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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 27



 ひとりの男が、砂漠に立っていた。
 かつて、この地は彼の故郷だった。この途方もなく広大な荒地を揺籃(ようらん)として自分は生まれたのだと、少なくともあの頃はそう信じていた。
 もの心ついたときにはすでに、おのれの知恵を用いて生きるための糧を得ていた。
 やがてその強靭でしなやかな腕には、ひとふりの剣が握られた。その様はまるで、乾いた岩の裂け目からひとりでに芽ぶく、棘のあるオルティーガのようだった。
 何も考えず、ただ力だけを欲し、この世界で最強といわれる存在【魔王】を倒すことが生きる目標だった。それが、自分の半身を求めることだとも知らず。
 今になって彼は、おのれの生涯の中で、いったい何が真実で何が偽りだったかを測れないでいる。
 ジョカルという、後に彼の副官になった男が幼い彼に植えつけたのは、「両親を魔王軍に殺された」という偽りの記憶だった。
 やがて、死に臨んだジョカルは、真実を告白した。彼の正体が【畏王】という一万年前の殺戮者であるという途方もない真実を。「ティトスを滅ぼしてください」という悲痛な最期の叫びとともに。
 しかし、ジョカルが偽っていたのは、そのことだけなのか。
 彼の記憶の中には、もっと大きく、もっと巧妙な陥穽が張りめぐらされているような気がしてならない。
 暗黒の向こうに見え隠れするもの。つかもうと手を伸ばすと、するりと逃してしまうもの。
 虚を真に、真を虚に。イオ・フ・アハム、アハム・フ・イオ。
 別の大陸。別の世界。別の次元――
「ルギド」
 柔らかい声が背後から聞こえて、彼は我に返った。
 少女のすんなりと伸びた長い金色の髪は陽光に照り映え、見る者の目をまぶしいほどに射る。
 エリアル・ド・オーギュスティン、新ティトス帝国の第一皇女。千年前に死んだ腹心の友アシュレイの血を色濃く受け継ぐ直系の子孫。
「こんなところに長いあいだ立っていて、暑くないのか。特に魔族は太陽の光と乾燥を嫌うものだと聞いたが?」
「ああ、魔族は人間ほど生命力が強くない。暑さも寒さも苦手だな」
 ルギドは、笑いを含みながら答えた。
「……だが、千年前は、これほどではなかった。季節によっては、ここらあたりは、青々とした草が地一面を覆ったものだ」
「サキニ南部地帯の砂漠化が進んだのは、この数十年のことだと言われている。そのせいで、かつての中世の大都市、ワドルやエクセラはすっかり荒廃してしまった」
 ふたりの足元のさらさらと細かい砂の下には、千年前の大商都の光り輝く尖塔や赤レンガの石畳が埋まっているのだ。
 砂を踏みしめ、自然でなめらかな動きで、エリアルは彼のかたわらに寄り添うように立った。
 ルギドの隣のこの位置は、かつて妻のアローテが占めていたはずの場所なのだと思うと、疼くような優越感を覚える。それはまるで父親を独占したいと願う娘のような、馬鹿げた子どもじみた感情だ。
「一方、北部一帯は、この大規模な灌漑によって緑の肥沃な土地へと生まれ変わった。しかし、大量の地下水のくみ上げが地盤沈下を引き起こし、逆に、季節の大雨による洪水に悩まされるようになった」
 まるで罰を受けているかのように、肺を焦がす熱い空気を胸いっぱい吸い込み、エリアルは大きな吐息をついた。
「人間の機械文明が大気と土を汚したせいで、エレメントの力が弱くなっているのか。そして、これほどにサキニ大陸の気候を変えてしまったのか。今から千年後、このティトスはどんな姿になっているのだろうと思うと、少し怖くなる」
 ルギドは、からかうような視線を注いだ。
「パロスの皇女とあろうものが、テアテラの文明否定論者たちと同じことを言う」
「帝国は、もっと早くこのことに気づくべきだったのだ。そうすれば、我々はそもそも戦う必要などなかった」
 唇を引き結ぶエリアルに、ルギドは諭すような声音で言った。
「迷ってはいけない。この戦いは行き着くところまで行き着かねば、もう誰にも止められぬ」
「ああ」
「一度手をつけた剣は、中途半端に鞘に収めるべきではない。敵への憐れみに目を曇らせてはならぬ。テアテラ王宮に属する者どもを完全に除ききるまで、ティトスにおいて戦いの火種は永遠にくすぶり続けると思え」
「わかっている」
 はるか北の地平線に目をやったままのルギドの美しい横顔を、エリアルはそっと盗み見た。
 彼が口にしたこと。それは、ジュスタンの兄ユーグをはじめとするテアテラ近衛兵団を完全に抹殺することであり、テアテラ女王レイアを永遠の封印に閉じ込めることを意味するのだ。
 だが、ルギドの顔に浮かんでいたのは、悲壮な決意ではなく、むしろ運命を淡々と受け入れた者だけに許された、穏やかな笑みだった。
(では私も、何も迷うまい)
 左の腰に帯びた聖剣の柄に手をかけて、ふたたび思いを新たにする。
(やがて、地獄と見まごう苦悩の日々がやってくる。私はその中で、毅然と立つ一本の大木のようでありたい。彼らが、束の間の緑陰を求めることのできる存在となれるように)


 オアシスの水の畔に設営された数百のテントの頂上で、赤黒の三角旗が乾いた熱風に揺れていた。
 赤は帝国を示し、黒は魔族を表わす。このたびのサキニ遠征において結成された連合軍を象徴する、新しい軍旗だった。
 帝国軍七万。率いるは、老将軍ヴァルギス。
 魔族軍三万。帝国領内の魔族の中から募られた、よりすぐりの精鋭ぞろいだ。率いるは、帝国領内の全魔族軍を司る軍団長オブラである。
 一方、パロスに駐留していた四万のテアテラ魔族軍はと言えば、火棲族族長エグラの引率によってテアテラ領に戻り、今それぞれの故郷で疲れを癒しているところだ。あの勝気な火棲族の女たちは大騒ぎで、帰還した亭主や息子たちを迎えたことだろう。
 テアテラ王都攻防の連戦に次ぐ連戦で兵たちが受けた疲労は、実際のところ限界に達していたのだ。
 厳しい寒さが去り、木の芽が芽吹く季節になれば、村の再建も本格的に始まる。負傷のため脱落していた魔族たちが軍に復帰し、テアテラ魔族軍十万がふたたび力を蓄えれば、今の帝国にとって貴重な戦力となる。
 魔族軍の撤退に、皇都パロスの守りが薄くなることを心配する腰抜け高官たちもいたが、事実はむしろ逆である。
 魔族軍がテアテラに帰還したことにより、テアテラ王都をはじめとするエルド大陸北部全体に網の目のような治安系統が張り巡らされるのだ。
 その証拠に、無政府状態に陥ったテアテラの人間たちは、魔族を信頼し、彼らを通して徐々に帝国の援助を受け入れ始めている。
 目を転じて、南のラダイ大陸。
 皇宮に何かと反感を抱くフェルナンド父子が治めるデルフィア領には、帝国軍の一個師団がすでに派遣された。
 そして、敵が潜むサキニ大陸を掌握せんとするは、五十隻の帝国艦隊と十万の連合軍。
 帝都は、巨大な防衛線に、ぐるりと三方を取り囲まれていることになるのだ。
 しかし、肝心の敵軍の動向がいまだに見えない。このことは、指揮官たちの目下の悩みの種だった。


「彼らは、トスコビの南約八十キロのところまで北上しています」
 大きな司令官用の机にサキニ大陸の地図を広げつつ、ジュスタンは説明する。
 この暑さにも関わらず、絶対に魔導士のローブを脱ごうとしないのは、相変わらず彼なりのこだわりだ。
 ラディクは、上半身は胸飾りのチェーンしか身につけないという軽装で、テントの隅のベンチに寝ころがり、エリアルは彼の方にまともに視線を向けられないでいる。
 そしてルギドは、従者のゼルの翼を使って涼風を送らせながら、訊ねた。
「魔導士軍の数は」
「およそ一万から一万五千と言ったところ。サキニ大陸に派遣されていた駐留軍も合流しています。それでも王都決戦のころに比べれば、わずか数分の一にしかすぎませんが」
 それ以外の魔導士たちは、ほとんどがテアテラ国内で王都決戦のときに戦線を離脱していた。
 ルギドは、敵兵の殺戮を好まなかった。魔法という文明をティトスから消してはならない。それが、『帝国の祖』である者の強い意志だった。
 魔族軍は長い準備期間をかけ、あらゆる労を惜しまずに情報戦をしかけた。魔導士たちには真摯な態度で投降を勧め、あるいは巧みに内部分裂をうながした。
 それがわずか一週間でテアテラ軍が総崩れになった最大の理由であり、レイア女王は決戦の始まる前から、すでに国内に居場所を失っていたのだ。
 だが逆に言えば、今の一万の魔導士軍団は、それだけの覚悟と決意をもってレイア女王に付き従うことを決めた者たちと言えよう。
 最後の戦いは、今までのようにはいかない。数だけで戦況をおしはかる愚は、絶対に禁物だった。
「それでは、なぜ我々は北に進軍するのを、ためらっておるのだ」
 見事なひげを、滴り落ちる汗でしおれさせたヴァルギス将軍は、いらだちを隠そうともせずに言いつのった。
「近衛兵団が、二手に分かれたのです」
「近衛兵団とな?」
「最強の魔導士軍団と呼んでよいでしょう。王都決戦のときにおよそ二百名が斃れ、あるいは離脱したものと思われますが、残りの三百名のうち約五十名が主流から離れ、ここから南に転進を始めたのです」
「ワドルの遺跡から南に向かったということは」
 テーブルに身を乗り出したエリアルは、地図を丹念にたどった。
「ここから先は、無人の山岳地帯があるばかりではないか」
「そうです。その山の奥に彼らは向かった」
 ジュスタンは、重々しい調子で付け加えた。「しかも、このあたりは古来から、【竜の棲み処】と呼ばれる場所です」
 一同は、一瞬呆気にとられた。
「【竜】だって?」
 ラディクが、小ばかにしたような声をあげた。「そんなものがこの世界にいると?」
「いないとは言えぬぞ」
 エリアルが顎に拳を押し当て、考え込む仕草を見せた。
「ティトス随一の賢王と謳われたスミルナのゼリク大王は、若いころに竜と三日三晩闘ったと伝えられる」
「それこそ、おとぎ話だ」
「それだけではない。先だっての皇帝即位の宴の席で、亡命中のエペ候がさかんに自慢していたことには、千年前、何某とかいうエペ王宮の騎士団長が、サキニ大陸の南の果ての峡谷でブルードラゴンを倒したそうだ。彼はその功で、ゼリクと同じ【竜殺し】の異名を与えられたと」
 ルギドが何か言いたげに身じろぎしたが、結局口を開かなかった。
「証拠でもあるのかよ」
「竜の鱗が、エペ宮殿の博物館にあるらしい。ぜひ新皇帝のご高覧の栄を賜りたいなどと言っていたが――要するに、自分の領土を一日も早く取り戻してほしいという催促なのだろう」
 エリアルは、選帝侯たち相手の数々の不毛な会談を思い出して、ため息をついた。
「きっとそれも、鮭かなんかの鱗を、それらしく細工したんだろ」
「そうあってほしいのですが」
 ジュスタンは、固い調子でことばを継いだ。
「十年ほど前、峡谷の奥深くに巨大な建造物が発見されました。それは、古代ティトスのどの建造物とも異なった様をしており、その形の異様さから、【竜の神殿】ではないかと報告者は言っています。もし竜が、かの地に生息しているのだとしたら」
 彼は、自分自身のことばに怖気をふるった。
「死するまで女王のそばにおり、女王を守るべき近衛兵団が、あえて二手に分かれる理由がわかります。召喚獣と同じように彼らが竜をあやつる術を知っているとすれば――今の帝国に有利な戦況が一気にひっくりかえされる恐れがあります」
 彼らの脳裡に、大空を覆い尽くす巨大な翼影が映る。【竜】というのは、このティトスに住む者にとって根源的な恐怖だ。誰も見たことがないくせに、いつかどこかで見たという記憶を持っている。
 一匹の竜がテアテラの味方に加わっただけで、帝国領を囲んでいた完璧な防衛線は、いともたやすく破られてしまうだろう。それほどに【竜】というのは、強大な存在なのだ。
 一万年前まではおよそ五十頭の竜が棲み、ティトスに君臨していたという伝説が残ってはいるが、具体的な証拠と呼べるものは、ほんのわずか。
 その未知の脅威におびえるのは、果たして正しいことなのか。
「こちらも二手に分かれる」
 ルギドは、しばらくの黙考の後に決断を下した。
「連合軍は、海と陸の包囲網を使い、テアテラ軍をじわじわと北に押し上げよ。だが決して追い詰めてはならぬ。ヴァルギス将軍とオブラのふたりで陣頭指揮を取れ」
 オブラは黙って頭を下げたが、ヴァルギスはあくまでも頑なに、彼の仕える皇女を見つめた。
「将軍。頼む」
 エリアルの承認を得てようやく、かしこまって「はっ」と頭を下げる。
「敵が少人数で行動するというなら、こちらも倣わねばならん。俺たち五人が敵の遊撃部隊を追って、【南部峡谷】に入る」
 待ってましたと言わんばかりに、ラディクは身を起こした。
 連合軍という大所帯で過ごしたこの数週間。厳しい軍紀に縛られ、窮屈な生活を嫌う吟遊詩人にとっては気詰まりの連続だったのだ。
「そうと決まれば、さっそく出立する。あそこの山は深い。最奥地に入るには、どんなに急いでも徒歩で五日はかかるはずだ」
「そのことだが、ルギド」
 エリアルが、顔を輝かせて申し出た。
「山を越える恰好の手段があるのだ。準備のため明日の朝まで待ってもらえないだろうか」
 ルギドはとたんに、うんざりした表情を浮かべた。
「まさか、この時代には空も飛べる乗り物まである、というのではあるまいな」
「……」
「まあ、よい。もう何を見ても驚かん。わずか三時間でサルデスを縦断する蒸気機関車を見、帆を張らずにトビウオよりも速く走る船を見てしまったあとではな」
 笑いをかみ殺しているラディクを、ルギドは思い切りにらみつけた。
 軍議が終わり、出席者が入り口の垂れ幕を頭を屈めずに出て行った――ルギドのテントは他のものより天井が1メートルも高い特別仕様だった――ときも、ジュスタンだけは何か言いたげに、テーブルのかたわらに立っていた。
「まだ話したいことがあるのか」
 ゼルの腹をくすぐりながら、ルギドが訊いた。
「本当によかったのでしょうか」
 しゃべり始めたジュスタンの声は、どこか消え入りそうな響きがした。
「奴らのおおっぴらな行動を見ていると、これは我々を分断させる策略のような気もします」
「おそらくはな」
「あえて、敵の策略に嵌まってやるおつもりですか。それとも……」
 彼はルギドの顔を見つめた。言葉を濁している魔導士に、銀髪の魔族は微笑んだ。
「俺が、レイアとの戦いを先延ばしにしている。そう言いたいのだろう」
「いいえ、そんな」
 ジュスタンはあわてて首を振った。
「そう願っているのは、わたしのほうです。主戦場とは逆方向の南に向かうと聞いて、情けないくらい安堵しました」
「何も、焦る必要はない。レイアにまみえるときは、いずれ来る」
「はい。承知しています」
 ルギドは、物憂げに続けた。
「それに、この話は俺には看過できなかった。竜と聞くと、なぜか身の内にたぎるものを感じるのだ」
「竜は、この時代も生きているとお考えですか」
「そもそも千年前、あの山中でエペの騎士団長とともにブルードラゴンを倒したのは、この俺だからな」
「本当ですか」
「奴らはときおり、はるか南の果てから飛んでくる。巨大な翼をもて大海を渡ることのできる唯一の種族――竜の伝説が北にはまったくなく、南のスミルナやエペに多いのは、そのためだ」
「南――南の海の向こうに、竜が棲むことのできるほどの大きな島があるというのですね」
「島か……。ことによると、ティトスのほうが島なのかもしれぬ」
 ルギドは、物思いを振り払うように立ち上がった。
「おまえの危惧したことは事実だ。テアテラはおそらく、竜をこの地に呼び寄せ、召喚獣として使おうと目論んでいる」
「……なんということを」
 ジュスタンは、汗をかいた拳を握りしめた。「そこまで手段を選ばぬとは……。レイアは帝国だけではなく、ティトス全土を滅ぼすつもりなのか」


 乾燥地帯特有の凍てついた朝焼けに照らされて、とてつもなく巨大な球が大空に浮かび上がった。
「【気球】と、我々は呼んでいる」
 エリアルは、千年前の世界から来た魔族の王に対して、律儀に説明を始めた。
「球内の空気を熱して浮力を得る仕組みだ。だから気流が安定する朝夕にしか飛べない。今までは主に帝国内の地図を作るのに使われてきたが、今回は、偵察用にと軍艦に積んでおいたのだ」
「翼も何もない、こんな無様なものが空を飛ぶのか」
「安心しなよ。俺だって、いくら原理を聞かされても全然納得いかねえ」
 ラディクの半分慰めるような調子に、ルギドは不機嫌そうに唸った。
「私も、実際に乗るのは初めてなのだ」
 と言うと、エリアルは歩き始めた。整備兵や将校たちが両側で敬礼する列の間を、皇女が先頭に、次いで他の四人が次々とゴンドラに乗り込んだ。
 ゴンドラの中は、十分な広さがある。ふたりの操縦士の操作により、中央のバーナーが真っ赤な火を吹き上げると、地上にいる整備兵たちがワイヤーを解いた。
 気球はふわりと空に解き放たれた。
 くすんだ青灰色の球は、空の色に溶け込んで次第に見えなくなった。
 気球はさらに、ぐんぐんと上昇を続ける。空から見ると、人や野営のテントはまるで豆粒のようになり、遠く内海にマストを輝かせる帝国艦隊や、南部峡谷の青々とした稜線がくっきりと見える。
「すげえ」
 ラディクは、初めて見る360度のパノラマに目を奪われた。
「地上で見るのとは全然違う。これが俺たちの住むティトスなのか」
「地図作成の任務で、気球にいつも乗り組んでいる技師の話を聞いたことがある」
 エリアルが彼のかたわらで、言った。
「気球から景色を見ていると、神の視点というものを思うと。神は、このティトスの住民たちを卑小だと思し召し、その心に計ることはさらに卑小だと、お笑いになっていることだろう。神がそんな私たちを滅ぼさぬのは、憐れみ以外の何ものでもない」
「案外、さっさと滅ぼしたがっているのかもな」
 ラディクは皮肉な笑みを口の端にのぼらせた。「それはそうと、これはちゃんと目的地に向かっているのだろうな」
「それが、気球の厄介な欠点なのだ。適切な気流を探し出すまでは、自分の思う方向に行けない」
「ちぇっ。どうせそんなことだろうよ」
「あ、それなら、おいらが南へ向かう風を探してきますよ」
 ゼルは、ルギドの肩からふわりと舞い上がった。「なにせ、風を見つけるのは、おいらの唯一の得意技ですから」
「頼む。ゼル」
 小さな飛行族は、しばらく上空を8の字に飛んでいたが、やがて申し訳なさそうに戻ってきた。
「風が上のほうにあるにはあるんですが、すごく弱いんです」
 エリアルは、中央のバーナーのガスの炎に、火の術法で加勢している黒魔導士に振り返った。
「ジュスタン。悪いが、魔法で強い風を送ってくれないか」
「わ、わかりました」
 ゴンドラ内を歩くジュスタンの足元がおぼつかないのを、ラディクが目ざとく気づいた。
「おまえさ。もしかして高いところが怖いのか」
「お、思い出させないでくれ」
 ジュスタンは小刻みに震えながら答えた。
「テアテラを脱出するとき、雪崩に巻き込まれて崖から落ちた。それ以来、この調子なんだ」
「ふうん」
 ラディクは悪魔のような笑みを浮かべると、ジュスタンの首筋を腕で羽交い絞めにして、ゴンドラの縁に上半身を乗り出させた。
「こういうのは、いちかばちかのショック療法が効くんだぞ」
「うわっ。うわーっ」
「ふたりとも、あまりゴンドラを揺らさないでくれ」
 まるで子どものようにはしゃいでいる男たちに、エリアルは呆れ果てたような視線を向けた。そして、ルギドが静寂を保ちながら、ずっと南の一点に視線を定めているのに気づいた。
「そちらの方角が、【竜の神殿】だ」
 皇女は、彼の背中越しに低く声をかけた。「気になるのか」
「ああ」
「気球が発明されてから初めて発見されたほどの奥地だ。ひどい難路のうえ、峰をいくつも越える。徒歩で向かった敵の遊撃部隊よりも、我々のほうがきっと先に到着するはず」
「奴の叫びが聞こえるのだ」
「奴?」
「【竜】のことだ。テアテラの近衛隊はすでに、離れた場所から、魔法で奴の意識を縛り始めている」
「魔法で意識を?」
 ルギドは、険しい表情のまま振り向いた。
「――急がねばならん」
 魔族の王のひそかな焦りとはうらはらに、空の旅はのんびりと続いた。
 彼らが五人で行動するのは、昨年春の王都決戦で離れ離れになって以来。実に七ヶ月ぶりのことである。戦況は決して予断をゆるさないはずなのに、どこか心が浮き立つような気分になるのは、そのせいかもしれない。
 ラディクは暇にまかせて竪琴を取り出し、眠気を催すほどのどかな調子で古い牧歌を奏でた。

 広遠なる大地
 朝もやの中で まどろむ
 一条の光 射し
 鳥はねぐらから舞い立つ
 ものみな黄金に輝き

 美しきかな わがティトス
 美しきかな わがティトス
 永久(とわ)に 栄えん


 敵に気取られぬように深い谷を越え、低く尾根伝いを選びながら、気球はやがて【竜の神殿】と呼ばれるものを空から発見した。
「これでは、古代ティトス帝国から一万年のあいだ、誰も気がつかなかったのも無理はない」
 ジュスタンが、感極まったようにうめいた。
 峡谷の奥深く、まるで一本のとてつもない巨木が、周囲に根を張り巡らせているとしか見えない。人工の建築物にしては、およそ直線というものがないのだ。
 地上から見ている限り、決してわからなかっただろう。だが、気球を発明し、高い位置から俯瞰する視点を持ってはじめて、人類はこの場所に、知性を持つ者だけが造ることのできる規則性を見出した。
 入り口とおぼしき穴は、正確に東西南北に向かっている。そして、その入り口に続く、石を荒く削って積み重ねた階段の幅も、四方ほぼ均等だ。
「敵が到着している可能性もある。少し離れたところに降りよう」
 近くの森にわずかな空き地を見つけると、エリアルが着地を命じた。
 気球は正確に、音もなく大地に降りた。
 操縦士たちにここで待つように命じると、彼らは木々にまぎれながら、慎重に神殿に近づいた。
 北側の門に立ち入り口を見上げる。一段の高さが一メートルほどもある巨大な階段は、人間や魔族の存在をまったく考慮せずに作られていることがわかる。
 ここは、確かに巨大なる生物の棲み処だ。
 彼らがそう確信したときだった。
 建物の内部から、耳を聾するばかりの咆哮が聞こえた。聞くだけで、あやうく全身が麻痺しそうな声。
 音だけを聞けば、知性のない野獣の叫びだ。しかし、それには意味があった。
 頭に直接響く【ことば】。
 もしそれが風という意味なら、聞く者の全身を風が吹きぬけるような心地がしたことだろう。
 大地という意味なら、聞く者の細胞ひとつひとつに地響きが走ったことだろう。
 だが、今のそれは、怒り。本能に働きかけてくる臓腑を震わすような怒り。
 エリアルはその怒りに全身を切り刻まれるような悪寒を覚え、まるで幼子のようにルギドの背中に隠れたくなり、両足をふんばった。
「本当に、いたのか――」
 ラディクは、今聞いた音を自分の知る言葉に置き換えようとしたが、その努力はすぐに放棄せざるを得なかった。
 あまりにも豊か過ぎる。凄まじ過ぎる。これに比べれば、今まで彼の歌ってきた歌など、何も表現していないに等しい。
 隣にいたジュスタンが、茫然とつぶやいた。
「魔法の根源なる言葉――」
 神殿の中から、巨大な黄金色の体が現われた。鱗から伸びる体毛は、一本一本がまるで剣のように鋭く、回りの空気を切り裂かんばかり。息を吐くたびに、岩穴のような鼻から、もうもうたる蒸気が神殿の屋根を覆いつくすほどに吹き上げる。
 鎧戸のごとき瞼が開くと、その両眼は、高温の溶鉱炉を思わせる白熱の光を帯びた。ゆっくりと首をもたげ、太い鞭のような髭をしならせて、身をよじりながらひと吼えすると、黄金竜はふたたび侵入者たちに焦点を定めた。
 いや、そうではない。
 竜が焦点を定めたのは、その中のただひとりだった。
 その者、ティエン・ルギドは身じろぎすらせずに、血よりも紅い瞳で竜を睨み上げた。
[イオ・ラドム]
 その薄い唇が静かに発した言葉が、竜の呼び名であることは明らかだった。
【支配されぬもの】。
 その内包する意味さえも、音は克明に伝えていた。
 竜は、真っ赤な口の端を引きつらせた。あたかも、笑ったように。
[ひさしぶりだな]
 竜は咆哮とともに言った。
[わが兄弟。イオ・ルギド]
       






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