第十話  命恋うるもの(1)                   back |  top | home




「私は勘違いしていました……」
 携帯からは、鷹泉孝子の憔悴しきった、それゆえに聞きようによっては穏やかにも思える声が続いている。
「夜叉の将の最終決戦とは、血で血を洗う凄惨な武力の戦いだと思っていたのです。それなら、それなりの準備はしてきたつもりだったのに。
でも、そうではありませんでした。今私が霞ヶ関の官庁のビルの中で見ているものは、違法な業者からの札びらが飛び交い、国民の安全を脅かすための、人間の理性では信じられないような認可や許可の判が次々と押されていく光景。
挙国一致体制を少数の人間の野望のみで作り上げるという、戦前の治安維持法にも似た法律の草案が驚くべきスピードで、コピー機から吐き出されていく。
近隣の諸国との会議では、暴言とも言える侮辱の応酬が続き、一方では着々と攻撃用ミサイルの整備を進めて、国会で憲法が国民の知らぬ間に改正されるのを待っている。
異を唱えようとした一部の人たちは、いつのまにか姿を消して、どこにも見えません。バリケードを築いてはいますが、おそらく私のこの部屋にももうすぐ……。
あと数日もすれば、この国は治安も厚生も福祉もまったく機能しない無秩序に陥り、周辺の国々と否応なく交戦状態に入っているでしょう。これほどむごい一国の崩壊があるでしょうか……」
「あきらめてはならぬ。鷹泉のご息女よ」
 草薙が震える声で、小さな機械に向かって呼びかける。
「こちらには、統馬がおるわい。宝賢の陰謀など、たちまち挫いてくれように。わたしたちも今からそちらに助けに参る。最後までもちこたえるのじゃ」
「無駄です。人の心に巣食うこれほど大きな悪の奔流を見せつけられては。私の中にある希望の種は、たちまち食い尽くされてしまいました。人間は――人間は生来、夜叉に与(くみ)するようにできているのです」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか、孝子さん!」
 久下はたまらずに、前世の鷹泉董子の口調で叱りつけた。
「夜叉追いが夜叉を追うことをあきらめて、いったい誰が人々を救うのです。希望とは、外からの暴力で食い尽くされるものではありません。自分自身が育てるのをやめてしまうから、潰えるのです」
「あの孝子さんが、これほどまでに打ちのめされてしまうなんて」
 詩乃は、孝子のあのふくよかな笑顔、肩を抱かれたときの力強い温もりを思い出して、慄然とした。
「それが、宝賢のはかりしれぬ妖の力なのやもしれぬな」
 草薙は髭をしおれさせ、うなだれた。
「鷹泉のご息女でさえ、この有様なのじゃ。まったく霊的防御力のない一般の人間がこれと同じ目に会うたら。この国府の中心で、どんな陰惨なもくろみが行われているのか」
「急がねば、なりません」
 久下尚人は搾り出すように、やっとそれだけ言った。


 半遮羅は、手から刀を抜き身でぶら下げたまま、まだ動かない。
 もう2時間。封鎖された正面の広い道路の真ん中に陣取り、じっと彫像のように国会議事堂の中央塔を見上げたきりだ。
 黒い翼の生えた背中には、たったひとつの種字がくっきりと浮かび上がっている。宝賢の呪いを受けた印。最後の種字が消えたとき、彼は夜叉から人間に戻ることができる。
 彼は宝賢の気配を探っていた。いや、それは正確な言い方ではない。宝賢の気配はそこらじゅうに満ちているのだ。びりびりと空気を圧しつけ、捻じ曲げるほどの力。それはまるで、浜辺の中からたった一粒の砂鉄をも探り当てて、引き寄せる強力な磁石のように、人の心に巧妙に隠された針の先ほどの悪意や欺瞞を、狂気へと駆り立てる負のエネルギーだった。
 昨日まで日本の中枢であった永田町は、そうして集めた狂気をふたたび自らの燃料として取り込む魔の循環システムと、成り果てているのだった。
 そして、その中心に座して人々をあやつっているはずの宝賢は、いまだ巧妙に姿を隠している。ただ、毘沙門天の霊力を彼と二分する半遮羅だけが、この最後の夜叉の将の実体を捉え、そして倒すことのできる唯一の存在なのだ。

 数キロ四方には肌を粟立たせるような妖気が漂っている。何の抵抗力もない人間が近づいたら、それだけで正常な思考ができなくなるだろう。
 議事堂の正門道路をはさんで両側に配置された庭園のうち、北側の洋風庭園に待機している詩乃と草薙と久下は、何時間も前からずっと、周辺に張り延べるための防御結界真言を唱え続けていた。
 しかし、海に砂を投げ入れて満たそうとする児戯のごとく、その効き目は薄い。それどころか、逆にじわじわと追いつめられているような疲労すら、一同は感じていた。
 ネタマシイ。アイツガ、コノ俺ヨリ出世スルナンテ。
 そこここに、人々の吐き出した悪意が、行き場をなくした風のように渦を巻く。
 ワタシバカリガ、貧乏クジ引イテ。
 アイツヲ、トコトン支配シテヤル。
 好キデヤッテル人ニ、ヤラセテオケバイイノヨ。
 他人ノコトナンテ、ドウデモイイ。
 あまりに矮小で、卑怯で、身勝手な考え。人間が人間であることをやめたくなる。孝子さんの言ったことが今なら少しわかる――。
 そこまで考えて、詩乃は首を大きく左右に振った。いけない、これが宝賢の攻撃なんだ。
 もう一度、真言に集中しようとしたとき、背後に人が立つのがわかった。
「龍二くん!」
 久下の驚愕の叫びが隣から聞こえた。
 とっさに振り向いた詩乃の目に、幽霊のような青ざめた顔をして立っている矢萩龍二の姿が映った。
「矢萩くん……」
「まさか! まだ愛媛の病院にいるはず」
 草薙も信じられないように、口をぱくぱく開け閉めしている。
「病院は、脱走してきたよ」
 折れた肋骨が痛むのか、空気の抜けたようなしゃべり方をして、彼は照れ笑った。
「馬鹿もん。医者に当分は絶対安静と言われていたじゃろう。その満身創痍で無理をしたら、二度とまともに歩けぬようになるぞ」
「それでもいい。今、ここに来なきゃ、俺は死んだのと同じだ」
 龍二はしばらく呼吸を整えていたが、詩乃のほうに身体を向けた。だが、とうとう彼女をまっすぐに見つめる勇気は湧いてこなかった。
「詩乃ちゃん」
「……はい」
「わかってるよ。自分があやまっても赦してもらえるはずのない、ひどいことをきみにしちまったんだって。それでも、俺はこうやって、あやまるしか方法がない」
 うなだれてしまった青年を見て、詩乃は何か言わなければという焦燥に駆られた。
「矢萩くん、私、もう何とも思ってない。だって、あれは矢萩くんの本心じゃなかったもの。夜叉に憑かれてやったことだもの。矢萩くんがあんなことする人じゃないこと、よくわかってるよ」
「でも……」
 言いさして後が続かず、ただ奥歯を噛みしめている。
 詩乃のことばに、龍二は全然納得していなかった。
 本当に俺を赦していると言うのなら、じゃあ、どうしてこちらを向いたとき、あんなに強ばった顔をした? どうして、小刻みに声が震えているんだ。
 その疑いは、詩乃にも痛いほど伝わってきた。龍二は自分自身を赦せないのだ。自分が自分を赦せないのに、どうして人の赦しのことばが信じられるだろうか。
「ごめんね。矢萩くん。やっぱり今のは嘘」
 詩乃は口を開いて、静かに本心を告白した。
「もう何とも思ってないなんて、強がり。本当は、矢萩くんのことが今でも少し恐い。忘れたい、忘れなきゃいけないと思うけど、まだむずかしい。時間が経てば少しは忘れるだろうけど、完全に忘れるのは一生無理かもしれない」
「……そうだろうな」
「でも、それでも私は矢萩くんのことを赦せるよ」
 驚いて顔を上げた龍二に、詩乃は笑顔を向けた。
「だって、私もたくさんの誰かにそうやって赦されてきたから。そのおかげで今の私が生まれて、この世界で生きているんだから。だから私もお返しに矢萩くんのことを赦したい。私には赦す力はないけど、みんなから力をもらえる」
 詩乃は数歩、龍二に近づいた。彼はあわてて身を引こうとしたが、その前に自分の手の上に詩乃の手が重なった。
「……そんなこと、嘘だ」
 彼は茫然とふたりの手を見つめた。
「ううん。本当だよ。人が人を想う気持ちは、ずっとそうやって私のところまで回ってきたの。私でその流れを断ち切りたくない。
いつか、矢萩くんも誰かを本当に赦さなければならないときが来ると思う。今自分で自分を赦せなくても、その誰かのために、これから生きて。その人を赦すために、自分が赦されたんだということを信じて」
「そんなむずかしいこと……できねえよ」
「そうだね、むずかしいよね」
 結び合っているふたりの手の甲に、熱い水滴が幾度も落ちた。
 しばらくむせび泣いていた龍二は、意を決したように詩乃の手を振り払い、袖でぐいと顔をぬぐった。
「少なくとも今、俺にできることが一つだけある。俺をいいようにした夜叉どもと闘うことだ」
「龍二。立っているのがやっとのその身体で、真言を唱えるなど無理じゃ」
 草薙が本気で怒っている。「死ぬつもりか!」
「平気だよ。親戚が病院に集まって、一晩かかって護符を身体じゅうに貼り付けてくれた」
 龍二はようやく自分を取り戻したかのように、不敵に笑った。
「この服の下は、まるでエジプトのミイラだぜ。矢萩一族全部の霊力が、護符を通して俺の身体に集まってる。おもだった者は愛媛から全員東京に来て、この結界の外側で真言を唱えていてくれる。俺は一族の代表として遣わされて来たんだ。そうそうは簡単にはくたばらないぜ」
 強い決意を秘めた瞳に、草薙も彼の覚悟を感じ取り、もう何も言えなかった。
「ほかの夜叉追いの仲間たちも、結集しています」
 久下が気持ちを引き立てるように、大声を出した。
「闘っているのは、僕たちだけじゃない。みんな元気を出してください」
 思わぬ助っ人の登場に、あらためて力を得た思いの皆だったが、その希望は次の瞬間に戦慄へと変わった。
 道路の中央に立っていた半遮羅の翼が、微風をはらんだように震えながらゆっくりと広がり始めたのだ。
「――見つけたぞ」
 その白い瞳は血走り、まっすぐに国会議事堂の屋根の上を見据えている。
 冬空には、雷雨を呼びそうな黒雲が低く垂れ込めている。
「宝賢、姿を隠しても無駄だ。出てきやがれ」
 翼を支える指骨が悲鳴のような音を立てて一気に広がり、急速な揚力を得て、夜叉は次の瞬間、空高く舞い上がった。
 地上三階建て、鉄筋コンクリート製の国会議事堂。外装は灰色の花崗岩積み。右ウィングは参議院、左ウィングが衆議院で、中央塔は高さ65メートル、先端が三角錐をなしている。
 半遮羅は片手に天叢雲を掲げ、その塔の一角にふわりと舞い降りた。まるで、この建物は俺がもらうと言わんばかりに。
「かくれんぼは終わりだ。早く決着をつけようぜ。毘沙門天のすべての力を受け継ぐのは誰なのか」
 そして、その言葉が終わるのを見計らったかのように、西の空低く垂れ込めた暗雲の隙間から、にごりを漉し取った淡い色をした夕方の光が地上に差し込んできた。そのまぶしさに地上にいた者たちの目がくらまされているうちに、塔の上にもうひとりの姿が忽然と現われたのだった。
 その人影は、半遮羅のちょうど対角に当たる位置に立ち、まっすぐに彼と向き合った。
 その頭には燃えるような紅の髪を頂き、背中を深緋(こきひ)色の翼がおおう。
 二人の輪郭はこの日最後の残光に縁取られて、燃えるように輝いていた。半遮羅の髪が泡立つ荒海の波頭だとすれば、もう一方は、すべてを焼き尽くそうとする太陽そのものだった。
「あれが、宝賢……」
 詩乃がからからに干からびた喉から、ようやくことばを出した。
「どことなく、誠太郎に似ていませんか」
 久下の声も同じように苦しげだった。
「いや、俺には、むしろ統馬に似ているように見える」
 と龍二が、食いしばった歯の間からうめいた。
「どちらも当たっておる」
 草薙の口調はいつになく重々しく、まるで、悲劇の舞台の幕間に現われる口上言いのようだった。
「宝賢は、人間を捨てて夜叉になるまでは、矢上家の総領の血を引く、誠太郎と統馬の直系の祖先だったのじゃからな。似ているのは当然じゃ。
……さらに言うならば、宝賢自身も、かつては『矢上統馬』という名を戴いていた時期があった」
「それじゃあ」
 その因縁のあまりの深さを思い、一同は続けることばを失った。


 何者にも立ち入ることのできぬ、『矢上統馬』対『矢上統馬』の戦い。
 四百年の時を持ち越された戦いの火蓋が、今切られようとしていた。
               


                   
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