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赦釈爵執酌爵(皇帝ペンギンの物語)


(1)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 なぜこんな名前がついたのか、当の本人も知らぬ。「ペンギン」を半角で入力して文字化けすると、この文字列が出てくるという話だが、彼の知ったことではない。
 彼の関心は、ただひとつ。南極とその周辺の島々にまで及ぶ、彼の統べ治める広大な帝国において、数千万羽のペンギンたちが平和に暮らせることのみだ。
 ある日、諜報のために放っていた密偵が、衝撃的な報告を持ち帰ってきた。
「北極のシロクマがついに絶滅いたしました」
 なんでも、地球温暖化のために北極圏の氷が溶け、エサのアザラシを取るための足場がなくなってしまったためだという。
 赦釈爵執酌爵は、シロクマという種族を見たことがない。
 だが同じ極地にいる者として、深い同情の念を禁じえなかった。彼らは、人間の作った檻――【ドウブツエン】とか《スイゾクカン》とかいう、あの牢獄でしか生きられぬ存在となってしまったのだ。
「われらも、同じ道をたどるのであろうか」
「帝国は南半球にありますゆえ、人間の都市が放つ熱の害を、北極ほど多く受けることはないと存じます。しかしながら、南極の氷もすでに減少しつつあります。やがては――」
「おのれ、人間どもめ」
 誇り高き皇帝は、憤怒のあまり、ぎりぎりとクチバシをきしませた。
 人間が、あの禍々しい【都市】なるものを作らなければ。
 森林を切り倒し、代わりにコンクリートとガラスでできた塔を林立させた人間。
 命の苗床である土を、アスファルトと呼ぶ固きもので覆いつくした人間。
 快適な生活と称して、熱した空気や汚した水を垂れ流す人間。
 海の生命を乱獲し、あげくの果てに、釣り針やプラスチックゴミを放置する人間。
 彼らさえいなければ、極地の生き物はこれほど追い詰められることはなかったろうに。
 皇帝は、尻尾をぷるぷると震わせながら、氷の玉座から立ち上がった。
「余は、人間を滅ぼすぞ」
「恐れながら、陛下」
 そばに侍っていた侍従長は、深々と頭を垂れながら、毛づくろいしていた。
「人間どもは、我々よりはるかに多く、また知恵ある種族でござります。くれぐれも事は慎重に運びませぬと」
「ふん、恐れることなど何もないわ。我が軍は少数であっても、統率の取れた精鋭ぞろい。まず南極にやって来た人間どもを血祭りに上げてくれる」
 翌日、偵察隊が人間の一団を発見したという報告をもたらすと、赦釈爵執酌爵はみずから一個大隊を率いて、氷原の戦場に向かった。
「突撃!」
 氷を蹴散らし、雄たけびをあげて、突撃陣形で人間に向かっていく。
「キュイ、キュイ、キュイーーッ!」
 ところが、人間どもはいち早く敵襲を知ると、片腕、あるいは両腕をすっと前に伸ばした。それぞれの手には、四角い武器が握られている。
「きゃー、かわいいっ。ペンギンの行進よ」
「ちゃんと全部入るように、うまく撮ってよ」
「ママー。今からペンギンの写メ送るからね」
 そして、かしゃかしゃと響く不気味な音。
 生気さえ吸い取られそうな魔法の箱の一斉攻撃に、皇帝は思わずたじろいだ。
「た、退却ーッ」

 赦釈爵執酌爵の戦いは、まだ始まったばかりだ。




(2)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 なんと読むのかと、たずねてはいけない。当の本人も読めぬし、読む必要もない。生まれながらにして、彼は「皇帝」であり、「陛下」なのだ。
 人間を滅ぼす戦いに、前回みごとに失敗した赦釈爵執酌爵は、おのれの過ちを南極海よりも深く反省した。
「我が軍は、なんといっても目立ちすぎる」
 結論はこれしかなかった。
「真っ白な南極の氷の上で、この黒い頭と背中、黄色の喉と胸。いかに静かに進軍しようと、すぐに敵に見つけられてしまうのだ」
「それでは、目立たないように、全軍に白いヘルメットとユニフォームを新調なさいますか」
 そばに侍っていた侍従長が、提案した。
「たわけ。それでは、お互いがまったく見えぬではないか」
 憤然と皇帝は答えた。
「互いの姿が見えぬと、隊列が整った美しい行進にならぬ」
「敵に美しい行進を見せてどうするんですか」
「それより、少数精鋭の奇襲部隊を結成するというのは、どうだ」
 あまりの名案に、くちばしの片方を引き上げて笑いを漏らす。
「人間が気づかぬように、ものかげにひそみ、いきなり襲いかかるのだ」
「思いきり、卑怯でありますな」
「下品な。狡猾と言え」
 赦釈爵執酌爵は、氷の玉座から立ち上がり、フリッパーをバタバタ打ち振った。
「まず余みずからが、手本を示してみせよう」
「陛下、それは、あまりに危険でございます」
「余の帝国を人間から守るためなるぞ。多少の危険は承知のうえ」
「まったく、一度言い出したら聞かないんだから」
 わがままな皇帝に、侍従長は頭を下げたふりをして、毛づくろいに励むのだった。
 翌日、たったひとりで氷のかげに隠れていた皇帝は、スノーモービルに乗ってやってきたふたりの人間を発見した。
 このあたりによく出没する、カガクシャとかいう連中だ。彼の臣民たちをときどき捕まえては、生態調査と称して、電子タグなるものを皮下注射で埋め込んでいく。
 まったくもって野蛮なことをする奴らだ。憤怒がめらめらと燃え上がる。
「突撃ーっ」
 飛び出した赦釈爵執酌爵は、勢いあまって前のめりに転倒してしまった。
 ペンギンの腹は、よくすべる。
 数十メートルも一気に滑走した皇帝は、あろうことかスノーモービルに激突した。
「む、無念――」
 



(3)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 だが前回は、らしからぬ醜態を見せてしまった。人間に戦いを挑み、敵に激突して、あえなく気絶したのだ。
 暗い闇の底から意識を取り戻すと、目覚めたのは、建物の中だった。
「気がついたのね」
 メスの人間がひとり、にっこりと皇帝に笑いかけた。まるでロイヤルペンギンのように、頭には金の羽毛を頂き、顔は白い。
「ここは、○国の南極観測基地」
 あわてて起き上がろうとすると、フリッパーに痛みを感じた。見ると、包帯が巻いてある。
「私たちのスノーモービルが、気づかずにあなたにぶつかってしまったの。本当にごめんなさい。怪我が治るまでの間だけ、ここにいてね」
 赦釈爵執酌爵は、人間のことばが少しわかる。
 なぜかと問うてはいけない。それは彼が皇帝だからだ。皇帝とはなんでもできるものなのだ。
 人間たちは日に二度、彼のケージに小魚やエビを置いた。
「科学調査以外で野生のペンギンに5メートル以内に近づくことは禁じられてるの」
 と言って、彼らは怪我の治療のほかは、必要以上に近づこうとしない。
「たくさん食べて、早く元気になるのよ」
(なぜ、余に親切にする。余はおまえたちを殺そうとしたのに)
 彼はとまどった。
(まさか、人間とは良い生き物なのか。いや、そんなはずはない。良い生き物なら、自分たちの繁栄のために、自分以外の種族を滅びに追いやるようなことは絶対にせぬ)
 脳みそをフル回転して考えた。
(ことによると、人間には良い人間と悪い人間の二種類がいるのかもしれぬ。ここにいるのは、良い人間だ。余は良い人間たちを味方につけ、共同で悪い人間どもを滅ぼせばよいのだ)
 彼は何度も人間に話しかけ、帝国と同盟を結ぶように説得したが、人間にはペンギンのことばは「グエッ」や「キュイ」としか聞こえないようだった。
 何日が経って、赦釈爵執酌爵の怪我はすっかり癒えた。
 人間は、ふたたびスノーモービルで、彼を元の場所に連れ戻してくれた。
「これでお別れね、ペンギンさん」
「世話になった。人間よ。余は、汝に帝国名誉臣民としての栄誉を与えるぞ」
 皇帝は最大級の謝辞を述べたが、彼女はそれを解せずニッコリと笑った。
「さようなら、明日から寂しくなるわ」
 別れ際に、メスの人間の目から、きらりと光るものがこぼれ落ちたとき、皇帝は心臓がドキンと打つのを感じた。
 赦釈爵執酌爵は、彼らの乗り物が氷の彼方へ消えていくまで見送ってから、宮殿へ帰りついた。
「ごゆっくりのお帰りでしたな」
 侍従長は、のんびりと出迎えた。
「何も心配していなかったようだな」
「もちろんでございます。武勇に秀でた陛下の御身を、なにゆえ案じたりいたしましょう」
 と相変わらず、毛づくろいにいそしんでいる。
 皇帝は苦笑いを浮かべた。切れ者の侍従長のこと、すぐに捜索隊を差し向けて、スノーモービルの跡を追い、居場所を突き止めていたに違いない。
 敵の手に落ちたことを恥じている彼の心中を察して、トボけているのだ。
(食えぬ奴め)
 満足げに、氷の玉座に尻尾を心地よく落ち着けて、皇帝は目を閉じる。
 浮かんでくるのは、あの金色の羽根を頭につけたメスの人間のことだった。
「侍従長。苦労ついでに、もうひとつ頼みがある」
 翌日、○国の南極観測基地の隊員のひとりが外に出ると、大量のオキアミや小魚が、まるでプレゼントのように山盛りに積み上げられていたという。
 


(4)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 沈着冷静がモットーの彼ではあるが、今回ばかりは、そわそわと落ち着いていられない。彼の怪我を手当てしてくれたロイヤルペンギン似のメスの人間のことが、どうしても忘れられないのだ。
 ついに、人間の基地を再訪する決意をした。宮殿からはかなり遠い距離を歩かねばならないが、強靭な心身が自慢の皇帝には、為し得ないことではない。
 供も連れずに、たったひとりで氷原を急ぐあいだも、心ははやる。
 とうとう、目的の地にたどり着き、見覚えのあるドーム型の基地のそばでたたずみながら、中の様子をじっとうかがっていた。
 しばらくすると、分厚い防寒毛皮に身を包んだオスの人間がひとり、中から出てきた。
「お、エンペラーペンギンだ」
 彼は驚きの声を上げて、近づいてきた。
「おまえ、こないだの怪我したヤツか? まさか、世話になった礼に来たとか――ハハッ、鳥にそんな脳ミソはないよな」
「無礼な。帝国皇帝に対する今の暴言、普通ならただではすまんぞ」
 皇帝は、ジロリと彼をにらんだ。
「――しかしながら、先の恩義に免じて特に赦してやろう。貴様らは、いずれ余の味方となる良き人間ゆえに」
 皇帝の寛大さにも気づかず、人間は暗い表情で、衝撃的な事実を告げた。
「アンナがおまえを見たら喜ぶのにな。彼女、先月で任期が切れて本国に帰っちまったよ」
「……」
「俺もさびしいよ。しかたないけど。……じゃあな」
 人間は別れのしるしに手をひらひら振ると、基地の中に戻っていった。
 赦釈爵執酌爵は、ぐっと胸をそらし、にじむ蒼穹を見上げた。
(わが恋は終わりぬ。だが報われぬ恋こそ、永遠に不滅なるもの)
 皇帝とは、いついかなるときでも詩人なのであった。
 傷心を癒すため、海を見ようと(ついでに腹が減ったので、たらふく魚を食べようと)歩きだしたが、すぐに茫然と立ちすくんだ。
 基地の裏には、膨大な数のドラム缶が捨てられていたのだ。壊れた電気製品やコンクリート、尖ったワイヤもある。さらにその遠景には、大昔の捕鯨基地の跡らしき、腐食した鉄くずが放置されたままになっていた。
「なんということだ。神聖なる南極を、ゴミの山となすとは」
 皇帝は憤怒と失望のあまり、わなわなと震えた。
「あれほど親切に余を手当てしてくれたのに。味方だと思ったのに。善良なる人間こそが、帝国を滅ぼさんとする者たちであったのか」
 がっくりと頭を垂れる。あの美しきメスの人間の思い出を粉々に打ち砕かれ、赦釈爵執酌爵はトボトボと家路をたどった。
 歩きながら彼は悟りはじめた。この世界には、良い人間と悪い人間の二種類がいるのではない。
 良い人間が、同時に彼ら極地の生き物たちにとっては悪なのだと。
 やはり人間はすべて、滅ぼすべき存在なのだ。
 尾羽打ちしおれて、ようやく氷の宮殿に帰り着くと、中庭に皇后が立っていた。
「き、后よ」
 ぎょっとする。
 皇后は、聡明なメスペンギンだ。あまり利発すぎて、皇帝はちょっとばかり彼女が苦手なときがある。
「お帰りなさいませ、陛下」
 皇后は、しとやかにお辞儀をした。「遠くまでのお運び、お疲れになったでしょう」
(后め、余の浮気を察しておるな)
 皇帝の肝が、南極の氷よりも冷たくなった。
 だが彼女は、にっこりと微笑んだ。
「風の当たらぬ暖かい寝床を用意しておきました。ごゆっくりお休みになられますように」
 その羽は月明かりに艶やかに輝き、その胸元の黄色はたとえようもなく美しい。
「后」
 赦釈爵執酌爵は、皇后の気づかいと無言の赦しに、いたく胸を打たれた。
「今宵は余とともに、オーロラをながめてくれるか」
「はい、喜んで」
 皇帝は、フリッパーをそっと彼女の背中に回すと、くちばしをこつんと触れ合わせた。


(5)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 毎朝の習慣どおり、世界の成り立ちについて思索しながら散歩していたところ、向こうから人間の一団がわらわらと近づいてきた。
「見ろ、立派なオスのエンペラーペンギンだぞ」
「お、逃げないな。絵になる、絵になる。もっと近寄れ」
 彼らは大きな機材を肩に、皇帝を取り囲んだ。
 昔なら即座に逃げ出したものだが、今は違う。彼らがこういう機材(大きさはさまざまだが)を構えるときは、敵意ではなく関心を持っているのだということを、彼は数々の経験から学んでいた。
「余は南極およびその周囲の島々を統べるペンギンの皇帝、赦釈爵執酌爵である」
 彼は胸をそらせて、言った。
「人間よ。汝らに宛てた、余のことばを聞くがよい」
「おおっ。カメラを見て、鳴き始めたぞ」
「人間は古来より、数々の敵対的な行為を我が一族に行なった。かつて南極を訪れた探検隊と称する粗暴な輩どもは、先住民である我らを襲って食糧となした。また同胞を釜茹でにし、その煮汁から油を採って燃料代わりにするという残虐きわまりない非道を犯した」
「メスへの求愛の歌かな。こいつは珍しい」
「さらに人間は、我らの領土である島々に住み着くと、飼い犬や猫などの凶暴な群れを放ち、雛たちをその毒牙の餌食となした。キガラシペンギンなどは、森を伐採され、巣を作るべき場所を失って、絶滅の危機に瀕しておる」
「今度は、横からの映像を撮ろう。こいつは春の特番の目玉になるぞ」
「その他にも数え上げれば、きりがない。人間は我々の大事な食糧である魚を根こそぎ獲り、ゴミや針を置き去りにし、新しい病気の菌を撒き散らして、我々を殺した。何よりも一番許しがたいのは、黒い油や汚れた水を垂れ流して海を汚し、都市から放つ熱い空気で、この南極の氷を溶かしていることだ」
「フリッパーをバタバタ動かして、すごい迫力だよな」
「人間よ。汝らの愚行は、我々を殺すばかりではない。やがて汝ら自身の頭上に帰っていくぞ。余はおごそかに汝らに告ぐ。汝らがその愚行をやめぬ限り、余と余の臣民は、永遠に汝らを敵とみなすであろう」
「おお、かっこいい。まるで名優の演説を聴いてるみたいだ」
 人間たちは、冗談まじりに拍手を浴びせる。
 皇帝は、がっくりと肩を落とした。
 まるで通じていない。人間に余の心はわからぬのか。
 人間は、決してペンギンを憎んでいるのではない。我々を見るときの彼らは笑顔を絶やさず、目はいつも優しい。
 芯から悪い人間などいないのだ。それなのに、どうして彼らは我々にいつも悪をなすのか。
 赦釈爵執酌爵は、絶叫した。
「人間たちよ。おまえたちに欠けているものは、想像する力だ。汝らの手がなしていることが、どんな結果をもたらすかを、なぜ考えぬ! わずかでいい。自分たちの行なっていることが、この星のどこかで生き物を傷つけていることを、想像してほしい!」
 しかし、人間たちはさっさと機材を片付けると、もと来た方向に雪上車を走らせ行ってしまった。
 皇帝は、クチバシをきりきりと噛みしめて、長い間立ち尽くしていた。
(もう、憐れみをかけてやる余地はない)
 彼の怪我を癒してくれたメスの人間や、その仲間たちの顔が脳裡をよぎった。
(やはり人間は滅ぼさねばならぬ種族。どれほど辛くても、これは余の皇帝としての定めなのだ)
 彼は、宮殿まで急ぎ戻ると、広間に入って、近衛兵たちに叫んだ。
「戦だ! 準備が整い次第、南極にいる人間どもに宣戦布告する!」
 玉座のそばで毛づくろいをしていた侍従長は、腰を抜かした。
「い、い、戦でございますか」
「いかにも」
「イカにまでも、戦をしかけるのですか!」
「何を、バカなことを申しておる」
 脱力するような侍従長の答えに、皇帝は足びれをバタバタと踏み鳴らした。「さっそく全軍を召集せよ。同族の住むすべての島々にも勅令を出すのだ」
「お待ちください!」
 そのとき、バタンと氷の扉が開き、皇后がツカツカと入ってきた。「陛下!」
「き、后よ」
 また何か怒られるようなことをしでかしたかと、皇帝の尾羽が縮み上がった。
「いったい何ごとだ」
「くだらない戦など、なさっておられる場合ではありません。冬の宮殿へ移動する時期ではありませんか」
「なんだと」
 それを聞いた赦釈爵執酌爵は、玉座からころげ落ちそうになった。
「まことか!」
「わらわだけではございません、女たちは皆、全身の羽でピンピンと『その時』を感じておりまする」
 皇后は、空を見上げ、誇り高い笑みを見せた。
「今年も、我ら一族の生命を懸けて、卵を産み育てる季節がやってきたのです」



(6)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 普段は堂々と落ち着いた物腰の彼だが、今は目の回るほど忙しい毎日に追いまくられている。
 さすがの侍従長も、毛づくろいする暇もなく、走り回っていた。
「陛下。全員の点呼が終わりました。いつでも出発できます」
「よし、今日の太陽がもっとも高く登ったとき、出発だ」
 皇帝は、輝くばかりの白い胸をぐっと反らすと、海の向こうの、中天低くかかる南の太陽を見つめた。
 その方角からは時折、ぴしぴしという甲高い音が聞こえてくる。海が徐々に凍り始める叫びだ。
 南極に、また厳しい冬がやってくる。
 その前に、すべての同胞たちとともに、海沿いの夏の宮殿から内陸部の冬の宮殿へと引越さねばならない。
「出発!」
 パパパオー。
 儀仗兵たちが、口喇叭を鳴り響かせる。
 まずオスの先発隊が出立し、ほどなくメスが後に続く。たっぷりと栄養を蓄えた重い体で、凍結した百キロの道を歩き続ける。これから何ヶ月も、彼らは食事をすることができない。
 一族の長い長い行列が、白い氷原の上に果てしなく続いた。去年生まれたばかりの若鳥から、侍従長のように二十歳近い老齢の者まで、ひとりの落伍者も出ないように目を配るのは、皇帝の仕事だ。
 何日もかけて、いつもの凍結した湖に着いた。ここは、雪が深く積もり、敵も姿を見せない、子育てには最も安全な場所なのだ。
 オスたちはメスを迎えるために、冬の宮殿を念入りに調えた。
 ここで、彼らは今から一ヶ月、熱い求愛の日々を過ごすことになる。
 オスとメスが互いを求め、奪い合って、一日中歌い、踊り、時には不届き者たちによるケンカも起きて、近衛兵が出動する騒ぎになることもある。
 だが赦釈爵執酌爵は、この騒々しい季節が好きだった。一族をあげて次の世代を生み出す喜びに震える日々。生命の力がほとばしり、未来への希望に満ちた日々。
「后よ」
 皇帝は、まだ到着していない皇后の美しい姿を思い浮かべた。
 賢すぎる彼女がちょっぴり鬱陶しく、ときには浮気心がくすぐるときもあるが、やはり彼は妻を心から愛しているのだ。
 飛び切りの求愛の歌を披露しようと、彼の足は、知らず知らずのうちにタップを踏んでいた。

 二ヶ月後、女たちは大きな卵をひとつずつ産んだ。
「今宵は宮廷舞踏会ですわ。陛下」
 産卵のためひどく憔悴した笑顔で、皇后はある日宣言した。
「侍従長」
「はい、準備は整っております」
 彼は頭を下げた。「会場の床は尾羽とフリッパーでぴかぴかに磨き上げております。万が一にも卵が壊れることのないように」
 卵を産んだ妻たちが、海に旅立つ日がやってきたのだ。
 その夜、宮廷楽団の演奏に合わせて、ペンギンたちはダンスを踊った。
 ひとつがいずつ向き合って、お辞儀をする。しずしずとメスが後ずさりすると、ゆっくりとオスが前に進み出る。はた目には優雅なダンスだが、彼らは必死だ。
 抱いている卵をすばやく受け渡ししないと、卵は冷気であっという間に凍りついてしまう。
 皇帝は、足びれを器用に使って、卵を足の上に乗せ、やわらかな抱卵嚢ですっぽりと包み込んだ。
「お見事ですわ。陛下」
 皇后は安堵のため息をもらした。
「もう六度目だからな」
 ふたりの間には、すでに三羽の皇子と二羽の皇女が生まれていた。しかし、そのうちの一羽は、過酷な環境に耐え切れずに卵から孵ってすぐに死に、もう一羽も雛のうちにアザラシに殺されてしまった。
「無事に、立派に育てたいのう」
「ええ」
 皇帝と皇后は、お互いを見つめ合った。
 もう二度と会えぬかもしれない。そんな思いで頭を垂れ、くちばしをそっと触れ合わす。
「達者でな」
「ええ、必ず戻ってきますわ」
 皇后はほかの女性たちとともに、餌を求めて海に旅立って行った。



(7)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 だが今は、あの堂々とした皇帝の面影はない。もう四ヶ月近く、口にしたのは雪だけなのだ。体重は半分に減っている。
 零下六十度のブリザードの中で、卵を抱えた何千匹の父親たちとともに体を寄せ合い、寒さから身を守る。雪にまみれた立ち姿は、まるで白い彫像のよう。
「止まるな……動き続けるんだ」
 くぐもった声で時おり呟くが、それは臣下への命令というより、自分への叱咤激励だった。
 空腹のため、気が遠くなりそうになる。それでも倒れるわけにはいかない。彼の足の間の抱卵嚢には、孵化の日を待つひとつの卵があるのだ。
 彼が温めることを放棄すれば、たちまち凍りついてしまう弱い命。だが、確かに生きている。
 そのことを確認するたびに、皇帝は腹の底から力がみなぎるのを感じるのだ。不思議なことだが、今は卵によって生かされているのは、彼のほうなのかもしれなかった。
 ある日、待ちに待った「ノック」の音が聞こえた。
 コンコン。カツカツ。
 卵にひびが入り、やがて、ぽっこりと小さな穴が開いた。
 さらに一昼夜かけて、ヒナは殻から顔をのぞかせた。
「ぴ」
「娘か」
「ぴ。ぴ」
「よくぞ、余のもとに来てくれたな。皇女よ――おまえの目に、この世界はどう映っている?」
 今までの疲れも飛んでしまうようだった。赦釈爵執酌爵は頭を垂れ、くちばしを大きく開けて、生まれたばかりの我が子に差し出した。
 喉の奥からは、高濃度の白い液体が分泌される。どんな飢餓に瀕しても、ペンギンの父親は必ずこの「ミルク」を孵化した子のために用意しておくのだった。
 そうして、さらに幾日かが経った。
「陛下!」
 氷原のはるか彼方から、なつかしい声が聞こえてきた。
「陛下……あなた!」
「后よ! 余はここだ」
 必死で呼び交わす。コロニーの大集団の中で、愛する者同士を巡り合わせる力は、互いの声だけなのだった。
「ただいま。陛下」
「よくぞ戻った」
「生まれたのは」
「姫だ」
 皇帝の足元から顔をのぞかせる灰色のヒナをじっと見つめ、彼らは微笑みを交わした。
 ことばは要らない。ふたりの胸に去来する安堵と誇り、そして南極の凍えるような寒ささえも忘れさせる喜びと感謝は、まったく同じものだったから。
 カップルたちはふたたび、ダンスを踊った。ヒナはオスからメスの足の上に移り、母親がたっぷりと蓄えてきた栄養を口移しで与えられる。
「では、行く」
「気をつけて。どうぞご無事で」
「ああ。必ず、そなたと姫のもとに戻ってくるぞ」
 赦釈爵執酌爵は、よろよろと歩き始めた。痩せ衰えた体は、強い風にあっけなく吹き飛ばされそうになる。この体でオスたちは、ふたたび海までの道のりを二週間かけて歩くことになるのだ。
「ああ、妻はまだなのか!」
 誰かの悲痛な叫びが聞こえた。
 ぎりぎりまで待ってもメスが海から戻らなければ、オスはせっかく生まれたヒナを見捨てて、海に向かって旅立たねばならない。それは残酷な二者択一の掟だった。
 数十センチ先も見えぬブリザードの中を、オスたちは無言で進んだ。右で左でばたばたと朋友が倒れていく。
「しっかりしろ。おまえがここで倒れれば、妻子はどうなるんだ」
 皇帝は、うずくまった一匹のオスを恫喝した。
「もう、どうでもいいんです」
 彼は泣いていた。
「卵は割れてしまいました。妻も帰ってきません。わたしはひとりぼっちだ……」
「また来年がある」
 ぐいぐいとフリッパーで、彼の背中を押し上げる。
「希望を持て。くじけるな。これは死力を尽くして戦うべき、我が軍の戦いぞ。死ぬことは赦さん!」
 皇帝は、雪の氷原で絶叫した。
「余は皇帝として全員に命ずる。生き残れ! 我々は未来に命をつなぐことによって、勝利を得るのだ!」



(8)

 赦釈爵執酌爵は、ペンギンの皇帝だ。
 まだ彼に会ったことのない人は南極に行ってみるとよい。朝になると、海のそばに立ち尽くす彼の姿が見られるだろう。
 氷が融け、日ごと青さを増す夏の海を眺めながら、すべての穢れを寄せつけぬ白い大地で、彼は時には何時間もそうやって立っている。
 冬の戦いは終わった。
 今、海は生命の喜びに満ちている。父母から交替で餌を与えられ、すこやかに育ったヒナたちは、やがて集団生活に入り、徐々に冬の宮殿から夏の宮殿へと移動を始めた。
 海に着くころには、灰色の産毛もすっかり生え変わり、我先に海に飛び込んでいく姿が、愛らしくも頼もしい。
 しかし、還らぬ命もまた多かった。彼の激励と鼓舞にも関わらず、何百ものオスペンギンが行軍中に倒れ、同じようにたくさんのメスやヒナたちも、過酷な自然の力に為すすべもなく屈した。
 彼らはどれほど、この海に帰りたかっただろう。お腹いっぱい魚を食べ、生きることを楽しみたかっただろう。
 皇帝は、亡きひとりひとりの民を思い出すにつけ、どうしようもない胸の痛みに囚われるのだ。
 沖を、おりしも一隻の人間の船が通りかかった。
 彼らは、エンペラーペンギンの群れを見つけると、甲板に鈴なりになって、小さな箱を手に手に歓声を上げた。その声は、海の面を渡って、彼のもとまで届いた。
「きゃーっ。かわいい〜」
「ペンギンって、どうしてあんなにモコモコとかわいいんだろう」
「暢気に日向ぼっこして楽しそうだなあ」
 皇帝の目から、海の成分とそっくりな雫が一滴落ちた。
 また一滴。そして、青い海と混じり合った。
「人間よ。我々は楽しげに見ゆるか。暢気に見ゆるか」
 皇帝は、血を吐くような叫びをあげた。
「おまえたちはいつも、我々をただ可愛いと愛でるだけ。自然を破壊する罪から目をそむけ、真実を知ろうともせず、滅亡の危機に瀕した生き物たちを救うために指一本動かそうとしない。
我々を滅ぼしたいのなら、いっそのこと憎めばよいではないか。戦えばよいではないか。――人間よ。おまえたちの無知な善良さが、余の怒りと憎しみを奪ってしまう」
 いつのまにか、彼の背後に皇后が、生まれたばかりの皇女とともに立っていた。
「陛下」
 侍従長も。近衛兵たちも。ヒナたちも。何万匹ものペンギンたちがずらりと並んで、皇帝を心配そうに見つめていた。
「陛下。やはり人間を滅ぼすために、これからも戦われるおつもりなのですか」
「いや」
 皇帝は静かに首を振った。
「もう、やめた。人間とは戦わぬ。我々は生きることに忙しい。そんなことに関わっている暇はない」
 そして、宣言するがごとくに、海のかなたをにらんだ。
「だが、人間たちよ。覚えておくがよい。ここに我らがいて、おまえたちを見つめていることを。
せいぜい海を汚し、大地を汚し、空気を汚すがよい。色の違いや思想の違い、ささいなことで同族同士いがみ合って、互いを傷つけるがよい。百年後、五百年後、そして千年後、おまえたちはこの星にまだ生き残っているだろうか。
我々は、生き残る。生きて、おまえたちを高みから見下ろしてやる。
これが我々ペンギンの戦いだ。皇帝・赦釈爵執酌爵の戦いなのだ」
 パチパチという音が聞こえてきた。
 オスもメスも幼いヒナも、フリッパーを打ち鳴らして足を踏み鳴らして、割れんばかりの喝采を皇帝にささげた。
 赦釈爵執酌爵は、胸をぐいと反らし、クチバシをすっと大空に向けて、高らかに笑った。







注意:本来、ペンギンは皇帝も王も持ちません。宮殿にも住みません。このお話は擬人化のために、実際のペンギンの生活とは異なる描写をしています。ご了承くださいませ。
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