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08. きゃらめる



 詩乃は、取り替えたばかりの藤次郎のおしめを、勝手口の外のたらいの水に浸けて戻ってきた。
 子どもたちの寝ている部屋のふすまからうっすらとした光が漏れ、子どもたちの布団のそばで統馬があぐらをかいて座っていた。
 夫と妻は、おだやかな視線を交わした。
「よく寝ているな」
「小太郎も、みんなの話を最後まで聞くんだって、がんばっていたんだけどね。とうとう矢折れ刀尽きたみたい」
 眠りを妨げないように、声をひそめて笑う。詩乃は夫の横に座り、きゅっと彼の着物の袖をつかんだ。
「久下の話を気にしているのか」
「ううん、どうして?」
「機嫌があまり良くない」
 統馬は彼女の肩を抱いて、自分のほうに引き寄せる。
「あいつの話に他意はない。董子と俺の間には生涯、何もなかったと言いたいだけだ」
「ううん。そんなことを怒ってるわけではないの」
 統馬の腕の中で、詩乃はくぐもった声でつぶやいた。「ただ……このごろ、無性に不安なの」
「不安?」
「統馬くんが、ひとりでどこかに行ってしまいそうで」
「俺が、どこにも行くわけないだろう」
「でも、手のひらに、また何か隠してる」
 統馬は思わず、妻の顔を見下ろした。詩乃は、少しさびしげに笑う。「私を誰だと思ってるの。あなたの奥さんだよ」
「何も隠してなどいない」
「それに、霊力を使うと、目が白く光るのが見えるときがある」
 白い瞳をもっていたのは、夜叉八将のひとり半遮羅(はんしゃら)だ。
 夜叉八将とは、毘沙門天直属の八人の夜叉。統馬はそのひとり、半遮羅として四百年生きてきたのだ。だが、それらはすべて調伏され、すでに地上には存在しないはず。
「何かの見間違いだ」
 統馬は、かたくなに否定し続けた。
「俺は、もう人間だ。子を成し、おまえといっしょに歳を重ね、やがて死ぬべき人間だ」
 詩乃は、ため息をつき、統馬から体を離して、なにごともなかったようににっこり笑った。
「お風呂の加減を見てくる。孝子さんから順番に入ってもらうからね」
 妻が部屋を出て行ったあと、統馬は唇を噛みしめてうなだれた。
 そのとき、ぐっすり寝ていたはずの上の子が、布団の中からまっすぐ彼を見つめているのに気づいた。両親の声で目を覚ましたのだろう。
「小太郎。起こしてしまったか」
「もう、朝?」
「まだ夜だ」
 眠たげに目をこすりながら、息子は心配そうな声をあげた。「たかこさんや、かんばやし先生、もう、みんな帰っちゃった?」
「いや、まだだ。もう一晩泊って、帰るのは明日の夕方になる」
「よかったあ」
 小太郎はもぞもぞと身を乗り出し、統馬の膝の上にうつぶせた。藤次郎が起きているときは兄としてじっと我慢するが、本当は誰よりも父の膝枕を独占したいのだ。
 統馬は、息子の肩まで暖かい掛け布団を引き上げ、ぽんぽんとあやすように叩いた。
「安心して、もう一度寝なさい」
「……父上」
「なんだ」
「ボクも、みんなみたいにお話ししたい――【やしゃ】のお話」
「ほう?」
 小さいながらも矢上家の跡取りだ。霊を感じ取る力は、すでに備わっているのかもしれない。ときどき、じっと天井を見つめ、『ふわふわがうごいてる』と言うことがある。人の営みのにぎやかさに引かれてやってきた霊たちが見えているらしい。
 統馬は笑みをこぼし、息子の頭をなでた。
「わかった。ここで聞いてやろう」
「あのね。キャラメルを買ってもらったの」
 まだ四歳の誕生日を迎えていない小太郎の話は、お世辞にも分かりやすいとはいえない。後で囲炉裏ばたに戻ったときに、妻の話と付き合わせて、統馬はようやく事の驚くべき真相に至ったのだった。

 矢上家は月に一度、町へ買い物に出る。
 ふだんの暮らしは自給自足でまかなっている。畑で作る野菜に産みたての卵、牛の乳は、自家製のものが手に入る。米や日用品も、近くの農家や村の雑貨屋からいつでも届けてもらえる。
 だが、それでは足りないものは、やはりある。都会生まれの詩乃の息抜きのためにも、大きな町でのショッピングは欠かせないのだ。
 ワゴン車を運転するのはたいていは久下だが、その日に限って、統馬も久下も夜叉追いの仕事で出払ってしまったため、詩乃がふたりの息子を後ろに乗せて運転した。
 草薙は、道中の子どもたちの退屈しのぎのいいお相手だ。買い物のときも、ベビーカーの屋根に小さな狐のマスコットに扮してぶら下がっている。
 大きなスーパーに行くときは、小太郎はひとつだけお菓子を買うことを許されていた。たいていはおまけつきのキャラメルだ。テレビもおもちゃもない家で、雨の日の遊びと言えば、集めたどんぐりを並べたり、まるく削った木の枝で剣術のまねごとをするばかりの小太郎にとって、思いつく限りの贅沢がキャラメルのおまけだった。
 キャラメルのうっとりするような甘さは、両親や弟、久下や草薙と過ごす町の一日の楽しさと、切っても切り離せないほど深く結びついていた。
 いつものとおりスーパーに入ると、まっさきにお菓子売り場の棚からキャラメルの箱を一個つかんだ小太郎は、きょろきょろと母の姿をさがした。
 入口近くの野菜売り場のワゴンのそばに、ひとりの男の子がうずくまっていた。小太郎と同じ年か年下だろう。痩せて顎が尖り、目がぎょろりと大きな少年だった。
 小太郎は、その子とふと目が合ったきり、動かなくなった。自分といっしょの年代の友だちがいない小太郎にとって、彼はつかのまの時間を共有する仲間としては、格好の相手だ。
「こんにちは」
 答えはない。
「ねえ。どうしたの」
 なぜ、こんなところにしゃがみこんでいるのだろう。お母さんはどこなのかな。聞きたいことはたくさんあったが、ことばにはならない。
 もしかして、お腹が空いて動けないのかな。
「ねえ、キャラメル食べる?」
 もちろん、『レジ』というところを通ってからでなければ食べてはいけないと、強く言い聞かされている。
 新しい友人は、小太郎の見せたキャラメルの箱を見て、少し顔を上げ、こっくりとうなずいた。無表情だった大きな眼に、わずかにうれしそうな光が宿った。
「わかった、ちょっと待ってて」
 小太郎は、一目散に駆け出した。買い物客のあいだを器用にすり抜けて、乾物売り場であれこれと商品を品定めしている母親をようやく発見して、飛びついた。
「母上! はやくはやく。レジにいこう」
「まあ、ちょっと待ってよ」
「小太郎。母上をせかしてはならんぞ」
 草薙も、藤次郎のベビーカーの屋根から声をかけた。「一か月、ご飯をふりかけなしで過ごすのは、いやじゃろう」
 それに深く同意した小太郎は、うずうずと体をよじりながら、母親の買い物が終わるのをしんぼう強く待った。
 ついに、レジを通る時がやってきた。店員からキャラメルに黄色のテープを貼ってもらうと、また一目散に走り出した。
 野菜売り場のワゴンのそばで、さっきの少年はじっとうずくまったままだった。
 小太郎はキャラメルの箱をもどかしく開けると、キャラメルをひとつ取り出して、「はい」と渡した。
 それを手のひらに乗せたきり、男の子はじっと見つめている。きっと藤次郎と同じで、キャラメルの紙の剥き方を知らないのだ。
 小太郎はしゃがみこんで、手のひらの上で紙を剥いてやり、中身を口に入れてあげた。
 少年の片頬がぷくりとふくれる。
「おいしい?」
 小太郎は自分が食べたいのも忘れて、彼がもぐもぐと口を動かすのを熱心に見入った。
「小太郎」
 母親の声に、あわてて立ちあがって振り向いた。
「ねえ。ほら」
 新しい友だちを、母と草薙に紹介しようとして指差したとき――小太郎ははじめて気づいた。
 少年の姿はもう、どこにもなくなっていることに。

 それから数日して、新聞を読んでいた母がわっと泣きだした。
「ひどい。ここからすぐ近くの町じゃないの」
 その五歳の男の子は、病院に運び込まれたときには、すでに事切れていた。死因は栄養失調。母親と義理の父親に、せっかんの末に家の中に閉じ込められ、食事も満足に与えられなかったため、痩せ細って二歳児の体重しかなかった。
 その話を母から聞いたとき、小太郎は、それはスーパーで会ったあの子のことだと言い張った。そんなはずはない、閉じ込められて何ヶ月も家から出られなかったのだからと諭しても、絶対に考えを変えなかった。

 あとで聞けば、救急隊員がその子の家に駆けつけたとき、男の子の手には、キャラメルの包み紙がしっかりと握られていたという。
 そして司法解剖の結果、死んだ少年の胃の中には、たった今食べたばかりと思われる、溶けかけたキャラメルが入っていた。




(八話終 ―― 九話へ続く)  
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