ターミナルには、ほとんど乗客はいなかった。 きのうまで赤い埃を蹴立てて走り回っていた貨物用ビークルも姿を消し、宇宙線防護ガラスの向こうに見えるのは、今は火星の乾いた大地ばかりだ。 合成音の耳障りな案内が、木星の衛星エウロパへの定期便が36時間遅れていることを、時折思い出したように告げている。 「だから、ここまで見送りにくることはなかったのに」 沈黙の世界を見つめていたディアナがその声に振り向くと、金色の肩章をきらめかせた白い制服をまとう長身の夫が微笑んでいた。 「宇宙では、時間の概念が違う。地球のように一分と狂わぬスケジュールで生活している人間にとっては、別世界なんだよ」 「いいのよ。マイルズ。私こんなハプニングも楽しんでいるわ。火星なんてハイスクールのとき以来だし、……それに何よりも、あなたと名残を惜しむ時間が増えたんですものね。感謝しなくちゃ」 「今宇宙局で確かめてきた。あと2時間でガニメデ行きの貨物船が出航する。僕はその便に同乗を頼んだ。エウロパに行くにはそのほうが早いし、確実だ」 「そう、あと2時間……」 「坐ろうか」 彼は妻の輝くプラチナブロンドの髪に口づけをすると、そのまま彼女の肩を抱き、ソファに誘導した。 ドームの天井を透かして、火星の淡い翠色の空がふたりを無言で包み込んでいる。 火星は外惑星旅行のターミナル空港。 そこから木星や土星や海王星に向けて人々は出発する。そしてその先さらに外宇宙に向けて、戻る保障のない旅をする者たちが、最後の別れのときを過ごす場所でもある。 「マイルズ。今日のあなたはなんだかとても嬉しそう」 「そうかい。これでも緊張しているんだけどな。興奮しているのかもしれない。遠足に行く小学生の気分だ」 「往復50年の遠足」 ディアナは、彼のたくましい肩にそっと頭を押し付けた。 「50年かけてまで行くほどのものが、あの遠い星、プロクシマ・ケンタウリにあるというのね」 「50年の航路と言っても、40人の乗組員が交代で冷凍睡眠をとりながら、5年ずつ船の操舵を担当する。帰還するときには僕はまだ32歳さ」 「でも地球では実際50年が過ぎている。あなたを知っている人はもう誰も残っていないわ。妻である私以外は」 「人類で最初に地球以外の生命の棲む惑星に到達する喜びを思えば、何も惜しくはない」 「ほんとうに生命が存在するという証拠はあるの」 「コンピューターは99.97%の生命の可能性を示唆している」 「確率なんて信じないわ。しょせん物事はあるかないか、イエスかノーかのフィフティ・フィフティ」 「賭博師の論理だな。現実的な思考のようだが、実はそうではない」 マイルズは妻に哀れむような視線を送り、両腕をソファの背に置いた。 「きみは『因果応報』という言葉を知っているかい? ディアナ」 「いいえ。ことわざか何かなの?」 「古代バラモン教から来た教えだと聞いた。すべてのことには、原因があって結果がある。過去になした善悪が、現在の結果を生み出す。現在なす善悪が未来における結果を生み出す。 この結果は何人の努力をもってしても動かすことができないし、個人を超えたすべてのものに影響を及ぼしうる」 「言ってることが、半分もわからないわ」 「だから、つきつめれば宇宙生成のその瞬間から、今起きていることの原因はすべて存在したということさ」 「運命ってこと? 可笑しい。そんな言い方って、まるで宗教家みたい」 「宇宙飛行士はみんな宗教家になるんだ。そうさせる何かが宇宙にはある」 「すべては宇宙が定めたこと」 「そう。きみと僕が出会ったことも、愛し合い、結婚したことも、そしてこうして僕が外宇宙に旅立とうとしていることも、生命の存在自体も、すべては創生のはじめより定められていた」 「人間には運命を変えることはできないの? どんなに努力しても」 と、かすれた声でささやく彼女に、夫は満月の夜空のような涼やかな藍色の瞳を落とした。 「昔、こんな話を読んだことがある。タイムマシンで時をさかのぼった男が、古生代の地球で一匹のネズミに似た哺乳類をあやまって殺してしまった。 現代に戻ったとき、民主主義だったはずの世の中は独裁者が支配するファシズムの世界へと変わっていた。彼が一匹の哺乳類を殺したことで微妙に生態系が変わり、ほんの少しのズレが、大きな歴史の転換につながってしまったんだ」 「荒唐無稽なお話だわ」 「いや、科学者は至極まじめに、このことを危惧してるよ。今度の惑星調査隊も、宇宙船整備以外の目的で地上に降りることは許されていない。遠隔操作で細心の注意を払って最小限の標本を採取するだけだ」 「無垢な世界に、人間の手垢がつくことを恐れているのね。でもそれって結局、運命は人間の手で変えられる、ということじゃなくて?」 「そうじゃない。こう考えたらどうだろう。僕たちがその惑星を訪れる事実さえもが、宇宙の真理の中ではあらかじめ決められていた因果であると。 もし僕が惑星に降り立って、アリ一匹を踏み殺してしまったとしても、 それは初めから定められていたことだった。どこかで髪の毛一本落としてきたことによって、そのアミノ酸から生命が生成されたとしても、それも運命であったと。 われわれを生みたもうた神というのは、存外そんな程度のものなのかもしれないな。 こんな醜悪な生命体が宇宙を支配するようになることなど何も知らずに大昔の地球に降り立ち、人類の創造に一枚噛んだ、どこかの星の愚かな探検隊だったかもしれない」 夫の能面のように整った横顔を見つめて、ディアナは少し身震いした。 「マイルズ。あなたがときどき、とても怖くなる」 「それはきみが僕を理解していなかったからだ。僕の仕事を、僕の夢を、僕という人間を。最後の最後までね」 そのとき、ひときわ甲高い女性の合成音が、ガニメデ行きの貨物ロケットの発射案内を告げた。 「思ったより早かったな」 マイルズは、ゆったりと組んでいた脚をほどいて、立ち上がった。 「じゃあ、ディアナ。元気で」 「あなたも。マイルズ。地球に帰ったらすぐ、私も冷凍睡眠装置に入るわ」 「うそつきだな」 「え?」 彼は冷たい微笑をうかべて、妻を正面から見据えた。 「きみには、50年も僕を待つ気などない。僕がケンタウルス星系に飛び立ったら、まっさきにレオの胸の中にとびこむくせに」 「マイルズ……」 「あのイカサマ実業家との情事を、知らないとでも思っていたのかい? 僕が調査隊に志願したときは、悲しむふりがうまかったな。本当はふたりで小躍りしていたんだろう?」 「ちがうわ。聞いて!」 「彼のもとに行くがいいさ。止めたりはしない。やつがきみを迎えるためにドアを開けられたらの話だが」 「ま、まさか……」 「偽装工作をしておいたから、死体はまだ見つからずにころがってるはずだ。僕の光線銃で眉間を撃ち抜かれたままね」 「マイルズ!」 美しい白い顔を恐怖に歪ませて、ディアナは夫の腕から逃げ出そうとした。 「おっと、まだ動かないでくれ。この銃口が見えるだろう? せめて僕があのゲートをくぐるまでは、ここにじっと立って見送るんだ。外惑星行きに乗ってしまえば、僕は外務特権が使える。 もう捕まることはない。宇宙法での殺人の絶対時効は20年だ。レオを殺したことを、誰もとがめることはできない」 彼女の青い瞳から頬をつたう涙をそっと指の腹で拭きながら、マイルズは楽しげに続ける。 「なあ、ディアナ。僕はプロクシマ・ケンタウリの惑星に降り立ったとき、かたっぱしからそこの生物を殺してみようと思うんだ。その星の生態系はめちゃめちゃに狂うだろう。 でも悪いのは僕じゃない。きみが僕をそのように駆り立てるんだから。 きみは僕と結婚したのに、レオと浮気した。そして僕はレオを殺して、見知らぬ星の生命を踏みにじる。 ああ、ディアナ。自分を責めてはいけないよ。それは、きみのせいでもないんだから。 すべては宇宙の創生のはじめから、定められていたこと。 『因果応報』。……なんてすばらしい真理なんだろう」 力なく床に崩れ落ちるディアナを見おろしながら、彼は狂った神々のように嗤った。 nyansukeさんの4000hitのキリリクです。 実はその直前、私もnyansukeさんに「四字熟語」という難題のキリリクを出しており、 さながらキリリクの応酬となりました。まさに因果応報(笑)。 そののち、きゅろんさんのキリバンを私が取り、3人の競作というかたちですすめることに なりました。 → → 「競作 因果応報」の前書き |