BACK | TOP | HOME




The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 33



 トスコビの町にようやく、いつもの笑顔が戻った。
 ペルガ領主が帝都から運んできた大量の食糧や物資が行き渡ると、往来には荷馬車や買い物客が、ひっきりなしに行き交い始めた。
 壊された店先や路地を片付ける、威勢のいい掛け声の隙間をくぐり抜け、ラディクはためらうことなく、ひとつの古い建物に入っていった。
 薄日に埃の舞う通路を奥に向かって進むと、ひとつのドアに、喪中であることを示す黒い布がかかっていた。
 ノックをすると、疲れきった表情の男が出てきた。
「旅の吟遊詩人です。こちらに、今回の市街戦で亡くなられた子どもがいると伺いました」
「……はい」
「お代はいりません。お子さんの冥福を祈りたいのです」
 ドアが広く押し開けられると、中には黒いベールで顔を覆った母親と、泣きはらした目をした娘と息子が座っていた。
 彼らもラディクに向かって、ぼんやりと空ろな目を上げたが、誰も何も言わない。
 まったく覚えていないのだ。彼がここを訪れたことも、彼の腕の中で愛児が事切れたことも。
 明かりもない室内の中に、小さな棺が安置されている。この地方の習慣で、防腐処理を施された亡骸は、埋葬までの一週間を家族とともに過ごすことになる。
「テアテラの奴らめ」
 父親が身を震わせながら、うめいた。
「略奪のために、この部屋まで上がってきて、いきなり私たちを襲ったのです。私たちは軽い怪我ですみましたが、この子だけは――」
 姉がこらえきれなくなり、嗚咽を漏らす。
 認めたくないのだろう。おのれの手に握られていたナイフを。息子を殺したのは、ほかならぬ自分たちであることを。
 誰かのせいにしなければ、人は生きていけないのだ。それがどんなに卑怯な生き方であるとしても。
 ラディクは棺のかたわらに立ち、静かに息を吐くと、竪琴をかき鳴らし始めた。

 ほの暗い谷間を 幼子は歩む
  黒い巻き毛と林檎の頬 飴色の瞳もそのままに
 その着物は破れず サンダルはすり減ることもなく
  野バラは棘を捨て なぐさめの香りで彼を包む

 なつかしく思い出すのは 父のこと母のこと
  兄や姉と 街の坂道を 息を切らして走ったこと
 やがて 谷間を過ぎ 輝く光の雲に包まれても
  どうか 僕のことを忘れないでください

「おお」
 父親は木の棺に突っ伏して、男泣きに泣いた。「忘れない。アンデルス。絶対に忘れないとも」
「ありがとうございます」
 母親はベールの後ろで、はらはらと涙を流した。「あなたの歌はまるで、うちの子にお会いになったことがあるよう」
 ラディクは何も答えぬまま一礼をして、肩を寄せ合って泣く家族を残して部屋を出た。
 波止場では、帝国軍艦三隻が待っていた。
「待たせて、すまない」
 甲板の上にいた仲間たちと合流すると、ルギドはじっと彼を見つめた。
「もう心残りはないのか」
「ああ。もうない」
 ラディクは肩に背負った竪琴に指を触れて、答えた。「あとは、ラオキアで俺たちの叙事詩を紡ぐだけだ」
「それなら、出発するぞ」
 エリアルが片手を挙げると、喇叭が鳴り響き、軍旗が高々と竿に揚がった。
 出航の汽笛が、トスコビの家々の軒や店の看板を震わせた。



 ティトス北部の気候は、千年前より温和になったと言われるが、アスハ大陸周辺の海は今も変わらず、荒れることで有名だ。
 かつては秋から春まで航海が不可能だったと聞くが、現代の蒸気船を用いれば、さほど困難はない。
 帝国艦隊は、アスハ大陸目指して順調に予定の航路を進んでいた。
 ゼルがまるで船の守り神のように、胸をそびやかして舳先に止まっている。
 ジュスタンはそれを微笑ましく見つめながらも、さらにその向こうに広がる北海の波頭が、荒々しさを増しているのを感じていた。
 それはそのまま、彼らの行く手に立ちふさがる困難を暗示している。
 レイアに付き従う百人の近衛兵――ジュスタンの知る顔ぶれだけから言っても、最精鋭の魔導士たちだろう――に加えて、テアテラ最高の魔導士と称される摂政のユーグ。
 そして、魔力の光球を操るレイア。
 もし敵が先に【転移装置】を手に入れ、その布陣に召喚獣が加わることになれば、戦いはとてつもなく困難なものとなることは必至だ。
 ルギドが【転移装置】の発見と破壊に血眼になるのも、理解できる。
 ジュスタン自身も、【転移装置】に激しい恐怖と嫌悪を感じる。いったいいつ、父はあの機械を動かし、召喚獣を手に入れる方法を学んだのだろうか。
 【父】。《召喚獣》。そのことばが、記憶の裂け目をふいに露わにした。
 召喚獣の部屋で、父のしていたこと。
(あの部屋を覗いたのは、子どものとき一度限りだったはず――そうではなかったのか)
 暗いカンテラを手に、父が立っていた。そこにはユーグも、レイアもいた。
 そして――。
 気がつくと、ジュスタンは甲板にうずくまっていた。頭をかかえこむ両手はぶるぶる震え、こめかみに冷たい汗が伝う。
「ジュスタンさん、大丈夫ですか!」
 舳先にいたゼルが、あわてて飛んできて、ぱたぱたと翼で風を送ってくれる。
「あ。ああ」
「きっと船酔いですね。ひどい揺れだから」
「ごめん。もう大丈夫だ」
「おいら、冷たいお水をもらってきます」
「ゼル。いいのに」
 止める声も届かず、ゼルは艦内への階段をふわりと舞い降りていった。
 立ち上がったジュスタンは、ぼんやりと空を見上げた。さっきの悪寒の余韻はまだ残っているが、理由は自分でもわからない。
(わたしはいったい、何を考えていたんだろう)
 巧妙に正体を隠しながら膨らみつつあるものが、内側で狂ったような嗤(わら)い声を上げた。


 悪夢にうなされてでもいたのだろうか。
 自分の叫び声に目を覚ましたエリアルは、あわてて身を起こした。
 船室の真鍮窓のすすけたガラス越しに、中天の太陽がまるで月のように暗く見えた。
 もう昼近いのだ。少し横になるだけのつもりだったのに。
 膨大な戦後処理に追われる日々の連続。せめてラオキアへの航海中だけはひとりになって、いろいろなことを考えたかった。
 ――たとえば、投降したテアテラ魔導士軍を束ねていた敵将のことばだ。
『おまえたちは自ら投降せよと、女王陛下は我らにはっきりとお命じになったのだ』
 敗残の兵とは思えぬほどの自信に満ちた大声だった。
『「帝国軍の糧食をたらふく食らい、帝国艦に運ばれて祖国に凱旋せよと。そこで国を再建し、力を蓄え、われの帰還を待て」と。それゆえ、我らは無抵抗で帝国に恭順する』
 『今はな』と、小声で付け加えた将軍の顔からは、誇りは決して消え失せていなかった。
(レイアは、自国を逃げ出し、民を捨てた。今また軍隊を切り捨て、逃げ続けている。先の見通しすらない、自分勝手で子どもじみた統治者。――誰もが、彼女をそう見ていた。だが)
 違うのかもしれない。
 帝国を憎悪し総自決を叫ぶ国民や軍部を、少しずつ自分から切り離してゆき、レイアは気ままな専制君主を演じながら、民を救おうとしているのではないか。
(私は考えすぎているのかもしれない。レイアと決着をつける日が来るのが、それほどに恐いのだ)
 眉間に指を当てて凝りを揉みほぐすと、エリアルは立ち上がって、船室を出た。
 荒波ゆえに左右に傾ぐ艦内の通路を進むと、厨房の扉から、うっすらと明かりが漏れ、わめき声が聞こえる。
「早番の食事時間はとっくに過ぎてるっていうのに、なぜ誰も来ないんだ!」
「私が、甲板に上がって見てこよう」
 料理人たちはエリアルに気づくと、バツの悪そうな顔になった。
「あ……で、でも、何も殿下のご足労を願うほどのことは」
「よい。上の空気を吸いに行くついでだ」
 艦内でも、エリアルは兵たちと同じ食堂で、同じものを食べている。
 この遠征の間に、帝国兵たちが彼女を見る目は変わった。男装で自分のひ弱さをごまかしている、役立たずの皇女。二年前なら真実だったかもしれない固定観念は、わずかなうちに見事に覆されていた。
『帝国は、女帝を頂いて、なお磐石』
 そんな声まで、聞こえてくるようになった。
 甲板の隅に人だかりがしている。時折どっと笑い声が起きる。
 ラディクが大勢の非番の兵士たち相手に、卑猥な歌を聞かせているらしかった。
 エリアルは、その様子をしばらく、微笑ましく眺めた。
「あ、殿下」
 人の輪の中にいた兵のひとりがエリアルに気づき、立ち上がって敬礼した。他の者もあたふたとそれに倣う。
「食事の時間だ。料理長が誰も来ないと怒っていたぞ」
「しまった、もうそんな時間か」
「腹が減ったのも忘れてたよ」
 水夫たちは先を争うように厨房へと降りていった。
 ひとり残ったラディクは、船べりにもたれて、竪琴の弦を一本ずつ緩めていた。
「今の歌は、どういう意味なのだ?」
 彼から少し離れた場所に腰をおろしながら、エリアルは訊ねた。
 ラディクは面倒くさげな視線をちらりと投げかけると、ふたたび手元に目を落とした。
「よせよ。知らないほうが身のためだ」
「教えろ。そう言われると、ますます知りたくなる」
「やんごとなき皇女殿下に猥雑なことを教えたと、打ち首になりたくはない」
 口調は相変わらず素っ気なかった。「ところで、ペルガ選帝侯には会ったのか?」
「ああ、短い間だったがな」
 出航前のあわただしい時間を縫うようにして、トスコビの市長公邸で、エリアルはペルガの選帝侯一行と会談を行なった。
 選帝侯の活躍を労い、サキニ大陸全体の治安維持と今後の復興について、意見を交換するためだった。
「ペルガ選帝侯が、いったいどうしたのだ」
「やつを見て、どう思った?」
「それは……」
 エリアルは口ごもった。「正直に言えば、パロスにおられたときのペルガ候は、なにごとにも煮えきらぬ、覇気のない方だという印象しかなかった。なぜ、ルギドはあのような、なよなよした朴念仁と、密約を結んでいたのだろうと」
 遠慮しているわりには、ぽんぽんきつい言葉が出てくる。
「だが……昨日会ったときの候は、違っていた。十歳も若返ったかのように生き生きと目を輝かせ、次々と難事を自ら引き受け――」
 それを聞いたラディクは、「やはりな」と意味ありげに笑った。
「知っているか? ペルガ候が男色家だという噂を」
「えええっ」
 エリアルは驚きのあまり、腰を浮かして膝立ちになった。
「まあ結局、今の歌は、そういうことさ」
「ど、ど、どういう?」
「ペルガ候を一夜にして忠実なしもべに仕立て上げた、ルギドの手腕について」
 エリアルは、水平線の彼方を呆然と見やった。
「嘘だろう……」
「ルギドは俺と違って、守備範囲が広そうだからなあ」
 ラディクは芝居じみた溜め息をつくと、あらぬ妄想を抱いて、ぼんやりしているエリアルに気づいて、吹き出した。
「酒飲みたちが座興に歌う猥歌だ。本気にする奴があるか」
「そ、そうだな……」
 はにかんだように、ちらとラディクを伺ったあと、エリアルは急に居住まいを正した。
「ラディク。ひとこと、礼を言いたい」
「礼?」
「戻ってきてくれて、ありがとう」
 緑の澄んだ瞳で、吟遊詩人を真っ直ぐに見つめる。
「こうやって帰ってくれたことで、私たちが、どれほど心強いか。私ひとりでは、レイアとの戦いに臨まんとするルギドとジュスタンを支えきれなかった」
「……俺は」
「言うな。わかっている」
 エリアルは、微笑んだ。「『俺は、おまえのために戻ってきたんじゃない』。そう言いたいのだろう」
「……」
「大切な人を殺されたおまえにとって、帝国に与することは本意ではなかろう。私の顔を見るのもいやだろう。だが、テアテラとの戦いに決着がつくまで、私たちのそばにいてほしい」
 ラディクは顔を背けた。やがて小刻みに肩が揺れているので、笑っているのだとわかる。
「俺にも少しは、しゃべらせろ。せっかく声が出るようになったのに」
「す、すまん」
「いっしょに地獄の底までついていってやるよ。俺は、おまえたちの戦いを最後まで見届ける。このティトスの正確な歴史を叙事詩にする。誰に頼まれたのでもなく、俺自身がそうしたいんだ」
「ありがとう」
 エリアルは不思議なものを見るように、ラディクをしげしげと眺めた。
「……おまえは、変わったな」
「そうか」
「歌を聞いて、最初にそう思った。声を取り戻してからの、おまえの歌は――」
 甲板にあふれる陽光に、彼女はまぶしげに睫毛を伏せた。
「人の心に直接触れる何かがある。聞く者を自在に楽しませ、悲しませる力、と言えばいいのだろうか」
「へえ。それはすごい賛辞だな」
「さっきの歌を聞いても、何か温かいものに触れているような気がした。いったい――あれから何があったのだ?」
 ラディクは答える代わりに、上着のポケットから拳を出し、広げて見せた。
 そこにあるのは、一本の細く短い枯れ枝だった。
[ビルラ]
 彼の口から、布がこすれるような囁きが漏れたかと思うと、たちまち枯れ枝はみずみずしい樹皮をまとい、やがてその先から、芽が吹き出た。
 数分も経たぬうちに、彼の手には、たくさんの葉をつけた若枝が握られていた。しかもそれはティトスでは見たこともない形の葉だった。
「……何をした」
「[ビルラ]というのは、【奴ら】のことばで[木]という意味らしい」
「【奴ら】のことば?」
「竜の言語。魔法の根源。言葉が本質をあらわし、言葉が音となるとき本質が実体化する……そういう言葉だ」
「なぜ、そんなものを知っている」
「わからないんだ」
 ラディクは頼りなげに微笑んだ。
「いつのまにか、考える間もなく、頭にことばが置かれていた。……俺はまた一歩、化け物に近づいちまった」
「……」
「心配するな。乱用はしない。けっこう体にこたえるんだ、この【力】は」
 ゆっくりと立ち上がると、吟遊詩人は手入れを終えた竪琴を肩に背負いながら、エリアルを見降ろした。
「もうひとつ、気づいたことがある」
「なんだ?」
 ラディクの紅い瞳は、真昼の太陽の作り出す陰の中で、光焔と燃ゆるように見えた。
「どうも俺は、おまえに惚れてるみたいだ」


 帝国自治領ラオキアは、千年前までラオキア王国と呼ばれていた。
 千年前の魔王軍との戦いで、王都は壊滅して王家も滅び、新ティトス帝国の世となってからは、一地方の豪族が王位を相続するに至った。
 しかし、戦争の深い爪跡と不安定な政治が、やがて他の豪族たちの不満を引き起こし、一気にそれは帝国に対する不満へと高まっていった。
 新ティトス暦5年、ジルベスタ・セレベス侯爵――リグの兄のジルのことだ――が初代元帥として帝国軍を率い、ラオキアの反乱を平定して王を廃した。
 それ以来、ラオキアは自治領として、中央から任命された領主により統治されている。
 軍艦の停泊できる良港を求めて、アスハ大陸北西部に上陸した帝国軍は、海岸近くの村に基地を設営した。
 西方神殿まで南に四十キロの街道を、五キロごとに拠点を築きながら、進軍する。現地で食糧や石炭などの資材を調達することはまず無理。極寒の地での戦闘は、まず物資輸送の戦いとなる。
 準備が整うと、先遣隊に引き続き、皇女一行と騎兵二十騎が出発した。
 雪上での行軍のためには、内側が深く窪んだ特別の蹄鉄が用意された。
 どこまでも白い新雪の上に、くっきりと帝国軍の蹄の跡が記される。テアテラ軍とは三日の遅れがある。たとえ同じ道を通ったとしても、痕跡が見えなくなるには十分だった。
 尾根を越えるとき、東の方を見晴らしたルギドは、驚きに目を見張った。
「凍結湖が――」
 千年前は、夏もなお湖面に厚い氷が張り、【凍結湖】と呼ばれていた湖は、今は青々とした水を湛えている。
「湖面に立つ波の影響で、湖底の【氷の殿(みとの)】は二百年前に崩壊したといいます」
 ジュスタンが説明した。
「この千年のあいだに、ティトスの平均気温は五度上昇した」
 エリアルは、かつて地理学の教師から学んだことを思い出す。「南の砂漠化と北の温暖化。ティトスは、これからも変わり続けていくのだろうか」
「一万年前に、戻っていくのかもしれぬな」
 おのれが生を受けた北の大地に、さまざまな思いをこめた眼差しを注ぎながら、ルギドは呟いた。


 古代ティトス帝国時代、西方神殿は、かつては町のどこからでも仰ぐことができる小高い丘の上にあったものだった。
 地上に残るのは、今はその部分だけ。千年前のアシュレイの治世時に発掘調査が行なわれたときは、神殿の建物はまだ分厚い氷に閉ざされて完全な形を保っていた。
 気温の上昇により地表の氷が溶けた近年、損壊が激しく、数本の柱が空に向かって立つだけの廃墟と化している。
 だが神殿の門前町として栄えた都市は破壊をまぬがれ、今も変わらず地下遺跡として保存されている。
「少し前までここは、帝国の重要な観光資源だったのだ」
 かつては多くの人間が昇り降りしたであろう広い石階段を下りながら、エリアルが言った。
「【氷の迷宮】と呼ばれ、団体客が地下空間を楽しみ、土産物屋や飲食をする場所もあった」
「うわ」
 ラディクが思わず歓声を漏らした。
 地底に、皇宮の大広間にも匹敵するような巨大な空間が広がっていた。
 一万年前は、町の中央広場だった場所だ。
 天井からは、精密に配置された人造の氷柱が垂れ下がる。照明がきらびやかに当てられていた頃は、虹色の錦模様を織り成していただろう。
「だが、テアテラとの戦争が長引いて維持ができなくなり、落盤事故で死傷者が出たのをきっかけに、閉鎖されてしまった」
「じゃあ、平和になって、きれいに改修すれば、またひとつ観光収入が増えますね。テアテラ温泉郷めぐり、【竜の神殿】気球ツアー……すごいすごい」
 ルギドの肩に乗っていたゼルが、皇女の代わりにそろばんを弾いている。
「無論、公開されていたのは、広大な遺跡のごく一部だけだ。そこから向こう、かつては丘の神殿に通じる目抜き通りだった通路には、立ち入り禁止の鉄の防護柵がはめてあるはず」
 そのことばを聞いて、ゼルはすぐに舞い上がった。
 そしてすぐに戻り、興奮に薄い羽根を震わせながら報告した。「柵が焼け溶けていました。テアテラ魔導士の炎の魔法のしわざです!」
 彼らはこっくりと、うなずき合った。
「行くぞ」
 騎兵たちには、入口および地下広場で後続隊を待つよう命じてから、ルギドたちは奥へと進んだ。
 カンテラの光だけが頼りの、真闇。すさまじいまでの冷気だ。
 破壊された防護柵をくぐると、広い石畳の通りに出た。両側の石造りの建物は、凍土が浸食して、ふたたび硬く凍てついたために、さらなる崩壊をまぬがれて一万年の時を保存されてきたのだろう。
 化石ともいえる灰色の町は、訪れる者の生命さえ吸い取りそうな死の不気味さに静まり返っている。
 突き当たりに、かつては壮麗だったであろう、ぼろぼろに朽ちたアーチ状の市門が現われた。
 カンテラをぐっと前に押しやりながら、門をくぐった途端、五人はまばゆいばかりの光の渦の中に放り込まれた。
「なんだこれは」
 彼らの前にそびえたっていたのは、透明な氷で覆われた町並みだった。
 彼らの持つカンテラの光が、天井に壁面に地面に乱反射して、何十倍、何百倍もの明るさをもたらしているのだ。
 そして、そこに映っているのは、カンテラばかりではない。
 何十人もの魔族の王。
 何十人もの皇女。何十人もの黒魔導士。何十人もの吟遊詩人。何十人もの飛行族。
 それらが、じっと無言で、彼らを見つめ返しているのだ。
「まるで、鏡でできた町のようだ」
 エリアルが周囲を見回しながら、うめいた。「なぜ、こんなものが―ー」
 次の瞬間、視界の端を黒いローブが横切る。
「敵!」
 ゼルが叫び、ラディクが素早く腰のナイフを引き抜いて、黒い影に向かって放った。
「うわああっ」
 悲鳴を上げたのは、ジュスタンだった。灰色の瞳を恐怖に見開いて、青いローブの袖を押さえている。その内側から、ひとすじの血が、凍てついた地面に伝い落ちた。
「……何をするんだ、ラディク」
「なん……だと?」
 敵だと思って斬りつけた相手は――ジュスタンだった?
 彼らは互いを、呆然と見つめ合った。
「【鏡の迷宮】」
 ジュスタンは、古い魔導書に記された恐ろしい名を思い出した。
 古の魔法が作り出した場所が、世界のどこかにあったという。
 そこに囚われた者は、鏡の魔力によって理性を狂わされ、たとえどんなに気心の知れた仲間同士でも、最後のひとりになるまで殺し合うのだと。
 






NEXT | TOP | HOME

Copyright (c) 2002-2008 BUTAPENN.