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The Chronicles of Thitos
ティトス戦記

Chapter 10


 エペ王国を北上するルギドとゼダの旅は幾日も続いた。
 茶色の大地の中から、うっすらと若草の芽吹く柔らかい季節。
 しかしどこにも人影はない。
 あちこちに虐殺が行われ、破壊され尽くした村の跡が点在するのみ。
 それでも中には細々と人間が住み着いている気配のする村もあった。
 多分ほんのわずかな運命のいたずらで、幸運にも逃げ延びた少数の人々がいるのだろう。
 王都にはさらに多くの避難民がいるとは思えたが、どのみち村を再建する気力は残ってはいまい。
 エペは死の国土と化していた。
 ルギドはそんな廃墟をひとつひとつ見て回っては、長い間たたずむ日々を繰り返していた。  さながら自分の犯した罪を目に焼き付けるごとく。
『ルギドサマ……』
 無表情に、ただ心を亡くした巡礼のように黙々と馬を進める主に、ゼダも辛そうに口をつぐんだ。
 ようやくそんな旅も終点に近づき。王都まであと数キロというとき。
 その日彼らが入った村はどこか違っていた。
 荒れ果てたさまは同じだが、遺骸はひとつもなく、焼け残りの板の切れ端を墓標代わりに立てた土まんじゅうが、村の広場跡に整然と並んで築かれ、その前に野の花が供えられている。
『誰か村の生き残りのしたことか……』
 ルギドは墓を見下ろしてつぶやいた、『まだ花は新しい』
 その瞬間、ゼダが歯をむき出して、低く鳴いた。
『ルギドサマ』
『わかっている』
 ゆっくりと振り向くと、人間のことばで呼びかける。
「そこにいる奴、出て来い」
 一呼吸の間を置いて、焼け焦げた木の幹の後ろから小柄な人影がニつ現れた。
 まだ七、八歳の人間の子ども。一人は男で一人は女。
 茶色い髪、青い瞳。まるで双子のようにそっくりな兄と妹だった。
「紅い目の悪魔!」
 兄のほうが憎々しげに叫ぶと、妹も涙で顔をくしゃくしゃにしながら、「紅い目の悪魔!」とこだまを返す。
「この村の子どもか?」
「そうだ! おまえのことは忘れない!」
 兄は拳を握り締め、肩をいからせてことばを吐き出した。
「4ヶ月前、この村を襲った悪魔。村を焼き、俺の父ちゃんを殺した!」
「父ちゃんたちを返せ! おうちを返せ!」
「それでも飽き足りなくて、今度は村の人全部を皆殺しにした。――残っていた人全部、俺の母ちゃんも、おなかにいた俺たちの弟か妹も……。腹を裂いて食べちまった! 俺たちの友だちも、みんな!」
『ソレハ、違イマス! ハガシムノヤッタコト! ルギドサマハ、ソンナコトハ、ナサイマセン!』
 ルギドは手の甲でゼダの口を押さえた。
『黙っていろ。あいつらに魔族のことばは通じん』
『ワ、ワタシニモ、人間ノコトバガ、話セレバ……』
「肩に魔物なんか止まらせて、また私たちの村を襲うのーっ?」
 少女は、嗚咽を漏らしながら、おびえて足をすくませながら、それでも憎悪を涙に満ちた目いっぱいにたたえる。
「俺たち、毎日神様に、おまえを殺して仇をとらせてくださいって祈ってたんだ。神様が願いを聞いてくださったんだ。覚悟しろ!」
 今にも飛びかからんばかりに身構えた兄妹は、ルギドが一歩近づくと途端、びくっと後退りした。
「村の生き残りはもうほかにいないのか」
「お、俺たちだけだ……」
「どうやって生き残った?」
「そ、それは……」
 少年は口ごもった。「死んだ人の体の下に……隠れた」
「この墓はおまえたちが作ったんだな」
「……」
「食べ物はどうしている? どこに寝泊りしている?」
「なんで、そんなことを聞く!」
 孤児の兄は、緊張の糸が急に切れたかのように、泣きわめいた。
 なぜ、この魔物はこんな人間のことばを話すのだ?
 村人たちが死に絶えてから1月。彼らのそばを通り過ぎた人間の避難民たちは数知れなかったのに、誰もこの兄妹に、いたわりのことばをかけてくれた者はいなかった。
 それなのに、なぜ彼らが仇と狙い定めていた紅い目の魔族がなぜ。
 ぞっとするほど美しい顔に悲しみの色さえきらめかせて。
「人間を皆殺しにする悪魔のくせに、なんでそんなことを聞く?」
「そうだな……」
 長身の悪魔はかすかに微笑んだ。
「確かに俺はおまえたちの父親を殺した。村を焼いた。母親の死にも責任がある」
「……」
「おまえたちは何を望んでいる?」
「決まってるだろ! おまえを殺してやる。父ちゃんと母ちゃんの仇をとるんだ!」
「俺を殺せば、満足なのか?」
「そんなはずない! 殺したって、100回殺したって満足なんかするものか! だけど、きっと仇をとれば、父ちゃんたちも天国で喜んでくれる。おまえを切り裂いてずたずたにすれば、村の人全部が喜んでくれる」
「そうか」 ルギドは吐息をついた。
「では、殺すがいい」
『ルギドサマ!』
「嘘だ…」
 少年は警戒の色を露にした。
「そんなこと言って油断させて、逆に襲いかかるつもりだ」
「まさか」
 低く笑い声が洩れた。
「殺すつもりなら、おまえらなど一瞬で殺している」
「……」
「では、これならいいだろう」
 ルギドは大剣を鞘ごと外し、地面に放り投げて、崩れかけた石垣に腰かけた。
『ルギドサマ』
 ゼダはわめいた。
『オ戯レハ止メテクダサイ! ヤツラニ、ミスミスヤラレルト……』
 と言い終わらぬうちに、主の叱責の眼差しを受け、耳を垂れた。
「俺たちには、おまえを殺す武器がない……」
「今そこに捨てた、俺の剣を使えばいい」
 兄妹は剣を見、もう一度ルギドを見て、怖気づいたような目をした。
「どうした? 俺の気が変わらないうちに早くしてくれ。心臓を刺してもだめだ。一度生き返ってしまったからな。やるなら、ここを狙え」
 眉間を指差す。
 少年は気を取り直してきっとにらみつけながら、地面にしゃがみこんで大剣の柄を両手でしっかりと掴んだ。
「お、お兄ちゃん……」
「リグ……、て、手伝ってくれ」
 兄妹二人がかりで何とか柄は持ち上がるが、切先はびくともしない。有に子どもひとり分の重さがある大剣である。
 彼らは自分たちの非力さと、それ以上に仇を目の前にして、命を奪うことの恐怖にすくむ己の心に気づき、ぼろぼろと涙をこぼした。
「そんなザマで、本当に仇を取れると思っていたのか」
 ルギドは氷の笑みをうかべた。
「鼠一匹殺せんくせに」
「ちくしょう!」 少年は地面を叩いた。
「もう少し強ければ……、もう少し大きければ! おまえなんかっ」
「では強くなれ」
 そのことばの終わらぬうちに、大剣は彼らの手からもぎとられ、魔族の背中に戻っていた。
「自分の剣を手に入れて、使いこなせるようになれ。そうすればいつでも殺されてやろう」
 そう言い残すと、それっきり幼い兄妹には目もくれず、村の入り口に向かう。
『ルギドサマ』
 彼は腕を高く上げて、舞い下りて来た不服顔の使い魔を止まらせた。
『何故、アノヨウナ戯言ヲ……』
『さあ。俺にもわからん』
 馬の鞍に手をかけながら、ルギドは後ろを振り向いた。
『ただ、あの目が懐かしいと感じた。遠い昔、どこかで俺はあんな目をしていた……』


 エペ王都。
 午後の光が、都を取り囲む城壁に刻まれた戦の爪痕をくっきりと照らし出している。
『ハガシムハ、二十日間ココヲ攻メテ、ツイニ陥トセナカッタタメ、他ノ魔将軍ノ笑イモノニ、ナッタノデス』
『当たり前だ。海からいくらでも物資が入ってくるのに、篭城を決めこまれたら陥とせるわけがない。俺ならまず海から封鎖する』
 都の大門では、王の役人の検閲が行われていた。
 フードを目深にかぶり、麻の袋を肩に担ぎ大剣を背負った長躯の男は、役人に見咎められると、そっと二百サリング金貨を握らせて放免された。
『フーッ』
 街に入ったところで、ゼダは袋の口から顔を出した。
『賑ヤカナ街デスネ』
『西のエクセラと並び称せられる商業の都だ。今は村からの避難民がいてなおのこと、ごったがえしているのだろう』
 ルギドたちは、屋台の立ち並ぶ細い通りを歩いた。
 食べ物がこぼれ落ちるほどに積まれた、豊かな店先の光景から目を転じると、やせこけて目だけが大きい、ほとんど半裸の老人や子どもがじっと通りの隅にうずくまっている。
 物乞いにまとわりつく者もいる。
 村を焼かれ、魔王軍の虐殺を逃れてきた人々だ。
『周リノ村ガ、アンナ有様ナノニ、ココハ別世界ノヨウデスネエ……』
 背中の袋からほんの少しだけ突き出したゼダの長い耳は、まるで上等の灰色のビロード布のようだ。
『エクセラからの船荷のお蔭だろう。それにしても高いな。相場の3倍から5倍だ』
 ルギドは顔をしかめた。
『周辺の村から肉も麦も入らないから、値が吊り上がるのは当然か……』
『――肉ヲ買ウノハ、無理ミタイデスネ』
『俺の手持ちはほとんど、憲兵に使ってしまったからな』
 街を一回りしたあと、彼らは古い崩れかけた石造りの建物を見つけ、壁の日陰に陣取った。
『アシュレイたちと合流するまで、このへんで待つしかないな』
 ルギドが剣を抱えるようにして片膝を立てて座ると、ゼダも袋から抜け出し、主のマントにもぐりこんだ。
『ルギドサマハ、何故コノ都ヲ、攻メ落トサナカッタノデスカ? ルギドサマナラ、ハガシムト違ッテ、1日デ陥トセタデショウニ』
『俺は、この都の金の力を利用できないかと考えていた』
『金ノチカラ?』
『人間にとって、金は不思議なものだ。力では決して手に入らぬ物も金なら手に入る。力では決して屈しない者も、金ならなびく』
『ハア』
『力だけで人間を支配するのは賢いやり方ではないかもしれん。圧倒的に魔族の数が少ない現状では、なおさらだ』
『ソウデスカ……』
『あと1歩で王や豪商との取引に漕ぎ付けようとしたとき、アシュレイたちの抵抗でサルデスに呼び戻されてしまったがな』
『取引……デスカ』
 ゼダは不審そうにルギドの顔を見上げた。
『取引トハ、対等ナ者ノ、スルコトデス。ルギドサマハ、人間ト魔族ガ、対等ニナル世ノ中ガ来ルト、オ考エナノデスカ?』
『さあな……』


 アシュレイたちは予定の日を過ぎても姿を見せず、ルギドは同じ壁に凭れながら夜を明かし、次の日もじっとそこから往来を見つめて過ごした。
『退屈デスネエ……』
『……ああ』
『オ腹、空キマシタネエ』
『……』
『アソコヲ歩イテイル人間、ウマソウデスネエ』
『……』
『コレダケ、人間ガイルノデスカラ、ヒトリクライ食ベチャッテモ、ワカリマセンヨ』
『ゼダ、おまえは……』
 ルギドはゼダの耳を思いっきり引っ張った。
『さっきから聞いてれば、食い物の話ばかり。余計に腹が減る!』
『イテテ、イタイ、ルギドサマ』
 ゼダは尻尾をバタバタ打ち鳴らして抗議した。
『オ腹ガ空クト、怒リッポクナラレルンダカラ』
『うるさいっ。黙って隠れてろ』
『本当ハ、トテモ人間ガ、食ベタイノデショウ? ドウシテ、ソンナニ我慢ナサルノデス?』
『……約束したからだ』
『オ内儀サマト、デスカ?』
 ゼダは大きな瞳をくるりと一回転させた。
『ルギドサマモ、「尻ニ敷カレル」、タイプデスネエ』
『……どこでそんな下世話な人間のことばを覚えた?』
『ジョカル殿デス。ホカニモ「エッチ」ナ言葉ヲ、イッパイ教ワリマシタヨ』
『ジョカルの奴……』
『アッ!』
『何だ?』
『狩ニ行キマショウ。町ノ外ニ出レバ、キット野ノ獣ガ、イッパイイマスヨ』
『だめだ。一旦城壁から外に出たら、また入るときに検問を受ける。もう握らせる金は残っていないぞ』
『ソウデシタネ……』
 しょんぼりと耳を垂れたゼダは、また何事か思いついた。
『アッ!』
『今度は何だ』
『店ノ肉ヲ、カッパライマショウ! ワタクシガ、囮ニナッテ、引キツケマスカラ。ルギトサマナラ、絶対捕マリッコ、アリマセン』
 げんなりしたように、ルギドは膝に顔を埋めた。
『ゼダ。おまえも俺も魔族ということがばれてみろ。街中が大騒ぎになって、ここにはいられなくなる』
『アア、……ソウデシタ』
 ゼダは可哀想なくらい、気落ちして身を縮こめた。
『人間ノ国デ、生キテユクトイウコトハ、大変ナコトナノデスネ』
 彼はしかし、ものの1分も経たぬうちに、また騒ぎ始めた。『アッ! アアッ!』
『ゼダ、後生だからもう静かにしてくれ』
『チ、違イマス、ルギドサマ。……ア、アノ無礼者ノフタリデス。ルギドサマヲ殺スト言ッテイタ、アノ兄妹デス!』
 あわてて跳ね起きると、広場の向こうをみすぼらしい一団が通りすぎるのが見えた。
 鞭を持つ派手な身なりの男がにらみをきかせる中、手足に枷をはめた、やせて襤褸をまとった10人ほどの女子どもが、最後尾の太った男に小突かれながら、進んで行く。
 その一番後ろを歩かされているのが、昨日村跡で出会った二人の幼い孤児たちだった。
『奴隷商人……』
 ルギドは牙をきしませた。
『あいつら捕まったのか……』
『ドレイショウニン?』
『人間を売り買いして儲ける人間のことだ。やつらに捕まった者は、貴族や豪商に買われて死ぬまで働かされるか、妓館に売られるか、他国で奴隷兵となって最前線に出されるかだ』
『何デスッテ? 自分ト同ジ人間ヲ、売ルノデスカ?』
 ゼダは憤慨して、叫んだ。
『何テ野蛮ナンデショウ、人間ハ! 魔族ナラ、絶対ニ仲間ヲ売ッタリスルコトナド、アリマセン。ダカラ人間ハ、劣等種ダト言ウノデス』
『この国も建前は、奴隷売買を禁じている。だが実際は王も役人も見て見ぬふりだからな』
『ソウ言エバ、衛兵ガイルノニ、何モ言イマセンネ』
 たいそう憤慨していたゼダは、やがて自分が変だということに気づいた。
『ルギドサマヲ殺ソウトシタ、人間ナンカ、同情スルコトハ、アリマセンネ……』
 ルギドはため息をつくと、元通り身体を日陰に沈めた。
『奴隷に売られれば、少なくとも飢え死にすることはない。あいつらにはその方がよかったかもしれんな』
『ソ、ソンナモノナノデスカ?』
『6歳やそこらの餓鬼どもが、親もなくどうやって生きていける? この混乱では皆、自分が生きるのに必死だ。遅かれ早かれ、野垂れ死んでいたはずだ』
 と、ことばを吐き捨て、再び目を閉じた。
 使い魔は、所在なげに主の足元に身体を摺り寄せ、そっと下からその顔を伺う。
 眠ろうとして眠れず薄く開けた紅い目に、じれたような光があった。
『ルギドサマ……』
『ええい、くそっ!』
 小さく呪いを呟くと、ルギドは立ち上がった。
『あいつらを助けに行くぞ。手伝え、ゼダ!』


 夜の闇が裏通りを、深い海の底と同じ死の静けさに満たしている。
 時折遠くから、酔いどれの歌や娼婦の嬌声が波音のように寄せては返す。
 ルギドはとある一軒の家の戸口の前に、抜き身の剣を持ち立っていた。
『ルギドサマ、ココデス……』
 肩に止まらせた小さな魔族が、翼を呼吸に合わせ開いたり閉じたりしている。
 一瞬の閃光が走るや扉は真っ二つに折れて、蝶番だけを残して地に横たわった。
 狭い階段が暗がりの上まで伸びている。
 人相の悪い男たちが何やらわめきながら駆け下りてきたが、マントからすっと出した片手で首をへし折り、体をひねりざま階段から突き落として進む。
 突き当たりの扉の中から明るい光が漏れ、陽気な酒宴の騒ぎが聞こえてきた。
 扉を開け放つ。
 ぴたりと楽の音がやみ、宝石で飾り立てた太った奴隷商人たちや、しどけないヴェール姿の女たちが、一様に声を失った。
 扉の鴨居よりも背の高い魔族の男。
 たくさんの燭台のともしびに照らし出されたその瞳は、地獄の業火よりなお赤く、獲物を求めて見開かれている。
 血に濡れた赤黒く光る唇からは白く鋭い牙が、飢えて噛み千切るものを探している。
 銀色の長い髪は、さながら生けるものを絞め殺すため。
 長く鋭い爪は一掴みで子供の頭を引き裂いてきたものに違いない。
 その肩には、黒い翼を持つ使い魔が、嘲り笑うようにぎゃあと醜い声で鳴く。
「ひ、ひゃあーっ」
 女たちはその場で失神してばたばた倒れ、奴隷商人たちは、豪華なクッションの散らばる床をはいずり回る。
 魔族はそのうちの一人の襟首をつかむと、神に見放された者の持つ呪われたうめきを上げた。
「俺は腹が減っている……。子どもを出せ。はらわたを食わせろ」
「か、神さまーっ!」
 捕まった男はそう叫ぶなり、口から泡を吹いてひっくり返り、もうひとりも逃げ出そうとして、したたか壁に頭を打ちつけ、意識を手放した。
 広間には、ゆらめく蝋燭に映し出される魔族の巨大な影以外、動くものはなくなった。
『ルギドサマ、アソコデス』
 ゼダが指し示すまでもなく、ルギドは広間の奥のカーテンに隠された鉄格子に向かい歩き出していた。
 檻の中には、昼間街を引き立てられていた女子どもが、隅に体を押し付けるように座っていた。
 閂に右手を当てた。ものの数秒で赤く溶け始めた鉄を、素手で引きちぎる。
「出ろ」
 格子扉を開け、かがんで中を覗き込んだ。三十人ほどの奴隷たちは声もなく、彼を見つめるだけで怯えて身動きもできない。
「チッ、固まっていやがる」
 彼は舌打ちした。
 そのとき檻の隅にいる、あの兄妹と視線が合った。
「あ、紅い目の悪魔……」
 少年は小さくつぶやくと、狭い檻の中、妹をかばいながら身構えようとした。
「おまえら、ここから出ろ。このまま奴隷に売られたいのか!」
 孤児たちに向かって叫びながら、彼は手近にいた若い女の腕をつかんで、外に引っぱり出そうとした。
「キャーッ、助けてーっ、離して、お願い、食べないでぇ!」
「な、何?」
 その女の悲鳴が合図であったかのように、檻の中すべての人はパニックに陥った。
『ルギドサマ』
 扉のそばで、外の様子をうかがっていたゼダが叫んだ。
『誰カ、来マシタ』
「開けろ! 憲兵隊だ」
 広間の扉をドンドンと叩く音。悲鳴を聞きつけたか、入り口の壊れた扉で異変に気づいたか。
 奴らにあとを委ねたほうが手っ取り早いかと、一瞬迷ったルギドは、しかし次のことばを聞いてハッとした。
「シグル殿。何かあったのか。我々だ、開けてくれ」
 彼は、檻の中の人間に向き直った。
「あの役人はこいつらとグルだ。おまえらを助けてなどくれんぞ。売られたくなかったら、すぐ逃げろ!」
 しかし彼が必死で訴えるほど、人間たちは泣き叫んだ。
「だめか」
 とっさに決心して、ルギドは奥からあの兄妹だけを両手で引きずり出した。
『ゼダ! そこの天窓をぶち破れ!』
『ハイッ』
 抵抗する子どもたちに当て身をくらわし、両腕に抱え込むと、ゼダが体当たりして破った天窓に軽々と飛び乗る。
 憲兵隊が部屋に押し入ったとき、人々は安堵のあまり抱き合って泣いていた。
 あとで彼らはこう言って、辛い境遇を慰め合ったという。
「あの魔物にさらわれて食われるよりは、こうやって奴隷に売られるほうがよっぽどましだったよ」
 その夜エペの街で夜空を見上げた者は、満月をかすめるようにして屋根から屋根に飛び移る、小脇に子どもを抱えた悪鬼と、その使い魔の黒い影を目撃したことだろう。
『ルギドサマ、ヨッポド腹ガ減ッテラシタンデスネエ。アノ『ハラワタヲ食ワセロ』ッテセリフ、スゴク、実感コモッテマシタヨ』
『馬鹿! あれは芝居だっ』


 アシュレイたちが王都エペに到着したのは、その翌日の夕方のことだった。
 避難民の落ち着き先を見つけるのに手間取って、結局北方のトスコビから、封鎖されたままの国境を足止めを食らいながらも、何とか通過してたどり着いたのである。
「ルギドたちは、どこだ?」
 しばらく門の前に立っていた彼らは、そのうち痺れを切らしてあちこちのぞき始めた。
『ミナサン……。人間ノミナサン』
 広場の隅の街路樹の下に来た3人は、突然の頭上からの声に肝をつぶした。
「ゼダ?」
『驚カセテ、スミマセン。人間ニ見ツカラヌヨウ、ココニ隠レテ待ッテイマシタ』
『ルギドは、……どこにいるんだ?』
『ソ、ソレガ、動クコトガデキナクテ……』
 ゼダはしどろもどろに答えた。
『ソノ先ノ裏通リノ隅デ、ミナサンヲ、オ待チデス』
 アローテは青ざめた。「何かあったんだわ」
『ゼダ! そこに案内しろ』
 アシュレイは、ゼダを自分のマントの中に押し込むと、もどかしい気持ちで仲間と裏通りに走った。
「ル、ルギド……」
 そこで見たものは、3人を呆然とさせた。
 ごみだらけの路地裏の壁際に、すっかり疲れ果てた様子でもたれかかっている魔族。
 その傍らには、どこから手に入れてきたのか大きな麻袋が2つ、その中に小さな男の子と女の子が首だけ出して、袋の上から縄でぐるぐる巻きに縛られた状態でいる。
 ふたりはアシュレイたちを見ると途端に甲高い大声で叫び始め、拳で頭を殴られると大人しくなった。
「遅い……」
 ルギドはうらめしげに3人をにらんだ。
「もう5分遅かったら、俺はこいつらを食うところだったぞ」
 ギュスターヴがようやく声を出せるようになって、言った。
「おまえ、人買いでも始めたのか?」


Chapter 10 End

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