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01. しの


「それじゃ、私から話す」
 いろりの火がパチと爆ぜたのが合図だったかのように、詩乃が口を開いた。
「この子たちが、いつぐずりだすかわからないから。先に順番を回してもらったほうがいいと思うの」
 そう言って、膝でうとうと眠っている息子たちの少し汗ばんだ額を、そっとなでる。
「詩乃さんのことだから、さぞや面白い話でしょうね」
「皆さんが聞いて面白いかどうか、わかりませんけど」
 そう言ってくすりと笑い、詩乃は隣の夫を意味ありげに見た。
「統馬くんが、寝言で『しの』と呼んだお話なの」
「なんだ、ノロケかよ」
 龍二は不満げに口をとがらしたが、はっと気づいた。
「もしかして、それって『詩乃』じゃなくて――」
「そう、『信野』さんのこと」
 統馬はいたたまれなくなり、いろりばたから立ち上がった。
「どこへ行く」
「牛の様子を見てくる」
「30分ほど前に、僕が見てきたばかりですよ」
 居並ぶ一同は、にたりと意地悪な笑みを浮かべる。一族の総領である統馬も、こういうときは何の威厳もない。
 信野とは、統馬の最初の妻の名前だ。兄と通じて自分を裏切り、彼の一族を滅びに追いやったも同然の女性。
 統馬は、彼女と同じ名を持つ詩乃に出会い、ようやく果てしない愛憎と心の痛みから癒されたのだった。その彼が、夢の中とは言え、なぜ信野の名前を呼ぶのか。
 統馬は、いぐさ細工の円座にふたたび腰をおろすと、仏頂面で火箸を取り、炭をかき立て始めた。勢いを取り戻した赤銅色の炎に照らされて、詩乃は静かに話し始める。

「夫が、毎晩、夜中になると女の名を呼ぶんです」
 手の中のハンカチをしぼるようにして、依頼者の北浜ヒロコは訴えた。
 東京の『久下心霊調査事務所』の応接用のソファ。
 詩乃はメモを取る手を、思わず止めた。
「ご主人は、寝ておられるんですよね」
「ええ、そうです」
「では、寝言ということですか」
「はい。でも、そうとは思えないくらい、はっきりとした声で」
「女性の名前に、心当たりは?」
「知っています。昔付き合っていた『ミカ』という人。夫の勤めている会社の同僚で、私との結婚より一年ほど前にケンカ別れして、相手はそのとき会社も辞めて、それきりだと言っていたのに」
 ヒロコは、悔しそうにギリリと歯をきしませた。
「それで、ご主人には、そのことを」
「ええ、問い詰めましたとも。俺は知らない、ミカの名前なんて呼ぶはずはない、あれから一度も会っていないと言って、譲らないんです」
 北浜ヒロコの握りしめた拳が、ぶるぶると震えた。
「それが真実だとしても、夢って自分の本心が出るというでしょう。だとしたら、三年前に別れた恋人が、今でもそんなに恋しいということじゃないですか」
「お気持は、お察しします」
 詩乃はすすり泣く依頼者を落ち着かせるために、お茶のおかわりを注いだ。
「お願いします。どうか、主人が二度とそんな夢を見ないようにして」
 この心霊調査事務所の噂をどこで聞きつけたのか、北浜ヒロコは霊能者の力で何とかしてほしいと、頼みにきたのだ。
(確かに)
 毎晩、夢に女性が出てくるとしたら、少し異常だ。どんなに恋しい相手でも、そう都合よく出てくるものではない。
 ことによると、人の夢を食らうという夜叉のしわざかもしれない。

 依頼者が帰ると、詩乃はさっそく夫に相談した。
 統馬はひとこと、眠そうに答えた。
「夢魔のしわざではないな」
 夢魔は西洋ではサキュバスと呼ばれ、男と夢の中で交わり、その魂を食うという夜叉だ。
「夢魔なら、女の名を呼ばせるようなヘマはしない」
「それじゃ、ミカという人の生霊が毎夜、ご主人のもとに訪れるとか?」
「なおさら、ありえない」
 詩乃は少しむっとした。確かに統馬は、夜叉追いの総領。詩乃とは比べ物にならないくらいの霊力を持っているのだが、そんな小ばかにしたような言い方はないだろう。
「じゃあ、北浜さんの家に行って、直接調べてきて」
「そうだな」
 拍子抜けするくらい、あっさりと統馬は請け合った。普段はこういう男女の色恋がからむ事件には、まったく興味を示さないのに。
 次の日の夜遅く、ふたりは一軒のマンションの扉をそっとノックした。
 ドアが開いて、真っ暗な玄関の中から、ヒロコがやつれた顔を出した。
「主人は、今寝たところです。どうぞ」
 物音を立てないように、リビングに通される。ソファに座ると、目の前の扉が寝室に通じている。
 一時間ほど、そのまま息をひそめて待っていると、異様な男の声が聞こえてきた。
「ミカ……」
 地を這うような呼び声である。
 それを聞いて、統馬はつぶっていた目を開いた。その漆黒の瞳は、一瞬だけ白く光ったように見えた。
「おまえは、ここで奥さんと待ってろ」
 神刀を片手に立ち上がると、統馬は扉の中へ入っていった。
 そわそわと不安げにしているヒロコに、詩乃は微笑みかけた。「だいじょうぶですよ。ご主人には決して危害はありませんから」
 ものの五分で、統馬は部屋から出てきた。
「終わった」
「もう?」
 いつもなら真言を唱えるか、抜刀する音が聞こえるはずなのに、今日は何も聞こえなかった。
 調伏を必要とするほどの存在はいなかったということなのか。寝室に入るときの統馬は確かに、夜叉との戦いを前にした緊張をみなぎらせていたのに。
 後日、北浜ヒロコから喜びの電話がかかった。
『あれから全然、夫は女性の名前を呼ばなくなったんです。ありがとうございました』
「シュウジさん、良くなったって。いったい何をしたの?」
「さあ」
 統馬が何も言おうとしないので、詩乃もそれきり聞くことはやめて、事件のことは忘れてしまった。

 それから数日後のことである。その当時、統馬と詩乃が暮らしていたのは、事務所の上の階のワンルームだった。
 詩乃が夜中に目を覚ますと、夫が隣の布団から抜け出す気配がする。
「統馬くん、どこへ――」
 言いかけて、口をつぐんだ。様子がおかしい。何も見えていないし、聞こえていないのだ。
 彼が作務衣姿で裸足のまま外へ出ると、詩乃もあわててオーバーを羽織って、靴をはいた。
(まさか)
 あとをつけながら、詩乃は確信めいたものに囚われていた。
 統馬は調伏に失敗したのだ。北浜シュウジに憑いていた夜叉は、滅せられることなく、今度は調伏者に取り憑いているのだ。
 統馬は、近くの公園に入り、足を止めた。
 深々と静まりかえった夜の中、一本の街灯の下で天をふり仰ぐ。
「しの」
 こんな場所で呼ぶとしたら、それは詩乃ではない。
 『信野』。
 彼が子どもの頃から愛していた女性。裏切られて、憎しみのあまり人間であることを捨てるほどに、統馬の心を縛り続けていた女性。
「しの」
 もう一度、彼のせつなげにうめく声を聞いたとき、詩乃の胸がふさがれるように痛んだ。
 きりきりと、体がきしんだ。
(統馬くんは、本当は今でも信野さんのことを)
 どす黒い嫉妬が、内臓を焦がすほどに渦巻き始めた。
 そのとき。
 統馬の影が、ゆらりと立ち上がった。そして、彼から分離すると、まっしぐらに詩乃に跳びかかってくる。
 詩乃はあわてて手印を結んだ。
「オン・トン・バザラ・ユク」
 叫んだとたん、襲ってきた影は動きを止めた。
 今まで意識を失っていたかに見えた統馬は、瞬時に身をひるがえし、刀の鞘をあざやかにはらった。
 霊剣・天叢雲(あめのむらくも)の刀身がいつのまにか彼の手に握られ、月下に鋭く光る。いったいどこに隠していたのか。それとも統馬の命にしたがって、霊界から現われたのだろうか。
「オン・バザラヤキシャ・ウン」
 振り下ろされた刀に引き裂かれて、影は四散した。
 頭上にピタリと止まっている刃を見上げて、詩乃はへなへなと地面に座り込んだ。
「と、統馬くん……」
「よくやった」
 彼は、労をねぎらうように、やさしく笑んだ。

 話を聞くと、何のことはない。
「北浜シュウジさんに取り憑いていた夜叉は、彼本人ではなく、奥さんの魂を食らっていたんだ」
 人の苦しみや邪悪な思いを、みずからの糧とするのが夜叉というものである。
「男の魂よりは、女の魂のほうがずっと美味だからな」
 統馬は、平然とおそろしいことを言った。
 夜叉は、シュウジを操って昔の恋人の名を呼ばせ、ヒロコの嫉妬を引き起こすように仕向けたのだという。
「あの場で調伏するのは危険だった。夜叉にすでに食われかけていたヒロコさんの魂の一部が、衝撃でこわれる恐れがある」
「それで、とっさに自分の体内に夜叉を吸い込んだのね。道理で、あっという間に終わったと思ったわ」
 夜叉を北浜夫妻から完全に引き離したことを確かめると、統馬はわざと夜叉の術にかかったふりをして、「信野」の名を呼んだ。
 嫉妬に駆られた詩乃の魂を食らおうと、夜叉が飛び出る絶好のチャンスをうかがっていたのだ。
「でも、それってひどい」
 詩乃は、気持のおさまりがつかない。
「私が嫉妬するのを、期待していたってことでしょ」
 愛する人に醜い心の中を見られたという恥ずかしさに、いたたまれない。
 統馬は、詩乃の両の頬を手ではさむと、ぐいと自分のほうに引き寄せた。
 そして、唇を重ねる直前に、ささやいた。
「俺には、そういう女のほうが美味なんだ」




    (一話終 ―― 二話「ぼとる」へ続く)   
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