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03. すずめ



「それで結局」
 鷹泉孝子が、ねちねちと尋ねた。「そのシャンプー幽霊は今でもいるの?」
「いるわけないだろう。ちゃんと、あの世に行かせた」
「ふうん。いたら、さそがし楽しいお風呂タイムを過ごせるでしょうに」
 龍二は心なしか顔を赤らめた。実際、女の幽霊がいた数週間は、風呂の時間がひそかな楽しみだったのだ。
「ま、俺の話は終わった。次は誰だ」
「それでは、わたしが話してしんぜよう」
 白狐の草薙が、ふさふさの尻尾をぴんと立てた。
「統馬とわたしは、いつも旅をしていた。体内に夜叉を隠し持ち、十七歳のまま年を取らなかった統馬。腰に帯びているのが、霊剣、天叢雲(あめのむらくも)と、刀鍔の草薙。
そこに、僧侶慈恵が、幾度も転生を重ねては加わった。言うまでもなく、久下尚人(くげなおと)とは、慈恵から数えて五代目の生まれ変わりであるぞ」
「そんなこと、いちいち説明しなくても、ここにいる連中は、みんな知ってることじゃないか」
 龍二が、うんざりしたように言った。
「黙れ、弟子。たとえ誰が相手でも、枕詞から結語まで、きちんと体裁を整えるのが、話術というものじゃ」
「だから、草薙の話はいつも、やたら長いんだ」
「今回は短くするぞ。なにせ、『掌編しりーず』じゃからな」
 つぶらな黄金の瞳をくいと天井に向け、ひとり舞台の俳優のようなポーズを取って、草薙は話し始める。
「基本的には、われら三人の隣に誰かが並んで歩くことはなかった。しかしもちろん、例外はある」

 今から180年ほど前。将軍徳川家斉の時代。
「た、助けて……死にたくない」
 髪を振り乱し、包丁をかざす女に追い詰められ、桔梗(ききょう)は部屋の隅で震えていた。
 向こうには、六尺ひとつの男の死体がころがっている。
 新吉原の江戸町一丁目、『火焔玉屋』。彼女は、この妓楼(ぎろう)の遊女だ。
「この、アマッ」
 悪鬼のごとき形相で、刃物を振り回しているのは、同格の遊女、『松風』。ふたりは、ひとりのなじみ客を取り合って争った挙句、狂乱した松風が客の男を殺して、今また桔梗を亡き者にしようとしているのだ。
「ひいいっ」
 まさに襲いかかろうとした瞬間、行灯(あんどん)が倒れ、めらめらと火が燃え上がった。
「ぎゃああっ」
 その火が松風の着物に燃え移り、世にも恐ろしい悲鳴が響いた。
 気を失いかけたとき、さっと襖が開いて、ひとりの蓬髪(ほうはつ)の男が駆け込んできた。
「飛ぶぞ」
 男は彼女を小脇にかかえると、欄干を乗り越え、二階から身をおどらせた。
 「火事だ」と叫ぶ人々の声が、はるか後方へと、ぐんぐん遠ざかる。
 木の根元に横たえられたと思ったのも束の間、男は桔梗の着ていたものをむりやり剥いで、ふたたび走り出した。金糸の縫い取りのある帯や着物を、どこかで金に換えるのだろうと思った。そのあとは、何をされるのだろうか。
 襦袢一枚で、恐怖のあまり、動くことも逃げ出すこともできない。
 木々や寺に囲まれた、人気のないこの場所が、どこかもわからなかった。
 ほどなく、男は粗末な女物の小袖を持って帰ってきた。
「ここは、どこ?」
「浅草寺だ」
 吉原のほんの近くなのに、今まで来たことがなかった。
 五歳のとき遊郭(ゆうかく)に連れてこられてから、桔梗はひとりで吉原を出たことがない。外に出るのは花見などの行事の折だけ。無論、逃げ出さないように、厳重な見張りがつく。
 小袖を身につけると、桔梗は男に手を引かれるまま、夢心地で歩き始めた。
 一度だけ、後ろを振り返った。今までいた、あの明るく華やかな場所をなつかしむように。

「おまえの着物は、松風の死体にかぶせて、いっしょに燃やした」
 朝になり、男は竹の皮に包んだにぎりめしを差し出しながら、言った。
「だから、心中したのが客とおまえで、逃げ出したのが、松風のほうだということになっている」
 桔梗は、ただぼんやりと飯を噛みしめながら聞いている。
 頭の中にゆっくりと、きのうのできごとが走馬灯のようによみがえってきた。
 なじみの客は、ふたりの遊女に二股かけていたのだ。そのことをはっきりと知ったとき、桔梗は絶望で体が震えた。
 やさしくしてくれるお武家さまに、心底から惚れていた。
 きっといつか身請けしてやるということばに、全身ですがりついた。いつか、いっしょに手を取り合って、外の世界に出られることを夢見た。
 松風もたぶん同じだったろう。彼女は男のうそを知って、烈火のごとく怒り狂った。そして昨日のような恐ろしいなりゆきになってしまったのだ。
 お武家さまは水戸藩の勘定方で、藩の金を思うままに動かせると吹聴していた。実際、毎晩のようにふたりを買うために、かなりの藩金を使い込んだのだろう。
 だが、水戸藩は幕府に知られぬようにきっと内密に処理するだろうし、まして遊郭が奉行所に訴え出ることはない。
「おまえは死んだ。もう捕まえる者はいない。これから先、どこへ行こうと勝手だ」
「……勝手」
 明治には遠いこの時代、「自由」ということばはまだ存在しない。何をしても、どこへ行っても勝手だと言われることに、桔梗は慣れていなかった。
 そう告げられて、桔梗ははじめて男の顔を間近で見つめた。
 火事の煙で煤けているが、思ったよりも若い色男だった。いったい、なぜこの人は私を助けてくれるのだろう。なじみの客ではない。全然会ったこともない人なのに。
 ふと、置いていかれそうな恐怖に駆られ、桔梗はあわてて男のたもとをつかんだ。
「待って」
 男は迷惑そうに、彼女を見た。「親はいないのか。おまえの故郷は」
 ふるさとを出たのは十年以上前の話だ。もう誰も彼女のことなど覚えていないだろう。
「――み、三河」
「では、そこへ帰ればいい」
 いやだ。ひとりで歩いたことなど、今までなかった。ひとりが恐い。ひとりでは生きられない。
「連れていって。お願い」
 ありったけの力で男の腕にしがみついた。
 男にすがって生きていく。今までの人生で桔梗が覚えてきたのは、そのことだけだったのだから。

 東海道を通って江戸日本橋から三河まで、七十里。普通の足で十日はかかる。歩き慣れない桔梗では、もっと遅いだろう。おまけに箱根の関所や大井川の渡しなどのいくつもの難所がある。
 旅はつらかった。
 足のまめはすぐに破れ、喉が渇いて息苦しい。松の梢がひゅうひゅうと鳴って、獣の遠吠えのようだ。いつどこから襲われるかわからない。
 何よりも、雨を防ぐ天井もなく、風を防ぐ壁もない広い天地が、吸い込まれてしまいそうで一番恐ろしかった。
 彼女を救ってくれた男は、『矢上統馬』と名乗ったきり、あとはほとんど口をきかない。彼女の一歩前を歩き、たまに姿を消しては、どこからか食べる物を手に入れて戻ってくる。
 出立が遅かったこともあり、六郷の渡し舟のある川崎で夜になった。街道から外れた、一軒のうらぶれた旅籠に宿を定める。
 その夜更け。
 通路代わりの土間の隅を仕切った、湯殿とも呼べぬような湯桶を使って、火事の煤を洗い流していた統馬の後ろに、赤襦袢姿の桔梗が立った。
「お背中をお流しいたします」
 吉原の花魁が、客の背中を流すことは絶対にない。桔梗は、男の背中を丁寧に手ぬぐいでこすり始めた。
 この人なら、あたしをずっと守ってくれる。だからあたしは、今日からこの人のものになるんだ。
 彼女は、にじりながら彼の正面に回った。
「桔梗」
 無表情な男も、さすがに面食らっている。
「あたしがあなたさまにしてさしあげられるのは、これくらいだから」
 桔梗は妖艶に微笑むと、ゆっくりと顔を伏せた――。

 統馬は立ち上がり、滔々としゃべっていた草薙をひっつかむと、いろりの火の中に投げ込んだ。
「あーちちちィ!」
「何をたわけたことを言っている。第一、刀のおまえが湯殿の中であったことを知るはずはなかろう」
 孝子があわてて、いろりの中に火箸を突っ込むと、焦げたマシュマロみたいになった草薙が、けほけほと黒煙を吐きながら出てきた。
「じゃ、じゃが、桔梗どのが湯殿に入ったのは事実。草薙は見ていた!」
「そ、それは――」
「ふうん。そんなことがあったんだ」
 詩乃はチラリと夫に横目をくれると、藤次郎を背中におぶい、眠そうに目をこする小太郎の手を引いて、奥に引っ込んでしまった。
 険悪ムードの夫婦を見て、龍二は狂喜乱舞。
「イエイ。最高だぜ、草薙。俺は、こういう話が聞きたかったんだ」
「そうじゃろ、そうじゃろ。さすが、わが愛弟子」
 彼らが手を打ち合わせるのを、統馬は苦虫を噛みつぶしたような表情で、睨みつける。
「まあ、冗談はさておき、その後はどうなったんです?」
 久下が苦笑を抑えながら、訊ねた。

 ようやく鎌倉までたどり着くと、桔梗は鶴岡八幡宮に立ち寄りたいと言った。
 奇しくも、暦は陰暦八月十五日。
 「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる祭りがにぎにぎしく行なわれている。境内の橋のたもとや池のそばでは、捕らえた亀やうなぎ、雀などが売られていて、参拝者は、それを買って放してやることで、善行を積むのだ。
「不思議ね」
 桔梗は橋の上に立ち、買った雀を竹細工の篭から出し、空に放った。
「こうして放してやっても、弱って半分は死んでしまうそうよ。賢い雀は、自分から篭に戻ってくるんですって。かわいそうにね。人間はこれで、功徳を積んだつもりなのだもの。いったん人間に飼われた畜生は、もう二度とひとりでは生きられない」
 統馬は何も答えない。
「閉じ込められていた檻から放たれて、どこにでも行けるというのは、悲しいことなのかもしれない」
 統馬は、桔梗のかぼそい背中を見ながら、黙ってあとをついてくる。
 境内からはずれ、深い鎮守の森の中に分け入った彼らは、どちらともなく立ち止まった。
「おまえは嘘をついている」
 統馬は、冷え冷えとした声で言った。「おまえの故郷は三河などではない。まったく逆の下総の国。違うか?」
「え……」
「そして、逆のことはもうひとつある。客の男を殺したのは、松風ではない。おまえを殺そうとしたのも、松風ではない。すべては逆だった」
 彼は、腰の剣を鮮やかにはらった。露がこぼれそうなほどに濡れた刀身が、ぎらりと光る。
「ひゃあっ」
「俺は、夜叉の影を追って吉原にもぐりこんだ。そこでおまえたちを見つけた。水戸藩士も松風もおまえも、全員がひとりの夜叉に取り憑かれていた。だが――妓楼に上がりこんだときは、もう遅かった。おまえは二股をかけていた男を憎み、相手の遊女を憎み、その復讐のために包丁を持ち出した」
 男は真言陀羅尼(しんごんだらに)を唱えながら、刀を構えた。
「やめて、やめて。死にたくない!」
 途方もない剣圧が森の木の葉を一斉に揺らし、やがてざわついた森はふたたび静かになった。

「生きてるの――?」
 桔梗がうっすらと目を開けると、冷たい目をした男が、そばでうずくまっていた。
 「ああ」と彼は、つらそうに肩で息をしながら答えた。
「これは、憑いている夜叉だけを斬る刀だ。人を斬ることはない」
「でも、あたしは」
 ゆっくりと、遊女は身を起こした。「ふたりも人を殺したのね」
「おまえだけのせいではない。三人ともが夜叉に操られていたのだ」
 その声には、今までにはなかった、かすかな温もりが含まれているようだった。
「それに、おまえは無意識のうちに自分の罪を悔い、神仏に救いを求めた。わざわざ鎌倉の放生会(ほうじょうえ)に来る道を選んだのは、自分が奪った命の供養のためだったのだろう」
「それでも」
 桔梗は悲しげにほほえんだ。「あたし今から江戸に戻って、吉原の自身番(じしんばん)にすべてを話します」
「おまえは、もう死んだことになっている。何を申し出ても、水戸藩がもみ消すだろう。すべては闇に葬られ、明かされることはない。もし罪を償うつもりがあるなら、ほかの方法で償え」
「いいえ」
 彼女は首を振った。
「遊女として生きてきたあたしは、やっぱり外では生きられないの。牢に入ろうと、打ち首になろうと、ひとりで生きるよりはまし」
 男はそれ以上何も言わず、目を伏せた。
 すべてをあきらめることを知っている者同士の、せめてもの労わりだった。
 桔梗は空を見上げた。心は穏やかに澄んでいる。絶対に手に入れられぬとわかっているからこそ、心底からあこがれた場所。
 あたしは、あの広い世界では生きていけない。
 ――篭の中で生きることに馴らされてしまい、何度空に放たれても、戻ってくる雀のように。




(三話終 ―― 四話「はつこい」へ続く)
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