光る眼
はっと律子はふりむいた。背中に視線を感じたのである。
誰もいるはずはない。カラカラと掃き出し窓を開けると、雑草が伸び放題の狭い裏庭がある。そしてからっぽの犬小屋。
彼女がここに来たときは、この家に長年飼われていた純国産の犬がいた。痩せこけて毛並みはツヤがなく、何年もほったらかされてきた依怙地な目をしていた。
千切れかけたぼろぼろの首輪の代わりに、律子は毛並みに似合う茶色の首輪を買って与えた。犬を飼うことは小さい頃からの夢だったから、うんと可愛がり、きれいな赤い紐をつけて毎日散歩に連れて行った。犬は見違えるくらい元気になり、律子を見ると目を輝かせて飛びつき、手をペロペロなめるようになった。
だがこの数ヶ月、伯母の看病に手が離せなくなって散歩どころではなく、元通り、ほったらかし。ふたたび見捨てられた犬は、寂しさに耐えかねたのだろう、赤い紐を結び目から食いちぎって、どこかにいなくなってしまった。
いつか戻ってくるかもしれない。最初の頃はかわいそうに思って裏木戸を少し開けてやっていたが、今は閉じて鍵をかけている。気楽な野良暮らしに慣れて、もう帰ってくることはないだろう。
「りっちゃあぁん」
伯母が呼ぶ声が聞こえる。
「はい、はい」
ため息をつきながら、律子は窓を閉めた。
伯母は高齢と病気のためベッドに寝たきりだ。父を小学生のとき、母を高校生のときに亡くした律子は、1年前まで自分に父方の伯母がいることさえ知らなかった。
伯母は資産家だが子どもがなく、ただひとりの姪を手元に呼んで、遺産をすべて譲る代わりに自分の最期を看取ってほしいと願ったのだ。
35歳の今も独身で天涯孤独である律子にとって、自分にまだ肉親がいるという知らせは大きな朗報だった。十年以上勤めた今の会社から逃げ出したいという打算も働いた。後輩や上司との人間関係に悩むくらいなら、お金の心配をせず伯母の世話をするほうがずっとましだと、当時の律子には思えたのだった。
すぐに会社を辞め、伯母のもとに身を寄せて暮らし始めた。
最初は順調だった。家の仕事はすべて住み込みの家政婦がしてくれる。律子は愛情をこめて伯母の世話をし、根気よく話し相手になり、そんな自分の甲斐甲斐しさに酔いしれた。
しかし伯母の容態が悪くなり、自分で寝返りを打つこともできなくなったあたりから、影をひそめていた伯母の生来の気難しさは度を越し始めた。
家政婦のささいな失敗に難癖をつけ、やめさせてしまう。新しい家政婦を雇っても気に入らず、当り散らす。
勢い、家のことも伯母の世話も、すべてが律子ひとりの肩にのしかかるようになった。
伯母は、夜中も一時間ごとに「りっちゃあぁん」と呼ぶ。まるで測っているのかと思えるほどに正確に一時間ごとに、脇腹がしびれて痛いから寝返りを打たせてくれと言う。
律子は疲労とストレスから、だんだんと余裕を失ってきた。
伯母の一挙一動が気に触った。あきれるくらいいつも同じ繰言をしゃべり続ける。ボケてきたのかと思えば、意識は恐ろしいほど冴え渡っている。こちらの愚痴は聞こえないふりをするくせに、隣の部屋でしゃべったことはちゃんと聞こえているのだから。
伯母は律子の苛立ちに気づこうとせず、まるで幼児が母に甘えるように頼りきっていた。
「りっちゃあぁん」
昼間も夜中もおかまいなしに、高い節をつけて律子を呼ぶ。それだけの大声を出す腹筋力があるなら、寝返りくらい自分で打てばいいじゃないのと、腹わたが煮えくり返る。
好物のプリンを食べさせてやると美味しそうに飲み込み、歯のない口でにかっと笑う。背筋がぞっと凍るくらい、その笑顔が嫌いだった。
「りっちゃあぁん」
私も赤い紐を食いちぎって、どこかに逃げ出したい。自由になりたい。自由に。
伯母の声に、律子は両耳をふさいだ。
ある日の夜、また伯母が呼ぶ声が聞こえたような気がして、律子はふらふらと起き上がった。
隣の部屋に入ると、暗がりに異様な音がする。
ベッドに近づくと、伯母が苦しさにもがいている。どうした拍子か身体がうつ伏せになってしまって、しかも柔らかい羽毛布団に口と鼻を完全にふさがれて、呼吸ができないのだ。
あわてて駆け寄ろうとして、律子はぴたりと動けなくなった。
このまま抱き起こさなければ、伯母は死ぬ。
一瞬浮かんだ恐ろしい考えを振り払おうとしたが、それは藻のように彼女の両手両足にからみついた。
そうだ、これは事故だ。
私が手を下したわけではない。自然にこうなってしまったのだ。伯母は助けを呼ぶこともできず、私は隣室で眠りこけていて、朝まで気づかなかっただけなのだ。
自由になれる。莫大な遺産を受け継いで、これからは何でもしたいことができる。
これまでの1年、奴隷のように仕えてきたんだもの。ちょっと寿命より早く死ぬくらい、してくれたっていいじゃない。今のあなたができる、ただひとつの善行だわ。
息を殺しひそやかに、永遠とも思える時間、律子は立ち尽くしていた。
闇の中、白くぼんやりと浮かび上がるシーツの上で、やがて伯母はピンに止められた虫のように動かなくなった。
そのとき、はっと律子はふりかえった。狭い裏庭に通じる掃き出し窓の外で何かが光ったのだ。
爛々と光る双眸。それは確かに犬の目だった。
朝になり、律子は119番に電話した。救急隊が警察を呼び、伯母の遺体は司法解剖に処された。
「まさか、寝返りも打てない伯母があんな風にうつ伏せになるなんて、今でも信じられません」
泣きながら訴えた。
現場検証も行われたが、どこをどう調べても「事故による窒息死」以外の結論は出なかった。
葬儀が行われ、四十九日の法要も済んだ。
弁護士が来て、遺産相続の手続きの書類についてあれこれと説明をしてくれた。
それらが一段落つくと、律子はさっそく家の中を片づけ、伯母の痕跡が一切残らないようにした。
遺産を当て込んで、念願の自動車も買った。これで好きなときに、行きたいところへ行ける。車は自由の象徴だった。
ばら色の未来が広がっているはずだった。すべては終わり、すべては過去のものとなった。ただ律子の胸の底にある冷えた塊以外は。
あれから毎晩、夜中に何かの気配を感じて飛び起きる。窓の外にふたつの眼がちかりと光るのだ。
「落ち着いて。落ち着くのよ」
あの朝、裏庭をくまなく調べたが、犬が戻ってきた形跡はなかった。裏木戸はきちんと鍵がかけられている。塀にも犬が忍び込むような破れはない。
犬など、いなかったのだ。今もいない。あれはただ恐怖心と良心の呵責が見せた影。
たとえ、あれが本物の犬だったとしても、何を恐がることがあろう。犬はことばを話して警察に訴えたりしない。そう何度も自分に言い聞かせた。
それにも関わらず、裏庭から何かが見ている気配は消えない。かすかな生き物の息づかい。さやさやと移動する音。
気のせいだ。幻覚だ。あの夜のことを声高に叫ぶ者はいないのだ。
だって、誰が私を訴えることができるの。私は悪いことはしていない。自由に生きる自分の権利を守っただけ。何がいけないの。
私は自由なのよ。
律子はびくびくと絶えず後ろを振り返って暮らすようになった。げっそりと痩せこけ、家に鍵をかけて閉じこもった。
「りっちゃあぁん」
あの伯母の声のかわりに、犬がうぉーんと遠吠えする音が間近で聞こえる。
夜になると、目が光る。眠れない。ひとときも心休まることがない。
「やめて、私を見つめないで!」
とうとう、律子は半狂乱になって手当たりしだいに窓に向かって物を投げつけた。ガラスが割れ、破片が散らばる。そうして、壁ぎわにうずくまった。
「知っているんでしょう。あの現場をあなたは見ていたのね。戻ってきて、伯母さんを助けようとしたのね。
赦して……。私は自由になりたかったの。助けようとすれば助けられた。でも、それはまた何年かの奴隷生活を意味すると思ったら、どうしても身体が動かなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい。……私は、伯母さんを見殺しにしたのよ!」
そしてうなだれながら、自分の首筋に食い込む裁きの牙を待った。
どれほど、震えていただろう。
顔を上げると、最初の陽光が目を射た。外はいつのまにか明るくなっていた。どこかで鶏が鳴く声がし、犬の気配はもうない。
掃き出し窓を開けると、コンクリートの足台の上に、茶色の首輪と千切れた赤い紐が静かに置かれてあった。
『汝の罪、赦されたり』
光の中にか細く響く声に、律子は大声をあげて泣いた。
その日のうちに、律子は警察に自首した。
ほんとうの自由を得るために。