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           ジョハリのピアス




 ジングル・ベルのメロディに合わせてボタンを連射すると、勝手にキャンセルがかかってコンボになることがわかった。
 チョー気持ちいい。完勝だ。
 俺はゲーム台にもたれながら、勝利の一服をくゆらせた。
 このところ、吐きそうなくらい街に流れているクリスマスソングに、こんな使い道があるとは知らなかった。
 そうでもなければ、キリスト教徒でもない日本人に、クリスマスなんて何の意味があるんだ? 俺も幼稚園の頃は、日曜学校なんてものに通ったもんだが。
「タカシ」
 入り口あたりから俺の名を呼ぶ声がした。
 美穂だ。2ヶ月前にこのゲーセンで知り合った女。
 高校の制服のスカートから、柔らかそうな白い脚がのぞいている。ひよこみたいな金髪に、いたずらっぽく光るまんまるの眼。
 俺はこいつに、ひそかにマイっている。
「今日もまた学校へ行かなかったの? 親、心配するよ」
「かったりいんだよ。行くの」
 乱暴にタバコの吸殻を靴で踏みにじってみせた。
「それよか、会えてよかった。タカシにプレゼントがあるの」
「プレゼント?」
 美穂は、学校のかばんから小さな包みを取り出した。
 自分でリボンをかけたのだろう、へったくそな結び目だった。
「じゃじゃーん。クリスマスプレゼント」
「クリスマス、まだ一週間も先だろ」
「だって、タカシ気まぐれだし、約束したって会えるとは限らないんだもん。ねえ、早く開けてみて」
「なんだよ……。ピアスじゃねえか」
 包装紙をとりのぞくと、綿にくるまっていたのは、銀色のじゃらじゃらしたピアスだった。どうせニセモノだろうけど、ルビーみたいな赤い小石が、枝分かれした先端のひとつに嵌め込まれている。
「昨夜、原宿の露店で外国人が売ってたの。タカシに似合いそうだったから、衝動買いしちゃった」
「片方だけかよ」
「だって、けっこう高かったんだよ、これ。対になってたんだけど、ひとつしか買えなかった」
 文句を垂れながら、俺はけっこう嬉しかったんだ。
 美穂のやつは、俺の左耳に着いてたのをひとつ外して、替わりにそのピアスをはめてくれた。彼女のひんやり冷たい手が俺の耳に触れただけで、ぞくぞくっとする。
「やっぱり似合うよー。タカシ」
 満足そうに笑う美穂の肩をいきなりつかんで、ぐいと自分のほうに引き寄せた。
「イヴの夜、俺とデートしねえか?」
「え?」
「知り合いのライブハウスで貸切のパーティやるから、来ないかって誘われてる。有名なグループも来るって」
「すごい。行く行く!」
「美穂が行くんなら、申し込んでやるよ」
「うん。嬉しい。いいカッコしてくから、タカシも絶対そのピアスつけてきてね。約束だよ。絶対」
「ああ」
 素直に喜びを表す美穂に、俺は内心ガッツポーズをしていた。
 今度こそ、こいつを俺のモノにしてやる。
 誰が生まれたか知らないが、クリスマスってほんとに便利なお祭りだ。
 くっつきたがる男と女に、絶好のチャンスを与えてくれるんだから。


 ゲーセンを出て美穂と別れたあと、俺は軽い食事をしてから、しばらく街をぶらぶらしていた。ライトアップされた街路樹。赤と緑と金の華やかな装飾のアーチの下を、我が物顔に闊歩する。
「ちょっと。あなた」
 きんきんと割れた女の声が俺を呼び止めた。
 太った中年の女が、ふわふわのセーターを着てボンレスハムみたいな腕に腕章を巻いて、眼鏡越しに俺を見ている。口にだけ愛想よさそうな笑いを貼り付けて。
 補導委員てやつだ。
「昼間もここで見かけたわよ。フリーター? 高校へは行っていないの?」
「うっせえよ。ババア」
 俺はうんざりしながら、そのまま歩き出す。
 いつもなら、ひとことでこんな奴ら振り切れるのに、今日は勝手が違った。
 背中から、小さいがよく通るきんきん声がまだ追いすがってきた。
「なに、あのピンク色の髪の毛。おまけに男のくせに化粧やピアスなんてしちゃって。ああ、いやだ。身震いがする。あんな気持ち悪い格好をいいと思ってるなんて気がしれない。
こんな若者が増えるなんて、日本ももう終わりだわ」
「なんだとぉ」
 振り返り、キッと睨み付けようとした。
 だが、俺の目には、俺の剣幕にぽかんとしたオバサンの顔が映るだけだ。
 唇は全然動いてないのに、声だけがまだ聞こえている。
「ふ、腹話術かよ」
「え?」
 女はますますいぶかしげな表情を深めるだけ。
 俺は唾を吐いて、その場を離れた。
 ふざけんじゃねえ。
 ムカツク。
 どうでもいい奴に言われた悪口に動揺している自分にも、むかつく。
 その気分を引きずったまま、ダチのたむろしているカラオケボックスに行った。そこにいるのは、みな俺と同じような格好をしている連中だ。
 ビールをがぶ飲みして、なんとか気持ちを静めると、
「おい、マイク貸せよ」
と、歌っている奴から無理矢理マイクを取り上げる。
「しかたねえなあ」
 諦めて向こうを向いたそいつの方から、ぼそぼそと小さな声が洩れてきた。
「くっそう。タカシのやつ、いっつもこれだ。何でも自分を中心に回ってると思っていやがる」
 肋骨を震わす嫌な声だった。
「本当はみんなおまえを嫌ってるんだよ。気まぐれで自分勝手なおまえなんか、ダチじゃねえよ。いなくなればみんな喜ぶってもんだ」
「この野郎!」
 俺は、思わずカッとしてそいつに拳を突き出していた。
 狭いカラオケボックスの中は大騒ぎになった。2,3人が俺を羽交い絞めにしようとする。
「よくも言ったな! いい度胸だ。死ぬ覚悟できてるんだろうな」
「な、な、なんだよ! 俺は何も言ってねえじゃん」
「うそつけ。たった今さんざん俺の悪口を言ったくせに」
「落ち着けよ。タカシ。こいつはほんとに何にも言ってねえよ」
 俺は暴れるのをやめた。みんな気味悪そうな顔をして俺を見ている。
 くそ、よってたかって、馬鹿にしやがって。
 俺はその店を飛び出した。
 ちくしょう。
 分かり合えるダチだと思ってたのに。俺のことをそんなふうに思っていたのか。
 まるで指のあいだから砂がこぼれ落ちるように、世界の一角が崩れた気がした。


 さすがにその日は、それ以上遊ぶ気は起きなかった。
 駅から家までの道をふて腐れて歩いていたとき、前方の街灯が作る光の輪の中に、見覚えのある男が現われ、俺を見て立ち止まった。
「やあ。三浦」
 今日はなんて日だ。よりにもよって、俺の高校の担任だった。
「今、きみの家に寄って帰って来たところなんだよ。会えてよかった」
 担任は体育会系で、辺りを全くはばからぬ、でかい声の先公だ。
「今月初めから、まったく登校していないな。クラスのみんなも心配している」
「……」
「せめて終業式には、顔を見せるだけでも来てみないか」
 俺はジャケットの襟に顎をうずめて黙っていた。
 こうしていれば、諦めて行っちまうだろう。教師なんてそんなものだ。
 だが読みははずれた。
 それどころか声の調子ががらりと変わり、ねちねちと容赦ない響きをまとった。
「クラスの奴らが心配してるだって? へっ。せいせいしてるに決まってるだろ。俺だってこいつがいなくて、どれだけ毎日せいせいしてるか。 ただ担任の職務上、しかたなく心配してるふりをしてるだけだ。本当はさっさと退学してくれたほうが助かるんだ」
 体中の皮膚にちりちりと虫がはいまわるようだった。
 納得いかねえ。
 なぜ今日はこんなことばかり言われなきゃならない。一体何が起こってるんだ?
 一連の奇妙な出来事の共通点にようやく気がつき始めた俺は、確かめようと顔を上げ、そして愕然とした。
 担任は相変わらず、野太い声で建前だけの説教をし続けている。それなのに俺を罵倒する声は、それにかぶさるように左の耳のほうから聞こえているのだ。まるでステレオの重低音のように。
 そんなことがあるはずない。
 でも補導委員のときといい、カラオケボックスといい、左の耳からだけ俺の悪口が聞こえていたんだ。
 左耳に美穂からもらったピアスをしたときから。
 ありえない。でも、まさか。
 このピアスには何かの魔法がかかっていて、相手の心の中のホンネを声として聞くことができるんだとしたら。
 ぼんやりと虚空を見つめる俺に、担任は口をつぐんだ。
「どうしたんだ、三浦」
 俺は全身を恐怖にぶるりと震わせ、夜道を駆け出した。


 家に戻ると、おふくろがソファから立ち上がった。
 おずおずと、「ごはんは?」と聞く。
「いらねえ。食ってきた」
「……今、担任の八島先生がお見えになったのよ」
「……」
 無視して階段を昇ろうとする俺の左耳に、またあの声が響いてきた。
「本当に、この子と一緒に暮らすのがこわい。なぜ、こうなってしまったの。夫の一流大卒の学歴に見劣りしないようにと、赤ん坊の頃からしっかり教育してきた。それなのに」
 聞きたくねえ。おふくろのホンネなんて。
 ピアスをむしりとろうとしたが、遅かった。
「どうして、こんな子になってしまったのかしら。どこで育て方を間違えたの。
――こんな子産むんじゃなかった」
 もう限界だった。
 俺は自分の部屋のドアに鍵をかけると、手の届くありったけのものを壁に投げつけて、蹴飛ばして、壊しまくった。


『こんな若者が増えるなんて、日本ももう終わりだわ』
『おまえなんか、ダチじゃねえよ。いなくなればみんな喜ぶってもんだ』
『本当はさっさと退学してくれたほうが助かるんだ』
『こんな子産むんじゃなかった』


 俺はいないほうがいいと、みんなに思われていた。


 めちゃめちゃに壊れた部屋の中で、うずくまった。
 なぜ、美穂はこれを俺にくれたのだろう。
 真実の心の声を聞くことのできるピアス?
 そんなものいらない。
 どいつもこいつも俺のことを嫌ってると思い知るだけだった。
 美穂も。美穂もそうなのか?
 俺のことを本当はうざい奴だと思っていて。勘違いのかっこつけ野郎だと思っていて。それを俺に教えるためにわざと、これをくれたというのか。
 俺は手の中のピアスをじっと見つめた。
 捨ててやる。こんなもの。
 でも。
 もしかして、美穂はそんな魔法のかかったピアスだなんて、全然知らなかったのかもしれない。
 本当に俺に似合うと思って、プレゼントしてくれただけなのかもしれない。
 イヴの夜のデートに絶対着けてきて、と念を押していた美穂。
 もし着けていかなかったら、何と思うだろう。理由を話しても頭がおかしいと思われるだけだ。
 俺はいったいどうすればいいのだろう。
 もう美穂しかいない。あいつにだけは、嫌われたくないんだ。


 一日がかりで、俺は原宿を歩き回った。
 原宿にある、外国人のアクセの露店。
 手がかりはそれだけだった。
 足を棒のようにして捜し続け、夕方近くなって、やっとその店を見つけた。
 露店の後ろに座っていたのは、黒っぽい髪と目をしてひげ面の、30歳くらいの冴えない中東系だった。
「おい、おまえ」
「ハイ。イラッシャイマセ」
「このピアスに見覚えはないか?」
「オオ、ソレハ」
 俺の差し出したピアスを一目見るなり、男は微笑んだ。
「確カニ、ウチノ品物デス。何日カ前ニ売リマシタ」
「これのせいで、俺はひでえ目に会ったんだよ」
 つかみかからんばかりの勢いで、俺はまくしたてた。
「聞きたくもない声がピアスをした左耳から聞こえてくる。はずしているあいだは何も聞こえてこない。認めたくねえが、これは何かの魔法がかかってるとしか思えない。いったい、これは何なんだ? 悪魔が乗り移ってでもいるのか?」
「ヤレヤレ」
 男はため息をついて、「ダカラ、アノオ嬢サンニ、ぺあデ買ウ方ガイイト勧メタンデスケドネ」
 そして、手元の古くて黒いカバンの中から、小さなびろうど張りの箱を取り出してみせた。
「ホラ」
 確かに、中には俺が握っているのと同じデザインのピアスが入っていた。ただ嵌め込まれている石が青い。その隣には、片割れのあったくぼみだけが残っている。
「コノぴあすハ、2ツガソロワナケレバ、不完全ナノデス」
「2つがそろえば、他人の心の声が聞こえなくなるっていうのか?」
「他人ノ心ノ声、ダト思ッタノデスカ?」
 外国人は、オーバーなアクションで肩をすくめた。
「違イマス。コレハ、『じょはりノぴあす』トイウモノデ」
「ジョハリのピアス?」
「赤ノぴあすハ、自分ノ声ガ聞コエテクル、ぴあすナノデス」
「自分の声だって?」
 おうむがえしに叫んだ。
「そんなはずはない。俺は会う奴らごとに散々、悪口を言われたんだぞ」
「ソレハ、他人ノ思ッタコトデハナク、アナタノ『自己像』ガ、他人ノ声トイウ形ヲ取ッテ、聞コエタダケナノデス。多分、アナタノ心ノ奥深クニハ、自分ニ対スル否定的ナ思イガアルタメニ、悪口トシテ聞コエタノデショウ」
「……」
「本当ノ意味デ、他人ガアナタニ持ツ評価ヲ聞ケルノハ、コノ青イぴあすナノデス」
「この青いほうが、本当の、他人の心の声……」
「イカガデスカ? 安クシテオキマスヨ」
 俺は、はっと我に帰って、ぶるぶると首を振った。
「い、いらねえよ。そんなもの。他人の俺に対する評価なんて、金輪際聞きたくもねえ」
「ソウデスカ。キットアナタニハ、必要ナモノダト思ウノデスケドネ」
「え?」
「キットソレヲ着ケルト、アナタノ人生ガ変ワリマス。ダマサレタト思ッテ、買ッテミマセンカ?」
 俺はそいつの瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた。不思議な目だった。昔どこかで見たことのあるような、優しくて懐かしい目だった。
 そして、いつのまにかそいつの言っていることが真実なのだと、納得させられていたのだ。
「いくらだ」
「5千円デス。オ嬢サンニモ、ソノ値段デ売リマシタ」
「た、高ええッ。5百円にまけろ、なっ?」
「ジャア、3千円」
「千円!」
「ワカリマシタ。千円デ売リマショウ」
 ずいぶんあっさりと男は折れた。
「タダ、条件ガアリマス。必ズ2ツソロッテ、耳ニ着ケルコト」
 俺は金を払うと、男の目の前で2つのピアスを嵌めさせられた。赤いのを左耳に、青いのを右耳に。
「ヨクオ似合イデスヨ」
「ひとつだけ教えてくれ。美穂は、これを買った女の子は、このピアスの持つ力のことを知ってたのか?」
「イイエ。何モ質問シナカッタノデ、何モ教エマセンデシタ」
「そうか」
 ひどくほっとした気分だった。
「ソレデハ、サヨウナラ。ぐっどらっく」
 中東から来た男は、別れの握手を求めてきた。その手の平には両方とも、ぽつんと丸い傷跡があった。
 人なつっこい笑顔に見送られて、俺は歩き出した。


 自分のテリトリーに戻ってくると、雑踏の隅に、またあの中年女の補導委員が立っていた。
 毎日ご苦労様なこった。一文の得にもならないのに、何でよそのガキどものことに、こんなに熱心になれるんだろう。
 向こうも俺に気づいたようだった。
「また、あの気持ち悪いピンク頭!」
 きんきんと怒鳴る声が、左耳を伝わって脳内に反響する。
 けれど右の耳からは、ほんのかすかに別の声が聞こえてきた。
 俺はあの外国人のことばを信じて、懸命に右耳を澄ましてみた。
『この男の子はやっぱり、今日も学校へ行っていないのかしら。親御さんはさぞ心配しているだろう。
ほんの小さなすれちがいが、親や学校と大きな溝を生んでしまう。うちの息子のように。
あのときは、お互い本当に辛かった。
なんだかこの子を見ていると、息子のことを思い出してしまう』
 俺は、信号の点滅し始めたスクランブル交差点をダッシュした。
 心臓がばくばく言っていた。
 これが、あのおばさんのホンネ、本当の心の声なのか?
 サンタクロースとトナカイの橇のディスプレイのガラスを背に、しゃがみこんで息を整えていると、
「おい、タカシ」
 聞き覚えのある声。
 カラオケボックスで俺がなぐりかかった奴が、見おろしていた。俺が殴った痕が、まだ頬に青あざとなって残っている。
 あまりの偶然にものも言えない。
 いや、偶然じゃないのかもしれない。
 あの日会って左耳の声を聞いたのと同じ順番で、俺は人々に再会しているのだ。
「てめえなんて、一生許さねえよ。もうダチでもなんでもない」
 左耳から相変わらず聞こえてくるとげとげした声は、さっきに比べてひどく弱々しかった。
 俺は身体の右側をそいつに向けて、耳を傾けた。
『いったい、こいつ何をキレてたんだろう。イヤなことでもあったのかな』
 それは、とまどうような調子で。
『あのときはマジむかついたけど、やっぱりこいつとはダチでいたいんだよな。
もしかして俺が知らないうちに何か悪いことしたのかもしれねえし、思い切ってごめんって謝って、ゲーセン行こうぜって誘ってみようかな』
 俺は勢いよく立ち上がった。
 柄にもなく、感動しちまいそうだったからだ。
「よう、テツヤ」
「あ? ああ」
「こないだはごめんな。謝るのは俺のほうだ」
 そいつは一瞬びっくりしたような表情をしたが、やがてそれは満面の笑顔に変わった。


 担任の八島に出会ったとき、俺はもう驚かなかった。
 ていうか、俺のほうからわざわざ遠回りして、校門の前で待ち伏せてたのだ。
「三浦」
 いつもの馬鹿でかい声で駆け寄ってくると、俺の肩をぽんと叩いた。
「どうした? 俺に何か用があったのか?」
「……」
 俺は爪先で地面を蹴りながら、息を殺していた。
 もう左耳に響く罵り声は、かすかな羽音くらいにしか聞こえなかった。
『こいつもあと一歩を踏み出せないんだろうな。
でも、俺は諦めないぞ。10年の教師体験から言っても、こいつはきっと大丈夫だ。
時間さえたてば、きっと学校に戻ってくる。
必ずそうしてみせる。こいつは俺の生徒なんだから』
「おい、終業式には絶対来いよ」
 先生の野太い声に、俺は下を向きながら、かすかにうなずいていた。


「おかえり、崇史たかし
 家に戻ると、おふくろの引きつったような笑顔が俺を迎えた。
 親父はまた残業か。
「ごはんは……?」
「あ、ああ。食うよ」
 何日かぶりに食卓に座り、台所に立つおふくろの背中をちらちらと見た。
 お椀にごはんと味噌汁がよそわれ、野菜炒めと煮物が並んだ。
 ひとくちずつ噛みながら、俺はひどく恐れていた。
 やっぱり右耳からも以前と同じ言葉が聞こえてきたら?
 左耳が聞いたのは俺自身の声だった。おふくろの声を借りて、俺は自分を罵っていた。
 一流大卒のエリートの親父に、なにかにつけて自分の子ども時代と比較され、引け目を感じていた毎日。髪を染め、乱暴な言動をして怖がられることで、その重圧に勝とうとしていた。
 おふくろも親父も、そんな俺を好きでいるはずがない。俺自身が一番、自分をきらいだったから。
 左耳からは、もう何も聞こえてこなかった。
 俺は目を閉じて、右耳だけに神経を集中させた。
『崇史ったら、こんなに痩せて。ちゃんと食べるものも食べてないのね。毎日毎日、大好きなものを作って待っているのに。何時になってもいつでも暖めなおせるように、ちゃんとラップをかけて置いてあるのに。
いつになったら、わかってくれるんだろう。私とお父さんがずっとあなたを待っていることに。
壊してしまった安土城の模型、お父さんが一晩かかって直したことに、気づいているかしら。
いつか、いつか、あの頃みたいに、3人で旅行ができるといいなあ』
 おふくろの心のつぶやきを聞きながら、俺のできたことは、涙の味しかしないおかずを口いっぱいに頬張ることだけだった。


 クリスマス・イヴ。
 街に行き交う誰もが笑いさざめき、あるいはうわの空でどこかに急いでいる。
 寒さや人ごみの混雑さえ、今日だけは特別な夜の舞台効果だ。
 俺は両耳にジョハリのピアスを着けたまま、美穂との待ち合わせの場所に向かって歩いていた。くじけそうになる気持ちを励ましながら。
 早い夕暮れのセピア色の薄幕の向こうから、賛美歌が流れてきた。
 どこかの教会の聖歌隊が道端でキャロリングをしているらしい。
「今晩教会にいらっしゃいませんか」
 オーバーを羽織った牧師らしい男が、通りすがりの俺に押し付けるように一枚のビラを手渡した。

「クリスマス・イヴ・キャンドルサービス  7時半より
      たったひとりのあなたのために
      『あなたは私の目には、高価で尊い』(聖書)」

 その文字を見たときに、俺の両耳のピアスがじゃらんと踊ったような気がした。
 赤のピアスと青のピアスは、俺の歩調に合わせてジングルベルの鈴のように、交互にちろちろと鳴り始めた。


「こんなにダメな俺なのに」
『あなたは、私の目には高価で尊い』
「出会う人みんなに、俺は悪意を投げつけてきたのに」
『それでも、みんなあなたを待っているよ』


 待ち合わせのゲーセンの扉をくぐると、ピンクの綺麗なドレスを着た美穂が俺を見て飛び上がった。
「タカシ!」
 両手を広げて俺にとびついてきた美穂を受け止めたとき、俺の両方の耳から確かにはっきりと聞こえたのは、共鳴するひとつのことばだった。
「『タカシ。大好きだよ』」





「ジョハリのピアス」のジョハリとは、心理学・教育学用語「ジョハリの窓」から取ったものです(興味のある方は検索してみてください)。
自分を正しく受け止め「アイラブミー」と言える勇気。他人の声を正しく聞き取り「アイラブユー」と言える勇気。 どうぞ今年のクリスマス、愛する人々とその勇気を分かち合うことができますように。



Copyright (c) 2002 BUTAPENN.



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