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05. こくいん



「さぶっ」
 長い夜が過ぎたあと、龍二は大あくびをしながら戸外に出てきて、寒さに首をすくめた。
 重い瞼を持ち上げて、あたりを見渡す。
 矢上家の敷地は広い。
 龍二が昨晩泊まった離れと、母屋とのあいだには、納屋、家畜小屋と鶏小屋。屋根つきのカーポートなどが点在し、母屋の向こうには立派な畑がある。
 さらに周囲は無人の藪や林なので、その気であれば、いくらでも家を建て増すこともできよう。
 そうなれば、家というよりは村だ。
 四百年前に実在したという「矢上村」が、ここに再建されつつあるのだ。
 統馬が家畜小屋から出てきて、中庭を横切ろうとしている。寝起きで足元もおぼつかない龍二と異なり、もうすでに一仕事も二仕事も終えた、張りのある動きだった。
 初冬の冷え込みの中、Tシャツ一枚でなお上気するたくましい体。男としてのあまりの差に、一瞬がく然とする。
「三時から起きて護国法の真言を唱え、家畜の世話に畑仕事。正直、すごいと思うよ」
 龍二の声には、隠そうとしても、やっかみの響きが混じる。
 統馬は足を止め、向きを変えて近づいてきた。わらを均すための鋤を地面に下ろし、うっすらと笑う。
「ゆうべは楽しかったか」
「まったく、あいつらは、筋金入りのおしゃべりだな」
 龍二は吐息をついた。「明け方まで大盛り上がりだったんだが、久下さんも草薙も、ひとつの話がやたら長いったら。結局、肝心のことは聞けずじまいだよ」
「それはよかった」
「ちっ。なんとかして、あんたの尻尾を掴んでみたかったんだがな」
「尻尾など持った覚えはない」
 薪にするために積まれている雑木の上に、ふたりはどちらともなく腰かけた。
「あんたは、恐くないのか」
 青み始めた朝の空を見上げながら、龍二は言う。
「なにが」
「これだけ大勢の人間を、矢上家の再興という自分の運命に巻き込んだことだよ。責任を感じないのか」
「別に」
 統馬は他人ごとのように、そっけなく答えた。「あいつらが、自分で決めたことだ」
「そういう身も蓋もない言い方はないだろう」
 龍二は、ムッとして言いつのる。
「草薙はまあ、それが矢上家の神刀としての使命だ。だけど、孝子さんは結婚もせずに、影のように60年間あんたに仕えてきたんだ。久下さんなどは、何度も転生して、その人生すべてをあんたのために差し出した。それに――」
「俺の知ったことではない」
 その冷ややかな答えを聞いたとたん、龍二は腰を浮かし、統馬の腕をひねりあげた。
「よくも、そんなことが!」
 龍二の心に懸かっているのは結局、ただ詩乃のことだけだ。
 こんな人里離れた田舎で、人並みの幸せもあきらめて。
 彼が愛した女性は、夜叉追いの当主の妻として、忍苦の日々を重ねなければならない。
「なぜゆうべ孝子さんが、『いとしい夜叉』の話をすると言いながら、あんたとの思い出を話したと思う? あんたが、ここにいる全員の心を縛り、人生を支配してきたんだ。――あんたは、人の命を食い尽くす、夜叉そのものだ!」
 統馬は、静謐なほど黒々とした瞳で、龍二をじっと見つめ返す。
 その目におびえたように視線を落とした龍二は、はっと顔をゆがめた。
 統馬の掌に、梵字の形をした紋様が浮き出ている。
「これは――夜叉の種字?」
 背筋にぞっと冷たいものが駆け上がり、思わず、つかんでいた手を引っ込めた。
 昔、これと同じものを見たことがある。あれは、統馬が半遮羅(はんしゃら)という名の白髪の夜叉だったとき。
「あんた、人間に戻ったと思っていたのに……まだ夜叉のままだったのか」
 統馬がすっと立ち上がり、龍二は思わず目を閉じた。あまりの恐怖に、体が金縛りにあったようだ。
「いて」
 頭を軽くはたかれた感触がして、びっくりして目を見開いた。
 統馬が拳を口に当て、笑いをこらえている。
「この阿呆め。もう一度見てみろ」
 と、ふたたび掌を突き出した。
「きのう、いろりの灰を掻くとき、間違って焼けた火箸を掌に当ててしまった」
 そう言われてよく見ると、夜叉の刻印だったはずのものが、ただの火傷のあとにしか見えない。
「なんだ、そうだったのか」
 龍二は、へなへなと材木の上に座りこんだ。
 母屋のほうから風に乗って、統馬と詩乃のふたりの息子、小太郎と藤次郎の甲高い笑い声が聞こえてくる。
 そして、詩乃や孝子のおしゃべりも。
 それはとても平和で、心満ち足らせる音だった。
「俺には、おまえたちの生に責任を取る資格はない」
 統馬は、家の屋根を見つめながら、つぶやくように言った。
「俺にできることは、ただこの暮らしを守ることだけ。おまえたちを、家族として愛しむことだけだ」
「家族――?」
「おまえも、俺の家族だろう?」
 統馬が振り返り、温かく笑う。「矢上家と矢萩家の総領。互いに助け合うべき血の縁(えにし)だ」
 その笑顔を見て、龍二は鼻の下を照れくさげにこすった。
「矢萩家の総領か。へへっ。それ、いい響きだな」
 そして、弾かれたように立ち上がり、母屋に向かって駆け出した。「腹減った。今日の朝飯は何かな」
 龍二の姿が中庭から消えたあと、統馬はしばらく、雑木の上に落ちる影のように身じろぎもせず腰かけていた。
 離れから久下と草薙が現われた。草薙はぴょんと統馬の肩に飛び移ると、白い尻尾をふわりと揺らした。
「あやうく、バレるところじゃったな」
「ああ」
 統馬は、結んでいた掌を開くと、じっと見つめた。
 そこには、先ほどの火傷のあとはない。凶の刻印は一瞬白く光ると、皮膚に沈み込むように消えていった。





(五話終 ―― 六話「きょうしつ」へ続く)  
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