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走る犬(1)


「時速10キロで走る犬がいるとするよ」
 手元の書類に目を落としていた彼女は、何をバカなことを言ってるんだという顔をして、ちらりと上目遣いになった。
「一組の夫婦が10メートルの間隔をおいて、森の小道を散歩している。その犬は夫妻の愛犬で、先に歩いている夫に追いついたかと思うと、休む間もなくすぐに取って帰し、後ろを歩いている妻のもとに一目散に走っていく。それを繰り返して、くるくる往復運動をしているわけだ」
 彼女は何も言わずにまた視線を下げる。僕たちはもう何年も、互いをまともに見ない癖がついているのだ。
「ところが件の夫婦、妻は夫より足が遅い。毎分5メートルずつ遅れるうちに、ふたりの間はどんどん離れていった。
さて、犬の走る速さは一定だとして、一時間のうちにこの犬が走ったのは、どれくらいの距離になるだろう」
「……さあ」
「答えは10キロだよ。夫婦のあいだの距離に関係なく、犬は忠実に時速10キロで1時間走ったのだから。単純に考えればいい」
「……何が言いたいの?」
 彼女の組んだ指が、震えだす。
「何が、言いたいのよぉ!」
「あの子はそうやって、この犬みたいにずっと走り続けていたんじゃないかって思ったんだ。どんどん離れていく僕たちの間をつなぎとめようとしてね。そして疲れ果てて、壊れてしまった」
 紙がかさりと小さな音をたてた。
「僕たちは並んで歩かなければならなかったんだ。いっしょに森の空気を肺に吸い込んで、同じ木漏れ日を浴びて、ときには立ち止まって花をながめてね。そうすれば、あの子は僕たちと並んで歩くだけでよかった。あんな姿に……ならなくてすんだんだ」
 僕は、テーブルの上に身を乗り出した。
「やり直さないか。もう一度、三人で歩こう」
 彼女はようやく顔をあげ、まっすぐ僕を正面から見つめた。その瞳のレンズには、泣き笑う男の姿がゆらゆらと揺れて映っていた。
「もうこんなもの、インクがにじんで役に立たない」
 椅子から立ち上がると書類を取り上げ、まっぷたつに引き裂く。そして手をさしのべる。
「行こう」
 僕たちは手をつないだまま、二階に上がった。
 ゆっくりと廊下の奥にある静かな暗闇に続くドアを開け、片隅の壁に張りついている巨大な白い繭に向かって、いとしげに名を呼びかけた。




走る犬(2)


「きゃああっ。その犬をつかまえてえっ!」
 赤と白の縞のジャージーの戦士たちのあいだをすりぬけて、黒と白のぶち模様の獣が走る。
「ごめんなさい……。せっかくの試合を邪魔して」
「いいんです。どうせ、部内の練習試合でしたから」
 踏んでもすぐ立ち上がる若々しい芝生。高いゴールポストのそばで、私は主将と呼ばれている大柄の男にペコペコ頭を下げた。
「俺たちのこと、仲間だと思ったんじゃないかな」
「え?」
「犬や狼は、集団で狩をする動物なんですよ。走って走って走りぬいて、獲物を追い詰めて、強引にねじ伏せる。
その点、待ち伏せて戦略的に狩をするネコ型の動物とは違います。ラグビーって、犬の野性の本能を刺激するスポーツなんだなあ」
「……」
「あ、ごめん。俺、大学の専攻が比較行動学なもんだから」
 彼はスクラムで鍛えた太い首をすくめて、まぶしいくらいに笑った。
「飼い主のあなたは? ラグビー、お好きですか」
「ええ。うちの父も学生時代はラグビー選手でしたから。小さい頃からお正月と言えば、国立の試合中継をよく見てました。誰かが倒れるたびに、大きな「魔法のやかん」が出てきて、おもしろかった」
「ああ、「魔法のやかん」ね。タックルなんかで激しくぶつかり合うと、体が圧迫され一時的に呼吸が止まって「落ちる」んですよ。やかんの水をぶっかけると、けろっとして立ち上がる。もう今はあんまり、そういう荒療治はやりませんけどね」
「父は、いつも川の土手をこの子の散歩コースにしていたんです。ラグビーをしていた若い頃を懐かしんでいたんでしょうね。必ずここで立ち止まっては、長い間このグラウンドを見下ろして。
この子も今日は久しぶりにここに来てうれしかったのか、私の手をふりほどいて一目散に駆け下りちゃったんです。……ほんとにごめんなさい」
「そういえば、以前よく年配の男性に連れられたこの犬を見かけましたよ。あの方はあなたのお父さんなんですね」
「父、大手術をしたんです。先月」
「そう……だったんですか」
「手術は成功で、順調に回復してるんですが、絶えず再発の危険性があるらしくて。
これからは家族が一丸となって病気と闘わなければならないって、思ってます」
 私はしゃがみこんで、今はおとなしく私の足元で座っているダルメシアンの背中をそっと撫でた。
「この子に、集団戦闘のしかたを教えてもらわければなりませんね」
「じゃあ俺たちも今年こそは「正月越え」を果たして、あなたのお父さんにテレビ観戦してもらえるように頑張らないと」
 「それじゃ」と片手を上げると、彼は大声で仲間たちに指示を飛ばしながら、試合の中に戻って行った。
 赤白の縞模様が、ふたたび緑の芝生を駆け回る。犬は行儀よく座りながらも背をピンと伸ばして、あこがれた黒い瞳で人間の戦士たちを見つめる。
 そして私も彼の背番号「8」を、同じ目で追い続けていた。



参考ウェブサイト:「スポーツ文化考」  http://www.settchan.com/sports/sports10.html



走る犬(3)


 ショパンは嫌い。
「そんなの子犬じゃねえよ。ブルドッグがよたよた歩いてるカンジだ」
 私が「子犬のワルツ」を弾くたびに、そう言って彼はピアノ教室の壁際の椅子で笑った。その意地悪な声が今でも耳の中によみがえる。
 負けじと彼の演奏をこきおろそうとしたが、彼の「軍隊ポロネーズ」には非の打ち所がない。
 発表会本番では、私もまずまずの出来を収めたものの、先生の賛辞は結局、彼が独り占めしてしまった。
 彼はそれからしばらくして教室をやめて、どこかにいなくなった。そして、私は用心深く、ショパンを弾くのを避けるようになった。

 そして10年。
 私は通い始めた音大で、ふたたび「子犬のワルツ」に出会った。
 防音の効いた練習室からかすかに漏れ聞こえるだけなのに、右手の緻密で的確な運指、トリルや三連符の透明感のある音色は私を魅了した。
 まるで、本当に子犬がジョルジュ・サンドの足元にじゃれついて走っているよう。
「ああ、ごめん。5分間超過しちゃったか」
 中から出てきた男子学生は、ドアの外に立っていた私に謝り、それからいたずらを仕掛けるみたいに、私の耳に囁いた。
「……よたよた歩くブルドッグ」
「え?」
「オレのこと、覚えてない? 三橋さん」
 すっかり動転した私は、ピアノ科の学生名簿をあわてて頭の中でめくった。
「二川くん……、でも、名前が……」
「ああ、オレ10年前に苗字が変わったの。離婚した母親の姓になった。家も引越ししなくちゃならなくて、発表会を最後にあそこの教室もやめたんだ。かろうじて引越し先にピアノだけは持っていけたけど、可愛がっていた犬はダメだって言われた」
「……」
「犬と別れるのが寂しくて、きみが楽しそうに「子犬のワルツ」を弾くのがねたましくて、思ってもいなかったことを言っちまった。悪かったな」
 そう言って、事もなげに微笑む彼の顔を見ているうちに、ムカムカと腹が立ってきた。
「ばかっ」
 度肝を抜かれている彼に向かって、叫ぶ。
「私の10年を返して! ショパンが嫌いだった10年を返してよ!」

 そのとき心の中で私は予感していた。これからの4年間の大学生活、全力で闘わなければならない敵ができたことを。
 そして4年後には、これまでのお釣りが来るくらい、ショパンを大好きになっているだろうことを。


 







sleepdogさん主催「犬祭2」参加作品です。


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