水妖精
〜ウンディーネ〜
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(3)


 宿直の研究所員は、「水の分子ひとつだって、この水槽から逃げ出せたはずはない」と、懸命に弁解している。
「生命反応は確かにまだ、この中にあるんですよ!」
 その日のうちに、ラントが呼び出され、やってきた。
 彼は水槽を見回し、すぐに、一点に視線を定めた。
「音声データを精査したいので、悪いが、全員出て行ってくれませんか」
 彼はひとり部屋に残ると、私にじっと目を凝らした。
「そこにいるんだろう。ウンディーネ」
 水槽の壁に、彼はぴたりと両手を当てた。
「最初に、ラグーンできみを見つけたときも、そうだった。すぐにわかる。きみが僕を見つめる目は、碧色の宝石がきらめくようだから」
 ラント。
「僕をうらんでいるんだろうな。僕のせいで、きみは大海原を泳ぐ自由を失った。こんなところに閉じ込められ、人間たちにいいように弄ばれている」
 違う、違うの。
 わたし、あなたをうらんでなんかいない。自由なんか欲しくない。
 わたしが欲しいのは、あなたの唇。あなたの手。あなたのそばにいる毎日。
 水槽の中で、私はゆっくりと、ひとりの女の形になった。
「ウンディーネ」
 彼は目を見張った。「なぜ、固化する。せっかく本来の姿に戻っていたのに」
 ラント。わたし、あなたに会いたかった。以前のように「可愛いよ」と言ってほしかったの。
 彼は長い間、唇を噛みしめていた。
「もう一度、液体に戻るんだ。そうすれば、こっそり逃がしてやれる。もとどおり、世界中どこでも好きな海で泳げるようになる」
 あなたもいっしょに行かなきゃ、わたしはここから逃げないわ。
「僕は、行けない」
 ベルタを愛しているの?
「違う。僕が愛しているのは――」
 そのとき、扉が開いて、一群の白衣の人間たちが入ってきた。
 彼らは、【カプセル】と呼ぶ大きな容器を用意していて、大きな網を差し入れて私を無理やり捕獲し、中に閉じ込めてしまった。
 ベルタは彼らの背後に立ち、ぞっとするような笑みを浮かべて、その様子をながめていた。
「フルトミ博士」
 年輩の男が、興奮した口ぶりで彼に近づいた。
「でかしたぞ。今、別室でデータを調べていたら、すごいことがわかった。この未知の生物は、自分の体を固化するとき、周囲の大量の体積の水をも一緒に固化しているんだ。しかも氷点じゃない、常温状態での固化だ」
「なんですって」
「そのメカニズムを解明すれば、海水を自在に固化することも夢じゃない。海水面の上昇を抑えて、陸地を水没から守ることができるようになる。ノーベル賞ものの大発見だよ」
 ラントは反射的に、カプセルに閉じ込められた私を見た。
 その瞬間、彼の目を横切ったのは、打算、保身、貪欲。
 海溝の底よりもなお暗い、ありとあらゆる人間の心の暗さだった。
 ラント、助けて。
「ウンディーネ……」
 部屋から運び出される私を止めようともせずに、彼はただ呆けたような目で見ていた。


 こんな思いをするのなら、名前なんか要らなかった。
 何も知らずに、大海原をどこまでもどこまでも、泳いでいたかった。
 ラント、私を魂など持たない、ただの水に戻して。


 月日が経つあいだに、一度だけラントは、私のもとを訪れた。
「ベルタと結婚したよ」
 私は目を閉じたまま、もう彼のことを見ない。見る必要はない。
「僕に巨額の研究費を出してくれていたのは、ベルタの父親だ。別れられるはずがない」
 耳をふさいで、声も聞かない。聞きたくなんかない。
「ウンディーネ。いつか自由になる日が来る。それまで僕を憎んで憎みぬいて、生きていてくれ」
 彼の目から熱い水滴がしたたり落ちたのがわかった。まるで直接、指で触れたように感じた。
 ああ、あの滴の中を泳ぐことができれば、いいのに。


 何度目かの海水固化実験を、目前に控えていた日のことだった。
 私はおとなしく、実験に協力していた。研究員たちは、私が逆らうとラントが困った立場に追いやられるとさんざん脅したからだ。
 でも、たとえ脅されなかったにせよ、逆らう理由など、私にはなかった。
 研究所全体が騒がしくなり、やがて怒号と悲鳴に包まれたのに気づいた。
 私を閉じ込めていたカプセルのロックをはずしたまま、研究員たちは外に飛び出していった。
 青黒い色のモニター画面には、文字が怒涛のように流れ始める。
 機械の爆発により、テラという単位の大量の猛毒が研究所の実験棟からあふれ、海にまで流れ出しているらしい。『研究所の周囲三十キロから人間は退避せよ』と、コンピュータの音声がひっきりなしに告げていた。
 私は、カプセルの扉をすり抜けるようにして、外に出た。
 ちょうどそのとき、ラントが扉から飛び込んできた。
「ウンディーネ。早く逃げろ」
 でも、海は。海はどうなったの。
「毒がどんどん流れ出している。深く潜り、海流に逆らって泳ぐんだ。できるだけ遠くへ」
 あなたもいっしょに?
「僕は残る」
 彼は、昔のようにやわらかく微笑んだ。「さあ、行って。僕が死ねば、きみは自由だ」
 死ぬ?
「人魚姫の本を読んであげただろう。人魚姫は王子を殺せば、魔法が解けて海に戻れるんだ」
 でも、わたしはあなたを殺したくなんかない!
「僕はきみを騙し、研究のために利用した。僕たち人間はみんなそうやって、自然を食い物にしてきた。資源を乱獲し、海や川に汚水を垂れ流し、大気を汚してきた」
 けたたましい警告音の中、ラントは暴走する機械の塔に向き直った。「行け、ウンディーネ」
 私は答えの代わりに、彼に飛びついて、頬にそっと唇を触れた。
 そして、走り出した。水路を見つけて飛び込み、そこから海へ。
 猛毒があふれ出し、海を黒々と染めている。
 私はその中をすり抜け、できるだけ早く沖に泳いでいった。
 数キロ行ったところで、くるりと振り向く。遠くに、煙を上げている研究所が見えた。
 ラント。愛してる。
 愛してる。愛してる。
 私の歌うような声とともに、回りの海水は、次々と固化し始めた。海水に含まれているホウ素と珪素を集めて、ガラス固化体を作り出し、猛毒を包み込んで、固める。
 猛烈な勢いで流れ出していた毒は、徐々に勢いを弱めた。
 毒が完全に動きを止めたのを見届けたとき、私は力尽きて、海の底に沈んでいった。


***

 白い大地が広がっている。
 その上を、ペンギンの群れがよちよちと歩き、次々と飛び込んでいく。
 私は彼らといっしょに、しばし水中の遊泳を楽しんでから、海面に出て、空を仰ぎながら呼んだ。
 ラント。ラント。
 私はこの言葉が大好きだ。
 こう叫んでいると、海水が少しずつ固化して、南極の氷が溶け出すのを防いでくれる。
 はっきりと覚えていないが、こうすることが私の仕事なのだと知っていた。
 私は水。名前はない。
 南のラグーンのサンゴ礁を、南極や北極の氷を、そしてそこに生きる生き物たちを守ることが、私に与えられた使命だ。
 今までも、これからも、たぶん永久に。


 白い雪の上を、一台のスノーモービルが走ってくるのが見えた。
 ひとりの男が降りてきて、海に近づき、持っていた容器に海水を入れて、透かすようにして見た。
 ふと、彼は視線を動かして、私をまっすぐに見た。
 私の姿は、人の目には見えないはずなのに。
「ウンディーネ」
 彼はゴーグルをはずして微笑みながら、私のほうに近づいてきた。
 黒い髪は真っ白に変わり、あのラグーンで出会ったときの若さはなかった。
「会いたかった」
 ……ラント?
「世界中さがしたよ」
 ラント!
「愛してる。ウンディーネ」
 私は、もう彼を見ていなかった。声も聞いていなかった。
 抱きつき、体を重ね、彼の細胞ひとつひとつがたたえる水の中を貫いて、泳ぎ始めていたのだから。



 
この短編は、「500文字の心臓」に出品した「ぶた仙」名義の超短編の中から、もっともWEB拍手の多かった 「水溶性」を、
山仙とBUTAPENNがそれぞれリライトするという企画です。

→ → 山仙さんの「すいようせい」


「ペンギンフェスタ2012」テキスト部門参加。

Copyright (c) 2012 BUTAPENN.

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