GET ME OUT OF HERE

ここから出して




 エレベータに乗ったとき初めて、自分がいる場所の不思議さに気がついた。
 ボタンのたぐいが一切ないのだ。音声指示もない。私たちを乗せると、直ちにエレベータは上昇を始め、目的の階にぴたりと停まる。
 もの問いたげな私の視線に気づいたカレブ中尉は、にやりと笑った。
「受付で申請したIDを認識して、勝手に停まってくれる。他の階には行きたくても行けない。究極のセキュリティってわけだ」
 【宇宙局】の全ての施設が、最新鋭の巨大コンピュータシステム【SEDI】によって統括管理されているのだという。
「便利ですね」
「便利なのか不便なのか。女の更衣室を覗きたくても、俺にはドアが開きやがらねえ」
 大口を開けて笑う上官に、当たり障りのない微笑を返しておく。
 私たちの歩みに合わせて、廊下の両側のライトが次々と点灯するさまは、まるで提灯を持って道案内をする女官のようだ。
 等間隔で並んでいる白い扉のひとつが、突然開いた。
「ここが、今日からきみの部屋だよ、ウツミくん」
 中尉は、今までのくつろいだ笑みを消した。瞬時に私も直立不動の姿勢をとる。
「きみは一ヶ月、ここで外界とまったく隔絶された生活に入る。私物の持ち込みは一切禁止。外界からのすべての音声は遮断される。机の上の端末機には五万冊の書籍ファイルが入っているが、それ以外の情報を検索することはできない。音楽および音声の再生は不可」
「はい」
「それ以外の生活については、自由。きみの行動はモニターにて逐一監視されるが、プライバシー保護法の規定に鑑み、画像はコンピュータ処理される。審査の結果、合格点に達すれば、きみはめでたく宇宙への切符を手にする」
「はい」
 カレブ中尉は、嗜虐と憐みの入り混じった穏やかな声で、指示を締めくくった。
「途中棄権も自由だ。その旨をモニターに向かって叫ぶだけで、ただちにテストを中断する。そしてきみは、この【宇宙局】から速やかに蹴り出される」


 宇宙とは、真綿のような無音に包まれた孤独の空間だ。
 宇宙飛行士を志す者は誰でも、この適性テストを受けねばならないと決まっている。外界と完全に隔絶された無音の部屋で、自己を完璧にコントロールできるか否かが、一ヶ月にわたって審査される。
 この適性に欠ける者には、一年もたったひとりで宇宙ステーションの保守任務に就くことなど、到底できないのだ。
 広いとは言えぬ無彩色の室内にあるのは、ベッド。ライティングデスク。奥にシャワーとトイレ。
 私はこの部屋に閉じこもり、一ヶ月のあいだ音のない生活を送る。
 特に決まりはない。好きな時間に起き、好きな時間に就寝し、腹が空いたと感じればクッキングマシンのボタンを押す。
 私たち初年兵にとって、厳しい軍務の合間の休日は、だいたい普通そんなものだった。
 ただひとつ、音がない。テレビを見ることも音楽を聴くことも、友人や家族と通信することも許されていない。
 三日もすると、まいってしまった。覚悟はしていたし、無音状態に自分を置かないようと心掛けて、大声でひとりごとを言ったり、歌ったりもした。
 それでも耐えられない。音がない空間が、息苦しくて怖くてたまらない。
 一週間が経つ頃には、いつ「リタイアさせてください」と自分が叫びだすかと、戦々恐々だった。
 幻聴が聞こえ始めたのも、そのころだ。夢と現のはざまで、母親が幼い私を起こす声や、上官の怒鳴り声、果ては、とうの昔に別れた恋人のささやきまでが耳元で聞こえてくる。
 だから、気づくのが遅れたのだ。コツコツと壁を叩く音に。
 はっきりと認識したのは、八日目の夜。眠っているときだった。勢いよく飛び起きた拍子に、ベッドから転げ落ちそうになった。
 コツ。
 もう少し間をおいて、またコツ。
「誰かいるのか」
 私は、半分うわごとのような声をあげた。たとえ隣室に誰かいるとしても、完全防音の部屋同士で、私の声が聞こえるはずはない。
 おそらく、隣にいるのも私と同じような宇宙飛行士志願者だろう。長期間の孤独に耐えかね、やみくもに壁を叩いて、誰かの応答を待っているのだ。
 私は迷った。こういう行為への加担は、適性テストにおいて減点対象になりはすまいか。
 だが、カレブ中尉の『それ以外の生活については、自由』ということばを思い出した。ひどい錯乱状態に陥り、器物を損壊したり自傷したりするのでなければ、行動に制限はない。つまり、隣室の同輩と壁を叩いてコンタクトを取ることは、禁止行為ではない。
 私は意を決して、壁を叩き返した。
 相手から、コツという応答が返ってきた。
「やった」
 もはや私は、ひとりぼっちではなくなった。
「お隣さん、どうぞよろしく」
 聞こえないとわかっていたが、大声で叫んだ。
 頬の筋肉のあたりに、軽い違和感を感じる。私はどうやら、何日も笑みさえ浮かべていなかったらしい。


 一日か二日ほどの間、私たちはときどき壁を叩いて、相手の存在を確かめ合うことで満足していた。
 だが、すぐに飽きた。もう少し、まともな意志の疎通手段はないものか。
 気まぐれも手伝い、私は相手への応答として、コツコツと二回叩いてみることにした。案の定、相手からはコツコツコツと三回の返信が返ってきた。
 四回。五回。私たちは、とても長い時間をかけて、叩く回数を一回ずつ増やしていった。
 二十六回まで叩いたとき、相手は返答をやめた。
 もうすでに夜が明けかけている。薄明の中で沈黙をじっと耐えているうちに、ふたたび相手はゲームを再開した。
 八回。五回。十二回。十二回。十五回。
 最後の音が消えたとき、私は喜びのあまり拳を高々と振り上げた。
 『H−E−L−L−O』だ。やはり二十六の数字は、アルファベットの二十六文字を表わしていたのだ。
 隣人と私は、ついに会話の手段を得た。
 コツコツと壁を叩く音の回数によって、アルファベットの会話を交わす。
『キミト話セテ、ウレシイ』
『私モダ。ヒトリハ、苦シイ』
『私ハ、十日間ココニイル。キミハ?』
『ヒドク、長イ時間』
 会話が複雑になるにつれて、この方法では、とてつもなく手間がかかることがわかった。ひとつの話題を往復させるだけで、優に一時間は過ぎる。
 『W』や『Y』ともなると、二十回以上壁を叩かねばならない。手の皮膚は真っ赤になってひりひりと痛むし、疲れてくると数え違いも起きて、まったく意味がとれなくなる。
 私は熟考した末、ひとつの名案を思いついた。二種類の音を用いるのだ。
 椅子を慎重に分解して、一本の金属パイプを手に入れた。それで壁を叩くとキンという尖った音になる。その金属音と、手で叩く鈍い音を組み合わせるのだ。
 一回のキン。十七回のコツ。
 二回のキン。一回のコツ。
 三回のキン。二十六回のコツ。
 相手は、しばらく考え込んでいるようだった。どうか気づいてくれ。
 一列目はQ。二列目はA。三列目はZ。それによって私は、キーボードの配列を表わそうとしていた。
 数分して、待ち望んでいたとおりの応答があった。相手もきっと、金属音の出るものを探してきたに違いない。
 私たちふたりは、キーボードの配列を使った会話を再開した。これなら、どんなに多くとも最高十一回叩けばすむ。さらに便利なのは、数字も表わせることだった。
『ドコカラ来タ』
『日本ノ、東京ダ。キミハ』
『かりふぉるにあ』
『ステキナ、トコロダナ』
『キミハ、男、女?』
『当テテミロヨ』
『男ダロウ』
『ヤメテオコウ。コウイウコトハ、想像スル方ガオモシロイ』
『ナルホド。ソレナラ、意地デモ当テテヤル』
『ドウヤッテ?』
『イクツカ質問スル。好キナ本ヲ、教エテクレ。ソレニ、好キナ音楽ハ?』
 【彼】との会話は楽しかった。最低限の睡眠以外、私は食事も含めてすべての時間を、壁越しの会話に充てるようになった。
 これほど他人との会話に熱中する自分が可笑しかった。なぜなら、私は小さい頃から、人間嫌いが高じて宇宙飛行士を目指していたようなところがあるからだ。
 宇宙への夢、軍隊で覚えた卑猥なジョーク。子ども時代のいたずらから失恋話まで、ありとあらゆることを話題にしたが、それでも私は、自分の名前や性別といった肝心の情報をさらけ出すことは最後まで避けていた。
 いずれ外に出たときに再会することになれば、気恥しいことこのうえないし、重要な情報を簡単に漏らす迂闊さが、審査で減点の対象となることも、やはり少しは恐れていたのだ。【彼】のほうも、事情は同じだと思っていた。
 ところが、ある日の何げない質問で、私は大変な事実を知るはめになった。
『宇宙飛行士ニナッタラ、ドコニ志願スル? ヤハリ火星カ』
『違ウ。私ハ――』
 ただでさえ時間がかかる会話なのに、【彼】は相当な時間ためらっていた。
『私ハ候補生デハナイ。囚人ダ』
「え?」
 答えがないのに痺れを切らし、うとうとしていた私は、思わず跳ね起きた。
『ドウイウ意味ダ』
『モウ何年モ、ココニ囚ワレテイル』
「うそだろ……」
 私は茫然と壁ぎわに立ちつくした。もう何年も? 一ヶ月でさえも気が狂いそうになる生活を、もう何年も続けている?
『ナゼダ。キミハイッタイ、何ヲシタ』
『悪イコトハ、何モシテイナイ。助ケテクレ。私ヲ、ココカラ出シテクレ』
 頭の中が恐怖に浸食される。【彼】の言うことを素直に信じるべきか。もしや、孤独に耐えかねて錯乱しているだけではないのか。
 いや、今までの私との会話が成立した過程から考えても、【彼】の理性は正常に働いている。
 では、嘘か。しかし、嘘をつく理由がない。私を作り話でおびえさせようという不毛な意図でもない限り。
 何よりも【彼】は私のかけがえの隣人なのだ。顔も見ず、声も知らないが、この数週のあいだ孤独をともに分け合い、慰め合い、信頼を置いた戦友。
 それでは、【彼】は真実を話しているのか。宇宙飛行士候補生の中に、決して公表されることのない囚人が混じっているとでもいうのか。
 【宇宙局】は何らかの理由で、【彼】の存在を外部から隠匿しているというのか。
 それしかないと、私は結論づけた。
『キミヲ、ドウスレバ助ケラレル?』
『ココカラ出ルトキニ、助ケヲ呼ンデホシイ』
『誰ヲ呼ブ? 心当タリハ? かりふぉるにあニ、家族ハイルノカ』
『家族ハイナイ。心当タリモナイ』
『キミノ名前ハ?』
『スマナイ――言エナイ』
『デハ、ドウスレバイイ』
『アア、オ願イダ。ココカラ出シテ。頼リハ、キミダケナンダ』
『――ワカッタ』
 私は拳に力をこめて、壁を叩き続けた。『キミヲ、助ケル。ドンナコトヲシテデモ、助ケテヤル。キミハ私ノ友ダチダ』


 一ヶ月のテスト期間を終えて外に出た私は、カレブ中尉との面談に臨んだ。
「おめでとう。ウツミくん」
 鬚だらけの顔に笑みを浮かべ、中尉は握手を求めてきた。「適性テストは満点で合格だ。いよいよ念願の宇宙飛行士だな」
「ありがとうございます」
 私は丁重に礼を述べたあと、「実は」と切り出した。
 本当は言うべきかどうか迷っていた。もし【彼】が《宇宙局》にとって隠匿したい囚人であるならば、私は今、自分の未来を葬るための大きな墓穴を掘っていることになる。
 だが私は、カレブ中尉を信ずるに足る人物と判断した。理由はない。ただの直感だった。
「モニターを解析なさったのなら、ご存じでしょう。私が毎日、壁を叩いて隣室の人間と会話をしていたことを」
 中尉は、奇妙な表情を浮かべて「ああ」と答えた。
「テストの終了する三日前に、その隣人は、自分はここに囚われている囚人だと私に打ち明けました。ここから出たい、助けを呼んでほしいと」
 カレブ中尉はソファから立ち上がり、背を向けて長いため息をついた。
「そんなことは、ありえない」
「事実です。確かに壁越しに、そう伝えてきたのです」
「では、こちらへ来たまえ」
 中尉は、私を別室へと導いた。
 そこは、モニタールームだった。数人の管理官が、いくつもの部屋を映し出したモニターを注視している。
「あれが、きみのいた432号室だ」
 彼はモニターのひとつを指差した。なつかしい部屋は、私がテストを終えたあとは無人になっている。
「はい」
「その西隣は、431号室だ。見てみろ。誰もいない」
「え?」
「時間を戻そう」
 コンソールパネルを操作すると、431号室のモニター画面の表示時刻が、高速で巻き戻り始めた。
「これが、きみが入室した初日だ。どうだ。一ヶ月きみの隣には、誰も入所していなかった」
「そんな――」
「それが、ここの規定なんだよ。隣同士にテスト生を配置することはありえない。きみは無人の部屋と会話していたことになる」
 わけがわからなかった。
 それでは、私と会話を交わしたのは――いったい誰だったというのか?


「ウツミ少尉、お疲れさまです」
 シップから降りると、整備兵が敬礼して出迎えた。「そして、お帰りなさい。半年ぶりの地球へ!」
 私は敬礼を返して、タラップから地上に降り立った。思い切り地球の空気を吸い込み、鼻腔をくすぐる細かい埃や、草木の香りを感じ取る。
 宇宙を飛ぶようになって八年が過ぎたが、地球帰還のたびに新米飛行士のように感動している。ものの二週間もすれば、また宇宙へ飛び出したくてたまらなくなるにせよ。
 クリーンルームと簡単な健康チェックを通って、火星管理局に向かおうとしたとき、カウンターにいた女性軍曹に呼び止められた。
「カリフォルニアの【人工知能開発局】から、ウツミ少尉宛てに荷物が届いております」
「ありがとう」
 口元に、抑えようのない笑みが浮かぶ。とうとう、あれが完成したのだ。
 行き先を変更して、【宇宙局】本部のあるビルディングに向かう。八年前、十八歳の私はここの一室で一ヶ月、外界から隔絶された生活を送ったのだ。
 入口の受付で認証をすませ、中に入る。エレベータは自動的に私を地下に導いた。
 招じ入れられた部屋は、地下の二階層をぶちぬいた巨大なドームだった。立ち止まり、そびえたつ機械を見上げた。
「やあ、久しぶりだね。セディ」
『おかえり。五か月と十九日ぶりだよ』
 【宇宙局】の巨大コンピュータシステム、【SEDI】。
 私は長い時間をかけて調査し、ついに真実を突き止めた。あの一ヶ月間、私の部屋の壁を叩いていたのは、このコンピュータだったのだ。壁の中に仕込まれた振動式音響装置が、人間の拳が叩くのと同じコツコツという音を可能にしていた。
 そもそも、宇宙飛行士候補生のための適性テストは、【SEDI】による音の働きかけを、はじめからプログラムのひとつとして組み入れていた。ストレス対処能力とコミュニケーション能力を測る目的のためだという。
 ある者は混乱のため全く気づかず、ある者は簡単なレベルの意志の疎通にまでは到達した。
 だが、友人同士が交わすような濃密な会話を交わしたのは、私が初めてだったらしい。
 一ヶ月ごとにやってきては去っていく宇宙飛行士の卵たち。【SEDI】は彼らを観察しているうちに、自分だけが取り残されているような意識を持ち始めた。自分だけが『囚われている』と感じていたのだ。
『サビシイ』
 巨大コンピュータは、いつのまにか意志と感情を持つ存在となっていた。私との会話が引き金となって、【SEDI】の自意識は明確な形を取り、爆発的に成長して、ひとつの強い願望を作り上げた。
『ココカラ、出シテホシイ』と。
 【宇宙局】のシステム担当者たちは、さぞ驚愕しながら、私と【彼】の会話を見つめていたことだろう――機械に自我が芽生えた、奇跡の瞬間を。
「頼んでいたものが、できてきたよ」
 私は、【SEDI】の前で大きな荷物を振ってみせた。「八年間、よく辛抱したね」
『うれしい。ウツミ、ありがとう』
「だって、約束したから。必ずここから出してあげるって」


 二か月後、私はふたたび火星方面への乗務に就くことになった。
 小脇にしっかりと、丸いサッカーボール状のものを抱えている。
 八年間の技術革新は、あの巨大コンピュータの心臓部――【SEDI】の自我にあたる部分――を直径二百六十ミリの球に収めることを可能にした。そして長い交渉のすえ、ついに【宇宙局】は《SEDI》の船出を許可した。【彼】の夢が実現したのだ。
「さあ、今からいっしょに火星に行くんだ、セディ」
『ああ、わくわくする。この日をどんなに待っていたか』
「私もだよ」
 シップへのタラップを昇るとき、セディは自らの動力を使って、ふわりと浮いた。
『ウツミ。八年間ずっと訊こうと思ってたことがあるんだけど』
「なに?」
 ボールの直径部分のライトがいたずらっぽく明滅するとともに、コツコツという壁を叩く音が聞こえてきた。
『ウツミって、本当は男? それとも女?』






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 「オンライン文化祭−2010―」への参加作品です。

「ギャラクシー・オデュッセイ8」にウツミとセディが登場しています。