第三話  天に叛くもの(4)                   back |  top | home




 マリは顔をしかめながら、溶けた氷で薄まったアイスコーヒーの最後の一滴を飲み干した。
 何もいいことなどない。
 今日のラッキーアイテムは、「ハンバーガー店の朝食」とあったから、わざわざ会社に遅刻してまで食べに来たのに、新しい出会いなどありそうにない。
 窓際に学生らしき男女が座っている。
 そういえば、今日から学校は夏休みだっけ。数年前までは、自分もああだった。今は会社との往復。夏はいつ来て、いつ過ぎたのかわからないまま終わってしまう。
 それにしても、あいつら見せつけてくれる。
 絵になるカップル。悔しいけど、思わず視線がそっちに行ってしまう。
 女のほうは、レースのトップに花柄のフレアスカート。自分が可愛く見えることを計算した服装と男に媚びるような態度。
 だいたい、テーブルに置いた白い動物のマスコットに話しかけるふりをするなんて、バッカみたい。バカを通り越して呆れる。
 世の中、不公平だ。こういう見え見えの女が、いつもかっこいい男を射止める。
 それなのに、私は。
 なんで?なんで?なんで?なんで?
 マリはすっくと立ち上がり、トレイごとゴミ箱に放り込んでしまう。
 この占いは、ちっとも当たらなかった。明日からもっと占い誌を買おう。2冊じゃ足りない。
 私にはもっともっと、ラッキーアイテムが必要だ。


 マリの一日は、朝の星占いのテレビ番組を見ることから始まる。もちろん、携帯の占いサイトも忘れずにチェック。
 占い誌も片っ端から読み漁る。
 たとえば、そのうちひとつでも、
「今日は何をやってもうまく行かない日。家でおとなしくしているほうがよさそう」
 とあれば、迷わず会社を休む。こういう運勢の悪い占いは、必ずと言っていいほど当たるのだ。勢い、遅刻や欠勤が多くなり、上司には呆れられているが、それで幸運が来るなら、少々のことにはくじけない。
 反対に、
「今日は迷いが晴れ、チャンスがつかめる日。イベントにはどんどん参加」
 とあったら、体調が悪くてもコンサートに出かけていく。
「ラドンサウナがおすすめ」
 とあれば、どんなに残業で遅くなっても立ち寄る。
 数々の占いを掛け持ちしているので、手に入れるラッキーアイテムも半端ではない。
 彼女の部屋には、過去に買った品がうず高く積まれている。その中で一番高かったのは、「新製品のPC」、一式15万円也。結局ほとんど使っていない。
 「ハートのペンダント」も10万近くした。
 ラッキーアイテムに食べ物が重なるときも多く、「パウンドケーキ」と「チョココルネ」と「おでん」と「肉まん」が重なったときは、吐きそうになった。
 なぜこれほど占いにのめりこんでしまうようになったのか、マリは自分でもよく覚えていない。たぶん高校の頃好きな人ができ、せつない気持ちに揺れながら、ひそかに相性占いをやるようになったのがきっかけだったと思う。
 ほんの少しことばを交わせただけで、たまたま近くに座れただけで、占いのとおりにしたからだと、天にも昇るような心地になれた。マリにとって、恋の喜びと占いは切っても切れないものになった。
 そして気づくといつからか、占いがないと何も行動できなくなっていた。
 占いが当たること、それ自体に何よりも幸せを感じるようになった。
 たとえば、ラッキーアイテムをバッグにしのばせて、いつもの通勤の道を駅に向かう。ホームに駆け上がると閉まりかけた電車の扉が、何かの加減でふたたび開く。
 そんなとき、自分が世界を支配しているような昂揚感に満たされるのだ。
 占いに書かれているというだけで、自信を持って一日に臨める。うまく行かなければ、それは占いが間違っているのではなく、自分のやり方が悪かったからだ。そして、さらに新しい占いを取り入れることに、情熱を燃やす。
 誰だって、そうして生きてる。
 確かさのない人生。行く手を照らす灯台の光がなくて、どうして安心して毎日を送れるだろうか。
 占いによって幸せを確実につかめるなら、どんな労力もお金も安いものだ。


「ヒトミ。お願いあるんだけど」
 昼休みのロッカールーム。マリは同期の友人にバシッと手を合わせた。
「何よ。あんたのお願いって恐いよ」
「加納くんに、友だち紹介してって頼んでくんない?」
「ええ? どういうこと」
「今日のところにこう書いてあるの。ほら、『友達の恋人からの紹介で好みのタイプと出会いがありそう』って」
「あんたね」
 ヒトミは顔をしかめる。
「いいかげん、そういうのやめにしたら。こないだだって、うまく行ってた彼と、占いが悪いからって理由だけで別れたでしょ」
「だってあれは、『デートは不調に終わりそう』って書いてあったから。今日は会うのやめようって言ったのに、あいつったら、せっかくいいレストランを予約したのに今からキャンセルできないなんて怒るんだもん。
もともと相性占いでもイマイチ良くなかったし、あんな分からず屋はこっちから願い下げだよ」
「あんた、占いのせいで、みすみす幸せ逃してない?」
「逆、逆。占いに従ったからこそ、本性を早く見抜くことができて、不幸を未然に防ぐことができたのよ」
「勝手にしなさい。もう知らない」
「あ、だから彼を紹介してもらってってば」
「あんたみたいな占いキチ、誰と付き合ったって、うまく行かないよ!」


「佐伯くん、ちょっと」
 マリは呼ばれて、課長のデスクの前に立つ。
「調べといてくれと言っといた特許の件、どうなってる?」
「あ、あれは明日やります」
「明日の会議で必要なんだ。今日中にと言っといただろう!」
「今日はダメなんです。新しい知識を得るには向いてない日なので」
「いったい何を言っとるんだ? 業務命令だぞ! 占いにはまりこむのも限度がある」
「じゃあ、課長は私が占いにそむいたことをして、何か大失敗をしたら、どうしてくれるんですか!」
「馬鹿なことを。大失敗って、いったいどうやって資料をあたるだけでそんなことになるんだ」
 マリは上半身を乗り出し、デスクをばんと叩いた。
「私が不幸になったら、課長、私の一生の責任とってくれるんですか?」
「い、いや、そんな」
 課長は、とたんにしどろもどろになる。
「いい、いいよ。この件は他の奴に頼むから」
「そうしてください」
 課全員の注目の視線の中を悠々と席に戻る。
『身近な人と衝突してしまう恐れあり。でも八つ当たりは禁物』
 やっぱり今日の占いどおりだったわ。そう思うと、落ち込むどころか気分がうきうきしてくる。
 おっと八つ当たりしちゃいけないんだ。
 彼女は、呆気にとられた顔の隣のデスクの男性社員に、にっこりと微笑んだ。


「あんた、いったいどういうつもり!」
 電車のホームへの階段を昇りきった途端、ヒトミが追いかけてきて、肩をぐいとつかんだ。
「ほんとなの。きのう、加納とホテル行ったって?」
「なによ、あいつったら白状しちゃったの」
「こないだから、私に隠れて会ってたって……?」
「そうよ、それがどうかした?」
「あいつは私のカレなんだよ。どうしてそんなことできるの!」
 ヒトミは目に涙を浮かべながら、般若のような顔をして睨みつけている。
「はなしてよ」
 マリはその手をふりほどいて、ホームに入ってきた電車に近づく。
「『身近な異性と、運命的な一日を過ごせそう』って先週の占いに書いてあったのよ。加納くんは私の隣のデスク。一番身近な異性じゃん」
「あんた、狂ってる……」
 信じられないという風に、彼女は首を振った。
「よくもそんなことを、ぬけぬけと……。この、泥棒猫!」
「なによ、誘いにすぐ乗ってくるなんて、あんたに魅力がない証拠じゃない!」
 開いた扉から乗り込もうとするマリをさえぎるように立ちふさがり、ヒトミはなおも掴みかかってきた。
 発車メロディーが鳴り響く。
 ヒトミの夏らしいふわりとしたスカートの裾が、閉まった扉にはさまれたのが見えた。
「きゃああっ」
 彼女の脚が宙に浮き、動き始めた車体にずるずると引きずられていく。瞬間の出来事なのに、まるでスローモーションのようだ。
 キキーッと耳をつんざくような音。
 裾が破れた拍子にホームに叩きつけられ、ヒトミの体は数度ころがる。動きがとまったあと、血に染まった腕が力なく脇に垂れた。
 電車はそれからさらに数十メートル進んで停車した。静まり返ったホームに、大勢の悲鳴や怒鳴り声が一時に湧き上がり、みるみるうちに人だかりができる。
「しかたないじゃない」
 マリは遠くのスクリーンに映った映画のようにそれを見つめながら、ひとりつぶやいた。
「スカートがドアにはさまったこと、知ってたけど言えなかったのよ。だって今日の占いは、『友達への忠告は、逆恨みされるので控えましょう』だし。
……うふふ。占いのとおりにするのが一番いいんだもの」
 そのとき、後ろからグイと彼女の手をつかむ者がいた。
「やっぱり、おまえか」
 鋭い目をした若い男が、睨みつける。
「あの店で気づいたときに、迷わず斬るべきだった。……おまえ、夜叉に憑かれているな」
 男とその後ろに立っている少女を見て、マリはあっと思う。
 このふたり――、このあいだの朝、ハンバーガーショップにいた学生カップルだ!
「な、何言ってんの、わけわかんないわ!」
 ふりほどいて逃げようとするが、まるで蛇に睨まれたカエルのように動けない。
 男の持つ『力』に対する恐怖が、瘧(おこり)にかかったような震えとなって腹の底から駆け上る。
「草薙、結界を張れ」
「承知した」
 その途端、あたりの景色は今までと変わらない電車のホームなのに、他の人間の存在だけがすっと消えた。
「いやあ、いやあっ! 私のことはほっといて! やめてぇ!」
 まるで自分のものではないような、しわがれた声が喉からほとばしる。
「私も経験者、なの」
 傍らの少女が、気遣わしげに微笑んでいる。「全然、痛くないからね」
 男は片手で印を結ぶと、鮮やかに刀を鞘から払い、銀色に輝く刀身をまっすぐにマリの頭に振り下ろした。


 あれから一ヶ月。
 マンションのエントランスを出たマリは、夏空をまぶしげに見上げ、それから歩き始めた。
 前の会社は辞めてしまった。今は求職中だ。
 ヒトミは思いのほか軽傷ですみ、警察の取調べでもマリに責任は問われなかった。だが、加納との三角関係があっというまに社内で噂になり、会社に居づらくなってしまったのだ。あれからまもなく、ヒトミも加納と別れたと聞く。
 今となっては、何もかもが夢の中のできごとのようだ。
「占いは古来から、霊に深く関係する営みだ。素人が軽々しくもてあそんで良いものではない」
 あの無人のプラットホームの不思議な空間の中で、放心して座り込んでいるマリに、刀を持った男はそう言った。
「おまえは、占いを妄信するあまり、生活のすべてを占いに依存した。その度を越した執着が夜叉を呼び寄せ、心を喰われたおまえは、次第に狂気に堕ちていった」
 あまりにも信じ難い話。なのに、男が嘘を言っているとは思えなかった。それほどに、彼女の心の中には何か禍々しいものが断ち切られた安堵が漂っていたのだ。
「私、……これからどうすればよいの」
「占いには一切たよるな。自分の力で行く道を定めろ」
「そんな……。無理だよ。何をしたらいいのか、どれを選べばいいのか、わからない!」
「だいじょうぶよ」
 少女がにっこり笑った。
「子どもだってできることよ。何を選んでもいいの。何を食べても、どこへ行ってもいいの。
だって、あなたは自由なんだもん」
 マリはもう一度、入道雲の浮かぶ夏の空を見上げた。
 こうしていると、小学生の頃を思い出す。夏休み。何をしても、どこへ行ってもよかった、あのくらくらするような幸せな感覚。
 大人になって、いつのまにか真っ白なスケジュール帳が恐くなった。次に何をすべきか決められていないと、毎日を過ごせなくなった。縛られていることが、安全で安心だと思っていた。
 こんなにすてきな気持ちは久しぶりだ。
 今日はハローワークに行くのをやめて、どこか噴水のある公園に行って、木陰で読書でもしようか。
 昼はその近くのレストランで、うんと時間をかけてメニューを選んでみようか。
 小さな四辻のど真ん中でマリは立ち止まり、ぐるりと一回転して、ぴっと指で行く方向を指した。
「こっち!」
 そして、ぐいと前に進み出す。
「私は、自由なんだ」
 と、笑顔でつぶやきながら。
 






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