第十話  命恋うるもの(3)                   back |  top | home




 電気が遮断されているのだろうか、見渡す限りのビルに窓の灯はひとつも灯らなかった。空は薄墨を塗りかさねるように次第に暗く、やがてあたりは、ぬめった闇の底に沈んだ。
 夜叉の将たちの放つ強い戦気は、主を求める下級夜叉を呼び寄せた。硫黄の沼がぼこぼこと泡立つ様に似て、異形の者どもが一体、また一体と結界の壁から侵入してくる。
 龍二は上着のポケットから紙の束を取り出すと、真言を唱えてから空に撒いた。ひらひらと舞う蝶となって護符はあたりの夜叉に取り付き、そして浄化した。
 しばらくは、風以外に音のするものはなかった。
 いつのまにか南の空の黒雲は吹き払われ、櫛型の蒼白い月が、中天にかかる。
「ああっ」
 詩乃が差した指先。半月に見下ろされた霞ヶ関の中央合同庁舎ビル群の頂上に、大勢の夜叉どもが黒々と取りついているのが見えた。
「僕が、鷹泉のお嬢さんを助けに行きます」
 久下尚人が小さく、しかし決然とした声で言った。「今、僕がここにいても統馬のためにできることはない。あの様子だと、一刻も早く孝子さんを助けにいかなければ。……手遅れになる前に」
「じゃあ、私も」
 詩乃の申し出に、彼は眉をひそめて首を振った。
「詩乃さん、あなたならば、統馬の役に立てます。ここにいて、見守ってやってください。……龍二くん、詩乃さんをよろしくお願いします」
「久下さん!」
 龍二はポケットからさらに数枚の護符を取り出して、彼に渡した。
「親父の書いた守護呪文だよ。けっこう役に立つ。持ってってくれ」
「ありがとう」
 久下はその護符を袂(たもと)にねじこむと、ふたりの不安げな視線をかわして、袈裟をひるがえし歩き出した。まるで宙を飛ぶような速度で。
 一刻も早く、この場を離れたかった。正直に認めてしまうなら、詩乃のそばを。
 合同庁舎第4号館の玄関には人影はなかった。自家発電のおかげか、内部には最低限の照明だけは灯っている。時折どこからか、どぉんどぉんと何かを壊したり、大きなものを倒すような不気味な音が反響してくる。無人の玄関ホールを横切ろうとすると、とてつもない邪念が突風のように吹きつけた。
「そう簡単には通してくれそうもないですね」
 久下は錫杖を前に掲げると、油断なく身構えた。
「いいでしょう。どうせ僕は」
 その次に言おうとしたことばに気づいて、我ながら苦笑する。
『生きてここを出るつもりはない』
 それは予感めいたものでもあったし、率直な願望でもあった。
「自分の正体を隠すなどとは卑怯でした。でも知られたくなかったのでしょうね、最後の最後まで」
 久下の鍛えられた目には、姿なき隠行夜叉どもの一群が、奥で立ちはだかっているのが見えた。
 真言を唱え、錫杖をぐいと突き出す。数体が、懐中電灯を当てられた影のように四散した。
「僕は、刺客・仁右衛門の人生で何人もの人を殺めました。それは銭のためでもあったし、やがては、それ自体が麻薬に似た快楽ともなりました。……おまえたちと同じでしょう?
この世のすべてを呪っていました。人を殺めるときだけ、自分が力ある支配者になったような興奮を感じていました。なぜこんな鬼畜が夜叉に変じなかったのか、自分でも不思議です。きっと、夜叉になる値打ちもなかったのでしょうね」
 夜叉どもは、それに答えるようにギャアギャアと鳴く。久下は力任せに錫杖を薙いで、また数体を祓った。
「ふふ、笑わないでくださいよ。こんな僕でも、御仏はお見捨てになりませんでした。吉祥天さまに救っていただいた僕は、その導きで半遮羅のいる洞窟に向かいました。
彼も、おのれの犯した罪に苦しんでいた。僕は、まるで長年修行した僧侶のようにふるまいましたよ。彼を仏の教えに導きながら、自分自身も大きな導きを受けていたのです。
統馬といっしょに旅をして、僕はこんなに温かい気持ちになったことはなかった。こんなに人から頼られることは初めての経験だった」
 彼はぐいと袂で涙を拭って、なおもつぶやき続けた。
「統馬は僕のすべてでした。彼とともにいるために、僕は御仏に何回も転生を請い、聞き入れられました。転生のたびに、統馬は僕を探し当ててくれた。ずっとこんな日々が永遠に繰り返すものだと思っていました。……詩乃さんが現われるまでは」
 唇を噛み締める。彼は長い間立ちつくして、自分の心の内側の闇を見つめていた。
「詩乃さんが現われ、統馬はまるで定められていたことのように、彼女に惹かれ、彼女を愛しました。僕はそれを見て、最初は素直にうれしかった。統馬のあんな和らいだ顔を見るのは初めてでしたから。
でも、……少しずつ、少しずつ僕の心に変化が訪れました。詩乃さんをうとましく思う気持ちが……。ああ、そんなことあってはならないのに。僧侶として、人間として、あってはならないこと。
 もしかして僕はいつのまにか、夜叉に操られていたのか……。いいえ、違う! 僕が、この僕が望んだ。状況がどうであれ、詩乃さんが大きく傷つくことを半ば予想して、半ば期待して、矢上郷へおもむく統馬とともに送り出しました。過去と向き合う統馬をそばで見ることによって、望みどおりに、いいえ、それ以上に……詩乃さんはズタズタになったんです!」
 久下は突然気がふれたように、のけぞって笑い始めた。
「はは……! どうです、僕はおまえたち夜叉と何も変わっちゃいない。御仏の導きを受けていながら、あの大きな罪業から救い出されていながら、僕はまた元の、犬にも劣る畜生に逆戻りしてしまったじゃあないか。今の僕はおまえたちと同じだ!」
 床をどんと錫杖で突く。先端の環がカラカラと回って、その高い金属音が幾重にもこだました。
「だから吉祥天さまは、統馬の封印の呪文を僕ではなくて詩乃さんに授けたのかもしれませんね。僕の心の醜さをご存じで、お見捨てになった……」
 彼が絶句しているあいだ、夜叉の群れはただ、静かにうごめいていた。
「でも、どんなことがあっても、僕は孝子さんだけは救い出します。彼女は今や僕の、この世との唯一の絆ですから。彼女を無事にここから逃がしたら、そのときはいくらでも、おまえたちに魂を食われましょう」
 久下は濡れた目で、自分を取り巻いている夜叉をキッとにらみつけた。
「それまで、一歩たりとも邪魔はさせません」


 鷹泉孝子の執務室は、地上12階建てのビルの7階だった。
 入り口にありったけのキャビネットやテーブルでバリケードを築き、倒れた椅子以外はからっぽになった部屋の中で、彼女は放心して、散らばった書類の真ん中に座り込んでいた。
 紫のメッシュを入れた輝くような白髪もぼさぼさで、疲労がその目元を青黒く隈取っている。
「この部屋だけは、絶対に渡さないわ」
 心の中で考えたことを声に出していることも、自分では気づいていない。「既得権益を……守るのよ。地方の要望書なんて、断固として差し戻せばいいじゃないの……」
「孝子さん!」
 扉の外から、聞きなれた男の声がした。ぼんやりと顔を上げて、そちらを見る。
「無事ですか、孝子さん!」
 ドンドンとドアを叩く音がしばらく続いたかと思うと、幾重にも鎖で固定したノブの側ではなく、ぼろぼろに崩れた蝶番の側からドアをこじ開ける気配がする。
「久下さん!」
 剣山のように立てた金髪頭を見たとたん、孝子は悲鳴を上げた。
「よかった。そんな大声が出るなら、僕より元気そうですね」
 久下は傷だらけになった顔で、弱々しく笑った。
 孝子はおそるおそる歩み寄る。久下の錫杖を握る手には包帯代わりに手ぬぐいが巻かれ、袈裟はぼろぼろに千切れていた。そして、彼が歩いてきた廊下には、点々と血の跡がついている。
「なんとか、ここまでは敵を倒してきました。でも、散った奴らはまた戻ってくる。急ぎましょう。ここを出るんです」
「いや……」
 孝子はおびえたように首を振って、後退った。
「だって、私、ここは私の居場所。死んでも守らなきゃ。いつ急ぎのメールが入るかわからない。万が一、決定通知書の記載漏れがあるかもしれないのよ」
「可哀想に」
 久下は、混乱した老女を痛ましげに見つめた。「あなたは何十年もこの部屋で、統馬のために必死で働いてきたんですね。私が死の間際に、そうお願いしたばかりに」
 「オン・トン・バザラ・ユク。ジャク・ウン・バン・コク」と、被甲真言を唱える。
「孝子さん、もう頑張らなくてよいのですよ。勝つにせよ負けるにせよ、戦いは今日ですべて終わるのですから」
 彼は、前世である華族の令嬢・鷹泉董子に立ち戻ったかのように、穏やかに微笑んだ。
 その途端、焦点が合っていなかった孝子の瞳は、真言の結界に守られて、次第にまわりの現実を映し始めた。
「あ……、久下さん。これは……」
「この建物の中にいる人たちは、あなたも含めてみんな夜叉の影響を受けていたのです。正気に戻りましたか」
「ええ。たぶん……なんとか」
「よかったです」
 袈裟姿の僧侶は、積み上げられた机をいくつか取り払うと、ありったけ腕を差し入れてきた。「さ、僕の手につかまって。脱出しますよ」
「は、はい」
 孝子はその腕に引っぱられ、ドアとキャビネットの狭いすき間から、なんとか身体を押し出そうとする。
「うむむ。出られそうですか」
「無理かも……」
「……孝子さん、あなたちょっとダイエットしたほうがいいようですね」
 背後で何かが、キラリと光った。
 次の瞬間、袈裟の衣擦れとともに、鈍い音。
 何も言わぬまま、ゆっくりと久下の身体が前のめりに沈んだ。そして、愉悦に歪んだ表情を浮かべたひとりの男が、刃物を久下の背中にぐりぐりと突き立てているのが見えた。
「きゃあっ」
 孝子は短く鋭い悲鳴を上げると、とっさにハイヒールの踵で、立ててあった長いテーブルを蹴り倒した。
 崩れてきた家具にしたたか頭を打って、暴漢はあっけなくその下敷きになった。
「久下さん!」
 孝子は無我夢中でバリケードの残りを取り払うと、うずくまっている久下の肩を抱いた。
「孝子さん」
 彼は蒼白な顔を持ち上げると、うっすらと目を開けた。
「すいません……。助けに来ておいて、このザマです。外まで見送ることができなくなってしまいました。……停電でエレベータは使えません。まだ階段に結界の効力が残っているはず……早く行ってください」
「何言ってるの、いっしょに行くんですよ」
「僕は、もう……ダメみたいです」
 それを聞いて、孝子は童女のように泣き出した。
「ばかぁ。董子おばあさまなら、そんな弱音は吐かないわよ」
「はは……。統馬によると、五回転生した中で、どうも僕は一番の阿呆らしいです」
 久下はあきらめきった、無垢な微笑みを浮かべた。
「泣かないでください。僕はもう、この世に用のない人間ですから」
「いや、いやだあっ。董子おばあさま、私を残して死んじゃいや」
 彼はそれには答えず、そのまま静かに瞼を閉じた。
 為すすべもなく、久下の頭に顎を埋めてすすり泣いていた孝子は、いつのまにか自分たちが温かいものに包まれているのに気づいた。顔を上げると、久下の頭上に、淡い虹のような清浄の光が満ちていた。
 霊力のない孝子には、どんな存在がそこに立つのか見えていない。ただ心の中に、母の胸に守られているような安らぎと希望が満ちてくることだけが感じ取れた。
 そして、光はふたたび現われたときと同様に、静かに消えていった。
「あれっ?」
 目を驚いたように見開き、いきなり素っ頓狂な声を上げて、久下が跳ね起きた。
「変ですねえ、痛い……のに、死んでません」
 ふたりは顔を見合わせた。
 怪訝な顔で、彼は刃物を突き立てられた傷の痕を後ろ手にさぐる。
「あ……」
 切り裂かれた袈裟の下からつかんだのは、ごく少量の血液が付いた一枚の紙切れだった。
「龍二くんの護符……」
「護符?」
「真言を書きつけた守護の護符です。袂に入れておいたはずなのに、夜叉と戦っている間に、何かの拍子で背中まで回っていたのでしょうか」
「それがナイフを防いだ?」
「少なくとも致命傷になりえなかった。今も、龍二くんのお父さんがこめた霊力が護符から流れ込んできます。治癒の力もあるみたいです。とても温かくて力強い、いいお父さんだ……」
 語尾はしだいに、こらえきれず楽しげな笑い声へと変わった。
「久下さん?」
「あはは……。なんてことでしょう。吉祥天さまは僕を、そう簡単には死なせてくれないみたいです。そして、まだたくさんの人々との大切な絆が、僕の回りを取り巻いている」
「大切な……絆」
 理解し得ないことばだったが、孝子は同意して深くうなずいた。
「それに……。気づきましたか」
 久下は立ち上がって、耳をすませるように手で合図した。
「上の階から人の話し声が聞こえてくる。いつのまにか夜叉の気配はこの建物から消え去ったようです。何人か、我に返った者がいるのかもしれません」
 彼は頭をめぐらして、いつもの力強いまなざしで孝子を見た。
「孝子さん、僕は戻ります。僕にはまだ、統馬のためにできることがあるらしい」
「じゃあ私は、ここに残ります」
 鷹泉孝子の目にも、意志の炎が燃え始めた。
「正気を取り戻した職員たちと力を合わせて、省内の秩序を回復しなければ。すでに国会に提出された有害な法案を撤回し、諸外国に向かって放たれようとしている悪意のメッセージを修正して回るわ。今なら、まだ間に合う」
「あなたなら、きっとできますよ」
「きっとやってみせる。統馬たちとともには戦えないけど、これが私の戦い、私の戦場なのよ」
 孝子はふくよかな胸を張り、晴れ晴れとした笑顔で宣言した。



                   
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