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かれ我を殺すとも



   「かれ我を殺すとも、我かれを待ち望む」 (ヨブ記13:15)



 夫はベッドに横たわりながら、天井を長い間見つめたあとつぶやいた。
「きみのことを、どうしても愛せないんだ」


「ママーッ。おすべり行ってきていい?」
 私がうなずくと、4歳の航はうれしそうにぴょんぴょん跳ねながら、山の斜面のような広いすべり台に向かって走り出した。そのあとを3歳になったばかりの雄が、あわてて追いかけてゆく。
 上に登ってもすべり降りる度胸がないくせに、ことごとく兄の真似をしたがるのだ。私はベンチの上でくすくす笑いながら、ふと萌黄色に煙る公園の木のこずえを見上げた。

 いつもと何も変わらない午後の風景。
 不思議だ。
 私の心の中は3日前から死んでしまったというのに。
 私は笑っている。いつものように生活している。


「なぜ? どうして私に触れてくれないの? もう何ヶ月も」
 3日前の夜、我慢の限界にいた私はベッドの上に起き上がって、夫を責めていた。
 夫婦のことばかりではない。夫は休日になるとゴルフを口実に家を開けるようになっていた。
 いっしょにいても目が笑っていない。
 航と雄にとっては、お風呂に入れてくれて遊んでくれる優しいパパだが、私とふたりになると黙り込んでしまう。
 私は淋しかった。死にたいほど彼を求めていた。
 でも私の口から出ることばは、裏腹に冷たく彼をさげすみ、罵っていた。


「忘れられないんだ。今でも」
 夫の薄い唇がつぶやいたことばが、まるで魔法であるかのように私の時間は止まり、寝室の風景は色をなくした。
 私は一瞬ですべてを理解していた。
 ああ、彼はまだ翔子を愛している。


 翔子は私の高校時代の親友だった。
 いつも男の子たちと笑い合っているような、はなやかで奔放な子。
 地味で本を読むことが好きな私とは好対照だったが、なぜかとても気が合った。
 彼女が短大、私が4年制大学に進んでからも、しょっちゅう連絡をとりあっていた。
 「麻ちゃん、私この人と今つきあってるの」と彼氏を紹介してくれたのは、私が大学3年のとき。
 彼女は卒業後、地元の大企業の子会社に就職し、そこで働いていた4歳年上の貴也と知り合ったのだ。
 彼はすらりと背の高い好青年だった。照れているのか、しょっちゅう頭を掻くのがくせだった。翔子はそんな彼に「またぁ。ハゲるよ!」と文句を言う。
 そんな微笑ましいふたりの様子をそばで見ているのが好きだった。
 翔子たちは真剣に結婚を考えていたはずだった。
 しかし、いつしか彼らのあいだに不協和音が鳴り始めた。家柄にうるさい貴也の家族の反対もあったらしい。翔子が昔つきあっていた恋人のことでけんかしたとも聞いた。
 結婚という未来が見えない男女は、会っても次第に話すことばもなくしていく。
 突然、ほんとうに突然。
 彼に別れのことばさえなく、ましてや私に何の連絡もなく、彼女はかつての恋人と入籍し、日本海の方で暮らし始めた。


 数年して、私と貴也は再会した。
 それも見合いという形で。最初その縁談を聞いたときは呆然とした。
 狭い地方都市なので、彼と翔子のことは知る人ぞ知る噂話になっていた。
 そんな傷ものの縁談なんてと、私の母は娘かわいさのあまり酷いことを言ったが、先方が望んでいると知った私の心は、もう決まっていた。
 翔子のそばにいる彼をいつのまにか好きになっていたことに、今さらのように気づかされた。
 はじめてのデートで彼が頭を掻くのを見たとき、私は涙が出た。
 この仕草を見るのは私だけだと、うれしかった。
 2回目に会ったとき、蝋燭の灯る静かなレストランで、真剣な目をして私を見つめる彼のプロポーズを受けた。
 5ヶ月後に私たちは、私の行くキリスト教会で結婚式を挙げた。
 結婚して1年もたたないうちに親会社に栄転が決まった彼と、おなかの目立ち始めた私は、関東に転居してきた。


 でも私はいつかこの日が来ないかと、5年間ずっと恐れていた。
 夫が翔子のことを思い出し、彼女のもとに行ってしまう、その日を。


「航。雄。買い物にいくよぅ」
 公園仲間のお母さんたちに会釈して、私はふたりの幼い息子を呼んだ。
 芝居をしている。幸福な母親を演じている私。
 夫に愛されていない、私。
 両手につないだ小さなふたつの手のぬくもりを感じながら、私はぼんやりと歩き始めた。


「翔子とはいっぺんも会っていない。会うつもりもない」
「それなら、なぜ…」
 喉がつまってあとが続かなかった。
 8年も前に、一方的に自分をふった恋人のことを、なぜ夫は想うことができるのだろう。
 女の私には理解できない。女は、女とはそういう生き物ではない。
 目の前にいない人を、いつまでも愛せるような。
 男にはそれができるのだ。
「すまない。僕にもどうしようもないんだ」


 買ってきたものを台所のテーブルの上で仕分けしながら、ふつふつと胸の底が熱くなるのを感じた。
 ばかばかしい。
 何が、会うつもりもない、よ。
 会えるはずないくせに。翔子の年賀状は、来たとたんに全部私が隠してしまう。2回も引っ越してるから住所だって変わってる。
 写真は幸せそうにご主人や子どもと笑ってる笑顔だったわよ。
 小じわが増えて、少し太って昔の面影なんかなかったわよ。私がおばさんになったのと同じように彼女だっておばさんになってるのよ。
 あなたは、一番きれいなときの翔子しか覚えていない。昔の彼女を美化してるだけ。
 昔の恋を美化してるだけ。
 なんなら、あなたにあの年賀状の写真を見せてやる。そして自分が恋してると思っていた女性に幻滅すればいい。
 私は買ってきた野菜を乱暴に冷蔵庫に放り込みながら、惨めさにすすり泣いた。
 自分の心の中に、これでもかと湧いてくる醜い思いにすすり泣いた。


 夫は相変わらず、必要なことしか話さなかった。
 日曜の食事の席は、航と雄が大騒ぎで、笑い声が起こって、ふたりが眠るまでそれは続くのに、いったん私たちの寝室に入ると、沈黙が果てしない。
 彼は今日も私に背中を向けて寝ている。かすかに寝息をたてるときも、それでも私のほうに顔を向けない。
 夢の中でさえ私を拒否している。
 そう思うと、大声で笑いたくなった。狂ってしまいたかった。
 離婚する。言い出されるより言い出すほうがいい。
 そんな馬鹿げた自尊心をもてあましながら、眠れない夜があける。


 今から考えれば、そのときの夫は人生の岐路に立っていたのかもしれない。
 比較的自由だった子会社とちがって、大企業の親会社では、一社員は巨大な機械の部品のひとつでしかなかった。
 彼がこっそりベンチャー企業に履歴書を送っていたのを見たのもその頃だった。
 でも、私は彼の辛さをわかってあげられなかった。私と子どもたちのことも考えてよと、相談してもらえなかった悔しさも手伝って彼をなじった。
 なによりも、親戚も知り合いも少ない都会で年子のふたりの息子を育てるのに、私はせいいっぱいだった。
 夫は立ち止まって、自分の人生を見つめていた。自分の未来を、自分の過去を。
 そして、それを分け合うべきパートナーの私には、目の前の事しか見えていなかった。


 電気もつけていない部屋に、夕暮れが濃くたれこめた。
 離婚。
 私の人生にそんなことばが現実のものになるなんて。
 クリスチャンの私に離婚は許されない。許される唯一の理由は、配偶者の姦淫。
 結婚の司式をしてくださった牧師先生は悲しむだろう。同じクリスチャンである両親も。
 ここの教会にももう行けない。教会員のみんなにも顔が合わせられない。
 何よりも神の前で永遠の愛を誓ったのだ。私は神の前にももう出られない。
 離婚したら、私はどこに行くのだろう。実家は弟夫婦が継いでいる。
 航と雄を連れて、どこかのアパートを捜して働くのだろうか。もう何年もお勤めしていない。
 次々と私の頭に、海に浮かぶ泡のようなとめどない考えが去来していた。
 

「きみのことを愛せない」
 夫のことばが耳の中に反響する。
 私は愛されていない。
 妻として、私は死亡宣告を受けた。
 女としてのプライドをずたずたにされた。
 そして何よりも、私は誰にも愛されずにこれからの人生を生きるのだ。
 ソファに坐っているはずの私の体は、まるで床がなくなったかのように感じていた。
 少しでも足を踏み出せば、さかさまに落ちて行く恐怖。
 そこには真っ暗な闇が広がっている。そのあまりの深淵の深さに、足がすくんで歩けない。


「ママ。まっくらだよ」
「あ、そうだね。もうこんな時間か」
 私は電気をつけた。
 無残にも散らかりほうだいのリビングの惨状が映し出される。
 毎日片付けては散らかる。その繰り返し。実りのない義務。
 洗濯物もまだ入れてなかった。ごはんのしたくも。
 まるで奴隷だ。
 愛されていれば何の苦にもならないはずの毎日のお定まりは、今の私には奴隷の仕事のように思える。
「あっ!」
 長男の短い悲鳴が聞こえ、その声色から、何かやらかしたのだと悟った。
 行ってみると案の定、廊下のつきあたりに置いてある観葉植物が倒れて、鉢の土が一面にぶちまけられている。
 かっと頭に血が昇った。
 数日前も、廊下でビニールのボール遊びをしたがる航を叱ったばかりなのだ。
 航も、小さな雄でさえも、叱られるのがわかって青ざめている。
「ばかッッ!」
 私は駆け寄って、航の頭を思い切り叩いた。
「何回も言ったでしょ! ここでボールしちゃいけませんって! なんでママのいうことを聞かないのッ」
 私は何回も何回も、狂ったように航の頭を叩いた。


 だれか止めて。
 自分では止められない。私は悪魔だ。


 弟の雄のわっと泣き出す声が聞こえて、我に返った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 航は身をちぢこめて、自動人形のように繰り返している。
 内側から何かが崩れ、私は廊下にすわりこんだ。
「航。……ごめん」
 自分の真っ赤になった手のひらを見つめて、ついで航の涙がいっぱいたまった大きな目を見上げて、私はつぶやいた。
「こんなママで、ごめん」
 私はふたりの息子を自分の腕の中に力なく抱き寄せた。
「こんなママ、いないほうがいいよね。死んじゃったほうがましだよね」
「ママしんじゃうの?」
 びっくりしたようにたずねる航の声に何度もうなずく。
「いないほうがいいでしょ、ママなんか」
「だめだよ。ママしんじゃったら、レゴであそんでくれないもん。「きかんしゃちゅうちゅう」のごほんも、よんでくれないもん」
 私はそのことばを聞いて、吹きだした。
 また今晩もせがまれて、「ちゅうちゅう」の絵本を寝るまで何回も読まされるのだろうな。
 そう思うと、泣けてきた。
 ふたりのおさな子の身体が、まるで私を慰めるかのようにやわらかくて。
 私はそのとき、頭のどこかで決心していた。
 離婚しよう。航と雄を連れてこの家を出よう。


 台所にいたとき、電話が鳴った。
「麻子。元気? ずいぶん電話かけてこないから」
 ふるさとに住んでいる母の声だった。
「うん、元気」
「どうかしたの?」
 いったんは取りつくろおうとした私のごまかしを、一発で母は見破った。
「なんか変だよ。元気ないよ。彼とケンカした?」
 もう限界だった。
 私は電話口で、声もなく泣き始めた。
「どうしたの? 麻ちゃん」
「貴也さんがね……、あたしのこと愛してないって……」
「え……」
「今でも翔子を忘れられないんだって……。こないだ、そう言われたの」
「……」
「お母さん、あたし、あたし愛されてないの……」
「麻ちゃん!」
 そう私の名を呼んだ母の声は、悲鳴のようだった。
「麻ちゃん。しっかりしなさい。あんた航と雄の母親なのよ」
「うん……、うん……」
「あんたが…しっかりしなきゃ、……誰もあの子たちを守る人はいないんだよ」
「お母さん……」
 電話線をはさんで、私たち親子は号泣した。父がそばで、私に向かって何か言っているのもわかった。
 はじめて私は、声をあげて泣いた。あとからあとからあふれ出る涙が熱かった。
 私のために泣いてくれる人がいた。
 私は誰にも愛されていないんじゃなかった。父も母もこんなにも私を愛してくれているのだ。
「祈っているから。麻ちゃん。ずっと祈っているからね」
 そう何度も何度も念を押すようにして、母の電話は切れた。


 私は聖書を開いた。
 いろいろなところを飛ばし読みしながら、祈りにならない祈りをつぶやき、また読む。
 ふとヨブ記が目にとまった。
 ヨブとは、旧約聖書に登場する農夫だ。
 あまりに清廉潔白で信仰心が篤い人間だったが、あるとき燃える火のような悪魔の試練を受けた。
 財産も家族も、自分の健康さえ失い、最後には慰めてくれる友さえ去ってゆく。
 信じがたい試練の中で、ヨブは神に詰問する。
 延々と神に訴えることばの中で、彼の心の叫びが聞こえてくる。
「神よ。あなたは本当に私を愛していらっしゃるのですか」と。
 そして神はヨブに答える。
「そうだ。私はあなたを愛している」と。
 ヨブ記の一節を、私は多感な中学生のときに記憶していた。
    『かれ我を殺すとも、我かれを待ち望む』
 「かれ」とは神のことだ。ヨブはどんな試練に会っても神への信仰を捨てないと言いたかったのだろう。


 しかし、今の私にこの聖句は、同時にまったく別の意味をもって迫った。
 夫は私を愛していないと言った。私を殺したも同然だった。
 自分を愛さない夫を愛することなどできない。
 相手を一方的に愛する神の愛など、私のうちにはない。
 そう思っていた。
 それでも待ち望めと神は言うのか。
 私の親友を愛している夫。
 私は彼を憎んでいるのだろうか。
 それとも、そんな彼を私はまだ愛しているのだろうか。


 私の提案で、ひさびさに家族でドライブに出かけた。
 まだ寒さの残る夕暮れの海岸は人影もまばらだった。
 波打ち際で貝殻をひろったり、波と鬼ごっこをしている息子たちを見つめながら、私と夫はふたりで砂浜に立っていた。
「今週の終わりに、実家に帰ることにしたから」
 夫は私の決心を察していたのだろう。深くうなずく。
「羽田まで送っていくよ」
「ゴルフがあるくせに」
「キャンセルする」
「キャンセルできるんだ。今まで私がいくら頼んだって、一度だって取りやめてくれたことなかったのに」
 彼は黙りこむ。
「そうだね。最後だもんね。無理するよね」
 ああ、なぜこんな言葉しか出てこないんだろう。
 私はいつもこうやって彼を追い詰めていた。
「しばらくゆっくり考えたいの。あとのことは、少し待ってくれる?」
「……麻子の思うとおりにしたらいいから。離婚届とか、あとお金のことも」
 夫の声は心なしか震えていた。
「うん、わかった」
 私の声も。
 こうして、結婚というものはあっけなく終わっていくのだ。
 あれほど燃え上がった体も、ふたりですごした楽しい時間も、航や雄が生まれたときの親になった感激も。
 すべてが水が流れるように、過去のものになってゆく。


 いやだ。


「あなた」
 私は彼の横顔をじっと見上げた。苦しそうな表情。少し目を合わさなかったあいだに痩せた肩、剃り残しのある顎。
「あなたが私を愛せなくても、私はあなたを愛しているから」
 彼はびっくりしたように、私に振り向いた。
 私は涙が筋になって頬を伝わるのを感じた。
「私、待っているから。航と雄といっしょに待っているから。あなたがほんの少しでも、私を愛したいと思えるようになるまで」


   『かれ我を殺すとも、我かれを待ち望む』


 神さま。これでいいですよね。私はすべてを失って、やっと自分に正直になれた。
 不思議なことに、心がおだやかで自然に微笑があふれた。
「麻子……」
 夫は何かを言おうと口を開いて、そのまま嗚咽を洩らした。彼の目から、涙が落ちた。
「麻子!」
 彼は私に寄りかかるように顎をうずめると、声を殺して泣いた。
 貴也と私はそうして、いつまでも抱き合っていた。


「ママーッ。パパーッ」
 懐かしい呼び声がする。
 砂浜をどこかの子どもが、こちらに向かって駆けて来る。
「あんな可愛いときもあっという間だね」
 私はその子をずっと目で追いかけながら、言った。
「今は食事に行くって聞いても、ついてくるとも言わないな」
「いいわよ。だって今日は結婚記念日だもん。思い出の場所について来られても困る」
 さっきの子どもは、私たちの横をすり抜けて、向こうで手を振っている若い父親と母親のほうに一目散に走っていった。
「航と雄もあと10年もしたら、あんなふうになるのかしら」
「あいつらに、嫁さんの来てがあるとは思えないな」
「だいじょうぶよう。あなたにさえちゃーんと、こんないいお嫁さんが来たんだから。あの子たちも絶対」
 ふふっと笑った私の隣で、20年連れ添った夫は少し照れくさげに頭を掻いた。


 
Copyright (c) 2002 BUTAPENN.

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