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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 22



 パロスの短い夏は、その年だけはゆっくりと過ぎていった。


 住民たちがそう感じたのは、ひとつには物価の高騰だった。デルフィアの高級織物から小麦、砂糖に至るまでが商人によって売り惜しみされ、ワイロを渡された下級官僚たちが、それをまったくと言っていいほど取り締まらなかったものだから、あっというまに皇都の物価は、二倍三倍に跳ね上がった。
 政府の再三の通達と罰則の強化と、そして何よりも国庫からの物資の放出によって、ようやく秋口に平民たちは人心地がついたように、笑い合ったのである。
  『皇帝が崩御あそばしても、
   畑は喪に服すわけじゃない』
 流行り歌とともに民衆は、顔を見たこともない貴人の喪が明けたことを喜び、酒場で酒を酌み交わした。


 一方で、爵位を持つ者たちは秋になってもますます、保身に汲々とする毎日を送っていた。
 六十日の服喪が明けた青竜月、つまり8月になっても、いっこうに次の皇帝が決まる気配がなかったからである。
 決められないのだ。
 皇太子エセルバートは、三年前のテアテラとの戦い以来、重度の病に侵されている。とても皇帝の任を負える状態ではない。前皇帝セオドリク二世にも男の兄弟はおらず、三親等以内に皇位継承者となる男子はいない。
 残るのは、皇帝名代を務める第一皇女エリアルだけだが、千年の歴史をひも解いてみても、女帝が帝国を治めたという記録はひとつもない。
 初代皇帝アシュレイの直系子孫の中に、皇帝の冠を戴くべき器がいない。これは、新ティトス帝国はじまって以来の凶事だった。
 政治に無関心な貴族たちでも、日ごろは寄りつかない皇宮に日参しては、なんとか情報を得ようと四苦八苦していた。
「選帝侯会議が、今月末に開かれるそうだ」
 ひとりが知らせをもたらすと、サロンに詰めていた貴族の中から悲鳴が漏れる。
「まさか。最後の選帝侯会議が開かれたのは、新ティトス暦404年だぞ」
「【緑の封蝋の書状】が、六百年来の慣例ではないか」
「今回は、デルフィア選帝侯が書状を送ることを拒否したらしい」
「パロスに無条件の委任はせぬ、ひとこと物申させろ、ということか」
「フェルナンド父子は、一筋縄ではいかぬ御仁たちだ。これを機会に、皇帝の座を乗っ取ろうということかもしれんな」
「オーギュスティンの血統以外の人間が皇帝になると? ありえん!」


 喧々囂々の論議があちこちの部屋の扉から漏れ聞こえてくるのを、ジュスタンは苦い笑いをもって聞いていた。
(本当に皇家のためを思って言っている奴は、この宮殿に何人いるんだ。ましてセオドリク二世の死を心から悼んでいる者など)
 もしかして、たったひとり。エリアルだけではないかと思う。
 愛されなかった子が、もっとも親の死を悼み、悲しみから立ち直れないでいるとは皮肉なことだ。
 エリアルの居室を訪うと、侍女たちが、うやうやしいお辞儀で出迎えた。
「一時から、会議が始まります。姫さまのご用意は?」
「今、お休みになっておられます。すぐにお支度をしてまいります」
 侍女頭のモニカの口ごもる様子に、ジュスタンは眉をひそめた。
「今日は、少しでも食事をお召し上がりになったのですか」
「いえ……まだなにも」
「わかりました」
 落胆の溜め息を吐いた。
「今日の会議は欠席なさると侍従長に伝えておきましょう」
「ジュスタンさま」
 モニカは目にいっぱい涙をため、切々と訴えた。
「姫さまを励ましてくださいまし。あなたさまの声を聞かれるときだけ、お顔に生気が戻るような気がいたします」
 ジュスタンは黙ってうなずくと、奥の間に向かった。
 胸がずきずきと痛んで、ことばが出ない。それほどに彼女は、痩せて痛々しかった。
 寝台に力なく横たわっている彼女に近づくと、ジュスタンはその手を取った。
「姫さま」
 エリアルはうっすらと目を開き、枕もとの魔導士に焦点を合わせると、微笑んだ。
「ジュスタン」
 そっと包むように彼女を抱き上げると、額にキスした。
 やがて、その接吻は次第に熱を帯びながら移動し、ついに唇にまで辿りつく。


 最初の接吻は、テアテラからの帰途だった。
 パロス行きの、ふたりきりの一等車両の中。帝国未曾有の危機を目前にして、どうしてそんなことになったのか。彼自身にもわからない。
 気がつくと、突き上げてくる衝動にまかせて、エリアルの唇を奪っていた。そして彼女もそれに応えた。
 はじめて会ったときから今まで、彼女との間には高い壁を築き上げていたはずだった。身分のあまりの違いゆえに。そして何よりも、自分はレイアを愛していたゆえに。
 たぶん、エリアルの側もそうだっただろう。だが、双方の心の油断をついて、壁は一気に瓦解した。
 目に見えて弱っていく彼女に自分の持っている生気をすべて注ぎいれたいと願いながら、日ごと夜ごと、会うたびに口づけを交わす。あまりにも過酷な皇女の宿命を少しでも分け合いたいと、ただひたすら細い体を抱きしめる。
 だが、エリアルの身体はどんな抱擁を受けても、ギュッと閉じたままだ。
 ふたりとも、本当はわかっているのだ、これは真の愛情ではなく、孤独から逃れるための互いへの依存だということを。
 離れるとき、互いの唇のあいだを糸が引いているのに気づき、エリアルは恥ずかしそうに顔をそむけた。
「顔を洗ってくる。少し待っていてくれぬか」
「今日の会議は欠席なさってもよいかと存じます。本会議に向けての実務者同士の予備会議です」
「そんなわけにはいかぬだろう。侍従長ひとりでは、今日の出席者は手に負えぬぞ」
「わたしが代わりに、出席いたします」
「……確かにおまえならば、安心して任せられるが」
「来週の本番までに体調を万全に整えておいてください。それが姫さまの今なさるべきことです」
 ジュスタンは灰色の瞳を細めて、戒めるようにエリアルを見た。「食事もきちんと召し上がらないと」
「……ああ。わかっている」
「では、行ってきます」
「たのむ」
 彼女に偽りの笑顔を残して、部屋を出た。
(わたしたちのしていることは、間違っている)
 鬱々とした気分で本宮に向かう。
 では、どうすればよかったというのだろう。身体を介さずに、心だけを触れ合わせるには。


 途中、廊下で侍従長とばったり会った。
「遅いではないか。――エリアルさまは?」
「今日の会議にはご欠席あそばします」
「なんと! それはできぬ。デルフィア側は、ご子息のフェルナンドさまがご出席になるのだぞ。主催者であられるエリアルさまが欠席というわけにはいかない」
「ご体調がことのほか、すぐれないのです。大事をとって今日はお休みになられたほうがよいかと存じます。肝心の選帝侯会議本番にご欠席になるよりは、そのほうがずっとよいでしょう」
「それはその通りだが……」
「今日の会議には、わたしもごいっしょします。昨日、殿下と議題についての仔細は打ち合わせておりますので」
「そなたでは、話にならん」
「わたしは、殿下より内大臣の任命を受けています。その資格はあるはず」
 侍従長は侮蔑したように、ちらりと見た。
「道理でこのところ、テアテラに都合のよい決定ばかりが下されるはずよな」
 恨みがましく口の中でつぶやいた彼のことばを、ジュスタンは聞きとがめた。
「どういう意味ですか。オジアスどの。言いたいことがあるなら、はっきりとおっしゃればよろしかろう」
「この数ヶ月、国庫の糧食のいくばくかが、テアテラへ運ばれているのを知らぬとでも思うか」
「あれは、エリアルさまのご英断です。すでにテアテラ政府は、王都周辺でしか機能していません。分断された地方の飢えた民を配慮して、食糧を届けてくださっているのです」
「おぬしの巧みな甘言によるものであろう。でなければ、パロス内の物価統制もままならぬのに、国庫を敵国に開くなどという暴挙が、あるはずがない」
「それでは、結界の解かれた国境から、大挙して帝国領内に難民が押し寄せても、よいと言われるか!」
 ジュスタンは、雷鳴のような譴責の声を上げた。
「次の年の種さえ食べてしまうような疲弊した国民を敵側がわざと見捨て、難民として帝国領に送り込む。そういう戦略をテアテラが取る可能性をお考えにならないのか」
「……う」
「わたしは、すでに祖国を捨てた。テアテラは敵でしかない。帝国のために命を捨てろと言うなら、いつでも喜んでそうします」
 今まで目立つことを恐れて口数少なく、周囲の敵視にじっと耐えていた若者だとは思えないほど、今のジュスタンは直情的かつ攻撃的だった。
 そのあまりの変わりように、侍従長は怖気をふるった。
「わ――分かり申した。今日のところは、そなたも出席されるがよい。だが、その魔導士のローブだけは、脱ぎなされよ。皇宮の代表としてふるまいたいならば」
「ありがとう存じます」
「デルフィアが、なにやら不穏な動きをしておるようだ。気をつけよ」
「承知しました」
 憮然として去っていく侍従長の背中に、ジュスタンはあからさまな敵意を投げかけた。
「『なにやら不穏な動き』だと。今ごろ何を言っている」
 デルフィアの選帝侯フェルナンド候の思惑は、とっくに見抜いている。
 選帝侯会議で、長子フェルナンドと皇女エリアルとの結婚を提案し、いずれは彼を皇帝の座につかせることが目的なのだ。
 現王朝が滅亡し、デルフィア王朝が始まるとなれば、大きな混乱が予想された。だがふたつの旧王家が結合することにより、帝国は今よりもさらに強固な一枚岩となるという利点もある。
 一方、皇宮側の提案は、皇太子エセルバートを名目だけの皇帝に据え、エリアルが摂政として補佐する、というものだ。新ティトス帝国の歴史始まって以来の事態だが、ほかに皇帝を継ぐべき直系の男子がいない以上、これしか道はない。未来に大きな不確定要素を残すことになる提案だった。
(フェルナンド候――父子ともに、度を過ぎた女好きだと聞いている)
 こんな話し合いの席にエリアルを同席させたくない。好色な男の視線にエリアルがさらされることを考えただけで、虫唾が走った。
 万が一にもデルフィア案を、来週の選帝侯会議の机上に乗せてはならなかった。
 そのために、ジュスタンは慎重に根回しを進めてきたのだ。
 選帝侯は六人。帝国直轄領、テアテラ、エペ、ペルガ、そしてデルフィアとスミルナ各領を治める領主六人である。
 そのうち、テアテラは帝国から離反しており、出席する資格を持たない。
 デルフィアとスミルナは隣国同士。古くから結びつきが強く、今回も結託して、二票はデルフィア案に投じられるだろう。
 エペとペルガは、領土をテアテラに占領され、選帝侯一族ならびにその高官たちは、パロスに亡命中だった。
 かれらの滞在費だけでも、皇都は莫大な金銭をつぎ込んでいた。それゆえ、エペとペルガは皇宮の言いなりになるはず。さらに念には念を入れて、幾重にも懐柔策を弄してある。
 帝国直轄領の代表、パロス候はほかならぬエリアルであり、これで過半数に必要な三票はそろったことになる。
(今日の予備会議で、完膚なきまでに叩きのめしてやる)
 ジュスタンは、会議室の隣の控えの間で、魔導士のローブを脱ぎ捨て、貴族の礼装を身につけた。よじり合わせた赤い髪が、白の刺繍入りコートにいっそう映える。
 正統剣術の祖と言われる旧サルデス王家。その血を汲む皇族とその臣下たちの礼装は、代々にわたって、細身の飾り剣を必ず腰に帯びる。
 剣を手にしたとき、ふとルギドやラディクのことを思った。
(このところ、彼らから音沙汰がないな)


 あのテアテラ王都南の戦場で別れて以来二ヶ月、ルギド、ラディク、ゼルの三人は一度もパロスに帰ってこなかった。
 あの常識やぶりの退却劇は、魔族軍側の被害よりも、テアテラ軍側の被害のほうが、はるかに甚大だったと聞く。そのため、テアテラ軍は態勢を立て直すために、いったん首都に引き返さざるを得なかった。
 結界の塔を破壊したルギドたちが魔族の村に戻ると、時をうつさず防備と再戦への準備が開始された。
 一方、帝国領内にいた鍛冶屋オブラ率いる魔族軍は、テアテラの結界が破れるや否や、国境の森を陸路で、あるいはベアト海を海路で、テアテラ領に侵攻した。
 その数、六万。整然とした隊列と完璧な装備は、何ヶ月も前から準備を整えられていた正規軍のそれだったという。
 進軍の後からは、別仕立ての輸送隊が、大量の食糧をテアテラの山村に配って回った。
 村々の中には当然のことながら、レイア女王に忠誠を誓ってバリケードを築き、あくまで徹底抗戦を叫ぶところもあった。が、魔族軍はあくまで戦闘を交えることをしなかった。ただ、バリケードの外に食糧や医薬品を置き、そのまま進軍した。
 大多数の村にとって、食糧を配っているのが誰かということは関係なかった。彼らはそれほど飢えきっていたのである。
 エリアルは、ルギドの送ってきた伝令の報告を聞いたとき、まだ父帝の死の衝撃に打ちひしがれている最中だったが、それでも身体を引きずるようにして立ち上がり、帝国の国庫をテアテラに向かって開くように指示した。
 あのユツビ村で見た飢えた子どもたちの憎悪の目が、慟哭のさなかにいたエリアルを奮い立たせたのだ。
 南部の情勢が半月ほどで落ち着きを取り戻すと、ルギドのもとにひとつになった魔族の連合軍は、本格的な四個師団として機能し始めた。
 その戦果は今のところ順調だと聞く。
(ルギドの采配のおかげで、わたしたちは帝国軍を一兵たりとも動かさずに、こうやって権力争いにだけ集中していられる。だが……)
 正直言って、早くパロスに戻ってきてほしいと思う。彼がいれば、エリアルも自分も、これほどの重圧に押しつぶされずにすんだはずだ。
 ふたりの関係も、これほど抜き差しならない状態にはならなかった。
 ジュスタンは、その考えを無理矢理にふりほどいた。
 何を弱気になっている。ジュスタン・カレル! 己ひとりの力でここまでやってきたのではないか。
 エリアルさまは必ずわたしが守ってみせる。これからも、わたしひとりで。


 予備会議は、選帝侯会議と同じ、【円卓の間】で行なわれた。
 上座のない巨大な円形のテーブルは、選帝侯会議においては皇帝もひとりの選帝侯にすぎない、という意味合いをこめられている。
 初代皇帝アシュレイの悲願とも言える理念だった。そして、それこそが代々の皇帝たちのもっとも嫌ったものなのだ。
 皇帝が実質的に世襲となり、選帝侯会議が形骸化してから六百年間使われなかったこの部屋は、帝国初期の気の遠くなるほど緻密で荘厳な装飾で満ちていた。
 オジアス侍従長がまず、この会議の主催者として、短く挨拶した。皇女エリアルが急病で出席できぬことを詫び、選帝侯ひとりひとりへの謝辞を述べた。
 ジュスタンと侍従長の真正面には、デルフィア候フェルナンドの長子、フェルナンド。その右隣が、スミルナ候トビアスの甥。さらにその右がエペ候、ついでペルガ候の血族が、それぞれ名代として座している。さらに、円卓の背後には、大勢の執務官、武官、また書記たちが侍っていた。
「初代皇帝より三十六代の長きにわたり、皇帝の冠はアシュレイの子孫から離れたことはありませんでした」
 ジュスタンは一同を見渡しながら、魔法の詠唱で鍛えた伸びやかな声で発言する。
「直系の男子が存命する限り、オーギュスティン家が皇位を継承する。この掟は千年のあいだ、不文律として存在しました。なぜ今、選帝侯会議の召集が要求されたのか、理解に苦しみます。皇太子エセルバートさまという、立派な皇位継承者がおられるではありませんか」
「おことばではありますが、内大臣どの」
 デルフィアのフェルナンドは、髭をたくわえた口元に、うっすらと笑みをうかべた。
「エセルバートさまは、テアテラとの戦闘に於いて、重篤な傷を受けられたではありませんか」
「確かに、その傷はいまだ完全に癒えてはおりません」
 ジュスタンは、相手の言わんとしていることを、いさぎよく認めた。
「ご自分の名前も満足に綴れないとうかがいましたが」
「どこから、そんな無礼な噂をお聞きになったか存じませんが」
 ジュスタンは、鷹揚に微笑んだ。
「たとえそれが真実だとしても、医学は日々進歩しています。将来傷が癒えるという可能性は大きい。それまでのあいだ、皇太子の妹君であられる第一皇女エリアルさまが、補佐をすればよいことではないでしょうか。エリアルさまは」
 ジュスタンは、しばし呼吸を継ぎ、朗々と確信に満ちた声を響かせた。
「帝国軍の指揮にもすぐれ、サルデスにおける戦闘にも堂々と勝利なされました。テアテラ南部まではすでに、帝国の手中に収めています。初代皇帝アシュレイの【勇者の剣】に選ばれたということも、お聞き及びでしょう」
 【勇者の剣】と聞いて、選帝侯名代や高官たちの表情が揺らぐ。
 多少はったりではあったが、今はそんなことを言ってはおられない。相手を圧倒して、会議の主導権を握ることが先決なのだ。
「皇女殿下の武勇と誉れ、すでに承っておりますよ」
 デルフィア候子息フェルナンドだけが、さっぱり動じていない様子だった。
「だが、それでも殿下は女性の身。将来、結婚されることも計算に入れておかねばなりません。恐れながら、どこかの馬の骨と結ばれることにでもなれば」
 まっすぐにジュスタンを見つめながら、滔々と続ける。
「それこそ一大事。将来にわたる禍根を残すこととなりましょう」
 その口元に浮かぶいやらしい笑いを見たとたんに、ジュスタンはかっと頭に血が昇るのを感じた。
 自分のことを言われているのだ。
「……殿下は思慮深くあらせられるお方です。万が一にも、そんなことはありえません」
「男女の仲に、絶対ということはないのですよ。お若い方」
 その方面では歴戦の勇者と名高いフェルナンドは、あわれむように言った。
「ですから、帝国の安泰のために、選帝侯会議で皇女殿下の縁談を整えてさしあげるべきだと、申しておるのです。そうすれば、たとえ皇太子がお世継ぎを授からなくても、皇族の血は殿下を通じて後の時代に引き継がれます」
 そして、ゆっくりと頭をめぐらした。「そうですな、エペ候名代マルコスどの」
 小心そうなエペ高官はおびえたように、かくんと首を下げる。
(しまった)
 それを見たジュスタンは、沸騰した全身の血が急速に冷えていくのを感じた。
(エペ候は、デルフィアについた。まさか、そんな)
 エペともペルガとも幾度となく交渉を持ち、パロス側につくという確約を得ていたはずだ。
 裏切られた。
 愛想のよい笑顔の影で、天秤にかけられていたのか。
 交渉役を命じた帝国の執務高官たちは、それを見破れなかったのか。それとも、わかっていながら報告しなかったのか。
 所詮、自分が皇宮では一匹狼でしかなかったことを、この土壇場において、ジュスタンはいやというほど噛みしめるしかなかった。
「お顔の色が悪いようですな。内大臣どの。今日の会議はここまでにしたほうが良いのでは」
 フェルナンドの嘲る声が、はるか遠くから聞こえてくる。


 パニックを起こして怒鳴りまくる侍従長を会議場に残し、ジュスタンは控えの間にひとりで戻ってきた。
「くそっ」
 腰から抜いた飾り剣を、床に叩きつける。
 ペルガがこちら側についてくれたとしても、三対二。今から工作しても、勝ち目はない。
 姫さまが、あの好色な男のもとに嫁ぐ?
 フェルナンドに組み敷かれるエリアルの裸体を想像しただけで、吐きそうだ。
 レイアとユーグのことを想像するときと同じ。頭の中が真っ白になる。
「……殺してやる」
 袖のカフスをぐりぐりとむしり取りながら、ジュスタンは我知らずつぶやいていた。
「おい、そんな悪人づらしてると、色男がだいなしだぞ」
 突然、背後から声が響き、飛び上がる。
「その顔色から察すると、ちょうどギリギリのタイミングだったようだな」
「……おまえ」
 いつのまに部屋に入ったのか。
 竪琴を片手にテーブルの上に胡坐をかいて座っていたのは、テアテラにいるはずの吟遊詩人、ラディク・リヒターだった。







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