「満賢の魔鏡」 三の巻 「山茶花」(3)          back | top | home




『矢上の総領が、村を再建している』
 奇跡的に各地に落ち延びていた矢上一族は、この噂を聞きつけて、続々と村に戻ってきた。
 しかし矢萩清兵衛のように、家族全員が助かった者は稀だった。反対に、自分以外の家族をすべて殺され、ひとり身になった者がほとんどで、彼らはその慟哭から立ち上がるために、村の再建という難事業にのめりこんだ。
 槌音が響き、焼け野原だった下の村には家が立ち並んだ。耕された田畑にはまっすぐな畝が伸び、ほどなく麦が青々とした実をつけた。
(矢萩の血はこうやって現代まで連綿と続いていったのだ。この中に、龍二の祖先がいるかもしれないな)
 活気にあふれる村の様子を上屋敷から眺めながら、統馬はよく頭の中で、道理の合わぬことを考えた。
 昔には及ぶべくもなかったが、ようやく矢上郷は共同体としての形を取り戻しつつある。だがそれは、当主である統馬にとって、相応の責任がのしかかるということでもあった。
 冬の終わりに、統馬の家には第二子が生まれ、藤次郎と名づけられた。
 嫡男の小太郎も、溺れて死にかけたことなどすっかり忘れ、すくすくと育っていた。
 まだ目もろくに見えぬ弟にちょっかいを出し、信野に怒られている。
 誠太郎と俺も、はじめはこのように睦まじかったのだろうかと、統馬は息子たちをながめながら、不思議なものを見る思いだった。
 この頃が統馬にとって、一番平穏で心安らかな時期だったと言えよう。
 しかし、戦国の世はさらに混迷を極め、やがて伊予国に容赦ない嵐となって吹きつけたのだ。


 羽柴秀吉に屈服した中国地方の毛利輝元が、秀吉の命にしたがって、小早川隆景らとともに、伊予に猛攻をしかけてきたのは、天正十三年(1585年)の七月のことだった。
 長宗我部元親の四国統一は、数ヶ月も持たずにもろくも崩れ去った。
「毛利・小早川勢は、新浜の金子城、西条の高尾城、東予の鷺ノ森城など重要な拠点を次々と手中に収め、城主たちはそれぞれ、無念の敗死を遂げた由にございます」
 清兵衛は、統馬によって矢萩村の庄屋と任ぜられてからは、郎党たちに集めさせた情報を逐一、統馬のもとに持ってきた。
「北条の横山城城主・南通具は逃亡。他にも敵の手から落ち延びた武将がおり、川之江から宇和にいたるまで、目下、そのための落武者狩りが行なわれているそうな」
「この村にも、来るやもしれぬな」
 これまでのように荒れ果てた村なら、誰も見向きもしない。だが、復興した村が順調な暮らしを営み、貯えを持ち始めたことが知れれば、話は別だ。
 小早川率いる秀吉軍とて、残党狩りを口実に村々で野放図な略奪を働かないとも限らないのだ。
 統馬の両肩には今も、きりきりと激しい痛みが走る。臼井に襲われたあの日の悪夢が、砕かれた骨に刻みつけられているのだ。
 あらゆる手立てを尽くして、完璧な防備を整えねばならない。
「昼夜を分かたずに、物見を立てよ。村境の垣を高く組み、入り口には土嚢を積み、今よりもっと守りを強固にするのだ」
 矢継ぎ早に指図をしながら、統馬は心にかたく誓っていた。
 もう二度と矢上郷を滅ぼさせたりはしない。敵が長宗我部であろうと、秀吉であろうと、天下が誰の手に握られようとも。


 深夜、統馬は常ではない気配を感じて、目を覚ました。
 外に飛び出る。
 何も見えない。だが、空気がぬめりを帯びている。木々がざわざわと騒いでいる。
「信野」
 妻は即座にはねおきた。統馬と同様、信野も息子たちも、身支度をして、足袋をはいたまま寝ていたのだ。
「言い聞かせていたとおりだ。小太郎と藤次郎を連れて、森の洞穴に逃げろ」
「御前さまは」
「俺は、下の村に知らせに行く」
 枕元に掛けてあった天叢雲を、突き出した。
「これはおまえに預ける。俺が持っていても役に立たぬ」
「でも……」
「早く行け!」
 谷に降りる藪の中で、半鐘が鳴るのが聞こえた。ようやく、物見が異変に気づき、知らせようとしているのだ。
 統馬は足を速めた。
 川を渡ったところで、清兵衛たち一行が、こちらに駆けてくるのに出会った。
「統馬さま!」
「森の洞穴だ。皆が川を渡りきったら、ためらわずに橋を落とせ」
「お待ちください。あなたさまは、どこへ……」
「俺のことは、案ずるな。必ずあとで追いかける」
 村人たちが止める間もなく、駆け出していた。
「清兵衛、小太郎たちを頼む!」
 火矢がひゅるひゅると空を走り、家の屋根がたちまち燃え上がった。
 何かに突き動かされるようにして、統馬は火中を目ざして走った。
 なぜ自分が逃げようとしないのか、不思議だった。
 かつて、矢上郷を襲った火の惨劇が、今再現されようとしている。それを食い止めねばならぬ。少しでも長く食い止めて、村人たちが、遠くに逃げるまで持ちこたえねばならぬ。
 だが、それは表向きの理由。もうひとつの、隠された願いに思い当たる。
(俺は、死に場所を探しているのだ)
 統馬の名を受け継ぐ息子たちは、無事に逃げのびた。矢萩清兵衛が一族をまとめ、ふたたび村を立て直してくれるだろう。
 もう俺は、生き恥をさらしている必要はない。今度こそ、村を守るために討ち死にした総領と呼ばれる。もう、卑怯な生き残りと言われずにすむ。
 小太郎と藤次郎に、誇るべき父親の姿を遺してやれる。
 ただ心残りがあるとすれば、誠太郎を見つけて仇を討てなかったこと。
 そして、信野にせめて最後に、ひとことだけでも――いや、それは言っても詮無きことだった。
 垣と土嚢に行く手を阻まれた小早川勢は、馬を降り、徒歩で村に押し入ってくる。
 統馬は、小刀を手に握り、さらし布をぐるぐると腕に巻きつけた。
 肩のつがいが壊れているため、刃をふりかざすことはできないが、体ごと敵の懐にもぐり込むことはできる。
 不足を補うために、長いあいだ体術の訓練も積んできた。
 刀を抜いて襲ってくる鎧武者たちを、統馬は足さばきと小刀を巧みに使って、ひとり、またひとりと倒した。
 もとより、死を避けようとしていない。その我が身を捨てた攻撃には、侍といえど、うかつに飛び込むことを恐れた。
 燃えさかる村家を背にして、統馬は荒い息をつきながら、武者たちの前に立ちふさがった。髪を逆立て、彼らを見据える姿は、まるで不動明王のようだ。
 そのとき、敵の中から、すっとひとりの男が進み出た。
「待て」
 聞き覚えのある声だった。
 甲を脱いだその顔を見たとたん、統馬の臓腑は激しい喜びに打ち震えた。
「小早川に……加担していたのか」
「久しぶりだな。翔次郎」
 火の粉が夜空にぱっと舞い上がって、あたりを照らす。
 その男、統馬の兄・矢上誠太郎は、悪鬼さながらの顔で笑った。


「こいつは、俺が殺る」
 誠太郎は、仲間の武士たちにそう言い放つと、指先を南に向けた。
「川を渡れ。丘を登ったところに、もうひとつの集落がある。金目のものはそこにあるはずだ」
 駆け出す男どもの後姿に、彼はなおも呼びかけた。
「そうそう、その奥の森に洞穴がある。そこも調べるがいい」
「誠太郎」
 統馬は内心の焦燥を切り捨て、平然とほほえみかけた。
「元気そうだな」
「翔次郎。おぬしもな」
「臼井を誘い入れたあのときから、長宗我部の犬に成り果てたと思っていたが」
「あいつらは、とうに見限ったよ」
 にやにやと、ねぶるように統馬の全身を見ている。おそらく、両腕が今も萎えていることに気がついているのだろう。
「臼井の奴ら、口封じに俺を斬ろうとしたのでね」
 自分の眉間を拳でとんと叩く。そこには、消えようもない醜い刀傷が、頬から首筋にかけて走っていた。
「俺はかろうじて追手をふりきると、毛利の国に渡った。そこで伺候し、伊予攻めに加わったというわけさ」
「さすが兄上。敵の敵に寝返るとは、変わり身が早い」
「おまえは相も変わらず、この小さな場所に縛りつけられ、愚かな夢を見ているのだな」
「愚かな夢だと」
「夜叉を祓うなどというお題目は、愚かな戯れ言だ。この世の中は力こそが真理だ。力を持つ者は、たとえ夜叉であれ鬼であれ、この世のすべてを得る――あの夜、おまえははっきりとそのことを心に刻みつけたのではなかったのか」
「そうかもしれぬな」
 統馬は、小さく笑った。「兄上の言うとおりだ。俺は弱きゆえに欺かれ、何もかも失った。この世は力こそがすべてだと知った」
「だのに、なぜこんなところで、おめおめと弱いまま生きている」
「守らねばならぬものがあるからだ」
「なんだ、それは」
「貴様に、教える筋合いはない」
 統馬は腰を落として、身構えた。
 誠太郎の実力は、弟である自分が一番よく知っている。砕かれた肩でふるう小刀などが通じる相手ではない。
(それでも、こいつだけは生かしておけぬ。俺が地獄に落ちるときは、必ず道連れにしてやる)
 誠太郎が刀を鞘から放つより一瞬はやく、統馬は飛びかかった。
 それしか統馬が勝てる見込みはない。その一瞬にすべてを賭けた。
 狙いあやまたず、統馬の刃は誠太郎のわき腹をえぐった。しかし、彼の身につけていた鎧に勢いの大半を吸収され、致命的な一撃とはなりえなかった。
 だが、誠太郎の反撃は致命的だった。
 統馬は無防備になった背面を、袈裟懸けに斬り捨てられた。
「守るべきものを持つほうが必ずしも勝てるわけではない。それが戦国の世のならいだよ。翔次郎」
 地面にころがった弟をあわれむように、誠太郎は高みから講釈を垂れた。
「とどめをくれてやろうか。それとも、もだえ苦しみながら死なせてやろうか」
 統馬は答えのかわりに、両の手で誠太郎の脛当てをつかんだ。さらに、袴の端を、鎧のすそをつかんだ。
「貴様も……俺といっしょに……」
 誠太郎は口の端をゆがめるようにして笑うと、刀の鞘を統馬の脳天に打ち降ろした。
(終わったのか――)
 ふたたび地面に崩れ落ちた統馬は、遠のく意識の中で耳慣れた声を聞いた。
「御前さま」
 誰かが駆け寄り、彼を必死に抱き起こそうとしている。
「御前さま、しっかりして!」
 うっすらと開けた目に、妻の紙のように白い顔が映る。
「小……太郎と……藤……は?」
「叔父上に託しました。今ごろは皆、洞穴に隠しておいた馬で、南の尾根を越えているはず」
「……なぜ……戻って……た?」
「ご神刀が鳴り、御前さまが危ないと知らせてくれたのです。おひとり残してはゆけませぬ!」
 信野は立ち上がると、襟から小刀を抜き、敵の武将に向かって身構えようとした。
 しかし、その顔を見た瞬間、狼狽して取り落とした。
「誠太郎……さま?」
「信野ではないか」
 誠太郎は、驚きに目を見張った。
「こいつが守るものというのは、信野のことだったのか……ははは……うわはは」
「……」
 あまりに皮肉な運命の出会いに、信野は声もない。
「ずいぶん、やつれたのう、信野。こんな侘しいところで暮らしておれば、無理はないが」
 誠太郎は刀を鞘に戻すと、片手を信野に向かって差し伸べた。
 信野はびくりと震えた。
「会いたかったぞ」
 信野の肩をつかんで自分の胸元に引き寄せ、有無を言わせぬ接吻をしようとする。
「せ、誠太郎さま」
「何をこわがっておる」
「お放しください。わたくしは……」
「そうか、この男が目障りで、その気になれぬか」
 誠太郎は抱擁をほどくと、ふたたび刀の鯉口を切った。
「しばし待て。再会を喜ぶ前に、この無様な男の息の根を止めてしまおう」
 信野は統馬を振り返った。その目は家々の燃える火を映して、刹那まるで銅板のように見えた。
「誠太郎さま」
 彼女は急に鎧の男の背中に飛びつき、しなだれかかった。
「お会いできて、うれしゅうございます。どれほどお待ち申し上げておりましたか」
 統馬が聞いたこともない、甘えた声をあげる。
「すまぬ。あれから一日たりとも、おまえを忘れたことはない」
「きっと迎えに来てくださると信じておりました。どうぞ、こんな男は放っておいて、一刻も早くこの貧しい村から連れ出してくださいませ」
「ほう、自分の夫をこんな男と呼ぶのか」
「もちろんです。わたくしはもともと、あなたさまと夫婦になるべき女」
 統馬を見下ろした信野の声に憎々しげな響きが混じる。
「この歳月、わたくしがどれほどの苦労を忍んできたことか。この男に言いようになぶられ、望まぬ子まで孕まされて……」
「ふふ。それなら、俺が今この場で切り刻んでやろう」
「お待ちくださいませ。もっとよい考えがございます」
 信野は誠太郎の首に両腕を回した。
「この男の目の前で、わたくしを抱いてくださいませ。どうせ、この傷ではもう動けませぬ。死ぬ間際に、おのれが妻とした女があなたさまに寝取られる光景を、ありありと見せつけてやりましょう」
「わはは。復讐のつもりか。それほどにこやつを憎んでおると?」
「さあ、こちらへ」
 信野は男の袖を引くと、一軒の小屋に導いた。そして、軒先に仰向けになって横たわった。誠太郎がその上におおいかぶさると、完全に統馬に背を向けた格好となる。
 なまめかしい声をあげて信野が誠太郎とからみ合うさまを、統馬はなすすべなく見ていた。
 ずっと恐れ続けていたことが現実となった。妻が兄のもとに走り、その胸に抱かれるという悪夢。
 だが、今となっては、どうでもよいことだ。どうせ俺は死ぬ。信野がどうなろうと関係ない。もうろうと薄れゆく視界の中で、すべては何の意味もなさぬ虚無と化すはずだった。
 だが突如、死にかけていた統馬の全身は、火がついたように熱くなった。途方もない憤怒が、身体の中の血を脈々と波打たせた。
 彼は残っていた力をかき集めて起き上がり、かたわらに落ちていた信野の小刀を手につかむと、よろよろと歩きだした。
 信野は誠太郎の腕にしがみつきながら、近づいてくる統馬をじっと見た。
 ふたりの体が深くつながった瞬間、信野は両脚を、誠太郎の腰に強くからめた。
「信野?」
 不審を感じた誠太郎は思わず身を起こそうとした。しかしその瞬間、猛禽が獲物に舞い降りるように、全身の体重を乗せて、統馬が彼の背中に踊りかかった。
 まぐわいのために鎧を半分脱いでいた誠太郎は、心臓を一突きにされて、ものも言わず地面に崩れ落ちた。
 信野は震える手で襟を掻き合わせながら、死体の下から起き上がった。
 その黒い瞳は、涙でゆらゆらと揺れながら、統馬を見つめている。
 統馬は、返り血を全身に浴びたまま、妻に向かって小刀を握りなおした。
 あれが、誠太郎の刃から統馬を逃がれさせるための咄嗟の嘘だったことは、頭ではよく理解していた。あの切迫した状況の中では、女の身に思いつくことのできるただ一つの手段は、自分を投げ出すことしかなかっただろう。
 だが、それでも赦せない。
 信野のしたことが、赦せないのだ。
「お斬りくださいませ」
 妻の声は澄んで、迷いがなかった。
「声高に御前さまをののしり、御目の前で他の男と交わった女。どうぞご存分に成敗なされませ」
 地にぽとりと小刀が落ちた。
「うわあああああっ」
 統馬は、叫んでいた。
 憎むこともできない。だが、赦すこともできない。
 ただ、無力が、自分の無力が限りなく厭わしい。
 天を仰いで、狂った野獣のように吠えるしか、今の統馬に残されたことはなかった。






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