厚い層を存外かんたんに突き崩せそうです。
 もしかすると、お父さんにとって読むのが辛いところもあるかもしれません。その部分は、飛ばしてしまってください。私はお父さんを責めたり悲しませたりするつもりは全然ないのですから。
 これは私にとって自分宛の手紙でもあるのです。


 お父さんがうちを出て行ったことを知ったのは、私が小学3年生。たしか2学期が始まったばかりで、給食がまだないときでした。
 ランドセルを鳴らしながら昼ごろ走って家に帰ると、バタバタと引越し屋さんが出入りしていました。びっくりして家に駆け込むと、お父さんの本、机や洋服ダンスの中身を男の人が手際よくダンボールに積めていました。
 そういえばお父さんのタイムライフの美術全集。私はルノワールを見るのが大好きだったので、あのとき持って行かれてしまって、あとでずいぶん悲しい思いをしましたよ。
 お母さんは、そのとき荷造りの人のほうなんか全然見もしないで、ぼんやりソファに座っていました。私は、知らない人がお父さんのものを持っていっちゃうよ、と必死で訴えました。
「いいの」
 お母さんは、怒ったように答えました。
「お父さんは、もうこの家には戻ってこないのよ」
 私はおそろしくて、足がすくんだのを覚えています。
 私はそれまで何も知らなかったのです。お父さんはいつも私にはとても優しかったし、ふたりとも演技賞をあげたいくらい、いい両親を演じていてくれたからです。
 それから何日もかかって、お母さんの言葉の断片からようやくいくつかの事実を知りました。
 お父さんは、別の女の人と暮らすことになったということ。その女性はお父さんの遠い親戚にあたり、お父さんが子どもの頃から知っていた人で、もうかなり前からお父さんとその人は深く付き合っていたこと。そのことを知ったお母さんとお父さんが話し合って、お父さんが出て行くことになったのだということ。


 お母さんは私の前では泣きませんでした。だから私も、泣くことはできませんでした。
 ふたりで向かい合って黙ってごはんを食べながら、もう壁際の席にお父さんが座ることはないのだと、ごはん粒のひとつひとつを噛みしめるたびに、私は自分に言い聞かせました。
 それでも私はかなり長い間心のどこかで、いや、きっとお父さんは戻って来てくれる、私たちのことを忘れたりしないはずだもの、きっと明日の夜には「ただいま」といつものように帰ってくる、と予言者めいた確信をもつときがありました。
 でもある日、寝るために二階の自分の部屋に戻ったとき、鎌倉でお父さんが買ってくれた小物入れや、水族館で買ってくれたクジラのぬいぐるみをながめているうちに、なぜだか唐突に理解できたのです。
 お父さんは本当に私たちを捨ててしまったのだと。お母さんや私より、家族の思い出より、その女の人のほうが好きになってしまったのだと、はじめて悟ったのです。
 私とお母さんはふたりして、その女の人に負けてしまった。
 泣きました。お母さんに聞こえないように、ふとんをかぶって泣きました。
 私の心の中は、お父さんに対する憎しみでいっぱいになりました。
「お父さんはひどい」
 私はお母さんにそう言うことが口癖になりました。そのときだけ、お母さんが少し微笑むのです。娘に共感してもらった喜びなのでしょう。私はその笑顔が見たくて、もっともっとお父さんと、それからいっしょに暮らしている女の人の悪口を言い続けました。
 あんな人たち最低。人間のくず。
 そうして、そんなお父さんから生まれた自分をさえも卑下していることに気づかなかったのです。
 それ以来、私は自分が捨てられるべきどうでもいい存在であると、錯覚してしまったように思います。
 お母さんが妻として捨てられたように、私も女として男性から捨てられる運命なのだ、と幼い心に刻み込んでしまったように思うのです。


 中学になったとき、うちは引越しをしました。お母さんのお勤めに便利なように、駅に近いこじんまりとしたマンションに引越したのです。
 古い家の表札を外すとき、だいぶ前にお母さんと交わした会話を思い出しました。
「うちは、まだ『葛西かさい』なの? お父さんと離婚しても、苗字は変わらないの?」
 お父さんとは離婚していない、とお母さんは答えました。
 びっくりした私に、お母さんは笑顔で言うのです。
「離婚届をお父さんの眼の前でびりびりに破ってしまったの。あのふたりを正式な夫婦になんかさせたくないもの」
 「復讐」ということばが、続いてお母さんの口から洩れたとき、私はぞっとしました。
 私は大人になった今、お父さんがお母さんと別れたときの気持ちが少しわかります。
 娘は母親にとって最大の批評家だといいますが、お母さんには女としての欠点がいろいろあった気がするのです。男の人に心から甘えられない気の強さ。見栄っ張り。昔の失敗を何回でもほじくりかえす執念深さ。
 お父さんはきっと、お母さんの前では心からくつろぐことができなかったのでしょうね。だからと言ってお父さんのしたことが正しいとは、口が裂けても言いませんが。
 話をもとに戻しましょう。
 新しい家に引越したとき、ダンボールから荷物を取り出して茶箪笥に入れていると、現金書留の束が出てきたのです。
 お父さんがずっと私の養育費を送金してくれていることは知っていましたが、その書留の封筒を、お母さんは全部捨てずに取ってあったのです。
 封筒の中からは、お父さんの手紙が出てきました。多くは付箋のような紙に書いた『元気か』とか、『柚葉ゆずははもう6年生だね』などの簡単なものでしたが、その中に一枚だけ、便箋が数枚同封されているものがありました。
 そこには、お父さんがいっしょに暮らしている女の人が死んだことが書かれていました。
 もともと病弱な人だったようですね。流行り風邪をこじらせて、肺炎であっけなく亡くなったと。
 事実だけを伝える、淡々とした文面。
 封筒の消印を見ると、3年前になっていました。お父さんがうちを出てからその女性と暮らし始めて、1年といっしょに暮らさないうちにその人は死んでしまった計算になります。
 呪いだ、と思いました。
 私とお母さんのふたりの、お父さんとその女性に対する憎しみが、その女の人の命を縮めてしまったのだと。大人になった今なら笑い話ですが、そのときの私は本当にそう思ったのです。
 私とお母さんが、お父さんへの悪意を糧に懸命によりそって生きていたとき、もうお父さんは愛する人を失っていたなんて。
 私とお母さんがふたりでごはんを食べているあいだも、いっしょにテレビを見て笑っている間にも、お父さんのそばにはもう誰もいなかったなんて。
 私はたまらなくなって、お母さんにその便箋を突きつけました。
「どうして、黙っていたの。お父さんはもうあの女の人と暮らしていないのに」
 それが何?というような冷たい目つきで、お母さんは私を見返しました。
「だってそれだったら、家に帰ってきてもいいじゃない。ちゃんと話し合ったの? 帰ってきてって言ったの?」
「そんなバカなこと、言うはずないでしょう」
 お母さんはダンボールの洋服をぼんぼん引き出しに放り込みながら、吐き出すように言いました。
「よその女と出て行った夫に、またいっしょに暮らしましょう、なんて!」
「だって、お父さんきっと後悔してるよ。やり直したいと思っているから、こうして手紙で知らせてきたんじゃない!」
 私はそのときボロボロ涙を流しながら、孤独なお父さんの姿を思い浮かべていました。会社から帰って、真っ暗な寒い部屋の電気をつけるお父さん。買ってきたお弁当をひとりで食べるお父さん。
 憎しみなんかどこかに消え去って、お父さんに対する懐かしさだけがこみあげてきたのです。
 でもお母さんは、そんな私にさえ腹を立てて怒鳴りました。
「後悔してあたりまえよ。私たちを捨てたことを一生後悔すればいい! 絶対赦してなんかやるもんか!」
「お母さんの鬼! ばか!」
「柚葉! あんただけはお母さんの味方だと思ってたのに。やっぱりお父さんがいいの? あんなにひどく捨てられたのに」
 お母さんと私はわあわあ泣きました。


 そのあとでずっと、子どもなりにいろんなことを考え続けました。
 お母さんはお父さんのことをまだ愛している。離婚届を出さなかったのは、復讐のためじゃない。お父さんの妻でいたかったからなのだ。あんなに整理ベタのお母さんが、お父さんの現金書留だけはきちんと日付順に並べて輪ゴムでくくって。まるで大切なラブレターみたいに。
 お母さんはどんなにお父さんに戻って来てほしいと思っているのだろう。でも、愛しているからこそ、他の女性を愛してしまったお父さんのことを決して赦せないのだということが、じんじん身体が痛くなるほどに、わかったのです。
 人間はなんと悲しいものでしょうね。お父さん。
 私は一度だけ、書留の差出人の住所にお父さんを捜しに行ったんですよ。
 でも、お父さんはもう引っ越していて、その場所にはいませんでした。お母さんに新しい住所を聞くことは、とうとうできませんでした。


 私は、自分に自信の持てない暗い性格のまま、成長していきました。
 でも、それをお父さんのせいばかりにするのは、公平ではないかもしれませんね。私は元々こんな性格だったのかもしれないと、子どものころを振り返って思うことがあります。
 お父さんにプールに連れて行ってもらったときも、何度教えられても顔をつけることすらできなかったものね。お父さんの特訓むなしく、今でも水泳は大の苦手ですよ。
 高校のとき一度、同級生の男の子に恋をしました。
 彼のほうから声をかけてくれて、お付き合いのようなものも始まったのですが、彼は心を開かない私に業を煮やしたのでしょう、やがて同じクラブの朗らかな下級生に気持ちを移していきました。
 高校の同級生のユキ(披露宴でもスピーチをしてくださいます。どんな恥ずかしい話が暴露されるかドキドキものですが)は、「あのとき柚葉は、恋人を取られたっていうのにホッとしたような顔をしていた」と今でも笑います。
 確かにそうなのかもしれません。私は男性に捨てられる女なのだという思い込みは、ずっと私を支配していたのです。だから男性と付き合うことが私には恐くてたまらなかったのです。
 そのくせ、新しい彼女と仲良く手をつないで下校する彼の後姿を見るたびに傷つき、男はみな同じなのだと、妙に悟りきったような憤怒にかられていました。
 もう自分は一生誰も好きにならないと、そのとき密かに決心しました。
 高校を卒業すると、さほど勉強が得意でなかった私は、まよわず就職を選びました。
 実は、さっき名前の出たユキ、真柴ユキさんという名前ですが、彼女のお母さんが主催している彫金のクラスに私は誘われてずっと通っていたのです。
 そこで得た技術とつてを頼りに、ジュエリーデザイナーの卵として、今お勤めしている宝飾会社に入社しました。
 私はそこで、志木さんに出会ったのです。


 私が配属された制作部は、デザインから鋳造や研磨まで全部の工程を、分業ではなくひとりひとりのデザイナーが手がけるシステムになっています。
 素材選びから始めて、納得の行くまで時間をかけて作品に仕上げる。すばらしい芸術を作ろうという意気込みにみんなあふれていました。
 細かい作業が続くと誰ともしゃべらないという、ともすれば孤立しやすい面もありましたが、人と接するのが苦手な私は逆にそれがありがたかったのです。黙々と制作に打ち込む日々が続きました。
 そんなある日、宣伝部の方たちが制作部を訪れました。
 私はそのときはじめて、宣伝部の志木係長にお会いしました……と言うと、志木さんにはいつも怒られます。実は入社以来1年、志木さんは何度もうちの部に来ていたのに、私はまったく彼のことを覚えていなかったからです。
 春の新作発表会のパンフレットを作るために、彼はカメラマンといっしょに私たちの出品予定の作品を見て回りました。
 そして、『葛西柚葉の作品を表紙に使いたい』と唐突に制作部長に宣言したのです。
 後に私たちの婚約を発表したとき、社内の人にうんとからかわれました。志木係長はあのときもう私に目をつけていたに違いないなんて。志木さんは、絶対にそんなことはない、俺は彼女の才能をいち早く見破ったんだと反論するのですが。
 入社1年足らずの新人の作品が表紙を飾るという確かに信じられないお話に、私は固まってしまいました。何をやっても人並み以上にとろい私は、人から褒められるということに慣れていなかったのです。
 出来上がったパンフレットを見て、涙が出ました。その晩はそれを抱きしめて眠ったくらいです。
 私の中で確実に、何かが変わっていきました。


 新作発表会が無事終了して数日したとき、志木さんが慰労会をするからと、食事に誘ってくれました。
 行ってみると私一人でした。他にも何人か誘ったのだけれどみんな都合が悪くなったと言い訳していましたが、どうもそれは嘘だったようです。
 志木貴洋たかひろさんを間近で見てあらためて、女性社員たちがこの37歳の独身の係長のことを騒いでいる理由がわかりました。食前酒を飲むときはまだろくにしゃべったこともなかった男性に、デザートのコーヒーがサーブされるころには、私はあっけなく心を奪われていたのです。
「葛西くんは、どうしていつも黒っぽい服を着ているんだ?」
 レストランを出るとき、暖かい春風にコートを小脇にかかえた私をまじまじと見つめて、志木さんは考え込むように顎に手を当てました。
「特に、理由は……。ただなんとなく好きな色なので」
「きみには、あざやかなオレンジがかった朱が似合うと思うんだ。それにヘアスタイルは、軽めのワンレングス」
 私は目を見張りました。赤なんて、絶対に私が着る色ではないと思ったからです。
 志木さんは思いついたことは即実行しないと気のすまないタイプの人でした。
 次の日、私は彼の知り合いのヘアデザイナーのところに強引に連れて行かれ、そのあと赤坂のブティックで、スーツと帽子、それに揃いの靴まで見立ててもらいました。
 志木さんに懸命に訴えました。私の家は母ひとり子ひとりで、とてもおしゃれにお金を使う余裕はないのだと。
「これは、僕が好きでやっていることだ。僕はひとり身だから、今までどこにも金の使い道がなかった。その捨て金を使って日本経済に寄与しているだけだ。きみが心配する必要はない」
「でも、こんな高価なものをいただく理由なんて、何も……」
「きみはジュエリーデザイナーだろう?」
「は、はい」
「じゃあ、原石を研磨して美しい宝石に仕上げていく喜びを知っているはずだ」
 それからも志木さんは、私を観劇やコンサートや食事に誘ってくれ、そのたびにそこに着ていくのにふさわしいドレスをあつらえてくれました。試着室から出てきた私のことを、「町一番の美人の娘をもった父親の気分だよ」と目を細めて見つめました。
 まるで夢のような毎日でした。
「柚葉、どうしたの! 見違えちゃったよぅ」
 久しぶりに会ったユキが、最初私だとわからなかったと驚きました。それくらい私は、志木さんの手で美しく変身していたのです。性格も明るくなったと言われました。
 それでも私は、心のどこかで私なんて、と思っていました。志木さんが良くしてくれるのは、きっと若い女の身体が目当てだからに違いないと、有頂天になりたがる自分に言い聞かせました。
 それ以外に志木さんがそんなことをする理由が、私には思い当たりませんでした。いまだに私は、自分のことを男性に愛される価値のない女だと思い込んでいたのです。
 何回目かのデートのあと彼は、今夜をともに過ごしたいと言いました。
 私は黙ってうなずきました。
 もう覚悟はできていました。身体が目当てであってくれるほうが、むしろ私には気が楽だったのです。好きとか愛してるという移ろいやすい感情を男女の絆にするよりも、セックスへの欲望のほうがよほど正直だと思いました。
 なんだか私、お父さんへの手紙にとんでもないことを書き始めていますね。普通実の父親に向かって、自分の性体験を話す娘はいないのでしょう。
 でも長い間私をおおっていた鎧を引き剥がして、11年間のすべてをお父さんに見てもらいたい。
 毎日をいっしょに暮らしていた親子には必要ないことなのでしょうけど、私にはそれが必要なのです。


 ホテルに入ってシャワーを浴びたあと、はじめての行為への恐れに震えている私に、志木さんは居住まいを正して、とんでもない告白をしました。
「実は僕は、バツイチなんだ」
 中途採用で今の会社に入る前に、4年ほど結婚したことがあるのだ、と彼は言いました。でも望んでいた子どもが生まれず、互いへの愛情は気持ちの行き違いの果てに、やがて憎悪に変わったと言います。若さゆえに心の奥底まで徹底的に傷つけあう生活が続き、とうとう彼は女性を抱いても反応しない身体になってしまったのだそうです。心理的要因によるED(勃起不全)という病気だそうです。
「離婚後何年も治療を重ねて、そちらのほうは完治した。でも同時に、もう二度と誰とも結婚はしないと心に誓ったんだ」
 女性恐怖症ってやつだよ。志木さんはそう言って笑いました。
「でも、10年来のその誓いは、君に出会ったときにあっさりと破られてしまった」
 志木さんの真摯なまなざしを見ているうちに、私はわかりました。彼は若い女と火遊びをしようとしているのでも、身体が目当てなのでもない。本当に私のことを想っていてくれることを。
「だから、僕は君にプロポーズする前に、自分がその資格のある男かどうかを試してみたいんだ」
 そのときの全身がしびれるような幸福感は今でも忘れることができません。
 志木さんの長い話が終わると、私も夢中になって自分の今までの人生について話しました。
 話し終えると、彼はぽつんと言いました。
「僕たちは、出会うべくして出会ったのかもしれないな」
 私も同じことを考えていたのです。結婚に失敗し、女性に対して心を閉じていた志木さんと、父に捨てられたという思いから男性に心を閉じていた私。最初から同じものを互いに感じ取っていたのかもしれません。そしてたぶん、18歳という年齢差があったからこそ、私たちは最初の拒否反応をするりと通り抜けることができたのでしょう。
 志木さんは私の気持ちをもう一度確かめると、ベッドの上に私を横たえました。
 彼はそのとき、まるで少年のようにうろたえていたとあとで教えてくれました。もちろん、経験のない私はそれ以上にうろたえていましたけれど。
 不器用に体をからみあわせているうちに、私の耳にとんでもない破裂音が聞こえてきたのです。
「ご、ごめん!」
 いつも会社でばりばり仕事をこなしているクールな志木さんの、泣きそうになった真っ赤な顔は本当に見ものでした。
 自分の男性を奮い立たそうと緊張しきっていた彼は、大きな放屁をしてしまったのです。
 私は笑いだしてしまいました。
 悄然とうなだれる志木さんに悪いと知りながら、しばらく笑いを止めることができませんでした。
 お父さん。お父さんがよくおならをしたあと「ごめん」と頭を掻いていましたっけ。いっしょにお風呂に入った幼稚園のころ、湯船の中でぶくぶくと大きな泡が浮いてきてキャーキャー笑ったこともありましたね。その姿が彼に重なったのです。
 知らず知らずのうちに涙があふれ、志木さんのことを心からいとしいと思いました。
 今度は私のほうから彼に唇を重ねました。
 硬くすぼめていた互いの体が、相手を受け入れるために自然に開いていきました。
 それは、なんといたわりに満ちた優しい時間だったことでしょう。
 窓の外ではいつのまにかしらじらと夜が明け、見たこともないほど美しい朝焼けの空が私たちを染めていました。


 私たちの交際は、すぐに会社中の人の知るところとなりました。こそこそするのは嫌いだからと、志木さんみずからが堂々とふれまわったのです。
 もちろん、私たちのあまりの年齢差に眉をひそめる人も中にはいたはずですが、あからさまな陰口が聞こえてこなかったのは、志木さんがその中で毅然と私を守ってくれたからでしょう。
 会社ぐるみで仲人や披露宴の日取りの話がとんとんと進み始めました。
 彼の郷里のお母様(お父様は早くに亡くなられたのです)への挨拶も無事すみ、一番の難関は、やはりうちの母でした。
 私は彼を家に連れてくる前に、母の逆鱗に触れるのがこわくて、つい10歳もサバを読んだ歳を告げてしまったのです。きのう実際に会ったお父さんならわかってくれるでしょうけど、志木さんは28だと言っても通用するほど若く見えます。案の定、お母さんはすっかりだまされてしまいました。
「本当にしっかりして、いい方ね。お若いのに係長だなんて」
 と手放しで誉めてくれたその夜遅く、実は、と切り出すとき、どんなにおそろしかったか。
「柚葉。年をとればとるほど、18の差というのは重いのよ。あんたが40ちょっとになったとき、彼はもう60歳なのよ」
「女のほうが寿命が長いから、あんたは何十年も老後をひとりで過ごすことになるのよ」
 お母さんが私を心配して言ってくれることばは、全部私が自問自答してきたものばかりでした。
 大丈夫、お母さん。その覚悟ができたうえで決心したんだから。
 確信に満ちた私の返事に、お母さんはあきらめたようにうなずいた上で、最後にぽつりとこう言いました。
「あんただけは、必ず幸せになってね」
 自分の幸せだけに酔っていた愚かな私はそのことばを聞いてはじめて、私が嫁いだあと、この家でこれからひとりぼっちになるお母さんの姿を思い浮かべたのです。気が強いと思っていたお母さんの背中がとても小さく見えました。胸がしめつけられる思いで、やっぱり結婚なんかしないと言いそうになりました。
 老いに向かう日々をそれぞれ別にすごすお母さんとお父さん。どうしてふたりはもう、元通りにいっしょに暮らせないのでしょう。


 秋になると、11月の結婚式に向けて山ほどのすべきことに忙殺される毎日が始まりました。
「柚葉。聞いてる?」
 志木さんは披露宴の席順のリストを前にして、じっと私を見つめました。
「は、はい」
「君の意見を聞いてるんだよ」
「だから、私は志木さんの思うとおりでいいと」
「そうじゃなくて」
 彼は少しいらいらしたような表情で、リストをこつこつと叩きました。
「引き出物や披露宴の料理の選択も、ウェディングドレスの衣裳あわせも、新婚旅行の行き先も、君は何一つ自分の考えを言おうとしない。結婚はふたりでするものだよ。僕はきみが何を望んでいるのかが知りたいんだ」
「でも、私はほんとうに、志木さんの選んでくれたもので満足してるんです。それ以上のことなんて私には……」
 涙ぐむ自分を感じました。
 晴れの日が近づくにつれ、私の気持ちは沈み、それにつれてふたりのあいだにも不協和音が鳴り始めたのです。
 その理由はわかっていました。
 お互いに求めるものが、食い違っていたのです。
 私は、大人の男性として私をリードし甘えさせてくれる志木さんを慕いました。そして志木さんも、世間知らずで未熟な私をかばってくれました。それは男女というよりむしろ、親子の関係だったのです。
 そう、私は彼のことをいつのまにか、父親代わりとして見ていたのかもしれません。
 でも、結婚というものはそういうものではない。成熟した異性同士が手をたずさえて歩くものでなければなりません。志木さんが求めているのは、人生の対等なパートナーとしての伴侶だったのです。
 そのことに今さらながらにふたりは気づいたのでした。
 もしかすると、私たちはだめかもしれない。私は彼に愛される資格なんか、初めからなかったんだ。
 口には出さないけれど、私は心の中でそう観念しました。
 志木さんはしばらくずっと押し黙っていたと思うと、瞳がやがて力強い意志にきらめきました。
「柚葉。やっぱりこの最前列のテーブルに、きみのお父さんに座ってもらいたいんだ」
 私は息をのみ、子どものようにいやいやをしました。
「父は結婚式には呼びません。母ともそう決めたんです」
「でも、来て欲しいと思っているんだろう」
「そんなこと思ってません!」
「自分に嘘をつくな。きみはお父さんと和解したくてたまらないはずだ」
「ちがう。父なんか顔も見たくありません! 私たちを捨てて、……ずっと……ずっと憎んできたんだから!」
 興奮して立ち上がる私を、志木さんは引き寄せました。「お父さんなんて……大っ嫌い!」と取り乱して泣く私を、いつまでも抱きしめてくれました。
「きみを結婚に向かわせないのは、その気持ちだよ」
 彼は私をなだめながら、そうささやいたのです。
「過去に心を残しているから、未来に向かえない。僕はその過去と対決しに行くよ」


 それからわずか数日で、志木さんはお父さんの居場所を捜し出して、きのうの面会の約束を取り付けたんですよ。
 本当に、思い立ったらきかない人なんです。お父さん、これからも一生そのつもりで覚悟してくださいね。
 お父さんが入ってきたとき、その顔を見つめた私の表情はとても険しかったと、志木さんは帰りの車で言っていました。お父さんもそう思いましたか?
 でもそれは誤解です。私は怒っていたわけではなかったのです。11年ぶりに再会したお父さんを、恨む気持ちも憎む気持ちも私の内からは出て来ませんでした。
 ただ、あのときお父さんの姿にどうしようもない年月の過酷さを感じて、私は呆然としてしまったのです。47歳にしてはすっかり老けこんだ顔を一目見て、お父さんがその歳月をどんな思いで過ごしてきたかがわかってしまったのです。
 お父さんがもし、私たちの家を出てから別の女性と幸せに暮らしていてくれたら、どんなに私はお父さんを心置きなく憎めたでしょう。思い出の中にある颯爽としたお父さんと、目の前の悲しい皺を額にきざんだお父さんをタブらせて、私は自分が何を感じればいいのかわかりませんでした。
 お父さんはそんな私に向かって頭を下げるばかりでしたね。「すまなかった」と言いどおしでしたね。でも、本当は私は謝ってほしくなどなかった。互いのみじめさに沈み込んでしまうような、そんな言葉は聞きたくなかったのです。
 ハンカチとあふれでる涙を防壁として、私は何も答えようとしませんでした。
 やっぱりお父さんは私の気持ちなんか何もわかってない。お父さんに会ったって何も変わらない。私は絶望して、何度も席を立とうとしました。
 志木さんが、口を開いてくれるまでは。
 お父さん。あのとき志木さんの言ったことを覚えていますか?
「柚葉さんは、あなたを恨んでいるのではありません。長い間あなたのことを慕い続けていたのです。行き場をなくした愛に縛られていたのです。だからわたしは、今日それを断ち切るために来ました。
葛西さん。私のほうがあなたより柚葉さんを愛しています。だから、柚葉さんをあなたから奪います。いさぎよく負けを認めてください」
 私が志木さんに父親の代理を求めていたのを知りながら、それでも彼は私を赦し、私のすべてを受け止めてくれたのです。
 それを聞きながら、私の苦い悔恨の涙は途中から喜びの涙に変わっていきました。志木さんのことが愛しくて愛しくて、からだじゅうが叫び出しそうでした。
 お父さんは目を細めて、志木さんと私をかわるがわる、まぶしそうに見つめていましたね。
「柚葉をお願いします」
 深々と彼にお辞儀をしたお父さんが、次に私にまっすぐ向き直って、「柚葉。よかったね。いい男性とめぐりあったね」と言ってくれた瞬間を、生涯忘れることはないでしょう。
「ええ、お父さん。志木さんは最高の人です」
 心の底からそう答えたとき、私は今までの人生のすべての呪縛から解放されたのでした。


 気がつけば、こんなに長い手紙を書いてしまいました。外を見ると、もう夜明けがそこまで来ています。
 こんな空を暁色というのでしょう、ほんのりと黄を混じらせた薄紅色が、まるで雲母を一枚一枚はがすように闇をはがしていきます。
 そんなふうに、私も少しずつ変わらなければなりません。今は無理でもいつか、彼の隣を歩むのにふさわしい大人の女性になるつもりです。人間は変わることができると信じて。
 そして、お父さんとあの女性を燃やし尽くした愛のことも、おだやかな気持ちで聞けるときが来るのかもしれません。この美しい空を見ているとそんな気持ちさえ湧いてきます。


 最後にお母さんのことを書きます。
 ゆうべ、お父さんに会ったこと、披露宴に出席すると約束してくれたことを話しました。
「そう」
 短く答えて、お母さんは寝室に引きこもってしまいました。それから泣いていたのだと思います。
 お母さんは今年の春、子宮筋腫をわずらって手術をしました。子宮を全摘しました。
 手術のあと、麻酔から醒めたばかりのぼんやりした表情で、言ったのです。
「なんだか、すっきりしたわ。いろんなものがいっしょにどこかへ行っちゃった感じ」
 お母さんの中の女性である部分がずっとお父さんを赦せなかったのでしょう。でもお母さんを苦しめていたその憎しみは、子宮とともに出ていった。そう思わせるほど、お母さんは本当に晴れ晴れとしたきれいな顔をしていました。
 葛西という名前を捨てることができなかったお母さんは、お父さんからの手紙を捨てることができなかったお母さんは、きっとお父さんのことをまだ愛しているのだと思います。
 お父さん、お願いです。お母さんのところに戻って来てください。
 夫婦の間に横たわる11年間の時間は、簡単には埋められないことはわかっています。でも、お母さんにはお父さんが必要なのです。私たちはずっとそのときを待って、この歳月をふたりで生きてきました。お父さんもきっとそうだったと思っていいですね?
 私は大好きなお父さんとお母さんの娘として、志木さんのもとに嫁ぎたいのです。


 人間は生きている限り、何度でもやり直しがきくのだと信じます。
 誰も愛さないと誓ったあなたの娘は、今こんなにもひとりの男性を愛しているからです。






shionさんの66666ヒットキリリク。
「うんと年上の男性とのあしながおじさん風のラブロマンスに、「父と婿の対決」をからめて」というお題でした。
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