水妖精
〜ウンディーネ〜
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(1)


 そもそもが間違いだったと言うのなら、いつまで戻ればよいのだろう。

 そう、あの日だ。

 私はいつものように、海でたゆたっていた。
 意識をできるだけ薄く広く引き伸ばして、あぶくを突っついて壊して回ったり、クマノミといっしょにイソギンチャクのざわめく揺りかごを出入りしたり、黒々と冷たい海溝の底を覗き見た後は、光のらせん階段を一気にクルクルと昇ったりした。
 遠くインド洋までゆったりと視界を張り巡らし、大きな魚や小さな魚のひれの動きや鱗のきらめきを眺めていた。

 そして私は、エメラルドグリーンの遠浅のラグーンに入り込んだ。
 海の上に張り出した水上コテージから、グラスを片手にひとりの男が出てくるのが見える。
 くせのない黒い髪が風に揺れ、鮮やかな色のアロハシャツと短パンからは、小麦色の手足がすらりと伸びていた。桟橋の上でしゃがんで、足元の海をのぞきこむ。
 その気だるげな眼差しが、真っ直ぐに私を見つめていた。
 いいえ、錯覚に決まっている。だって、私の姿は人間には見えないはずだもの。
 あわててラグーンから意識を引き戻して、広い大海に戻ろうとした。だが釣り上げられ、魚籠に入れられた魚のように、身をひるがえすことができない。
 男は口から小さな息を吐くと、立ち上がった。
「先生」
 女が現れて、彼を呼んだ。赤い火のような髪をした美しい女。男は彼女の肩を抱いて、コテージに入っていった。

 あの日から、私はそのラグーンを離れられなくなってしまった。
 行こうと思えば、世界の果ての海にだって行けたのに、今は私の回りに、見えない網が張り巡らされているようだ。
 深い海底から海上まで自在に動き回ることができた私の目は、ただ一箇所だけしか焦点を定めることができなくなった。
 私は毎日毎夜、あのコテージの回りを泳ぎながら、あの男が出てくるのを待ちわびた。
 彼の声が、そして木の床を歩き回る足音が中から漏れ聞こえてくるだけで、心臓が大きくはねた。
 心臓?
 そう、私はいつのまにか、人間と同じ肉体を持っていたのだ。
 ひれのない二本の手と二本の足、うろこのないなめらかな肌。自分の背中さえ見えない眼と、乾いた空気が呼吸できる鼻。
 服の代わりに、水色の長い髪が裸身を覆っていた。
 コテージから出てきた彼は、私に気づくとすぐに近づいてきて、手を差し伸べた。
「きみは、誰?」
 誰って、わたしは水。
「どこから来たの?」
 わたしは海や川のあるところ、どこにでもいたわ。
「名前は?」
 この質問は、私をしばし悩ませた。
 ひとりひとりに名前があるという考えは、私たちのものではない。イワシはイワシ。種族の名前があれば、そのほかは必要ないからだ。
 だが人間という種族は、名前で互いを呼び合わなければならないものらしい。
 いいえ、わたしには名前はないの。わたしは水。ただそれだけ。
「僕の名は、藍人」
 ラント。
「きみにも名前をつけてあげよう。ウンディーネはどうだ」
 ウンディーネ。わたしはウンディーネ。

 その日から、私は海を泳ぐ自由を失った。
 ラントに名づけられた私は、ラントのものになったから。


***

 人間は、名前のほかにも、たくさんの種族の名を持つものらしい。海なら、イワシはイワシでよいのに。
 たとえば、ラントには、日本人、大学の准教授、海洋生物学者など、数え切れない種族名がある。
「モルディブの千二百の島々は、やがては国土の80パーセントが水没してしまうと言われている」
 彼はここにいる理由を、そう語ってくれた。
「それだけじゃない。エルニーニョによる海水温の上昇のほか、さまざまな要因のために、多くのサンゴが死滅してしまった」
 そうよ。知ってる。このあたりのサンゴは真白な骨のようになって死に絶え、サカナも住めなくなった。人間が海を汚したからだって、みんな言っているわ。
「なんとかして、サンゴ礁の死滅を食い止めたいと僕たちは研究している」
「せんせい」
 甘えた声を出して、赤い髪の女が近づいてきた。ラントが『僕たち』と言った中には、この人も入っているのだろうか。
「服を買ってきました」
「ありがとう、ベルタ。――おいで、ウンディーネ」
 私は彼の差し出したタオルにくるまれてコテージに入ると、肌の色にそっくりな水色のドレスを着せられた。軽く柔らかく、動くたびにサカナのひれのように裾が広がる。
「人間の家がめずらしい?」
 これは何。箱の中で何かが動いてる。
「これはテレビだよ」
 こっちは? チョウチンアンコウのツノみたい。
「人間は電気で部屋を明るくして、本を読むんだよ」
 本。本って何。
「きみたちのことを書いた本もある」
 彼が差し出したものには、足の先がサカナで腰から上は人間の女の絵が描かれていた。
 私は首を振った。こんな奇妙な形の生き物は、海にはいないわ。
「おなかがすいただろう」
 勧められるままにテーブルの前に座り、教えられたとおりに、皿からスプーンでひとくち、スープをすすった。
 あまりにもいろんな味がして、気分が悪くなりそうだ。
 柔らかいと思ったドレスは、だんだんと重く固く体にまとわりついて、乾いた肌がひりひりし始めた。
 苦しい。こんなもの脱ぎたい。サカナが食べたい。海に帰りたい。
「待って」
 ラントは私を、やさしい真黒な瞳で覗きこんだ。「行かないでくれ。きみが必要なんだ」
 私が必要?
「水のあるところに連れて行ってあげよう」
 彼は私を軽々と抱き上げると、大きな細長いバスタブに水を張って、私をそっと服のまま中に入れた。
「気持ちいい?」
 私はうなずくと、水の中に体全体をゆったりと浸しながら、彼を仰ぎ見た。
「驚いたな。上から見ると、まるで水と同化している。碧(みどり)色の目だけが浮かんでいるようだ」
 碧色の目? わたしの目はそんな色なの。
「ああ、とても綺麗だよ」
 綺麗。わたしは綺麗。
 赤い髪の女が来て、彼と腕を組んだ。
「すばらしい発見です、先生。発表したら、世界中の誰もがフルトミ博士の名を記憶するようになりますわ」
「それまで、逃げずにいてくれると良いけれど」
 彼の目はそのとき、暗く深い海溝の底のようになった。「水ほど奔放なものはないからね」
「だいじょうぶ。この子があなたを見つめる表情にお気づきになりません?」
 恋をした女の表情ですわ。
 彼女は私を見下ろして、勝ち誇ったようにほほえんだ。



(2)につづく

「ペンギンフェスタ2012」テキスト部門参加。

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