くすぶり続けていた松明に夜明けの霧が止めを刺し、その霧を東の空から差し込む初夏の陽光が音も立てずに吹き払う。 ユツビ村の広場は、静かな朝を迎えていた。 ところどころに残る昨日の宴会の名残をよけながら、ジルとリグは広場を横切り、村はずれに向かって歩いた。 「ねえ、やめようよ」 眠いのか泣きそうなのかわからない声で、妹のリグが異議を唱える。 「いやなら、ついてくるな。俺はひとりで行くから」 霧がまだ消え残っているような冷たさを帯びた森の間に、目指す家は見えてきた。 正午に始まり、夜を徹して続いた盛大な結婚祝賀会。その宴たけなわのとき、主賓であるルギドとアローテは席を立ち、あの小さな家に入って行ったのだ。あらかじめ決まっていることらしく、周囲の者は誰も不思議そうではない。 いったいどうしたのと訊ねることさえ、はばかられる雰囲気。 想像をたくましくすればするほど、10歳の少年の身の内は、熱いものでジンと痺れた。 数年の冒険の旅を経たあと、両親のいないジルとリグにとって、ルギドは父親、そしてアローテは母親だった。彼らとてジルとリグを子どものように思ってくれているはずと信じていたのに、ひとことも声をかけずに行ってしまった。 その腹立ちもある。しかしそれ以上に、淫(みだ)らな好奇心が今の唐突な行動に駆り立てていることを、ジル自身はまだ知らない。 「だって、いけないよ。覗き見なんて」 リグはまだ不満げに呟きながらも、後ろからついてくる。歩くたびに、丈の高い枯れ草がぴしぴしと音を立て、後戻りするなら今だと告げている。 妹はひとつ年下の9歳。性については彼以上に何も知らないはずだが、女の直感というものがすでにあるのだろう。これから見聞きすることにかすかな甘い恐怖を感じるらしい。 特に彼女は、ルギドに淡い恋心を抱いていた節がある。会いたいという気持ちと、アローテと一緒のところを見たくない気持ちに心を引き裂かれているのかもしれない。 「しっ」 ジルは口に指を当ててみせると、用心深く家の入り口に忍び寄った。そして、扉の前でゆっくりと屈みこみ、蝶番の隙間から中をうかがおうとした。 それより一瞬早く、扉がばたんと開き、そのはずみで兄妹はそろって地面に転がった。 「いったい、何をしている」 ルギドがあきれたような顔をして、はるか高みからふたりを見下ろしていた。魔族の剣士をこっそり出し抜こうだなんて、やっぱり彼らは考えなしだった。 「ジルちゃん、リグちゃん?」 アローテも長い髪をほどいたままの姿で、ルギドの後ろに現れた。「どうしたの、こんなに朝早く」 薄地の白い夜着だけを身につけて寄り添うように立っている彼らを見ると、やはり昨日までとはどこか違う。立ち入ることのできない世界にふたりが行ってしまった気がして、ジルはズキンと胸が痛むのを覚えた。 「何の用かと聞いている」 いらだったように問いかけるルギドの声に、我に返った。 「そ、そ、それが、どうしても聞きたいことがあったんだ」 もっともらしい理由を必死でさがしているうちに、とうとうこんな言葉が飛び出した。 「ギュスが言ってたんだ。この世界が丸いって、ほんと?」 「ほえ?」 ギュスターヴは寝ぼけまなこで、扉の外に立っているルギド、アローテ、それからジルとリグを見回した。 明け方まで、しこたま飲んでいたのだろう。いつもはきれいに撚り合わせている長い髪も、ぼさぼさだ。 「どうしたんだ。こんな時間にいったい」 「いいから、中に入れろ」 ルギドは不機嫌さを隠そうともせず、荒々しく身体を押し入れた。 「この世界は球体であると書いた書物があると、ジルに話したそうだな」 「あ、ああ」 「それを俺に見せろ」 「なんだよ、藪から棒に」 ぶつぶつ言いながら、それでもギュスターヴが壁の本棚を探し始めたとき、アシュレイが奥の部屋から出てきた。 「おはよう、みんな。おそろいで何があったんだ?」 ギュスターヴよりは多少ましだが、それでもあわてて羽織ったシャツの襟がよれている。 「おい、アッシュ。魔導書が見つからねえぞ。だから、部屋は片付けずに置いといてくれって、あれほど言ったのに」 「だって、片付けなきゃ足の踏み場もなかったんだぞ、この家は」 諸国の王が賓客として長老の館に迎えられているため、アシュレイは数日前からギュスターヴの家に寝泊りしているのだ。 「あ、ちくしょ、あったぞ。これだ」 石版ほどの大きさもある羊の革の書物を、黒魔導士はルギドに手渡す。 表紙を開くと、魔族はすっと瞼を閉じた。なまじ目で見るふりをするよりも、身にまとっている魔力ですべての頁を「感じた」ほうが早いのだ。 「そうだな。この本だ」 目を開いたルギドに、アシュレイはにっこり笑いかけた。 「立ち話は疲れる。急いで火を熾すから、座ってお茶にしよう」 「世界が丸いって、どういうこと?」 湯気の立つカップにふうふう息を吹きかけながら、リグが言った。 「きっと全体が円盤みたいになってるんだろ」 「でも地図で見ると、海の端は四角いよ」 「円盤ではなく、球形ということだ。このポワムのようにな」 ルギドは後ろの棚に手を伸ばし、籠にあった萎びかけた赤い実を嫌そうに手に持ち、長い爪で一箇所に傷をつける。 「仮にここがサルデス王都だとすると、このもっと上が今いるユツビ村だ。ティトスのすべての大陸と海は、このポワムの皮の上に貼りついているようなものだ」 「そんなあ」 ジルが情けない顔で叫んだ。 「下の方に住んでいる人たちは、落っこちてしまう!」 「落ちないように、万物は地脈を通して互いに引き合う性質を持っていると言われる」 「そんなことが、この古代ティトスの書物に書かれているのか、ルギド」 アシュレイが神妙な顔をして、問いかける。 「ああ」 「そうすると、古代、人々は今より進んだ知識を持っていたことになる」 「その通りだ。魔族と人間が平和共存していた頃はな。人間が地上を占有し始めてからわずか一万年で、この世界は無知蒙昧な先史時代へと逆戻りしてしまったんだ」 「ちょっと待てよ。もしこの本の通りだとすると」 ギュスターヴは、ふと新しいことに気づいて果物をルギドからひったくり、くるりと回した。 「ここから出発した船が一方向に進んでいけば、もう一度同じ場所に戻ってくることが可能なのか?」 「途中で別の大陸にぶつからなければ、可能だろうな」 「別の大陸? この世界には四大陸以外に、別の大陸があるかもしれないというんだな」 一同はお茶を飲むことも忘れて、唖然としている。 「おまえは、それを見たことがあるのか?」 「いいや、少なくとも畏王の記憶にはない。たとえ新大陸があったとしても、飛行族の翼で渡るには遠すぎるからな」 ルギドは肩をすくめた。 「だが、これだけは言える。この世界には、俺たちが【ティトス】として知っている以外の未知の場所がある。もしかすると、【ティトス】はこのポワムの中の、ほんのひとかけら分に過ぎぬのかもしれん」 狭く低いこの家の天井が、まるで直接、ルギドの言うその広大な世界に通じているようで、ジルは思わず身震いした。 気がつくと、窓から差し込む明るい朝の光に、うっすらと埃が浮かんでいるのが見える。 「ねえ、みんな、そろそろ朝ごはんにしましょうか」 何度目かのあくびをかみ殺して、アローテが提案した。 「ギュス。黒パンある? スープか何か作るから、台所借りるわね。……リグちゃん、手伝ってちょうだい」 「うん」 椅子から立ち上がったアローテを光に透かして見たリグは、不思議そうに首をかしげた。 「今日のアローテ、何だか変。全然寝てないの? 顔に隈ができてるし、目の端にちょびっと小じわが……」 「あ、あはは」 アローテは笑顔を引きつらせながら、リグの肩を抱いた。 「リグちゃん、台所でちょっと、女と女の話し合いをしましょう」 ふたりが出て行ったあと、 「ふわあ、俺は二度寝してくらあ。メシが出来たら起こしてくれよ」 「僕も……」 ギュスターヴとアシュレイも、ふらふらと奥の部屋に引き取っていった。 部屋には、ルギドとジルだけが残された。 「ジル」 ソファに背を預け、ゆったりと足を組み直しながらルギドが言った。 「本当は、聞きたい話は別にあったろう」 「え?」 「もうひとつの新しい世界のことを、聞きたかったんじゃないのか?」 そう言って紅い瞳を光らせるルギドの微笑は、ジルでさえ背筋がぞくっとするほど邪悪だった。 「教えてほしければ、教えてやる」 手招きに、おそるおそる近づく。 見てしまったら決して後戻りはできない。未知の領域に踏み入る戦慄と期待を感じながら、ジルはルギドの口元にゆっくりと耳を当てた。 |