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The Chronicles of Thitos
ティトス戦記

Chapter 20


 牢獄の湿った空気が、長く暗い廊下に響く3人の足音をくぐもったものにする。
 先頭がアシュレイ。その肩にゼダ。その後ろに、ぐったりとよりかかるアローテをほとんど抱きかかえるようにして歩くギュスターヴ。
 地上への階段の手前にある看守用の部屋の中は、椅子と机が倒され、2つの死体が隅にころがっている。
『スミマセン。……コノ階ダケハ、見張リガ残ッテイテ、コウスルシカ……』
 うなだれるゼダの腹を、アシュレイは優しくつかんだ。 「いいんだ。ゼダ」
 そのまま彼の体を、羽織っていたマントの中にそっと押し込む。目立たない色のその衣服は、ギュスターヴたちが用意してきたものだ。
「ギュス。フードをかぶれ。脱走しているとばれないように落ち着いて歩くんだ」
 地上への扉を押し開けると、ちょうど今日の始まりを告げる最初の陽光がひと筋、東の丘の頂から都に差し込んで、暗闇に慣れた彼らの視界を奪った。
 ゼダの言ったとおり、王宮の庭に見渡す限り、人影はない。
 ちょっと王宮にまぎれこんだ見物客とでもいった何食わぬ風情で、堂々と通路の石畳を踏んで進む。
 ほどなく、前方に門が見えた。夜間から多くの人の出入りがあったためか、開け放たれたままだ。
 門から外、王宮前広場へ続く大通りは、すでに人の波でごったがえしているのが見えた。
 アシュレイとギュスターヴの足どりは、緩めようとしても止まらず、呼吸は早くなり、背中を冷や汗が伝う。
 そのとき突然、広場の方角から、地鳴りのような音が響いた。
 それは巨大な波紋となり、広場の隅から隅へ、そして6本の大通りへとうねってゆく。
 十万人の国民の大歓声だった。
 かつて、アシュレイたちが魔王軍を撃破して凱旋するたびに、王都は同じように人々の歓声で埋まった。
 しかし、今聞こえるのは、そのどれとも違う。狂乱に浮かされた熱気の渦。戦士たちの足でさえ一瞬すくませるほどの、暗黒の気の奔流であった。
 今まで、ギュスターヴの肩にもたれかかっていたアローテが、その大音声のため意識を取り戻したのか、彼の腕をふりほどいて駆け出した。
「アローテ!」
 数歩追いかけ、彼女の手を後ろから掴みそこねたギュスターヴがよろめいた。
「いかん! アッシュ、捕まえてくれ!」
 三人は門を一気に走りぬけ、群集の中に飛び込んだ。門衛が呼び止める声が背後に聞こえ、そのまま遠ざかる。
 人々を掻き分けながら、ひたすら走った。
 小柄なアローテの後姿が器用に人々の隙間を縫い、どんどん小さくなるのを、アシュレイたちは為す術もない。
「くっそーっ。どうなってるんだ、こいつらは!」
 サルデスの民衆は、処刑を見物に来たというのに、それぞれ一番の晴れ着を身に着け、祝いの爆竹をあちらこちらの路地で鳴らしている。
 女たちの楽しげなおしゃべりと笑いさざめく声。男たちの乾杯と気勢をあげる祝い歌。
 だが、彼らは一様に熱に浮かされたように目がうつろだ。どの顔も同じに見える。
 人々を押しのけ、突き飛ばし、髪や服を乱しながらも、とうとうアローテに追いつけぬまま、広場の一端に到着した。
 サルデスの都で一番大きい王宮前広場。
 広場の中央には、高い一本の柱のまわりに、整然と薪の積み上げられた火刑台がしつらえられていた。
 周囲には、戦車競争のときのように赤土を楕円形に敷きつめた通路ができていた。その外側で礼装の兵士たちが警備にあたっている。
 広場をぐるりと見おろすように建つ、茶色い板屋根と白いしっくい塗りの壁の美しい家々では、窓という窓に祝いの花飾りと色とりどりの垂れ布が風にそよぎ、人々が鈴なりになってハンカチを振っている。
 ひときわ大きく上がった歓声にかき消されるように、数十頭の馬の固いひづめの音が響いてきた。
 王都警備隊の駐屯所のある通りから、騎馬隊の列が華々しく行進を始めた。
 アシュレイたちが気づくと、アローテはよろよろと最前列に這い出すようにして立ち、警備兵に押し戻されながらも、その頭越しにパレードを見上げたところだった。
 騎馬隊に続いて、2頭の馬に引かれた粗末な木の荷台が現れた。
 荷台の中央に、枷の横木を置く低い台が取り付けられていて、その枷に、ひとりの罪人がつながれていた。
 アシュレイやギュスターヴの耳からは、その瞬間すべての物音が消えていた。
 どっと沸く群衆の歓声も、鼓笛隊の音楽も。
 すべてが無音の絵になり、目の前を通り過ぎようとする男の姿以外はただ白い闇にかすんだ。
「ルギ……ド……」


 枷に固定された両手の先には、指がない。
 そこからぐったりとぶらさがるようにひざまずく、その足の先にも指はなかった。
 うなだれた横顔は全くの無表情で、閉じられたまぶたの奥にあるはずの眼球は失われて落ちくぼんでいる。
 全身の衣はぼろぼろに切り裂かれて垂れ下がり、そして腕といわず、胸や腹といわず、無数の鞭と火傷の跡が残っている。 しかし、それもよく見なければわからないほど黒い血糊が、引きちぎられた髪にも全身にも、何重にも固まってこびりついている。
 そして、背中の大きなえぐれからは、肉と骨がのぞき、傷口には大量のうじが湧いている。


「きゃあああああ――っ」
 アローテの叫び声が、彼らを現実の世界に引き戻した。
 彼女は手の指をひくひくと強ばらせ、いつまでもいつまでも叫び続けたが、その悲鳴はまわりの群集のどよめきにかき消された。
 異様な興奮が死刑囚を間近に見た人々の中から津波のように広がっていった。失神する女性もいたが大部分は男も女も子どもでさえも、歓喜の叫びを上げ、口々に汚いののしりの言葉を浴びせた。
 小石がばらばらと投げられ、そのうちひとつはルギドの腕に命中したが、彼はまったく身じろぎもせず、気づいてもいないようだった。
 石を投げた若者たちは、警備兵に槍の柄でしこたま叩かれ、突き戻された。
 その混乱に乗じて、ギュスターヴが何人かを殴り倒しながら、アローテのもとにたどり着き、彼女を後ろからはがいじめにした。
「アローテ、落ち着け!」
 なおも叫び続ける彼女を、渾身の力で抱きしめ、懇願した。
「お願いだから、落ち着いてくれぇ!」
 パレードの主役が通り過ぎると、警備兵の隙をついて、楕円形の人垣の一角が崩れ始めた。あとは、なだれのように人々の群れが、行列の最後尾をぞろぞろと追い始める。
 アシュレイも、人の流れに巻き込まれるようにして歩き出した。
「ざまあ見ろ! はやく火あぶりになっちまえ!」
「てめえさえいなきゃ、この世界は平和に戻るんだ!」
 故郷の町の人々の呪いとあざけりに包まれて。
「どうして、こんなことに……! なぜ、みんなこんなふうになってしまったんだ?」
 アシュレイはひとり叫んだ。しかし、答える者はない。
 誰にも聞かれないまま、彼の震える声は訴え続けた。
「僕は十四歳のとき、ある日おまえは勇者だと言われ……、こわかった。逃げ出したかった……。
なぜ自分ひとりが世界を救うなんて、不可能な責任を負うのかがわからなかった。
でも、サルデスの人々の僕に向ける必死のまなざし、苦しみの中でひと筋の希望にすがる悲しいまなざしから、僕は逃げることができなかった。 この国を愛していたから……。僕が生まれ育った、この美しい国とやさしい人々を愛していたからだったんだ。
でも、この国の、こんな姿を見るために、僕は勇者になったんじゃない」
 あとからあとから頬を伝う涙を拳で、ぐいと拭う。
「この国の、……こんな醜い人々の命を救うために、僕は世界を守ろうとしたんじゃない!」
 アシュレイは、弾かれたように群集をかきわけて突進しながら、肺がつぶれるほどの大声で怒鳴った。
「ルギド――ッ!」
 ちょうどそのとき、アローテは全身の力を使い果たし、幼なじみの胸に崩れ落ちた。
「くそぅ。前に進めねえ!」
 気絶した彼女を抱きかかえながらも、なんとか広場の中心に近づこうとしていたギュスターヴは、周囲の建物を見渡した。
「あれだ。あの窓から火刑台は真正面だ!」
 アシュレイがもう少しで荷馬車に追いつこうという寸前に、馬は火刑台の前に到着した。
 何人かの死刑執行役の黒い頭巾をかぶった兵士たちが、ルギドの腕を拘束具から外して、「歩け」と命じた。
 しかし、彼は何の反応を示さない。
 しかたなく三人がかりで囚人の長躯を荷台から降ろし、火刑台の杭まで引きずってゆく。
 見れば、ルギドの脛は粉々に打ち砕かれている。歩けるはずがなかったのだ。
 両脚が用を成さない男を、執行人たちは無理矢理杭に押しつけ、鉄の鎖で幾重にもしばりつけた。彼は口を少し開き、苦痛に小さなうめきを洩らした。
 アシュレイはいたたまれず、一瞬目をそむけた。しかし、顔から火が出るような怒りを制して、もういちど視線を戻した。
 ファンファーレが鳴り、オルデュースが火刑台のそばにしつらえられた、一段高い貴賓席の桟敷に現れた。
「親愛なるサルデス国民の諸君。静粛に。サミュエル国王陛下ならびにネーリア王太后陛下のお出ましである!」
 大歓声のなか、王冠を戴き、華やかな式典用の正装に身を包んだ若き王とその王母が、壇上にあがり民衆に応えた。
「そして、平和をもたらす者、わがサルデスの真の友、アブドゥール閣下である!」
 勇者はわが目を疑った。
 魔王軍第一の将軍アブドゥールが、おどろおどろしい礼服をまとい、人々の歓呼の声に手を振りつつ、王の隣に坐ったのだ。
 ちぢれた赤い毛から突き出す2本の角。ワニの皮のように固い鱗のある皮膚。硫黄のように黄色い瞳。腰から垂れ下がる尾。
 明らかに、人間とは異質なその容姿にも、あれほど魔物に苦しめられ続けてきたはずのサルデス国民は、嫌悪も恐怖も覚えていないのだ。
「洗脳……?」
 アシュレイは我知らずつぶやいた。「そんなことが、あいつの魔力でできるのか? 十万もの民を一度に洗脳することなど」
 王たちが着座すると、オルデュースはふたたび片手を挙げ、群衆を静めると、巻物を取り出した。
「これから死刑を執り行うにあたって、死刑囚の罪状を読み上げる!
魔族ルギド!
上の者、多数の村々を襲い、火をつけ、人々を無残に殺戮するに及べり。犠牲者の数およそ六万五千人。
さらに先の王都での戦いにおいて、わが軍五千人を一瞬にして壊滅せしめ、都を石が石の上に残らぬほど徹底的に破壊し、あまつさえ、我らが敬愛する先代ルシャン国王陛下を王宮にて弑(しい)し、その御体を貪り食いしこと、赦しがたし」
 怒号を上げようと待ち構えていた群衆を、オルデュースは片手で押しとどめ、ひときわ大きな声で朗読した。
「よって、サミュエル王陛下ならびにネーリア王太后陛下の御前にて、また同じくルギドの圧制に苦しめられし魔王軍の指揮官であり我らの盟友であるアブドゥール閣下の前で、また王都・諸地方十万のサルデス王国民の前で、この者を火刑に処する!」
 もう誰も群集の大歓声を抑えることなどできなかった。王都は地鳴りのごとき民の叫びに長く揺すぶられた。
 ギュスターヴはその頃にはどうにか、火刑台を見おろすに絶好の建物への侵入に成功していた。
 実は、かなり荒っぽい魔法の使い方をして、警備の兵や住民の目を回させていたのだ。
 3階の広場に面した部屋に入り、気を失っているアローテをそっと床に横たえると、あわてて窓から下をのぞきこんだ。
 真下では、壇上のオルデュースが、従者に命じて持ってこさせた漆塗りの盆を頭上にささげ持ち、高らかに宣言しているところだった。
「これにあるは、死刑囚の目からくりぬいた二つの眼球である。この紅い瞳に恐れおののき、平穏な眠りを奪われ、悪夢におびえた国民の恨みを晴らすべく、今よりサミュエル国王陛下の御手ずから、この眼球を処刑したまう!」
 サミュエルは、無邪気とも言うべき満面の笑みをたたえて玉座から立つと、オルデュースから受け取ったふたつの物を、顔色も変えず握りつぶした。
 この王の快挙に、民衆はまた沸き立つ。
「狂ってる」
 ギュスターヴは窓枠をぶるぶると両手で握りしめた。
「ここにいる奴ら、みんな狂っていやがる」
 そのつぶやきが消える前に、眼下でまた、彼をぼう然とさせるような光景がくり広げられた。
 よく見知っている姿が、堪え切れず火刑台の上に飛び乗ったのである。
「あの……馬鹿! 考えもせずにッ」
 アシュレイは、貴賓席に相対しながら、一段高い薪の山の上に縛られたルギドに呼びかけた。
「ルギド! 聞こえるか?」
 瀕死の魔族は、うなだれていた首をわずかに持ち上げた。
 広場の群集の間から、物音がやんだ。
「おのれ、アシュレイ!」
 オルデュースがあわてて抜刀し、貴賓席と彼とのあいだに立ちはだかる。
「いつのまに、牢獄を……」
「サミュエル陛下。処刑をしばし止められ、私の話をお聞きになってください」
 若き肉体に威厳さえみなぎらせ、アシュレイは叫んだ。
「陛下……。私を覚えていらっしゃいますか? 幼きときより陛下のおそばに仕えてきたアシュレイです」
 驚きのささやきが、人々のあいだをさざ波のように渡る。
「覚えているとも」
 玉座のサミュエルは、口の端を少しゆがめて微笑んだ。
「裏切り者アシュレイ。勇者でありながら、余とサルデス王国を裏切り、魔王に付いた反逆者アシュレイだな」
「この国を裏切られたのは、陛下です」
 険しい緑の瞳が、さらに怒りを増した。
「お父上を殺された恨みを晴らさんとされる御心は理解できます。だが、その私怨に目が曇り、姦計をもってわれわれを謀(たばか)らんとする敵の言いなりになり、真に人間の味方が誰であるかを見誤っておられるとは、この国を裏切ったと後世の者にそしられても、仕方ありますまい!」
「ええい、黙りゃ!」
 王太后が、その美しい柳眉を逆立ててわめいた。
「そなたは、妾たちの恩も忘れて、この国に仇なす忌々しい魔物の命を救った背徳者! そなたなど、父親が死んだ幼子のうちに、くびり殺しておけばよかったものを!」
「王太后さま……」
 アシュレイは、かつて彼の母親代わりであった女性を、寂しげに見つめた。
「もし、あなたが私の存じているお優しい王太后さまであられたならば、今のようなお言葉は決してお使いにならなかったでしょう」
 そして、王のかたわらに座す魔族をきっとにらんだ。
「アブドゥール! この国の人々におまえの為したこと……、断じて赦さぬ!」
「ほう、我の術、おぬしには効かぬか」
 愉快気に魔将軍は笑う。
「王族では唯一、王女だけが術にかからなんだがな。あとはこの通り、他愛もないものよ。勇士の末裔、一国の主と言ってもな!」
「貴様、グウェンドーレン王女をいったいどうした?」
「なあに。西の塔に丁重に幽閉しただけよ。おそらく一生のあいだな」
「くそう……」
 アシュレイがアブドゥールとの会話に心を奪われていることを気づいたオルデュースは、すばやく命じた。
「執行官よ。処刑を開始せよ! 火を投じるのだ」
 黒頭巾の男たちがあわてて松明を手に台に駆け上がる。
「動くな!」
 アシュレイはレイピアの切先を彼らに向けた。
「動けば、この剣がおまえたちの喉に突き刺さる」
「フハハハ……」
 勝ち誇ったようにオルデュースが哄笑した。
「本性を現わしたな、アシュレイ! 貴様はこの魔族のために、自分の同胞でさえもためらわず殺すというのか!」
 それまで固唾を呑んで成り行きを見守っていた群衆たちが、どよめいた。
「人殺し! 裏切り者!」
「そいつといっしょに、火あぶりになっちまえーっ」
 怒号と石つぶてが飛び交う。
「騎兵隊、何をしている! 反逆者を槍で処刑せよ」
 十八歳の国王が、玉座をがたがたと鳴らしながら怒鳴った。
「弓兵! そいつを矢で射殺してしまえ」
「王よ。……サミュエル王」
 アシュレイは、荒い息の下でひとことずつ惜しむように発音した。
 彼の激情に呼応して、風のレイピアから大気の渦が巻き起こり、死刑執行人たちも騎兵らも、群集でさえもがあとずさった。
「わが弟、サミュエル……。ルシャン様のように、善き王になってほしかったのに……」
「やめろ! アッシュ」
 ギュスターヴは半身を窓から乗り出して、叫んだ。
「おまえは手を汚しちゃならねえ! やめろ。おまえは神の勇者なんだぞ!」
「神よ……」
 ますます激しさを増す渦に髪をなびかせながら、アシュレイは天をあおいだ。
「神よ、お赦しください。私は今から大罪をおかします。愛する祖国の民を、この手でほふります」
「やめろ――っ!」
 そのとき。
 ちいさな黒い影が太陽の光を切り取った。
『ルギドサマ!』
 まっしぐらに飛んできたゼダが、ふわりと火刑台の杭の頂に舞い降りようとしているところだった。
 そのとき初めてアシュレイは、いつのまにか自分のマントの裏からゼダがいなくなっていたことに気づいた。
 ひとりの弓兵が、あわてて矢を放った。


 ルギドの頭に、薄絹のような翼のかけらが落ちてきた。
 黒く暖かい血がその額をぬらした。


『ゼダ……?』
 不思議そうに、彼は眼球のない眼で空を見上げた。
 答えの代わりに、矢に腹部を貫かれたゼダの体がすとりと、いつも彼の乗っていた右肩に当たり、その足元に落ちた。


 ルギドの口が大きく開かれ、この世ならぬものの叫びが喉からほとばしった。
「あああああああああっ」
 足元に積まれていた薪の山が、まるで爆風に会ったようにちりぢりに吹き飛ばされた。
 大気がぴりぴりと振動する。
 彼の身体の表面から黒い炎が噴きだした。古い毛糸を引きちぎるように鉄の鎖が、ぽとりぽとりと落ちていく。
 ルギドはかっと目を見開いた。
 そこには、新しい眼球ができていた。紅い目。瞳孔のみならず眼球全体が炎の紅一色。
 四肢の先からは、前よりももっと鋭く尖った剣のような指が生えた。
 背中のえぐれた傷口からは、身体をすっぽり包み込むほどの黒い翼が突き出した。
[風(メネ)……]
 古代ティトス語のつぶやきとともに、周囲の気圧がガクンと下がり、巨大な竜巻が襲い、雷鳴の前触れなしに、垂直の落雷が十万の群集の只中に直撃した。
[炎(ウル)……地(カルド)……氷(シン)……]
 次々とつむぎ出される言葉に呼応して、轟音を立ててうねる炎が広場をなめ、地割れが人々を飲み込み、鋭い氷柱が地面から数百本も突き出して、逃げ惑う人々を串刺しにした。
 アシュレイは、がっくりと膝をついた。
 頭の中は真っ白になり、全身がとめどもなく、わなわなと震える。
 それはまるで、罪人が最後の審判の場に引き立てられ、神の審判者の前に立つときのような恐怖だった。
 ルギドはゆっくりと火刑台から降りてくると、ふと足元のアシュレイに目をとめた。
[我は、畏王]
 聞きなれた友の声であるはずなのに、全く異質な者の声。
[我はついに降臨した。この世のすべての生命を絶ち滅ぼすために。すべての営みを虚無に帰するために]
「ルギド……。おまえは、とうとう望んでしまったのか。世界が滅びることを」
 アシュレイはむしろ引きつった笑顔さえ浮かべて、小刻みに震える両腕をまっすぐ前に突き出した。
「僕はおまえを責めはしない。僕たち人間は、生きるに値するものではないのかもしれない。
これは神のご意志なのかもしれない。……不思議だ。なぜだか本望だと思う。
愚かで醜い僕たちを、おまえの手で、……どうか……」
 アシュレイは目を瞑る。
「どうか……、滅ぼしてくれ」
[人間の勇者よ。おまえの願い聞き届けてやろう]
 ルギドであった者は、一歩踏み出すと、その片手をアシュレイの額に当てようとした。
「ばっかやろう! 何言ってるんだ! アシュレイ」
 その瞬間、白煙の満ちた王宮前広場を突き抜ける大声が振ってきた。
 半分瓦礫と化した正面の建物の窓から、頭から血を流したギュスターヴが、片手でゆがんた窓枠をにぎりしめ、片手でアローテを抱きかかえながら、必死の形相でこちらを見つめていた。
「弱気になるな、アシュレイ! 俺はまだ世界の終わりなんか認めねえぞ!」
「ギュス……」
「ルギド! おまえ、そんなに簡単に畏王になっちまっていいのか?」
 畏王は、一顧だにしない。
「ここに、アローテがいるんだぞ。おまえはアローテまで殺しちまうのか。てめえが今まで守ろうとした世界を、アローテごとぶっつぶして、それで平気なのか!
見損なったぞ、この弱虫! 臆病者! すっとこどっこい!」
[誰だ。おまえは]
 冷たい笑いを浮かべると、畏王は彼らのいる窓を見上げた。それだけで、建物全体が振動しはじめる。
 ギュスターヴはアローテを抱き寄せて、思わず目を閉じた。
 しかし、彼らを襲うはずの衝撃はいつまでたってもやって来なかった。
 ギュスターヴがうっすらと目を開くと、畏王が頭髪をかきむしり、身もだえしているのが映る。
[なぜ、……なぜ我を拒む。わが半身たちよ]
 ぼう然とたたずむアシュレイの目前で、全身をおおいつくすほどだったその背中の翼が、みるみるうちにしなえていく。
[ようやく降臨するところだったと言うのに……。なぜ憎まぬ、おまえを憎んだ者たちを。なぜ滅ぼさぬ、おまえを滅ぼさんと企んだ者たちを。 ……なぜ守ろうとする、おまえを理解できぬ愚鈍な民らを]
 最後に悔しげな長いうめきを残したまま、彼は火刑台の板床にうつ伏した。
 おそるおそるアシュレイが助け起こすと、その手足の指も眼球もふたたび失われ、背中の傷から新しい黒い血がどくどくと流れ出す。
「ギュス! すぐに来てくれ、早く!」
 一声叫ぶと、アシュレイは一心不乱に回復呪文を唱えはじめた。
 四人は、海の中の島のように取り残された火刑台の上で、ふたたびまみえた。
 その周囲、王宮前広場の4分の1が、わずか数分間の畏王の攻撃で灰燼に帰し、あたりは無数の焼け焦げ、あるいは切り刻まれた死体が土嚢のように折り重なっていた。
 貴賓席があったはずの場所には、桟敷の骨組みの残骸があるだけ。そこに、サミュエル王と王太后、そしてオルデュースの変わり果てた姿が埋もれているのが後日発見される。
 しかし、いくら捜してもアブドゥールの姿はどこにもなかった。


Chapter 20 End

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