窓に打ちつける雨まじりの風は、秋から冬への季節の移り変わりを告げていた。 サルデス地方中央部に位置するパロス。なだらかな牧草地に囲まれ、小高い丘の上に立つこの都市は、皇都となったときから『うるわしの都パロス』と言い習わされてきた。皇帝の御住まいである白亜の宮殿は、建てられたときのきらびやかさが40年という歳月にくすんでしまってからも、その壮麗なたたずまいを失うことはなかった。 庭の朽ちた葉がくるくると舞って、窓の檜皮(ひわだ)色のひさしをかすめる。 皇后は、侍女に命じて鎧戸を閉めさせようとした。ひゅうひゅうと鳴る冷たい風は、冬以外のもの、何かとてつもなく不吉な影を運んできそうな予感がしたのだ。 しかし繻子織りの垂れ幕の中に横たわる皇帝は、それを止めた。 「空を、見ていたいのだ」 もはや自分のそばの水差しも見えていないであろうに、そう言う。 「御心のままに」 皇后はうなずくと、垂れ幕をめくって寝台に近づいた。 「お加減は? 陛下」 彼女は、羽根の枕を幾重にも当てなければならないほど弱りきった夫のかたわらにひざまずいた。白く濁った両眼や、痩せた顔に記された深い皺に目を注いだ。すべてを心に刻みつけるように丹念に。 「グウェン」 「はい、アシュレイ」 「われらは、もうどれくらい一緒に過ごしてきたのだろうな」 「数え切れぬほどの歳月ですわ、あなた」 「もうふたりの間に、ことばは要らぬ。それくらいたくさんのことを話し合ったな」 「ええ。確かに」 「もはや触れ合う必要すらないのかもしれぬな。あるいはこの身が朽ち果てて」 「でも、あなた」 力なく差し伸べられた夫の指を、とっさに両手で握りしめて皇后は叫んだ。 「それは寂しゅうございます。風のように、呼びかけても答えてくださらないのは。陽のようなぬくもりを、あなたの胸から感じられないのは」 「神はこの罪深い者に、六十余年の長命を与えてくださった。これ以上望むのは欲というもの」 皇帝はそこまで言うと、使い果たした息を少しでも取り戻すように、しばらくあえいだ。喉が外の風のようにひゅうひゅうと鳴った。 ふたたび目を開けると、何かに思いを馳せているように寝台の天蓋を見上げていたが、 「今日こそ、彼に会えるかもしれない……」 と、つぶやく。 『彼』というのが誰のことか、グウェンドーレンにはよくわかっていた。そしてそれが何を意味するのかも。 「すまぬ。しばらくひとりにしてくれぬか」 「はい、陛下」 皇后は、自身も老いた身体をゆっくりと立たせ、拝礼した。 「それでは、わたくしは皇子や皇女たちといっしょにおります。みな礼拝室で陛下のために祈っております。何か御用がありましたら、呼び鈴を鳴らしてくださいませ」 彼女は衛兵や医者たちに、「陛下は、おひとりで静かに祈りをささげられる」と部屋を出ることを命じた。 扉をくぐるとき、後ろ髪を引かれる心地でもう一度振り向いたが、寝台の夫はもうすでに、霞の向こうの遠い世界にいるように思えた。 「ルギド」 アシュレイは、痛む胸をおして声を張り上げた。 「そこにいるんだろう。お願いだ。現われてくれ」 しばらくは、嵐の低い音色と、せわしなく揺れる蝋燭の灯りだけが、部屋を満たしていた。 やがて、寝台のかたわらの床に白い影が立ち昇り、それはみるみる鋳型に嵌められていくように人の姿を形作った。 くるぶしまでをゆったりと包む黒のローブ。浅黒いはずの顔は透きとおるほど白く見える。そして、流れ落ちる銀の髪が暖炉の炎に照り映え、輪郭を曖昧な線へと溶かしこんでいる。 その身体は、この部屋に実在するものではなかった。 「やはり、来てくれたか。ギュスターヴが死の床でおまえに会ったらしいと、リグが教えてくれたのだ」 少年のように声をはずませる皇帝に、魔族の霊体はただ静かに微笑んだ。 「畏王は、人間や魔族に対するその恨みを消したのか?」 「いや、まだだ。まだその憎悪は強く深い。彼を眠らせるために、俺はすべての魔力を使っている。わずかしかここにはいられない」 「リュートは?」 「隅にうずくまって泣いている。おまえの最期を見たくないそうだ。ギュスターヴの死のときもそうだった」 「だが、ギュスは満足して逝ったのだろう? あいつは果報者だ。寿命との戦いに勝ち、自分の孫までも腕に抱いたのだからな」 ルギドは答えなかった。アシュレイは震える唇をいったん引き結ぶと、落ち着いた声で続けた。 「なあ、ルギド。教えてくれ。僕は果たして、新ティトス帝国の基礎を築くことに成功したのだろうか。僕は、剣士としての技量はあったが、為政者としては失格だったかもしれない。 確かに今の帝国内には平和がある。この十年、辺境の小競り合いに至るまで、内乱は起きていない。人間と魔族のあいだにも少しずつ和解が広がっている。 旧七王国は、選帝侯として力を合わせ、責務をまっとうしてくれている。先ごろの選帝会議により、僕の息子が次の皇帝に就くことが決まり、順調に権限委譲が進んでいる。 だが、それでも……、それでも、僕は帝国が内包している危険に、戦慄するときがあるのだ」 そこまで言うと、アシュレイは激しく咳き込んだ。 若い頃の戦いで受けた無数の傷が、ひび割れとなって彼の身体をむしばんでいるかのごとく感ずるときがあった。そして今、その傷はますます大きく広がり、心臓はくさびを打ち込まれたように、次第に弱っていく。 「今はまだいい。ジルとリグがいる。ジークやアデルも。彼らの子どもたちも、ギュスや僕の子や孫もいる。 だが、やがて僕らの戦いを知らない世代が帝国に立つ。そのとき、我らの追い求めてきた理想は伝わっているだろうか。秩序は腐敗を生み、人々は自分の得た富と権力をより強固なものにしようと追い求めるのではなかろうか」 ルギドはかすかに首を振った。 「わからぬ。アシュレイ。俺にもわからぬ。しかし、壊れないまま永遠に立ち続ける塔はない。帝国も時が来れば、あとかたもなく崩れ去るだろう」 「おまえに、そう言ってほしくはなかった。「帝国の祖」よ。たとえ口先の慰めでもよいから」 笑い声を漏らすと、彼は意を決したように肘を突っ張った。羽根枕が床に散乱し、苦痛に満ちた努力の果てに、老いた皇帝は背筋を伸ばして、寝台の縁に腰掛けた。 そして、深々と一礼する。 「ティエン・ルギド。新ティトス帝国皇帝アシュレイの衷心からの頼みだ。おまえに帝国の行く末を委ねたい。いつか畏王の呪いが解けたとき、ふたたびこの世界に戻ってきて、ティトスを治めてほしい。もし人間と人間が争い合い、人間と魔族が争い合い、世が乱れるようなことがあれば……、帝国を再建してほしい。 人間の限りある身に、永遠を見通すことはできない。だが、おまえならば時を越えられる。魔族と人間双方を理解し、双方を導く力がある」 アシュレイの目尻から涙があふれた。 「頼む。ルギド。僕にはもう……時がない。どうか、このティトスを」 銀の髪が揺れ、アシュレイの額に、頬に、肩に柔らかく触れた。 「最初の旅に出る前、俺はおまえを主君として誓った。覚えているか」 「ああ」 「その誓いは永遠だ。わが主にしてわが友アシュレイ。魔族の王子ルギドは、永遠に忠誠を尽くす。おまえとの約束を果たし、おまえの子孫にも忠誠を尽くそう」 「ありがとう。感謝する」 アシュレイは、帝国を開いてこのかた一番の大事業をやりとげたという安堵を覚えた。その安堵があまりに大きかったので、彼の肉体と魂は、声高に休息の権利を求めた。頭がぐらぐらと左右に揺れる。 「ひとつだけ……」 彼はおのれに向かって叱咤激励しながら、遠ざかる意識を呼び戻し、強いて顔を上げた。 「……最後にひとつだけおまえの耳に入れておきたいことがある。アローテのこと……だ」 ルギドは眉を軽くひそめた。 「ギュスは……大きな秘密を持ったまま、黄泉に旅立ってしまったように思える。それが何なのかはわからない。死ぬとき、おまえには……話したのか」 アシュレイは途切れ途切れのことばを、気力だけで紡ぐ。 「いや」 「では、アローテの死……には立ち会ったか?」 「立ち会うことはできなかった。だが、今はどこにもその気配を感ずることはできない。アローテは死んだのだ」 「そう……だろうか。僕は彼女の亡骸を見ていない。ジークもアデルも見……いない。ギュスターヴがユツビ村に亡骸を持ち帰ったと聞いたが、ユ……ツビ村の墓を調べても、アローテの銘の……」 次の瞬間、皇帝の身体が大木のように大きくかしいだ。寝台の羽根枕の上に突っ伏す形で、彼はその身を横たえ、もう二度と動かなかった。 呼び鈴の紐が引かれた。外の居間で待っていた皇后グウェンドーレンはその音に、急いで王室の扉を開いた。 はっと息を飲む。その視界の中にまばゆい銀色の輝きを見たからだ。 「ルギド……」 魔族の幻影は皇后に向かって哀しげに微笑むと、闇に溶け入るように姿を消した。 「陛下……!」 駆け寄った彼女の目に映ったのは、両手を胸の前で組み、仰向けに寝かされた夫の体だった。笑みをたたえた口元は、すべての思いわずらいから解き放たれ、野原を駆けているような自由さに満ちていた。 「アシュレイ!」 大声で泣き伏したかったが、グウェンドーレンはサルデスの王女として生まれた女性だった。気持ちを隠して己を律する術は心得ている。 彼女は王の居間へと続く扉を大きく開け放ち、凛と身体を伸ばし、強ばった顔で自分を見つめている皇子・皇女、その家族たちをゆっくりと見回した。そして、ゆるやかなローブの裾をひるがえして部屋を横切り、差し出された皇太子の手を受けると、ともにバルコニーへ向かった。 夜通しの嵐が去ったあとの、まだ明けやらぬ宮殿の庭は、皇帝のために祈りを捧げる大勢の民たちで埋め尽くされていた。 「皇帝陛下はたった今、崩御あそばされました」 神よ、助けたまえ。もう少しだけ、涙を堰き止める力をわたくしに。 「帝国と陛下の御霊に、神の御守りがありますように。そして――新皇帝万歳!」 * * * * 新ティトス帝国前夜の戦乱の時代、または帝国黎明期の初代皇帝の治世について、書き記すべき歴史はこれですべてである。 それから数百年。 世は乱れ、またあらたなる時代の戦記が記されることになるのだが、それは別の機会に譲ることとなろう。 |