A WARRIOR IN THE MOONLIGHT

月の戦士


 第七辺境部隊の女隊長レウナ・マルキスは、ひとりの奴隷を所有している。
 奴隷ゆえ、剃り上げられて髪はない。羊皮紙を読み上げるために伏せた金色の睫毛だけが、彼が蛮族の出身であることを示している。
「……小麦500コル、大麦1000コル、油200パテ」
 ガタガタと窓枠が風に鳴り、単調な声が途切れた。
「主(あるじ)よ。聞いておられますか」
 レウナは、窓を見ていた。駐屯地の外、夜の中に茫洋と広がる枯れ色の草原のあちこちで、エニシダの木が西からの強風に揺れている。
「冬の蓄えとなる大事な食糧の取引です。もう船は春まで入港しません」
「積荷のことは、すべておまえに任せてあるはずだ」
「……それでよいのですか」
 意味ありげな声音に、レウナは頭をめぐらした。主人と目を合わせぬように躾けられた奴隷は、またすぐに睫毛を伏せる。
「そう言えば、今日も総督どのに、おまえを譲ってくれと懇願された」
 レウナは椅子の腕に片肘をつき、からかうような調子で言った。
「金貨二十枚を払うそうだ。確かに、これほど有能な奴隷は帝国全土を探しても見つかるまい」
「それで、なんとお答えになったのですか」
「もちろん、丁重に断ったさ。あれは私の飼い犬ですから、と」
 表情を崩さぬ奴隷に、レウナは視線を注ぎ続ける。
「不満か」
「いえ」
「私のもとから去らせるわけにはゆかぬだろう。おまえの誓いは、まだ果たされておらぬ」
 若き女主人は出し抜けに立ち上がった。厚い手織りのトーガが衣ずれの音を立て、いつもは固く結い上げられている漆黒の髪は、動きに合わせてゆらりと揺れる。
「ロキ」
 ささやくように名を呼んだ。「今日は寒いな」
 ロキとは、本当の名ではない。背中の焼き印とともに彼女が彼に与えた名。
 奴隷は無言で背を向け、暖炉の火を掻き立てた。両手首をつなぐ鎖が、じゃらじゃらと音を立てる。この鎖は寝るときでさえ、はずされることはない。
 火の粉が舞い上がり、ふたりの目の奥で無数の光跡となった。


 初めて彼に出会ったのは、五年前。
 軍人の家系であるレウナが、父親の跡を継いで第七部隊の隊長となり、辺境警備の任に就いてから、すでに任期の二年が過ぎていた。
 島の森に住む蛮族は、帝国の支配に抗い、たびたび砦に攻撃を仕掛けてきた。夜襲の先頭に立つ族長の息子は、十五歳にも満たなかった。
 帝国最新鋭の弩(いしゆみ)と組織立てた反撃を受け、総崩れになった蛮族たちが血の川に横たわる中、彼だけがひとり最後まで抵抗して、森で生け捕りにされた。
 彼女が駆けつけたとき、少年は荒縄でがんじがらめにされ、それでもなお、たてがみのような髪を振り乱して暴れていた。傍らには、オオカミの死骸が横たわる。
 蛮族は、自分たちをオオカミの子孫だと言う。一人前の戦士と認められると、自分のオオカミを持ち、狩や戦に連れて行く。ともに食べ、ともに眠り、ともに死す。
 部下のひとりが彼の首に剣を突き刺そうとしたとき、レウナは「待て」と叫んだ。
 顔や上半身に、蛮族特有のまがまがしい戦化粧をほどこした白い少年。煌々と森を照らす月の光を浴び、砂色の髪が金を帯びて光って見える。
 美しいと思った。その細くしなやかな体は、人間ではなくオオカミそのものだった。
 ふつふつと湧き出る欲望を抑えることができなかった。この野獣を自分のものにしたい。
 その日から、彼はレウナの奴隷となり、己が名と自由とを失った。
 太い鉄鎖をはめ、髪を刈り、耳たぶに錐で穴を開け、背中に焼きごてを当てる間も、彼はレウナをひたと睨みつけ、蛮族のことばで吼え続けた。
『オマエヲ、イツカ、コロシテヤル』
 数え切れぬ鞭と屈辱を受けた後、見違えるほど従順になった奴隷を、レウナはどこにでも伴った。
 本国に帰還を命ぜられたときも、新たな任地へ向かうときも、ロキは彼女のかたわらに付き従った。戦場ではいつも彼女の斜め後ろを走り、彼女が受けるべき矢を背中に受けた。
 まるで、戦士の隣を駆けるオオカミのように。


「おまえはなぜ、誓いどおりに私を殺さぬ」
 それを聞いたロキの唇が、かすかな笑みを形作った。
「そんな望みは、とうに捨てました」
「私が憎くないのか。おまえの村に火を放ち、畑に塩を撒いたのだぞ」
「はじめから勝ち目のない戦いだったのです。野を駆けることしか知らぬ裸同然の部族が、帝国軍を島から追い払おうなど」
「だが、おまえは――」
 レウナは舌の奥に、奇妙な苦さを覚えた。
 五年の間、彼は軍人の奴隷として、帝国の繁栄を具(つぶさ)に見てきた。
 一分の狂いもなく統率された軍隊。文明が華やかに爛熟する帝都。広い領土の隅々まで整備された道路。身分制度によって徹底的に分業された社会を。
 帝国はあまりに強大だった。
 ロキはもう、飢えたように目をぎらつかせて髪を振り乱す、かつての戦士ではない。毛を刈られ鎖でつながれた、飼い馴らされたオオカミ。
 就寝前の熱い飲み物を主に差し出すと、彼は老いた番犬のように彼女の足元にうずくまった。
「美しいところだったな。おまえの故郷は」
 夢見るようにつぶやき、レウナは枕に背中を預けて目を閉じた。


 第七部隊が、ふたたび辺境の島に派遣されたのは、それから数ヵ月後のこと。
 故郷に帰ったようななつかしさだった。着任後の煩雑な引継ぎがようやく終わったある日、レウナは待ちかねたように砦を飛び出し、ロキを連れて狩りに出かけた。
 草木のみずみずしく萌える季節。河の畔では、シダの葉が雪融け水に浸かり、リンゴの木が甘い香りの花をつけている。
 トネリコの槍を手に、ふたりは夢中になって野山を駆けた。キツネやウサギを何匹も仕留め、満足して砦に帰る気になった頃には、もうあたりは濃い暮色に包まれていた。
 満月が東の空に昇ってくる。
「ここは――」
 深い森に差し掛かると、レウナは馬の手綱を引いた。
 五年前、帝国軍はこの森で蛮族を虐殺し、ロキを捕らえたのだ。朝に通り過ぎたときは気づかなかった。
 魔力に引き寄せられるように彼女は馬を降り、木々の重なりの中に分け入った。奴隷は無言で後に続く。
 森の底は黒い闇に沈んでいた。
 腐った落ち葉に足を取られそうになり、レウナは歩みを止める。梢を吹きわたる風は、まるで野獣の咆哮のようだ。
 いきなり何かが走り、彼女の軍用マントをかすめた。身をかわそうとしたときは遅く、あっというまに地面に組み伏せられていた。
「ロ……キ」
 爛々と燃えるハシバミ色の瞳が、すぐ間近にあった。
 剣を取り反撃しようと試みたとたん、膝がみぞおちを容赦なく蹴り上げ、呼吸を奪う。奴隷の鎖が彼女の手首にからみ、巻きつけられたマントが両腕の縛めとなった。
 軍服の内側をまさぐる指を感じたかと思うと、ガチャリと鎖の鍵がはずれる音がした。
 痛みにかすむ目を上げる。ロキは彼女にまたがったまま、奴隷の衣を脱ぎ捨てているところだった。
 前任地からの長い船旅と行軍の間に、いつのまにか髪は伸び、金色のたてがみとなっていた。彼は両腕を広げ、天に向かって伸ばした体をしなやかに反らせた。
 まるで、遠吠えするオオカミ。月光に縁取られた喉が、歓喜にうち震える。
 拘束を解かれ、レウナはよろよろと立ち上がった。彼は真正面から、じっと彼女を睨みつけた。
「なぜ、俺を逃がす」
「……」
「こうなることは、わかっていたはずだ。故郷の島に足を踏み入れたときこそ、俺は貴様を襲うと。それがわかっていながら、なぜ」
「その姿が見たかったのかもしれぬ」
 レウナは彼を見つめながら、魅入られたように答えた。「この森でおまえが、オオカミに戻る瞬間を」
 ロキは長い間、口をつぐんでいた。
「俺は、部族のもとに帰り、村を建て直す」
 感情を殺した低い声。「そして、この島を必ず帝国の支配から解放する」
「受けて立とう」
「もう昔のようにはいかぬ。俺は五年前、おのれの名を捨て、言葉を捨て、部族の誇りを捨てた。その代わりに、ただひたすら貴様らの言葉を学んだ。帝国軍の戦略や技術を学んだ。物資の輸送経路も、政(まつりごと)の内情も、それゆえの弱点も」
「挑んでくるがよい」
 第七部隊の隊長は、不敵な笑みで答えた。「父の名にかけて我が軍は勝つ。そのときおまえを再び、私の忠実な番犬にしてやろう」
「俺のほうこそ、貴様からすべてのものを奪ってやる」
 彼は次の跳躍のために、身を屈めた。「覚えておけ。俺の本当の名はシグルトという」
 夜の森に風が走った。風はレウナの体を素早く覆い、姿を消した。
 月の光とともに、静寂があたりを満たす。
 レウナは瞳を閉じ、唇に指先をそっと当てた。そこに宿る熱さは、去り際に彼が残していった、形のない焼き印だった。





第2回恋愛ファンタジー小説コンテスト (恋愛ファンタジー小説サーチさま主催)への参加作品です。
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