「満賢の魔鏡」 一の巻 「撫子」(3)                       back | top | home




「して、相模守さがみのかみさまの件、どうなった?」
 翌朝遅く登城したとき、陰陽守おんみょうのかみ賀茂峯雄かものみねおは、光季みつすえを逃がさぬように入り口で待ち構えて、報告を迫った。
「世間知らずの娘が、うろんな市井の陰陽法師にそそのかされてやったことです」
 しかたなく、あたりさわりのない部分だけを説明する。
「さんざん説教しておきましたから、もう呪詛に走ることはありますまい」
「ふむ。その説教で手間取って、一夜をともに過ごしたというわけかの」
 峯雄のことばに、心臓がとびはねた。
「わかりやすい奴じゃ」
 上司はそう言って、からからと笑った。
「顔色が悪く、唇も蒼ざめておる。これは、さぞや朝まで濃密な時を過ごしたと見えるの」
 陰陽守が行ってしまったあと、思わず口元に手をやる。
 撫子姫の柔らかい唇をむさぼった宵が、まざまざと蘇ってくる。
 これほどに自分が見境のない男だとは、思ってもみなかった。会ったその日に睦み合うなど。
 帝の想い人に恋をささやいたときも、情に駆られてのことではなかった。ただ、従五位になると課せられる内裏での勤めから逃げ出す口実が欲しかっただけ。
 貴族として生きることが、ほとほと嫌になっていた。それなのに、宮城から完全に縁を切って別天地で生きる勇気もなく、こうして片隅の陰陽寮で公卿どもの安寧のために働いている。自分で自分の中途半端な生き方に虫唾が走るのを覚える。
 撫子姫のところへは、それから毎夜のように通った。
 光季は階に腰を下ろし、女あるじは簀子縁に座って、夏の庭をながめながら、ふたりで酒を飲む。
 白い狐と蛇が、月光の中で、まろびつつ戯れている。

「来てみれば亡き世の人の形見草 いくたび我れは袖ぬらすらむ」

 興が乗ると、交互に詩歌を詠じた。
「撫子のことを、形見草とも呼ぶそうです。いとし子の頭を撫でるように花を愛でて、亡くなった子どもを偲ぶのだと」
 姫はときおり哀しそうに微笑みながら、家族の思い出を話してくれた。
「弟は亡くなったとき、まだ六つでした。弟が生きていれば、父の無念の思いを晴らすこともできたでしょうに。わたくしは男になりたかった。女に生まれたことが口惜しいのです」
 虫の音が庭を這うように、高く低く聞こえている。
「父が受領した相模国は、美しいところでした。今度の祇園御霊会ぎおんごりょうえでは、諸国の数に合わせて六十六本の矛を建て、疫病退散と安寧を祈願すると聞いております。わたくしも行って、父の愛しんだ相模国の矛の前で祈りたい」
「八坂はここから遠いところです。よろしければ、わたしがお連れ申そう」
「うれしい。きっと、きっと約束ですよ」
 撫子姫は、光季の視界の外で、赤い唇を吊り上げて笑った。
 庭の白狐と白蛇は、いつのまにか姿が見えなくなっていた。


「光季どの」
 陰陽寮に着くと、賀茂峯雄がひどく真剣な面持ちで近寄ってきた。
「こちらへ参れ」
 と、光季の狩衣の袖をぐいぐい引っ張る。
「いったい何事です」
「ついてくれば、わかる」
 東の部屋には、一月前と同じく、矢上直明が広縁にはべっていた。
 光季が円座に座すと、峯雄は膝をつけるように彼に迫った。
「このあいだの相模国守の呪詛の件、もう一度調べてみた」
 不吉を感じさせる、低い声である。
「十三年前、時宗王が起こした謀反について、図書ずしょ寮におもむき、あれこれ調べてみた。また、相模の国司で史生ししょうを勤めた者を探し当てて、直接に当時の話も聞いた。だが、光季どの。いずれの話も、時宗王の娘から聞いた話とは少し違うようだぞ」
 光季は少しむっとした表情で、答えた。
「源さまの都合のよいように書き換えた報告でござりましょう」
「無論、立場が異なれば、ものの見方が異なるのは世の常ぞ。しかし、それを割り引いても、源さまのご一族だけに非があるのではなかろうというのが、わしの結論だ」
「……」
「謀反はやはりあったと、わしは見る。その裁きが定まる前に、時宗王が牢で流行り病に倒れておしまいになったのは、不運としかいいようがない。だが、時宗王の娘には、非業の死と見えただろうな」
 峯雄は、鋭い調子で言い放った。
「心して聞け。光季どの。時宗王の娘はそのときより人を捨てて、鬼になったのだ」
「なんですと?」
 光季は気色ばんで、思わず腰を浮かした。「まさか、よくもそんな偽りを」
「偽りではない。先の史生の話だがな。時宗王がみまかった後、御前の方とふたりの子は失意に沈み、流行り病に罹ったそうだ。やがて御前の方と弟君がみまかり、史生が葬儀の用意のために家を訪れると、病に臥せって死にかけていたはずの十四歳の姉が、弟の肝を食べていた、と」
「……」
「左手で弟君の死体を愛しそうに撫でながら、右手で肝をすすっていたと。史生が声をあげると途端に姿は消え、それ以来、相模で姉の姿を見ることはなかったそうだ」
「そんな……」
 光季は両脚の力を失い、すとんと腰を落とした。「そんな、信じられぬ」
「光季さま。あなたは、夜叉に憑かれておられます」
 後ろから、矢上直明の声がした。振り返れば、凛とした両眼に捕らえられる。
「その姫は、もはや人として生きてはおりませぬ。怨念により、みずからを夜叉と変えたのです。それゆえ、そのお方と交わることにより、あなたも夜叉の種を蒔かれてしまいました」
「わたしが、夜叉に……?」
 光季は、直明の鋭い眼光からまぶしげに顔をそらせた。ぶるぶるとおこり病のように体が震えだす。
「おそらくは、源冷さまに呪詛を仕掛けたのも、あなたをおびき寄せるため。姫の背後には、さらに上位の夜叉が隠れていて、それらのたくらみを指図していると存じます」
「何のために……?」
「それは、わかりませぬ。おそらくは、殿上人のあなたを操って、宮中に入り込むためか」
「しかし、この男は参内を差し止められておるぞ」
「となれば、敵の目的、見当がつきませぬ」
「光季どの」
 峯雄が片膝を立て、強い調子で叫んだ。
「思い出せ。その女と、何やら言い交わしたことはなかったのか」
 光季はぼんやりと首を振ると、はっと気づいて目を上げた。
祇園御霊会ぎおんごりょうえ
「なに?」
「祇園御霊会へ姫を連れて行くと、申しました」
 峯雄はどんと、拳で床板を叩いた。
「祇園社の回りには、悪霊封じの結界を施してある。だが、もしおぬしが連れて行くと約束したのなら、その約束により、結界はその女には無効になる」
「……しゅをかけられたのか」
「光季さまが、御霊会にいらっしゃらずにすむ方法はござりませぬか?」
 直明が訊いた。
「それはできぬ相談だろうな。『光季が行く』ということばも、呪の一部なのだ。それに逆らい御霊会に行かずにすまそうとすれば、光季どのは気がふれてしまうであろうよ」
 峯雄がうめくように答える。
「今度の御霊会は、牛頭天王ごずてんのうを祭神として祀り、疫神のたたりを祓おうというもの。もし、悪鬼怨霊によって神聖なる場がかき乱されれば、かえって都じゅうに災厄が増すことも考えられる」
「それが敵の狙いでありましょうな」
「なんとしても、食い止めねば。都が阿鼻叫喚の巷と化すことになろう」
 戦慄に満ちた沈黙が、場に降りた。


 貞観十一年六月七日。
 祇園社の記録によれば、この日「宝祚隆永・人民安全・疫病消除・鎮護のため」に六十六本の矛を建てたとある。
 当時の御霊会は、ただ厳かで神聖な儀式というだけではない。
 疫神を鎮めるために、高僧が経を上げ、稚児の舞いや雅楽を奉納し、相撲や競馬くらべうまなどの芸能が競われるという賑やかなものであった。
 それ以来、祭りは毎年旧暦六月におこなわれ、南北朝時代以降、矛は壮麗な山鉾となり、京都の三大祭のひとつと数えられる『祇園祭』へと変化していくのである。
 この朝、陰陽寮の総勢八十八人のうち、時刻報知の当番を除いたすべての者が、祇園社を取り囲むように配置され、油断なく目を配っていた。
 また夜叉追いの矢上一族も、総領の直明以下、三十余人が集結している。
 光季は、境内からやや離れた、池に架かる橋の上にいた。
 いつもの若草色の狩衣ではない。潔斎のための、真っ白な浄衣じょうえである。水面に映るその姿はやつれ果て、すでに死にたる者のようだ。
「光季さま」
 矢上直明は、腰に刀を帯び、光季を守るように橋のたもとに立った。
「くれぐれもご自分をしかと保たれますように。あなたがその女に抱いている思いとは、負い目なのです。持てる者が持たざる者に対する負い目。命ある者が命なき者に対する負い目。それは決して正しいことではござりませぬぞ。情に流されなさいますな」
 黙ったまま、うなずく。
 決して声を出さぬように、陰陽守に呪をかけられているのだ。光季の声が撫子姫に届けば、そこから楔を打ち込まれて、たちまち結界は破られるだろう。
 両手に印を組み、目を閉じ、口の中で災いを祓う祝詞をつぶやく。
(撫子姫に会いたい。会って、その口からまことを聞きたい)
 胸に去来するのは、そのことばかりだった。それとも、それがすでに夜叉に憑かれているということなのか。
 境内の中央には、長さ二丈(およそ6メートル)の矛が六十六本建てられ、紅白の旗が風に揺れている。壮観な眺めである。
 笙や笛の音がおごそかに奏でられる。祭服を着た神子たちが、その前に立ち、祭文さいもんを一斉に唱和した。

  これまさに来たる年なみ吉日良辰りょうしんを撰び定め
  かたじけなくも牛頭天王、武荅むとう天神、
  婆梨はり妻女さいめ、八王子を奉請ぶじょうして白して言わく、
  急ぎ上酒を散共さんぐし再拝再拝す。

 森の緑さえ白むほど照りつけていた夏の日差しが、時がたつにつれ次第に翳りはじめた。暗雲、空をおおう。
 旗が思い思いの方向に狂ったようになびいた。
 風は木の葉を巻き上げ、矛が倒されんばかりに、ゆさゆさと揺れる。
「始まったか」
 賀茂峯雄が誰にともなく言った。
 神子たちは強風に負けぬ大声を張り上げ、祭文を詠み続ける。
 光季の冠っていた黒の烏帽子がはずれて飛び、結わえていた髪がほどけた。そばの池の水が泡立ち、天に巻き上がったかと思うと、落ちて滝のように橋の赤い欄干を打った。
 その勢いのあまりの激しさに、思わず小さく「う」とうめいた。
 声を出してしまった。


 次の瞬間、ぴたりと風がやむ。
 鎮守の森の木々の重なりの向こうから、被衣かづきをかぶった女がしずしずと近づいてくる。
(まさか)
 峯雄も矢上直明も、まったく違う方向に顔を向けている。女が近づいてくるのが見えていないのか。合図して知らせようにも、恐怖に身じろぎすることすらできない。
「光季さま。こんなところにおられましたか」
 顔は見えぬが、撫子姫であることに間違いはない。
 そのとき被衣が後ろに引かれ、妖艶な赤い唇だけが見えた。その唇がにっと笑った。
「わたくしを、御霊会に連れて行くと約束してくださいましたのに」



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