余燼



「室川瞬くんですね」
 インターホンのカメラにかざした警察手帳を、もう一度ドアの隙間に突き出すと、彼はようやく刑事を迎え入れた。
「お入りください」
 清潔なTシャツ、七分丈のスウェットパンツ。風呂上がりできちんと梳かれた髪。担任教師いわく『自分の部屋から一歩も出ず、家族とひとことも口をきかない』高校生には見えなかった。
「谷津署の木場(きば)と言います」
 無表情に来訪者を見つめると、彼はくるりと背中を向けた。
 きれいに片づいたリビングに通されると、木場はソファの入口に近い席を選んで座った。
「ああ、どうぞ、おかまいなく」
 冷蔵庫を開けようとした少年は、少し肩をすくめた。元から、カウンターには彼ひとり用のマグカップしか用意されていなかった。
 アイスコーヒーを注いだカップを手に、向かいのソファに座る。
「ご家族は」
「両親は、夜まで帰ってきません。中二の妹がひとり、部活でやはり六時過ぎまで帰ってきません」
「では、昼間は自由に家の中を歩けるわけだ。風呂や食事も昼のうちにすませ、ご家族がおうちにいる夜だけ部屋に引きこもっておられると」
「別に、夜だって自由に出歩いていますよ。会っても互いに空気だと思ってますから」
 木場は、「はあ、そんなもんですか」と答えた。
 最初に室川瞬の視線を受けて妙な居心地の悪さを感じたのも、それが理由だと思い当たる。
 注がれているはずの視線が通り抜けていたのだ。まるで、そこには空気しか存在しないように。
「それで?」
 瞬は、蜃気楼のような笑みを浮かべた。「何の御用です」
「先週、同じクラスの八田槙人くんが死体で発見されたことをご存じですか」
「テレビのニュースで見ました」
「今月の三日午前一時ごろ、あなたはどこにいましたか」
 十七歳の少年は、ふっと鼻を鳴らした。「引きこもりに、そういうことを訊く意味があるとは思えませんけど」
「一応、手順なもので」
「もちろん、この家にいました。当然ながら、その時間には家族はみな就寝中です。証人になる者はいません」
「外出はなさいましたか」
「この三ヶ月間、角のコンビニより遠くに行ったことはありません」
「ほう、コンビニには行かれるのですか」
「昼食用の弁当と雑誌を買うために、だいたい昼前に行きます」
 間髪を入れぬ、落ち着いた受け答え。
 しかし、その声は平板で、人と話しているときの抑揚がまったく感じられない。
 まるで――そう、まるで、石の壁相手にひとり芝居をしているようだ。
「僕は、何かを疑われているわけですか」
 瞬は首をソファにもたせかけ、天井を見上げた。「八田は酒を飲んで自転車に乗っていて、誤って海に落ち、溺れたと聞きましたが」
「公式発表では、そういうことになっています」
「本当は、違うと?」
「いえ、そこまでは、まだ何とも。現在あらゆる面から捜査をしています」
 沈黙が続き、木場は切れかけた会話のしっぽを拾い上げた。
「あなたは二年の三学期の終わりに八田くんのグループに集中的にいじめを受けたと聞きました。教科書を破られたり、ロッカーに糞尿をかけられたり、それは酷いいじめだったという証言もあります」
 少年はかすかに身じろいだが、何も言わなかった。
「それ以来、不登校を続けている」
「それを恨んで、八田を殺したとでも?」
 彼は目の端で、刑事を捉えた。
「人を殺すほどの覚悟があれば、引きこもりなんかにはなりません」
「わたしが見てきた殺人犯の大半は、人を殺す覚悟があったわけではありませんよ」
 木場は、相手の視野に入り込むように身を乗り出した。
「室川さん。あなたは、三年間持ち上がりの特進クラスで、一年のときからずっとクラス委員を務めているそうですね。担任の教師によれば、成績は優秀、級友の面倒見もよく、強い意志と実行力を持って自分の人生を切り拓いていける人間だと」
「買いかぶりすぎです」
「あなたの不登校について級友に聞いたら、一様に悲しんでいましたよ。早く帰ってきてほしい、いっしょに卒業したいと言って」
 室川瞬は、乾いた笑い声を洩らした。「うそですね」
「うそ?」
「僕はあそこから逃げ出したんですよ。みんな見て見ぬふりだった。とばっちりが及ぶことを恐れ、誰も助けてくれなかった。あいつらにとって、僕はすでに記憶から抹消された存在です。死人と何も違いはない」
 その恐ろしいほど研ぎ澄まされた反応に、木場はぞっとした。
 確かに、今の木場の言葉には、うそがあった。級友たちは、彼に対してひどく冷淡だったのだ。誰に彼のことを聞いても、口は重く、答えはぎこちなかった。いやなことは、早く忘れたいとでも言うように。
 まさに、死人という言葉がぴったりだった。
「なぜあなたは学校側に、いじめられている事実を訴えなかったのですか」
「教師が何かしてくれるとは、思えませんでした」
「なぜ、そんなことが言えるんです」
「経験上、そう予測できました。人間は歳を重ねるにつれ、見たい事実しか見えないように目の機能が変化するらしいですよ。すべてのことは『おまえなら、やればできる』で片づけてしまえる」
「クラス委員で先生がたの信頼も厚かったあなたが、教師をそんなふうにおっしゃるのですか?」
「ははっ」
 瞬は、このうえないジョークを聞いたときのように、破顔した。
「教師の信頼なんて、責任放棄の別称です。生徒と向き合わない理由を、そう呼んでいるだけです」
 初めからそんな考えではなかっただろうに、と木場は思った。
 おとなに対し社会に対して、これほどシニカルな絶望をいだくとは、いったいどこで彼の心は、これほどねじ曲がってしまったのか。
「八田くんが死んだと聞いて、あなたはどう思いましたか」
「別に」
「いじめを受けたときのことを思い出したりはしませんでしたか。胸がすっとしたとか、いい気味だとか」
「ありませんね」
 彼は笑いを含みながら背をソファに預け、窓の外を見た。木場刑事に向けた横顔は、ふたたび人形のように完璧に表情を消している。
「そういうのは、もうやめたんです」
「そういうの、とは?」
「体の中に熱を持つことです」
「熱?」
「八田は、実にすさまじい熱を放出するヤツでした。僕はその熱を浴びて、原型なきまでに溶かされたんです。だから、もう二度と熱を持つことはない」
「生きるエネルギーのことですか」
「ご想像におまかせします」
 なるほど、悪意や暴力によって他人を支配しようとした八田は、高温で燃え上がる炎のような存在だったのだろう。
 集団のもたらす不条理な暴力と、撚り合わされた容赦ない悪意の奔流に痛めつけられたこの少年は、もう決して他人の炎熱に晒されないところに逃げることを選んだ。
 他人を空気とみなし、自分の中から一切の感情を排除することによって。
 だが、本当なのか。本当に彼は全てをあきらめてしまっているのか。――いや、彼の内部には、まだ途方もない熱がうごめいているような気がしてならない。
 室川瞬は、何かを隠している。
 かなり長い時間、息を詰めていたことに気づき、木場はほうっと深い吐息をついた。
「おっしゃることは、わかりました」
 辞去の意味で軽く頭を下げてから、立ち上がった。
「捜査は完全に暗礁に乗り上げています。わたしたちは八田くんは何者かに殺されたと考えています。だが、その方法がわからない。不可能なのです」
「不可能?」
 瞬が彼を見上げた瞳に、刹那のきらめきが宿ったのを、木場は見逃さなかった。
「八田くんは、何者かに呼び出され、自転車に乗って桟橋へ行った。そして、港の防波堤から突き落とされた」
 息を継いだ。「だが、港に設置された防犯カメラには、八田くん以外の誰の姿も映っていない。いったい誰にどうやって突き落とされたのでしょうか」
 刑事は、自分の言葉が相手の皮膚の表層から体内に染み入るだけの時間を、慎重に待った。
 もし、自分の勘が当たっていれば、彼は話に食いついてくる。
 無気力な引きこもりという仮面を脱いで、本性を現してくる。
「今から、現場に行こうと思っていますが、よければ、あなたもいらっしゃいませんか」
 木場は、イチかバチかの賭けに出た。「――ああ、コンビニより遠くには行かない主義でしたか」
 少年は、ソファから静かに立ち上がった。
「少し待ってください。着替えてきます」


 玄関を出ると、木場の相方の小林刑事が走り寄ってきた。
 「室川瞬くんだ」と紹介すると、「え、この子が」と目を丸くする。
「現場に行ってくる。……いや、いい。歩くから、三十分後に車を回しといてくれ」
 言い置いて、木場は瞬と並んで歩き始めた。
「このご近所で、聞き込みをさせてもらいました。どこへ行っても必ずと言っていいほど、あなたが小さいころ、どれほど両親のご自慢だったかという話を聞けましたよ。確かIQが160だとか」
「小学校のときのIQなど、誤差の範囲内です」
 あっさりと否定される。
 三十四歳の木場は、決して背が低いほうではないが、並んで歩くと見下ろされているような気分になる。今の若者は、どこまで平均身長が伸びるのだろう。
「これから、どうするつもりですか」
「これからとは?」
「つまり、将来のことです。あと半年あまりで卒業ですよ」
 ちらりと彼の横顔を見る。「いじめの張本人はいなくなった。もう不登校の理由はないのでは」
「一度逃げ出した場所に、戻るつもりはありません」
「では、高校中退ということに?」
「まだ、何も考えていませんよ。大検でも受けろと親にせっつかれているところです」
 他人事のような調子だ。
 木場自身は子を成さぬまま離婚した男だが、せっつく親の気持ちもわからぬではない。自分の子が天才だと近所に吹聴して回ったような親だ。息子が不登校という選択をしたとき、室川家では、どれほどの騒動があっただろう。
 家族を空気と見なさなければ、この少年は生きていけないのかもしれない。
「ここが、あなたの行動範囲の境界線ですね」
 いまどきの住宅街にはよくある、普通のコンビニだった。小林の聞き込みによれば、瞬がここの店に顔を見せるのは、決まって朝の十時半。昼の弁当が出そろう時刻だ。
 もちろん、車の渋滞や作業の遅れなど、弁当の到着は日によって数分前後の時差がある。それでも彼は、その時差をきちんと見計って現れる。
 どこからか見張られているのではと薄気味悪くなることがあると、店長が話してくれた。
「久しぶりの『遠出』なんでしょう。ねえ」
 いつのまにか、横を歩いていた少年の姿がない。振り返ると、瞬は立ち止まり、じっと足元のアスファルトを見降ろしていた。
「室川さん」
 呼びかけの声に、今ようやく連れの存在を思い出したかのように、彼は顔を上げた。
「すみません」
「いえ」
 谷津は、小さな港町だ。
 住宅街から十分ほど歩いて、堤防を登ると、寒々とした黒い海に、白い海鳥が一列に並ぶコンクリートの防波堤が見えてくる。
 倉庫と駐車場と化学工場と、海浜公園と名づけられた一角には、公共プールと、少しばかりの緑。大小さまざまな桟橋が小枝のように左右に伸び、漁船や個人所有のクルーザーが停泊している。
 真夜中になれば、人通りはほぼ皆無だ。
「あそこが、八田くんの亡くなられた場所です」
 木場は手前の二本の桟橋のうちの一本を指で示してから、堤防の坂道を足早に下り始めた。
「港から海の方向に向けて、全部で五台の防犯カメラが設置されている。そのうちの一台が八田くんの落下の様子を捉えていました。見ますか」
 木場は、ふところから携帯電話型の無線端末を取り出して、瞬に見せた。
 画面は暗く不鮮明で、かろうじて桟橋の上に、ひとりの男が立っていることが判別できる。似たような画面が続き、唐突に男の姿が掻き消えた。ほかの人影は写っていない。
「彼はひとりで桟橋に来て、ひとりで海に落ちたというわけです」
「なら、事故でしょう」
「同じグループの仲間の証言によれば、その日の夕方、八田くんは携帯で呼び出されて、ここで落ち合う約束をしていた。しかし、その呼び出した人間は結局来なかった。相手を割り出しましたが、その級友には完璧なアリバイがありました。都合が悪くなって来られなかったそうですが、その理由も納得のいくものでした」
 木場は言葉を継いだ。「八田くんは桟橋から海に落ちたとき、ぬめる岸壁に手をかけ、何度も這い上がろうとして滑り落ちた。ほら、そこの岸壁をごらんなさい。その跡がくっきりと残っているでしょう」
 油が浮いた海面は、とろりと濁っている。
 翌日、家族から捜索願が出され、桟橋に置きっぱなしになっている八田の自転車が発見された。遺体は、海底のヘドロの中から引き揚げられた。検視の結果は、溺死だった。
 木場は、瞬をじっと見つめた。「単なる転落事故に見えます。けれどわたしには、どうしてもそうは思えない。背後に誰かの殺意が働いている。そう感じられます」
「刑事の勘ですか」
「そのようなものです」
 室川瞬は、神経質に髪を後ろに掻き上げた。引きこもっている間、一度も切っていないであろう髪は、海から吹きつける風に、ひどく乱れていた。
 あらわになった頬の線が硬くなっている。
「学校側の協力を得て調べていくうちに、八田くんはあなた以外にも、何人かいじめの標的を持っていたらしいことがわかりました。いじめとは生ぬるい言葉で、実際は暴力による恐喝です。一年の時から数えて、いじめられた人間はわたしたちの確認できた限り、五人にのぼります。実体は、もっと多かったかもしれない。八田さんは、たくさんの人間に恨まれていた」
 木場は、じっと眼の端に少年を捉えながら、話し続けた。
「ひとりひとり、丹念に調べました。そして、誰ひとりとして犯行は不可能だという結論に達した。しかしそれは、『ひとりなら』という意味です。たくさんの人間がかかわれば、殺害は可能だったのではないか」
 瞬は答えずに、八田が落ちたという桟橋をじっと見つめている。まるで網膜に焼きつけようとでも言うように。
「彼を呼び出す役がいた。酒を飲ませる役もいた。携帯で呼び出す役。八田くんは、自転車に置いてあった携帯が鳴りだしたために、桟橋を戻り始めた。ちょうどその瞬間、港に隣接する灯台のビームランプの光が、この桟橋を舐めた。そのタイミングさえ巧妙に計算されていたかもしれない」
 刑事は端末を操作して、防犯カメラの写真を前に送った。そのうちの一枚は、フラッシュか何かを焚かれたように画面全体が明るかった。
「酒に酔っていた八田さんは、一瞬目がくらみ、敷石に張られた釣り糸につまずいて、桟橋から落ちた。ここには釣り人の残した釣り糸がたくさん落ちていますし、証拠は簡単に隠滅できた」
 瞬は、携帯を覗こうともしない。
「殺人計画とも呼べないような、ユルい計画です。誰も直接殺害にかかわった人物はいない。しかし、それらの人間が一糸乱れぬ行動を取るには、指揮官が必要だ。さらに殺人のシナリオを書き、容疑者全員に誰ひとりとして疑われることのないアリバイを作らせるという、緻密な策略が必要だ」
 木場は夕映えの中で点灯したばかりの灯台を見つめながら、静かに言った。
「室川さん。級友たちを束ねて、殺人を指揮したのは、あなたではありませんか」
 港は、薄闇に覆われ始めていた。沖のほうを見やれば、防波堤やクルーザーのシルエットが、チカチカときらめく光の点線に縁どられている。
「幼稚園のとき、ひとつの実験をしたことがあります」
 瞬は、おもむろに話し始めた。
「僕の隣の席には、ひどく乱暴なヤツが座っていて、僕の描いた絵を、いつも横からクレヨンでめちゃくちゃにしていた。僕はそいつに仕返ししたくて、どうしたらよいかを毎日考えていました。その日はちょうど床に、誰かが放り投げたぬいぐるみが、そのままになっていた。僕は部屋の向こうから、そいつの気を引くような言葉で叫びました。そいつは僕に向かって、突進して来ようとして、ぬいぐるみにつまずき、派手にころびました」
「……」
「ああ、怪我はしませんでしたよ。幼稚園の床は柔らかいコルクでしたから。さて、この場合、悪いのは誰だったのでしょう。ぬいぐるみを置きっぱなしにしていたヤツ、声をかけた僕。教室の安全に目を配らなかった教師――その全員が有罪なのか。それとも、全員が無罪なのか」
 彼は振り向いて、乱れた前髪の間から木場を見つめた。
「あのサイトの存在を見つけたんですか」
「サイト?」
「じゃあ、まだなんですね。警察もたいしたことないな」
 彼は、スマートフォンをポケットから出し、キーを操った。
「と言っても、本物はもうとっくに削除してますけどね。これは画像だけです」
 そこに映し出されていたのは、パスワードで入室する形式の掲示板だった。
「僕がこれを開いたのは、二年になってしばらくしてからです。最初は仲間うちの他愛のないおしゃべりでした。けれど、次第に、『八田にいじめられている。助けて』という相談が頻々と寄せられるようになり、深刻な悩み相談に変化しました」
 スマートフォンを受け取った刑事は、うまく息を吸えない肺をなだめながら、指で画面をスクロールさせた。


『今日も、校舎の裏に連れていかれて、腹を蹴られた』

『ひとりにならないように、なるべく大勢で行動しろ』

『明日、五千円持ってこいと脅かされてる』

『金なんか、渡したらダメだ。味をしめて、またやられる』

『Hなんか死ねばいいのに』

『学校に来る途中、事故に会えばいい』

『ああ、誰かヤツを殺してくれないかなあ』


「やがて、僕はひとつのトピを立てました。『いかにしてHを完全犯罪で葬るか』」
 室川瞬は、オレンジ色の夕映えから顔をそむけて薄闇に逃げ込もうとするように立っていた。
「僕たちは時間の立つのも忘れて、知恵を出し合って殺人計画を練り始めました。罠をしかける役、彼を呼び出す役、囮になる役、証拠を隠滅する役。それぞれが自分の役割を果たすことによって、誰ひとりとして直接手を下すことなく、相手を死にいたらしめる。成功の確率は、ごくわずか。もし失敗しても、何食わぬ顔をして普段通りの生活を続け、また次の作戦のチャンスを待つ。そしていつか――」
 瞬はいったん口を切り、低い声で続けた。「三ヶ月前、僕はそのトピを打ち切り、掲示板を削除して、自宅に引きこもりました。いや、引きこもったふりをした」
「ふり?」
「だが、殺人計画はひそかに続いていた。誰にも知られずに計画は何度も実行に移され、誰にも知られずに失敗した」
「何度も――」
「けれど、運命の神は、とうとう僕らに味方してくれました。僕は自宅にいながら、八田の死の知らせを狂喜して受け取りましたよ」
 少年は、まっすぐに刑事を見た。その瞳は炎のように煌めく荒々しい残照を映している。
 初めて、木場は彼から、モノではなく人間として見つめられていると感じた。
「逮捕してください。八田を殺す指令を出したのは僕です」


「まいりましたよ」
 取調室から戻ってきた小林が、吐息をついた。
「肝心なことには黙秘を続けてます。関与したやつらの名前も、ガンとして口を割らない」
「本当に、知らないんじゃないのか」
「え?」
 木場は煙草を一本口に加え、ちくりと罪悪感を感じて、苦笑する。
 一日五本という妻との約束が、今になっても自分を縛っている。すっかり気持ちが冷めきった挙句に離婚したはずだったのに、妻を思い出すと、ときどき臓腑がじわりとしぼられるような心地がすることがある。
 もしかして、まだ燃え残っているものでもあるのだろうか。
「ハンドルネームでやりとりをすれば、どの役割を誰が果たしたはわからない。互いの密告を恐れることもない、安全な方法だ」
「あ、そうか」
「ひとりひとりの果たした役割は、細切れで殺人とはほど遠い。人を殺す罪悪感もそれだけ薄いんだよ。まるでゲームだ」
 小林は、「そんなもんすかねえ」と頭を掻いた。
「それにしても、ヤツのスマホやパソコンをいくら調べても、仲間に殺害を指令した方法がわからないんですよね。あの掲示板は確かに三ヶ月前に削除されていました。サイバー班によれば、残っているのはHTML出力したものだけで、プロバイダ責任制限法によって情報開示を求めても、IPアドレスはわかりそうにありません」
 「くそ」と木場は、小さく罵った。「パソコンに入っていた映像は」
「あ、あれは、やっぱり自宅近くのコンビニでした。向かいの生垣に、隠しカメラも発見しました。ネット通販で買ったそうです。あれで弁当の配達車の出入りをチェックしてたんですね」
「なるほど」
「何が楽しいんだか。これもゲームの一種だったんですかね」
 木場は、黙って煙をふかした。もしかして、彼がチェックしたかったのは、弁当ではなく、人の往来ではないだろうか。
 外に出て、近所の見知った人間に会うことは、それほどまでに恐怖だった。
 そう言えば、殺害現場の港に向かう途中、コンビニの前で長い間立ち止まっていた。指先がかすかに震えていたのは、本当にあれ以上歩けなかったのではないだろうか。
 何か違和感がある。腑に落ちない。
 なぜだろう。なぜ瞬は、掲示板の記録を取っておいたのだろう。あれさえなければ、木場の仮説はただの勘にすぎず、根拠はなかった。
 あれほどあっさり認めさえしなければ、彼への追及の手はそこで途切れたはずだったのだ。
 容疑者が自白し、すべては解決へ向かっているはずなのに、木場の中に何かわだかまるものがある。
 何かがくすぶっている。
 室川瞬は、冷酷な殺人計画を立て、自分は安全な高みから同級生に指令を送り、実行に移した天才犯罪者なのか。それとも、もしかすると本当に、人間におびえて外にも出られない、引きこもり少年なのか。
「他に、何か言っていたか」
「他に、ですか? えーと。たいして意味のあることは言ってません。熱がどうとか」
「熱?」
「ただの世間話ですよ。現代人はひとりひとりが途方もない熱をひそかに抱えていて、その行き場のない熱を捨てる場所がないと言ってました。そうそう、ブログの炎上のメカニズムとか、そういう話だったと思います。なまじ頭のいいガキは、アタマ来ますね」
「熱を捨てる場所」
 木場は、ぽろりと煙草を落とした。
 ジグゾーパズルのように、すべてが音を立てて、カチリとはまった気がした。
 室川瞬が、『いかにしてHを完全犯罪で葬るか』というトピを立てた本当の理由が、やっとわかったのだ。
 八田を殺したかったからではない。まさしくゲームだ。ロールプレイングゲームだったのだ。
 自分たちのやり場のない怒りを、憎悪を、絶望を、空想の世界で遊ぶことでガス抜きさせようとした。その中で連帯感を育て、八田たちのイジメに全員で打ち勝つことができるように願っていたのかもしれない。
 だが瞬自身がいじめの標的にされ始めたとき、参加者たちの中に渦巻く途方もない熱に気づいてしまった。八田を『本当に』殺すことを心底から願う、昏い憎悪のかたまりが生まれ始めたことを。
 同級生の中に――そして、自分の中に。
 瞬はあわててサイトを閉鎖し、不登校を理由に自分の部屋に引きこもった。

『僕はあそこから逃げ出した人間ですよ』

 殺人の司令官になることを拒否するには、逃げるしかなかった。
 それを知った級友たちは、彼を切り捨てた。彼との連絡を一切断った。
 そして、瞬の知らぬところで、計画はひそかに引き継がれ、進行していった。束ねられた炎は芯を失っても消えないほど、じゅうぶんに大きく育ってしまっていたのだ。
 室川瞬は、八田の暴力におびえて引きこもっていたのではない。自分が大勢の人間を殺人へと駆り立ててしまった罪の重さにおびえていたのだ。
 彼は、八田の死を知ったとき、すべての罪をかぶる覚悟をした。
 警察が真相にたどりつこうとしていることを悟り、自分が主犯と名乗り出ることで、他の参加者たちへ伸びようとする追及の手を堰き止めたのだ。
「……だとしたら、やつは」
「なんですって?」
「小林、次の室川瞬の取り調べは、俺にやらせてくれ」
「いいですけど、今終わったばかりなので、次は午後ですよ」
「じゃあ、それまでウラを取りに行く!」
 上着をひっつかむと、あわてている同僚を後ろに残して、木場は外に飛び出した。

『八田は、実にすさまじい熱を放出するヤツでした。僕はその熱を浴びて、原型なきまでに溶かされたんです。だから、もう二度と熱を持つことはない』

 それは、うそだ。
 室川瞬。おまえの中には、熱がくすぶり続けている。学校社会への怒りが。級友への友情が。自分の罪への慙愧が。
 それを見せなくていいのか。二度と誰にも心を開かずに、終わるつもりなのか。
 なぜ俺が、最初におまえを疑ったかを教えてやろう。
 それは、級友のおまえに対する、徹底して無関心な態度だった。おまえは切り捨てられたと思っているかもしれないが、そうやって彼らはおまえを救おうとしていたのだ。そのことを、わからせてやる。それでも、おまえはその無表情を保つことができるのか。
 夕暮れの港で、確かにおまえは泣いていた。俺の前に、ほんのわずか真実の姿を見せてくれた。それは、少しでも俺を信頼してくれたということなんだろう?
 俺に、助けを求めてくれたということなんだろう?
「ぐうの音も出ないほどの証拠を、突きつけてやるからな」
 自分の中に、いつのまにか灯火のように燃えるものが生まれたのを、木場はまだ気がつかなかった。