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銀砂子ぎんすなごの夜




「ねんねこしゃっしゃりませ 寝た子のかわいさ
 起きて泣く子の ねんころろ 面(つら)憎さ
 ねんころろ ねんころろ」


 小夜は、鼻の横を伝う涙をぐしぐしと拳でぬぐいとり、いっそう大きな声で歌った。
 国ざかいの峠にさしかかる山道には、彼女のほかに誰の姿もありはしない。
 真夜中の中天高く冴え渡る満月は、銀色の光を落としていた。
 時おり初秋の風に揺れる黒い木々も、小夜のすりきれた着物のすそも、耳にこびりつく狼の遠吠えでさえ、銀粉を塗った蒔絵の世界のようだ。


 小夜が旅芸人の一座にもらわれたのは、去年の暮れ、8歳になったばかりのとき。
 貧しい小作人であるおとうおかあのもとには、小夜のほかに5人の子どもがいた。
 口減らしだった。
 小夜は、大人たちから叩かれ小突き回されて、役者たちの身の回りの世話をさせられた。
 なぜ、おとうおかあのもとから引き離されたのだろう。なぜ自分だけ、あんちゃんや弟妹たちと一緒に家にいてはいけないのだろう。
 女だから? いつもぼんやりとしていて役立たずだから?
 暇があれば、芝居小屋の裏の荷物の影にこっそり隠れて泣いていた。
 背景の立て看板の松の木や、編み笠や陣中羽織がはみ出ている柳行李。
 小道具の脇差がつってある下の地面には、銀色の砂が光っていた。刀の鍔の銀めっきが使うたびにはげて、ぽろりぽろりと落ちているのだ。
 その銀の粉を地面の砂からよりわけて、宝物である匂い袋の中に入れるのが、小夜のたったひとつの楽しみだった。


 旅の一座は、瀬戸内の海に沿って、村から村へと渡っていた。
 あるとき、小夜は見覚えのある場所に来たのに気づいた。それは赤穂の城下町で、小夜は一度おとうと一緒に、冬のあいだ作り溜めた蓑笠を納めに来たことがあったのだ。
 あの峠を越えれば、山の向こうの我が家に戻れる。
 そう思った小夜は、矢も盾もたまらず、芝居小屋から一目散に逃げ出した。
 駆けに駆けて、草履の鼻緒も切れた。それでも小夜は歩き続けた。
 おとうとおかあに会いたい。
 おかあのぬくぬくの藁布団に入って、頭をなぜてもらいながら、「ねんねこしゃっしゃりませ」の子守唄を歌ってもらいながら、あんたに会いたかったよ、ほんにあんたを売るのは辛かったよ、と言ってほしい。


 でも、8つの娘の足では、峠越えはきつかった。
 真夜中過ぎて、小夜は石ころだらけの道でうずくまった。
 もう一足だって歩けん。眠りたい。
 そのとき、不思議な声が聞こえた。
 峠道のわきに、森が切れてすすきの原があった。風でさわわと揺れるすすきの中に、ひとりの男が立って、すすきを摘みながら歌っていた。聞いたこともない不思議な節だった。
 男は長い銀色の髪をしていた。落ち武者のように髷をざんばらに落としたのでもない。
 月の光が千条の細き銀糸となり、空から真直ぐ垂れてくる。そんな美しい髪だった。
 女のような白い顔に、白い着物。瞳だけが井戸の底の黒さ。
 その瞳が、小夜に向けられた。
「おまえは誰じゃ」
「……小夜」
 狐かもしれない、と思う。
「なぜ、こんなところにいる」
「おとうとおかあの家があっちにある」
「おおかた、奉公先から逃げてきたのだな」
 愉快がっているような声でもあった。
「家にもどっても、入れてはくれんぞ」
「なぜ? そんなことがわかる?」
「仲買人がおまえを連れ戻しにすぐにやって来る。奉公先から逃げ帰った子どもをかくまえば、前払いでもろうた金子や米俵は、返さねばならぬ」
「……」
「おまえが帰れば、家のものは困り果てるだけじゃ。おまえはすでに、家にいてはいけない人間なのじゃ」
「したら、……したら、あたしはどうすればええの?」
 小夜は頭を抱えて、すすきの中にうずくまる。
「もう、あそこには帰りとうない。ぶたれるのは、もういやや」
「おれと一緒に来るか?」
 男は、水面(みなも)がさざなみを立てるように微笑んだ。
「おれと一緒に暮らせば、もう腹のすくことはない。痛みも寒さも感じぬ。年もとらぬ」
 男は、すうっと片手を伸ばして、小夜のおかっぱ頭をなぜた。
 そのとたん、すすきがざわりと生き物のように鳴り出し、あたりは銀の砂子を撒き散らしたように、かすんだ。
「どうじゃ。おれと一緒に来るか」
 小夜は、ぼんやりと男の顔を見上げ、そして足元に目を落とした。
 痛みも寒さもない、お腹のすくこともない世界。そんなところに行けたら、どんなに良いだろう。
 でも、それは二度と戻れぬ遠い世界であることを、小夜は知っていた。
「今は行けん」
 涙をこらえてつぶやく。
「それでもやっぱり、あたしはおとうとおかあに一目会いたい。あんちゃんや妹たちの声を聞きたい。それが全部終わったら、きっとここに戻ってくるから。そしたら、一緒に連れて行って」
「ああ。それでもいい」
「それまで、ここで待っててくれる?」
「ああ、それまで待っていてやるぞ」
 男の銀色の髪がふわりと揺れて、その冷たい唇が小夜の首筋に触れた。
「これは、約束じゃ」
「うん」
 小夜はこわばった足を動かして、もう一度峠の夜道をひた走り始めた。
 ずいぶん行ってから一度振り向いたが、すすきの中にあの男の姿はもうなかった。


 小夜が自分の村に戻ったとき、すでに旅一座からの追手が家の前で待ち構えていた。
 家の前でぼう然と立ちつくすおとうおかあや、泣き顔の兄弟たちの前で、屈強な男たちが彼女の身体を捕まえた。
 どんなに地団駄踏んでも、どんなに泣きわめいても詮無いことで、なつかしい我が家に一歩も足を入れることなく、小夜は奉公先に戻された。


 時が過ぎていった。
 明治の御世になり、瀬戸内の島々にも棚田の村々にも、文明開化の波が押し寄せた。
 その余波で旅一座は解散となり、小夜はその役者のひとりと夫婦になった。
 食うや食わずの苦しい暮らしの中で必死に働いて、三人の子どもを育て上げた。
 富国強兵の号令が轟きわたり、戦争の中で、小夜の息子も小夜の末の弟も異国の地に死んでいった。


「ばあちゃん、こんなところで降ろしてええのか」
「ああ、ここで約束しとるから、ええのんや」
 男は首をひねりながら、荷馬車を操り、入日の峠を上っていく。
 小夜は、60年前とまったく変わらぬ、広いすすきの原のまん中に立って待った。
 満月が昇り、杉の木の梢にさしかかる。
 銀粉をまき散らしたような朧の空気に包まれながら、小夜は腕をせいいっぱい伸ばした。
「戻ってきたよ。全部終わったから、約束どおり戻ってきた」
 そうひとりごとを呟くうちに、しわだらけの自分の腕も、しゃがれた自分の声も銀に染まり、いったい自分が8つの子どもなのか80の老婆なのか、小夜自身にもわからなくなっていた。
 さわりとすすきが揺れて、銀色の髪の男がそこに立った。
 小夜の記憶に寸分たがわぬ、あの美しい姿だった。
「もう、一緒に行けるのか」
「うん」
 そう答えて微笑む小夜の手を、男はしっかりと握った。
 目を閉じると、男の両腕に抱きかかえられ、ふわりと身体が地面を離れるのを感じた。
 






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