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ダマスカス・コネクション



「ワタナベさぁん。採血室のほうへどうぞぉ」
 透き通った美しい声が、午後の日差しの射しこむ病院の長い廊下を、心地よく伝わった。
「はい、その椅子に座って、利き手と反対のほうの腕を出してください」
 てきばきと腕にゴム製の駆血帯を巻き、アルコール綿で消毒する。その準備の間も中年の男は、彼女の白衣の襟からわずかにのぞくふくらみや、眼鏡の奥のくっきりとしたアイラインに見とれて、だらしなく笑っていた。
「怖くないですよ、たった30ccですからね。……あら、どうかなさいました?」
「看護婦さん、でかいオッパイしてるねえ」
 彼女はゆっくりと背筋を伸ばし、患者を見下ろして艶やかな唇をにっこりと緩ませた。
「ワタナベさん? 血の気が少し多すぎるようですね」


「――あ、それから外来の男性がひとり、採血室で貧血を起こして寝ておられるので、あと10分くらいしたら、起こして帰宅させてください。引き継ぎは以上です」
 ナースルームを出た彼女は、うしろから「婦長」と呼び止められた。
 若い男性看護師。童顔と短く刈り込んだ髪の毛は、まだ看護学校を卒業してそこそこという年齢であると、見る者に錯覚させる。
「タロー」
「ずるいなあ。いただいちゃったんでしょ」
「不味かったぞ。検査に回すまでもなく、コレステロール値はオーバーってとこだな」
 ふたりは、秘密を共有する者同士の、いたずらっぽい微笑みを交わす。
「今夜は呼び出しを受けてる。だから緊急の栄養補給がわりさ」
「僕なんか、もう何ヶ月吸ってないだろう。いい加減、力出ないっす」
「ガールフレンドでも作ればいいのに」
「彼女いない暦62年の僕に、簡単に言わないでくださいよ」
 婦長は彼の耳に近づき、小声でささやいた。
「吸うときは、うまくやれ。【私たち】の存在を人間に気取られないように」
 ロッカールームに入った彼女は、ヘアピンをはずし、ナースキャップを取る。腰までの豊かな黒髪が生き物のように流れ落ちた。深いスリットの入った黒のロングドレスをまとい、眼鏡をむしりとり、優しかった目元に、きつめのシャドーを鋭角に入れる。
 白衣の天使は、またたく間に黒衣の魔女へと変貌した。
 そして、数秒後にはもう、その姿は病院内のどこにもなかった。
 天羽(あもう)ルイ。
 【ダマスカス・コネクション】東京支部に所属する、【吸血鬼ハンター】。
 そして自らも吸血鬼である。


 残照が、聖堂の塔の影を地面に落とす。
 扉を開けた若い神父は、美貌の来客にまとわりつく、かすかな香りに顔をしかめた。
「ルイ。また血を吸いましたね」
「据え膳食わぬは女の恥、ってな」
「それを言うなら、「男の恥」でしょう」
「おや、神父さまも据え膳なら、お召し上がりになるのかな?」
 「はいはい」とため息をつきながら彼は、肩で切りそろえた髪を揺らして、廊下を先導していく。
 貴柳裕斗(たかやぎゆうと)司祭。【ダマスカス・コネクション】東京支部の総代表。
 古い書物がびっしりと壁を埋め尽くす司祭室に入ると、そこにはふたりの先客がいた。ひとりは背広姿のがっしりした体格の男。もうひとりは紺色のスーツの小柄な若い女性。
「轟(とどろき)警部の隣にいらっしゃるのは、八雲真紀さん」
 神父の紹介に、彼女は挑発的とも言える視線をルイに向けた。
「はじめまして、総務省統計局特別調査課の八雲です。【吸血族】についての詳細な調査を命じられ、轟警部にお願いして、ここにうかがいました」
 ルイはそれには答えず、ゆっくりと頭をめぐらす。
「ほかの連中は?」
「今日はこれだけです」
「じゃあ、しゃべるのは私しかいないじゃないか」
 吐息をつき、椅子に腰掛けて足を組んだ。スリットから美しい脚線とともに、革のベルトで留めた碧く硬いナイフの鞘がわずかにのぞく。
「どうぞ。聞きたいことは何だ?」
「いくつか単刀直入に質問をさせていただいて、【吸血族】に関する一般的真実を把握したいと思います」
「わかった」
 八雲は、ノートパソコンの画面を見ながら、
「まず、あなたの年齢は?」
「確かに単刀直入、だな」
 ルイは喉の奥でくっと笑った。
「女に年齢を聞いちゃいけないって、幼稚園で教わらなかったか? それとも、【吸血族】などに、人間に対する礼儀は必要ないか」
「……失礼しました。それでは、質問を変えます。生まれ故郷はロシアだとうかがっていますが」
「ああ」
「日本に来られたのは、いつごろですか」
「20世紀初頭。そのときはまだ子どもだったがな」
「【吸血族】というのは、人間と同じように成長していくものなのですか」
「そう。一族の遺伝子を持つ親から生まれ、やがて老い、死んでいくもの。ただ人間と違うのは、寿命が数倍長いことだ」
「太陽や十字架、にんにくに弱いというのは、俗に言う迷信ですか?」
「そうだね。暗闇でも視力が落ちない代わりに、カメラのフラッシュのような強い光には確かに弱い。しばらく目がくらんでしまう。真夏の日中にはサングラスがかかせないな。
十字架は……こうして教会に出入りできるくらいだから、特に苦手ではない。にんにくは大好きだ。今度いっしょに焼肉を食べに行ってみるかい?」
「いいえ、けっこうです」
 冷たい拒絶とともに、カタカタとキーボードの単調な音が流れる。
「普通の食物を摂取するだけで、身体は十分に維持できると伺いましたが」
「ああ。ただ、【吸血族】本来の能力を使うためには、血が必要になるときがある。いわば栄養ドリンクの役目をするものだ。それに何よりも……最高に美味い」
 相手の首筋を見つめながら、ぺろりと紅い唇をなめる。そのルイの仕草に、八雲真紀ははじめて怖気づいたような表情を見せた。しかし、次の瞬間には平静を装い、質問を続けることにした。
「あなたは直接、人間の血を吸われることはあるのですか」
「いや、全然。近頃はエイズが怖いからな」
 「うそつき」と言わんばかりに睨みつける貴柳神父の視線を黙殺し、あっけらかんと答える。
「必要なときは、もっぱら輸血用血液パックのお世話になることにしている」
「日本には現在、どれくらいの【吸血族】が居住していますか」
「ノーコメント。っていうか私もよくは知らない。知ってるのは、【ダマスカス・コネクション】に登録している数百人だけ。それ以外に潜伏している【非合法吸血族】については、知りようがない」
「【コネクション】の登録者は、それぞれ何をして暮らしているのですか」
「病院関係者が一番多いね。立場上、血液が比較的自由に手に入る。あとは、研究機関。製薬会社。普通の大学生やフリーターになってる奴らもいる」
「【ダマスカス・コネクション】はもともと、中世に【吸血族】を生み出す機関として創立されたというのは本当ですか?」
 司祭室に、突然沈黙の帳が降りる。
「それは、ここにいるバチカンの関係者に訊ねたほうがよくはないかな」
 ルイは皮肉気な微笑を、神父に向けた。
「本当です」
 気乗りがしない渋面で、貴柳はことばを引き取る。
「ことは、1147年の第二次十字軍のダマスカス攻略に端を発しています。市街戦の途中、彼らは地下で奇妙な棺を見つけ、本国に持ち帰りました。それが【旧人類】の発見だったのです」
「【旧人類】……」
「今の人類とはまったく異なるDNAを持つ人類。「神の創り給わぬ生命」。他の生物の血を摂取することによって不老不死を保つ、いわゆる一般に流布している吸血鬼伝説の原型――別名【オリジナル】や【マスター】と呼ばれる存在です」
「それが、どうして……」
「十字軍は緒戦こそ勝利しましたが、ダマスカス攻略以後は惨めな敗退を続けていました。【旧人類】の持つ、超人的な身体能力や治癒能力を何とか戦争に利用できないかと、当時の教会と諸侯たちは考えたのです」
「なるほど」
「その結果、兵士に【旧人類】の血を注入し、人工的に【旧人類】のコピーを作り出そうとした。もちろん血液型不適合による凝固作用ということすら知らない昔のことです。実験体はことごとく死にました」
 貴柳神父は目を閉じた。その苦悶の表情は、贖罪の祈りをつぶやいているかのようだった。
「しかし――。長い実験の末、ついに適合する者が現れ、彼らの子孫が今の【吸血族】となったのです。
だがその頃には十字軍はとっくにもう終わっており、生み出された【吸血族】はそのまま、ヨーロッパで増え広がりました。
彼らは人間にとって、宝とも恐怖ともなりました。為政者たちは彼らを捕らえ、その能力を利用して、戦争の尖兵や密偵となることを強要し、反対に教会と民衆は、彼らを「異端者」として迫害する歴史を繰り返し、やがて彼らは世界中に散り散りになっていきました。そしてバチカンは、彼らに関するすべての資料を、ことごとく歴史から抹消したのです」
「そして今でも、人間社会の中に潜伏している……」
「このことを知っているのは、バチカンの枢機卿以上、各国政府のごく限られた者、そして当の【吸血族】たちだけです。【ダマスカス・コネクション】は、この三者の連絡・協議機関として、今も一般の人間の目に触れないように活動しています」
「だから、このことは絶対に一般市民には秘密だ。くれぐれも、政府内部の極秘資料として留め置くように」
 ルイは、ゆっくりと立ち上がる。血に濡れたように光る唇。暗がりで赤く瞬く瞳。
「もしそれを守っていただけない場合……わかっているな」
 八雲はぶるっと身体を震わせた。その見開いた目には、みるみる恐怖が刻印される。
「わ、わかりました」
 数分後、彼女が退席したあと、轟警部は肩をすくめた。
「彼女、IQ200だそうだよ。生まれついての超エリートで、好奇心も度胸も一級だ。それでも、ルイ、あんたの前に出るとあれほど萎縮してしまうのかね。今頃、帰りの車の中で、歯ぎしりして泣いているぞ」
「脅かしすぎです。可哀想ですよ」
 貴柳司祭の非難がましい目つきに、ルイは微笑んだ。
「なにごとも最初が肝心と言う。まして将来は、【ダマスカス・コネクション】の一員として一緒にやっていくのなら」
「気づいていたのか。八雲が新しい政府代表メンバーだということを」
「轟さん、あなたがただの物好きのミーハー女を連れてくるはずがないな。内閣情報調査室特務担当。あどけない顔をして、懐にザウエルP230のSP採用モデルを隠し持っていた」
「透視もできるってことを忘れてたよ」
「で、今日のもうひとつの用件は? 彼女のデビューだけで済ますには、長すぎる夜だ」
 轟雄太郎警部、警部庁公安部公安五課課長。対吸血鬼捜査のプロは、「失礼」とセブンスターに火をつけると、うまそうにくゆらせた。
「【非合法吸血族】と見られる集団が、東京で大規模な活動を始めた」


「このところ、外傷なしの他殺体が増えている。もちろんすべて公式発表は心臓麻痺と誤魔化しているがね。本当の死因は失血性ショック死。明らかに【吸血族】のしわざだ。
悔しいが、我々人間では奴らの足取りを追うだけ。捕まえることはできん。
天羽ルイ。貴柳神父。きみたち【吸血鬼ハンター】の出番だよ」


 ルイは、ナースコール用のランプパネルをぼんやり見つめながら、思いに耽った。
 また恐れていたことが起こってしまった。
 【非合法吸血族】。今の世界のシステムでは、【コネクション】の登録簿に名を記していない【吸血族】は自動的にそう呼ばれ、各国政府の取り締まりの対象となる。
 平和を望んで静かに暮らしている者も中にはいる。だが圧倒的多数は、過去の弾圧と迫害を記憶し、教会と為政者を徹底的に憎悪する不満分子たちだ。
 彼らは人間の血を吸い、死に至らしめることで、【ダマスカス・コネクション】に挑戦状を叩きつけている。人間社会をパニックに落としいれ、あえて中世の再来、人間対【吸血族】の構図を作り出そうとしているのだ。
 ルイは眼鏡の奥で、長い睫毛を物憂げに伏せる。戦いのない平和な暮らしは、いったい何年生きたら訪れるのだろう。
 突然、ナースルームにアラームが鳴り響いた。深夜の救急患者だ。
 救急入り口に駆けつけると、ストレッチャーを押してきた救急隊員たちが、婦長の顔を認めて大声で叫んだ。
「11時24分到着、心肺停止確認、血圧計れず。医師の指示により車内で乳酸加リンゲル液1000ml投与するも、依然バイタルなし」
「これは……」
 ルイは患者を一目見て、表情を強ばらせる。
「患者を処置室に運んで、仮眠室の楠本先生を叩き起こして! Rh+AB型の血液を全部かき集めるのよ」
 その場にいたスタッフ全員に指示を与えると、救急隊員に問い質す。
「現場はどこ?」
「海岸通沿い、日の出桟橋の百メートル南です」
 ルイは、処置室とは反対方向に突進した。
「婦長!」
「タロー、おまえもこの気配に気づいたな」
「はい、出動ですか?」
「いっしょに来い!」
 ロッカールームで携帯が鳴る。貴柳司祭からだ。
[ルイ]
「被害者がうちに搬送されてきた。そっちは?」
[轟さんが、現場周辺を通行止めにしてくれています。わたしもすぐそちらに――]
 携帯がぼとりと床に落ちる。
 ルイの姿はもう、そこにはなかった。


 港区芝浦。海岸通り脇の、人気のない倉庫街。
 潮風に長い髪をなびかせて、車道の真ん中を歩く、黒のロングドレスをまとった天羽ルイ。
 その後ろにつき従うのは、同じく黒いロングコート、ブーツ姿の文月(ふづき)タロー。【吸血鬼ハンター】チーム入りをしたばかりの、一族ではまだ年若いメンバーである。コートの中に潜めているものは、全長42センチのサブマシンガン、ベレッタM12S。裏地にはずらりとマガジンパウチが並ぶ。
「タロー、ひとつ言っておく」
「はい、何でしょう」
「そのコート、おまえには絶対似合わん」
「……ひどい。鏡の前でさんざん、決めポーズを練習したのに」
 被害者の発見地点に、吸血鬼の残気はもうなかった。ふたりは早春の風に乗るわずかな血の匂いに集中する。
「北に移動したな」
「はい」
 次の瞬間、彼らの姿が掻き消えるようになくなった。本当に消えたのではない。人間の動体視力では見えない速度で移動する。並外れた知覚能力、腕力、治癒力などとともに、【吸血族】の持つ特殊能力のひとつだ。
 ふたりが次に現れたのは、竹芝埠頭だった。
 海を臨む公園の広場。高い帆船のマストを模したオブジェの根元に、一組の男女が抱き合っている。
「きみは、綺麗だ。今まで出会った誰よりも」
「うれしい……」
 目をうるませ、陶然と身体を預ける女性の首筋に、寄り添うもうひとつの影がゆっくりと屈みこんでいく。大きく開いた口から牙がのぞく。
「そこまでだ」
「なに?」
 ライトアップされた三段マストの一番頂上に、黒衣の女の凄絶なまでの美が照らし出された。
「【ダマスカス・コネクション】だ。おとなしく投降し、我が軍門にくだれ」
「くそぅ」
 【吸血族】の男は抱いていた女を放り出すと、懐から銃を取り出した。大口径50AE弾モデル、デザートイーグル。素人が撃つと肩の骨が外れると言われるほどの威力を誇る銃である。
 それに呼応してルイも、ドレスのスリットを割って、ナイフを引き抜く。ターコイズ飾りの碧い鞘から現れた刀身が、黒と金に妖しく輝いた。
 ダマスカス・ナイフ。
 歳月をかけて丹念に鋼を折り畳んで鋳造した縞模様は、水面の波紋、木の年輪を思わせる。ましてやここに存在するのは、ひとりの【吸血族】の刀工が、その一生を賭けて鍛えた、世界にただひとつの名刀。その輝きは、時空さえ曲げてしまいそうだ。
 腕を伸ばし銃の狙いを定めようとする敵に向かって、ルイはマストから舞い降りる。その体が大気に熔け入り、そして敵の姿も掻き消える。【吸血族】同士の、音速さえも超えた戦いが始まったのだ。
 空気を切り裂く悲鳴が時折夜風に混じるほか、何も見えない。港の向こうで、レインボー・ブリッジの夜景が美しくきらめくだけ。
 もちろん、タローには彼らが見えている。頃合を見計らうと、ルイの援護のため、彼の愛用のサブマシンガンがバーストした。
「タローくん、絶対に被疑者を殺しちゃいけませんよ」
 その戦場に臆することもなく駆け込んできたのは、貴柳司祭だ。吸血鬼の餌食になるところだった女性を、公園の隅に助け出しながら叫ぶ。
「心配しなくても、当たりませんって」
 とマガジンを交換しながら、タローは暢気に叫び返した。
 1分間あたり550発という連射速度で弾を吐き出してもなお、彼らの戦闘速度には銃の性能が追いつかない。ましてや、9mm弾が一発や二発当たったところで足止め程度。【吸血族】の治癒能力の前には、致命傷になりえないのだ。
 神父は、彼のすぐ後を追いかけてきた轟警部に、女性を託した。轟は、ぶあついゴーグルを目に装備している。特製赤外線スコープだ。不十分ではあるが、人間が高速で移動中の【吸血族】のおおよその位置を把握するためには、これしか手段はない。
「頼みます。それから、付近半径1キロの人間を全員退避させてください」
「もうやっとる。あとは頼むぞ!」
「はい」
 貴柳裕斗は、司祭用のガウンをひるがえし、広場に向かって立った。
 目を閉じて、首に掛けていた銀のロザリオを握る。人間であるにもかかわらず、彼にはゴーグルは必要ない。怒り、憎悪、殺意といった邪悪の気を、目で見るよりも確実に捉えているからだ。
 バチカンが公式に認める、たった三人の最高位エクソシストのうちの一人、それが彼だ。
 ラテン語の詠唱が朗々と響き渡る。
 グレゴリオ聖歌、イントロイトゥス(入祭唱)「主の聖霊は地上に満つ」。
 広場の空気は幾重にも共鳴し、次第に水銀のように、とろりとぬめり始めた。とりわけ邪気を持っている者には鉛の重さを持ってのしかかってくる。
「くっ」
 敵の動きがわずかに遅くなった。
 その機会を逃がさず、ルイがナイフをかざし、踊りかかる。男は広場の端まで吹き飛ばされた。
「おのれ、裏切り者。人間の狗!」
 うずくまって喚く男に、険しい目をしたルイは正面からゆっくり近づいた。
「おまえは、憎悪と戦乱の歴史をまた繰り返すつもりなのか。人間と【吸血族】はともに生きるものとは思わんのか」
「思わぬ。我らが人間に受けてきた迫害を、断じて忘れることはできぬ」
「しかたない」
 ルイのナイフが雷光よりも早く、左右、上下に動いた。
「グワッ!」
 男の胸に紅い十字の飛沫が刻み込まれる。
「キリエ、キリエ、キリエ エレイソン。クリステ エレイソン。キリエ エレイソン」
 続いて、貴柳司祭の声が絡み合う霊力の鎖となって、男の身体をがんじがらめに縛った。
「捕縛、完了」
 ルイはナイフを鞘に収めると、神父に向かって、にっこりと笑んでみせる。
「お疲れ様。あとの始末は、轟警部にまかせましょう」
「今日の犯人は、こいつひとりなのか?」
「そのはずですが、まだ誰かの気配が?」
「いや、わからぬ。気のせいかもしれない」
「婦長」
 携帯を耳に当てていたタローが、うれしそうに駆け寄ってきて報告した。「さっき搬送されてきた患者、輸血が間に合って命を取りとめたそうです」
「そうか、それはよかった」
「看護師の手が足りないみたいので、僕は一足先に病院に戻ってますね」
「すまないな」
 ぴしっと敬礼をすると、タローはあっというまに姿を消した。
「ああ、やれやれ、夜の潮風は身体に毒だ」
 寒そうに両腕をかかえるルイに、貴柳は微笑んで片手を差し出した。


 突然、背後で大気を切り裂く鈍い音が聞こえ、ルイの背中をえぐった。
「あああっ」
「ルイ!」
 崩れ落ちる彼女の華奢な身体をとっさに受け止めた神父は、宙に浮いている男の姿をキッと見上げた。
「誰だ、おまえは……!」
 古いロシア貴族の服を着た、燃えるような赤い髪と赤い瞳の男。
『久しぶりだな。リュドミラ』
『……レオニード』
 ぶるぶると震える身体を神父に預けながら、ルイは振り向く。
『こいつらの背後にいた黒幕はおまえだったのか。なぜ、ここに……』
『悪いかね。おまえこそ何故、こんな辺境の地にいる。【ダマスカス・コネクション】だと? 下等な【吸血族】のふりなどして、何を戯れている。おまえは――』
『よせ……』
『俺と同じ【旧人類】。不滅の生命を持つ存在ではないか。この世界を、人間などという蠅どもに自由にさせてよいのか?』
『だまれ!』
 ルイは、貴柳神父の手をふりほどいて、男と対峙した。
『私たちは、とうに袂を分かった。貴様と話すことなどない!』
『俺から逃げられると思うな。リュドミラ』
 彼はにやりと牙をのぞかせると、現れたときと同じようにすっと身体を消していく。
『――おまえは永遠に、俺のものだ』
 男の姿が完全に消えると、貴柳神父はほっと体の力を抜き、拳を握りしめ立ち尽くすルイに近づいた。彼女の背中をえぐっていた傷が、みるみる薄くなっていくのを確かめる。
「だいじょうぶですか、ルイ」
 うなだれている彼女の顔をのぞきこむと、その黒い瞳いっぱいに涙がたまっている。幼い少女のように。
「あれはいったい、誰なんです」
「レオニードは私の……古い知り合いだ。ずっとずっと昔の」
 そう言って、ぐいと手の甲で涙をぬぐいとる。
「いずれ、話さねばならぬ時が来る。それまでは訊かないで……。今あったことは皆には内緒にしていてくれ」
「わかっています」
「裕斗……」
 せつなげなうめきを上げると、ルイは不意打ちするように、いきなり神父に飛びついて唇を重ねた。
 両手の指と指をからませ、身体をぴったりと押しつけ、ふたりはゆっくりと、広場の冷たい石畳に横たわる。
 やがて、上になっていたルイが身体を起こした。
 めくるめくような感覚に恍惚となっていた神父は、はっと目の焦点を合わすと怒鳴った。
「ルイ! また……また、私の血を吸いましたね!」
「だって、おまえの血が一番美味いのだもの」
 と、屈託ない笑顔で言う。
「童貞だからかな?」
「ルイ!」
「あはは、冗談だよ。おかげで元気が出た。今から病院に戻って夜勤だからな」
 蝶のように軽やかにステップを踏み、広場を走っていく彼女の後姿を見送りながら、貴柳司祭はため息をつく。
 神の創り給わぬ生命。それなのに、この世で一番美しく、一番いとしい。
「神よ」
 彼は夜空を仰ぎ、ひとり呟いた。
「彼女を愛することは、……あなたの教えにそむいているでしょうか?」
         



このお話は、太郎じぃさんの掲示板Lv50リクエストにより、彼秘蔵の設定集(別名「没ネタリスト」?)のひとつを元にして書いたものです。
いただいた設定がなかなか壮大だったため、いかにも長編のプロローグらしい作りですが、続きは全然ありません(笑)。期待された方、ごめんなさい。
カッコいい女性を書く機会をいたたいて、とても楽しかったです。
素材は、「ヒカルの旅の素材屋」からお借りしました。

Copyright (c) 2005 BUTAPENN.

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