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       見慣れたカップ


 かちゃかちゃと陶器を重ねる音で、ソファの背にもたれていた私は、厚ぼったい瞼を開いた。
 少し飲みすぎたわ。
 奥田久仁彦の盛大な受賞記念パーティのあと、主だった関係者は彼の自宅に場所を移して、深夜まで騒いでいたのだ。しかし、それももうお開きらしい。ふたり去り、三人去り、とうとう十五畳ほどの広さのダイニングルームに残っているのは、私だけになってしまった。
 テーブルの上のグラスやオードブルの皿をトレイに載せて片付けているのは、奥田の妻の冴香だった。レースのエプロン姿で、くせのない長い髪をひまわりの花の髪留めで押さえた彼女は、奥田より10歳年下。彼がまだ作家と大学講師の二足のわらじを履いていた7年前、勤め先の学生だった彼女と結ばれたというのは、出版界では有名な話である。
 彼は当時結婚していた。その妻と離婚してまで彼女を選んだのだから、大恋愛と語り継がれるにふさわしい。
 私は少しふらつきながら立ち上がり、スーツのスカートによれがないか確かめると、冴香の元に近づいた。
「手伝うわ」
「あ、いいえ。加納さん、どうぞお休みになっていてください」
「いいの、勝手知ったる他人の家よ」
 私は手早く、皿を重ね始める。
「あら」
 ふと手を止めて、ミントンの小花模様のティーカップをひとつ取り上げた。あまりにも大勢の来客で、やむを得ず食器棚の奥にしまってあったセットを出してきたのだろう。
「これ、まだ捨てずに置いてあったのね」
 冴香の肩がぴくんと震えるのが見えた。
 ソファもカーテンもテーブルもカーペットも、目に見える限りのすべてのものは替わっているのに、こんなところに懐かしいものを見つけてしまう。


 7年前に奥田が別れた妻。それが私だった。


 ―― 彼女のことは僕に責任がある。責任を取りたいんだ。
 ―― それじゃあ、私は? あなたの妻である私には、責任を取らなくていいっていうの?
 ―― きみには悪いと思っている。
 ―― 卑怯よ。おまえなんか、もう愛してない。彼女しか愛してないんだって、どうしてそう言わないの?
 私がここの玄関のドアを閉める最後の瞬間まで、とうとう彼はその残酷な優しさを貫き通した。
 私たちには子どもがいない。彼の思い出の詰まっているこの家にひとりで暮らすことは耐え切れなかった。私が出て行き、冴香がこの家に迎え入れられることが弁護士を通じて取り決められた。
 そして、私は慰謝料代わりのマンションで、たったひとつのティーカップを前に毎晩泣いた。
 私が磨きぬいたあの台所に彼女が立って、彼のために料理を作る。私がせっせと雑草を抜いて手入れした芝生の上に彼女が座って、彼と微笑み合う。
 考えただけで、気が狂いそうだ。それほどに、私はまだ奥田を愛していた。


 離婚して5年後。
 応接室のドアを開けて入ってきた私を見て、奥田は驚愕した表情をあらわにした。
 渡した名刺を手に、私のことを上から下まで見つめた。
「よろしくお願いします、奥田さん。私が今日から「創作推理」編集部に配属された、加納頼子です」
「そんな……。どうして君がここに……」
「さっそくですが、新春号の原稿を見せていただきました」
「いや、いくらなんでも……。君が担当になるのは、まずいだろう」
「トリックは新鮮味がありませんが、切り口がいいと思います。主人公のコンビニ店員が、人々を観察しながら推理に結びつけるという設定もおもしろい。ただ、被害者の弟が来店するのはどうでしょうか。ここで感づいてしまう読者もいるのではないかしら」
「しかし……」
 奥田は、浮かしかけていた腰をふたたび沈めた。
「……ここでの会話が後の重要な伏線になっているんだ」
「弟を登場させなくても、伏線は作れます。たとえば、宅配便の運転手を第4章ではなく、ここで登場させるんです。彼ならば職業柄、路上駐車にはすぐ気づくはずです」
 もう彼は私の方は見ていなかった。眼鏡の奥の目を細めながら、テーブルの原稿をひったくるようにして繰り始めた。
 その日から、私は彼の担当編集者となった。


「ここは7年前のままね」
 カーテンの隙間から、灯りの照らし出す夜の庭を見てひそやかに笑った。さすがの冴香も庭の木だけは引っこ抜けなかったと見える。
 あれからの歳月、私は血のにじむような努力をしてきた。
 最初は小さな雑誌出版社でお茶くみ、使い走り。毎日二冊以上の本を読むことを自らに課し、担当した作家の原稿をもらうためなら幾晩でも徹夜した。
 才能なんて努力で奪い取るもの。そして、ついに出版界で腕利きの編集者と一目置かれる地位にまで昇りつめたのだ。
 すべては、奥田久仁彦に近づくために。彼を一流の作家に育て上げるために。
 私と奥田は、寝食を忘れてたくさんの作品を生み出した。私たちは、もはや元夫婦であることを忘れ、戦友であり同志だった。そして、彼は私の思惑通り、本格ミステリー作家として世間に広く認められるようになった。
「頼子」
 奥田はグラスをふたつ手に、まっすぐに私に近づいてきた。冴香は台所にでもいるのか、姿が見えない。
「ありがとう。賞を取れたのは、すべて君のおかげだ」
 彼の金縁の眼鏡の中に、真っ赤なルージュを引き妖艶に微笑む女が写っている。男に熱っぽく見つめられる価値のある女。私はうっとりとその影に見惚れた。
 考えてみれば、私がこの家で暮らしていたとき、奥田の目にこんなふうに私が写ったことは、どれだけあっただろう。
 私は家を守るだけの、つまらない女だった。話題と言えばテレビのことばかり。自分を女として磨くことさえ、忘れていた。
 そう、今の冴香みたいに。
 あのとき、溌剌とした大学生だった冴香はもういない。この家にいるのは、日々の生活に追われた、愛らしいが成長することのない女性。
 奥田久仁彦の真のパートナーは、今は私なのだ。
 私にグラスをあずけると、そのまま彼の指は私の頬をすべった。
「頼子……。僕は」
「そうだ。言い忘れていたことがあるの」
 私はその手を軽く振り払い、ふっと息を漏らした。
「今度私、あなたの担当をはずれることになったわ。来年創刊される女性誌の編集長に引き抜かれたの」
「なんだって?」
「あなたの受賞がいい勲章になった。2年足らずのお付き合いだったけど、楽しかった」
「頼子、そんな……」
「それじゃあ、ね」
 呆然としている彼を残して、私はグラスをサイドテーブルに置くと、入り口に掛けてあったコートを手に取った。
「もうお帰りでいらっしゃるの」
 冴香の声がした。振り返ると、パジャマ姿の幼い息子を抱っこしている。
「ごめんなさい。この子、今頃になって起きてしまって」
 瞳の中に、ちっぽけな歪んだ優越感がきらめいている。わざわざ眠っている子を起こしてまで、妻の切り札を見せびらかしているつもりなのだろうか。
 馬鹿な女。馬鹿で、哀れな女。
「それじゃあ、おやすみなさい」
 コートを羽織り、バッグを手にゆっくりとステップを降りる。
 振り向くと、暖かな光を四角く切り取った玄関には、捨て犬のような目をした奥田と、その横に息子を抱いてぴったり寄り添う冴香がシルエットとなって立っていた。
「ああ、ほんとに飲みすぎたわ」
 つぶやきを追いかけるように、舗道を鳴らすハイヒールの音がうつろに響く。
 そういえば明日はこの地区の燃えないゴミの日。ミントンの小花のカップは明日、惜しげもなく冴香の手によって捨てられてしまうだろう。
 これで終わり。
 あれほど恋焦がれたあの家にも、もう行くことはない。
 私は、住んでいるマンションの鍵を開けた。
 灯りをつけ、寒々とした部屋の真ん中にコートのまま、ぺたりと座った。
 復讐は、終わった。
 私は彼の心を取り戻し、そして今度はこちらからゴミのように捨てたのだ。
 それでも。
 それでも、もし時がもう一度巻き戻せるものなら、私は彼の隣のあの場所に立っていたかった。
 熱い涙が頬を伝う。私はいつまでも独りの部屋で泣き続けた。








写真素材:clef
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