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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Epilogue



  深き海神【わたつみ】の底
   おのが胸 黒き剣の鞘となし
  幾千歳【いくちとせ】 ただよう
   銀の髪 ゆらゆらと
  蒼く ただ静かに


「師匠、お客さんです」
 内弟子の少年の大声に、黒髪に紅い瞳の吟遊詩人は、書きかけの楽譜から目を上げ、机に羽根ペンを置いて立ち上がった。
「なんだ、おまえか」
 外に立っている人影を一目見たとたん、彼は扉にもたれて面倒くさそうに頭を掻いた。
「なんだとは、ご挨拶だな。仮にも帝国第一皇女に向かって」
 すこぶるご機嫌ななめの様子で、やんごとなき姫君は、ずかずかと部屋の中に入った。武装は解いても、相変わらずの騎士装束。これで皇女エリアルだと見抜ける者は、市井にはまず居まい。
「いったいどれだけ皇宮に顔を見せぬつもりだ。もう少しで一年になる」
「へえ、もうそんなに経つか」
「とぼけるな。何をしていた」
「何をって、ここんとこは、ずっとティトスじゅうをめぐっていたかな」
「各地の魔族をまとめるためにか」
「そんな厄介な仕事は、とっくにオブラとエグラにまかせている。俺の生業(なりわい)は、歌うことだ」
 ラディクは、つれなく背を向けて、花の咲き乱れる窓辺に立ち、丸太小屋を取り囲む森の香りを深々と吸い込んだ。
 春の香りだ。
 あれから、ティトスに四度目の春が訪れたことになる。
 そのあいだに、帝国は大きく変わった。新皇帝エセルバートのもとで、戦乱に明け暮れた国土の傷は徐々に癒され、版図の隅々にまで平和が及んだ。食糧の増産も進み、鉄道網の整備により各国間の貿易も盛んになった。
 その一方で皇帝は、工業都市を覆っていた毒のある黒煙を晴らすために厳しい規制を推し進め、工場に汚水を垂れ流すことを禁じた。
 樹木の伐採も制限され、植樹により昔どおりの緑の森が増え広がり、ふたたび魔族の住処となりつつある。
 ティトスの自然が元通りになるにつれ、エレメントの力も回復している。癒やしの白魔法もふたたび市民権を得て、医師と白魔導士が並んで治療をほどこす光景も、あちこちで見られるようになった。
 テアテラの魔導士たちが、昔のように各地の町から村へとめぐり歩いて人々の暮らしを助けるのも、そう遠いことではないだろう。
「そう言えば、ジュスタンはどうしてる?」
 返事がないので、ラディクは振り返った。エリアルは沈んだ表情で首を振った。
「彼が内大臣の位を退いたのは知っているな。あれから、会っていない」
「全然? 一度も?」
「手紙をくれた。テアテラの再建で、ユーグとともに目の回るほど忙しい毎日を送っているそうだ」
「そうか」
 エリアルはきゅっと唇を噛みしめた。手紙の中に他にどんなことが書かれていたのか、語るつもりはない。
 一度は、皇女の位を捨ててまで一緒になりたいと恋い焦がれた相手だ。思いを断ち切るには、それなりの長い葛藤が必要だった。
「外へ行かないか」
 ラディクは椅子にかけてあったリネン織りの布を取り上げると、エリアルの肩を覆った。
 温暖なサキニ大陸とは言え、この季節、北の森はまだ寒い。
「ところで、ゼルの姿が見えないな」
「ああ、飛行族の恋人ができたらしくて、この頃は顔も見せやしない」
「それは、めでたいな」
「子どもができたら、名づけ親になってほしいなんて言ってたけど、俺は魔族の名前の良し悪しなんか、全然わからないぞ」
「ゼルももうすぐお母さんか。みんな、自分の道を見つけて去っていくんだな」
 森の中に空き地を見つけて、ラディクは立ち止まった。
「叙事詩が、もうすぐ完成する」
「ほんとうか」
 エリアルの緑色の瞳が、木漏れ日を受けて輝いた。
 ラディクが取り組んでいた叙事詩は、畏王の誕生に始まり、古代ティトス帝国の滅亡、魔族と人間の長い対立の時代へと続く。ここまでが序章だ。
 勇者アシュレイと黒魔導士ギュスターヴ、白魔導士アローテ、そして放浪民族の剣士リュートの出会い。
 リュートの転生。魔族の王子ルギドとアシュレイとの戦い。ルギドとアローテの恋。
 魔王軍の滅亡。ルギドの封印。ここまでが第一部となる。
 第二部は、新ティトス帝国の誕生。文明の繁栄と爛熟。
 魔導士の迫害と虐殺。テアテラの離反と帝国への反逆。レイアの誕生。
 皇女エリアルと魔導士ジュスタンの出会い。【封じられし者】の復活。帝国とテアテラとの戦争と和解。
 そして、魔と魔法の復権と、新ティトス帝国の復興で締めくくられる。
 書物にすると数十巻になる膨大なものだった。
「新型の印刷機械がもうすぐ完成するという噂を聞いたんだが」
「ああ。今サルデスの工場で、試作品を作らせている。あとひと月もすれば、なんとかものになりそうだ」
「印刷を頼みたいんだ。機械を使って刷れば、俺一人では回りきれないような片田舎にまで、ティトスの真実の歴史が伝わることになる」
 エリアルは夢見るように微笑んだ。「古代帝国から数えて一万年のティトス史か……おそろしいものを作ったな。気が遠くなりそうだ」
「ただし、ルクラのことは除いて、だ」
「どうせ、おまえのことだ。ラディク・リヒターの名も、一行も書かれていないのだろうな」
「詩人は、自分について歌うもんじゃないよ」
 ラディクは大儀そうに、一本のニレの大木に背中を預けた。
「疲れた。一万年生きた気分だ」
「そうだろうな」
「書きながら、ずっと考えてた。この叙事詩の結末は、これでよかったのかと」
「ああ」
「俺たちのしたことは、ティトスにとっては救いだった。だが、ルクラという星全体にとっては最悪の選択だったかもしれない」
「ああ」
 エリアルは彼のかたわらに立ち、同じ幹にもたれ、同じ景色を見つめた。
「私はかつてテアテラと戦っていたとき、似たようなことを幾度となく考えた。帝国が滅びることこそがティトス全体にとって一番良いことではないだろうかと。だが私は帝国を治める者として、それを認めることはできなかった。レイアも同じだったろう。立場が違えば、何が正義であり善であるかは全く異なる。私たちはそれぞれ身勝手に、自分にとっての最善を選び取っているだけなのかもしれぬ。だが、それでも――」
 彼女の横顔は、なつかしげな郷愁をたたえる。
「『人の戦う理由など、そんなものだろう?』――そうルギドが教えてくれた」
「あいつらしい」
 ラディクは、抑えきれぬ小さな笑い声を洩らした。「あんなやつに、一万年間のティトスの運命が託されてきたかと思うと、今になって恐くなってきた」
「だが、それが至高神の選択だったとも言えるのではないか」
 エリアルは、ぽつりと答えた。
「畏王の執着、リュートの大らかさ、ルギドの緻密さと大胆さ。どれが欠けても、ティトスは滅びを免れなかったと思うのだ」
「そう言えば、今になって、ようやくわかったことがある」
 ラディクは、梢をいろどる光の斑に見入っていた。
「彼らは一万年の歴史の中で、ティトスの民に、命か滅びかを選択させていたんだ」
「……彼ら?」
「死に絶えたルクラの民だよ。あの生体機械の中で、俺は生まれたばかりのときからずっと彼らの思いを浴びていた。……もちろん、生きている者に対する妬みや憎しみに押しつぶされそうになったこともあったさ。けれど、その大半は、平和を希い、人を愛し、豊かな自然の中で生きたい、もう一度生き直したいという切望そのものだったような気がする」
「……生き直したいと」
「そして、俺は彼らの代弁者だった」
 空を見上げた拍子に、ラディクの瞳から涙が一筋、こぼれ落ちた。
「俺はルクラの民の代表として遣わされ、ティトスで生き、ティトスを愛した。だから、俺が最後にティトスをたたえる歌を歌ったとき、彼らはルクラの復活を犠牲にして、ティトスを滅ぼさないと決めてくれたんだ」
「……うん」
 エリアルは両手で口元を蔽い、涙でふさがれた喉で相槌を打った。
 もう、それ以上の説明は必要ない。どんな言葉よりも雄弁に、ティトスの自然が語っていた――森に緑の風が吹き抜け、楽しげな野鳥の声に包まれることによって。
「ルギドたちは、今頃どうしてるだろうな」
「ああ。無事に生き物のいる地にたどりつけただろうか。あの大食漢が、お腹を減らしてなければよいが」
「つくづく、あの時ついていかなくてよかった。今ごろ非常食糧にされてたところだ」
「あはは」
「エリアル」
 皇女は、笑いをひきつらせた。右手が、そっとラディクの温かい掌に握られたからだ。
「決めていたんだ。この叙事詩が完成したら、もう一度ルクラに行こうと」
「え?」
「この歌は、ルクラでこそ歌われるべきだ。俺たちティトスの民は、彼らから生命を引き継いで、こうして生き続けている。そのことを、あの大地を行き巡って報告したいんだ……たとえ、聞く者が誰もいなくとも」
「ティトスには、いつ帰ってくる?」
「なにせルクラは広いからな。当分は、帰ってこない。たぶん何年も」
「そうか」
「ルギドとレイアも探さなきゃな。何といっても、あいつがこの歌の主人公だし」
「うん」
「それに、息子としていろいろ言ってやりたいこともあるし」
「うん」
 ふたりはまた言葉をなくして、目を伏せた。
「……で、どうやって行く?」
「……そこなんだよな。問題は」
 ラディクはため息をつき、握っていた手にぎゅっと力をこめた。「いっしょに行かないか、エリアル」
「私が?」
「つまり……皇女の命令なら、帝国軍艦も動くだろうし」
 エリアルは、もう少しで吹き出しそうになった。
「要するに私は、軍艦を動かすための方便なのだな」
「そんな意味じゃなく」
「私を誰だと思っている。新ティトス皇帝の補佐役だぞ。その大切な役目を放棄して、今さらルクラへ行く暇などあるものか」
「だから、今すぐじゃなくても、帝国の情勢がもっと落ち着いたら」
「では、それまで何年も私を待たせるというのか。冗談ではない。おまえときたら、用事でもなければ、ろくにパロスへも寄りつかぬくせに」
 彼をからかうのが、面白くてたまらない。これまで放っておかれたことへの軽い意趣返しだった。
「ラディク。おまえは」
 エリアルは彼の襟をぐいと鷲づかみにして、真正面からその顔を見上げ、ふっと笑った。「なぜ、もっと簡単に『結婚してくれ』と言えない」
 ラディクはしばらく、茫然と彼女の顔を見つめ返していたが、ほうっと息を吐いた。
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「な――なんだ」
「ルクラのことばで、『結婚してくれ』という意味だ。けど、なるべく使いたくはなかったな。俺と今からナニしてくれ、という意味と同義語で、しかも言われた相手は絶対に逆らえない」
「う……嘘だろう」
「ああ、嘘だ」
 平然と答えるラディクの瞳は、樹陰の中で燃えあがるようだった。「けど、今から本当にする」
 皇女は、強引に腕に抱き取られ、有無を言わせぬ意志で唇がふさがれたのを感じた。気がつけば、木の幹と毛織のマントの作り出す狭く息苦しい空間に閉じ込められている。だが、それはどんな場所よりも暖かく、平安で、心地よかった。
 彼は耳元で、いくつかの言葉をささやいた。彼女はそのたびに、こっくりとうなずいた。
 永遠と思えるほどの恍惚の中で、さやさやと木の葉がこすれる音が遠くで聞こえる。空には雲がたゆたい、足元の地面からじわりと清水が湧き出すのを感じる。


 海は水を湛え、山は火を内包し、大地は脈動し、風は循環する。
 ティトスには、生きとし生けるものたちの豊かな命が、そこかしこに満ちていた。
   






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